柱島泊地備忘録   作:まちた

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八十六話 飛行機乗り【楠木side】

「クソ……ったれがぁ……!」

 

 楠木は呻いた。

 軍事施設にしては科学めいた風景の中にぽつりと立ち尽くして、力が込められた手にあるいくつかの書類を読んでいた。それから、彼の両腕は、力を失って、だらりと下げられた。ばさり、と書類が地面へ落ちていく。

 周囲にある液体で満たされたガラスプールの中身はひとつを除いて空っぽで、なんらかに繋がっていたと思しき管が漂うだけ。まるで楠木の心情をあらわしているようだった。

 地面に散らばる書類に視線もやれず、彼はただ一つ中身の残ったプールへと歩み、また呆然と立ち尽くした。

 

 ――彼の計画は完璧だった。

 

 どのような事態が起こったとしても対処できる手札を用意し、あらゆる場面を想定して手数を打てるようにもしていた。彼はそのために海軍の上層部の半数にも及ぶ軍人を掌握し、西日本を統べ、防衛外交――今や軍事外交と呼ぶべきであろう――にまで手を延ばした。

 

 陸軍の一部すらも掌握した彼の計画は、どこをどう突かれても狂わない――はずだった。

 

 南方海域開放によって捨てざるを得なくなった拠点とて、数ある手札の一枚を捨てるだけであり、痛手は痛手だが、無くて困るものではなかった。

 本土へ送ったはずの憲兵との連絡が途絶えても、狼狽えることは無かった。

 

 大方、海軍の哨戒にでも引っかかったのだろう。

 だからどうした。奴らが計画を話したところでそれを信じる者がどこにいる。

 

 彼はそう思っていたからこそ、ソロモン諸島にある、無人島の一つに隠された研究所でほくそ笑んでいられた。

 

 海さえあれば、俺は世界中のどこへだって攻撃が可能なのだから、と。

 

 

* * *

 

 

 彼が置かれている状況を話す前に――楠木和哲という男の生い立ちを話すべきだろう。

 

 楠木は青森県は八戸市で生まれ育った、普遍的な男であった。長男として生まれた彼は三歳の時に弟を、五歳の時に妹を得る。両親は共働きしていて家を空けることが多かったが、往々にして愛に溢れて育ったと言えよう。

 彼の父は自衛官である。厳格ではあったが子どもに甘く、理想的と呼べる父親のもとで育った。兄弟と悪戯をして拳骨をもらって大泣きした時などは母は子の味方をして父を宥め、子に反省を促す。その逆も然り。これ以上ない普遍的な家庭であろう。

 

 そんな彼に四度の転機が訪れる。

 

 一度目は、父の働く姿を見た時であった。楠木が十歳の時のことである。

 航空自衛隊に所属していた楠木の父は、静岡で行われた日米親善を兼ねた基地航空祭の航空ショーに出る事になっており、家族でそれを見に行ったのだ。

 楠木が仕事をしている父と直接話したりすることは無かったが、父の搭乗した飛行機が空を切り裂いて飛んでいく様を見ていたく感動し、強烈な憧れを覚えた。

 

 無限の大空など、楠木少年にとってただ天気の変わる風景の一部でしかなかった。鳥が飛んで、雨が降って、太陽が照り、月が顔を覗かせる。時節を感じるための一つの現象が起こる場所。もしくは、もの。そういった漠然とした感覚しか抱いていなかった。

 しかし父は空を飛んでいた。恰好良い飛行機に乗って、風を切り裂き、轟音を響かせて人々を圧倒し、空に線を描いていた。

 

 子どもの心は単純である。けれども単純であるからこそ、その時に焼き付いた憧れというものは墓の底に行くまで胸の奥深くに専用のスペースを得る。

 

 楠木にとって空を飛ぶ父はヒーローで、憧れという心のスペースを占領するに申し分のない存在であった。

 それからというもの、彼は流行りの漫画やゲームには目もくれず、ひたすらに飛行機について学んだ。そうして、あの時に父が乗っていた飛行機がF-15などという名称である事を知った。

 その飛行機を駆るパイロットはイーグルと呼ばれているなんて知った日には、父の事がどうしようもなく誇らしくなって、飛行機の乗り心地を夢想したものである。

 

 二度目の転機は、彼が立派な飛行機、または航空自衛隊オタクになって偏屈を極めた高校二年生の頃に訪れた。

 その頃になると楠木の父も飛行機乗りという立場から退いており、教官となって部下に様々な事を教えるようになっていた。

 昇任によって地上勤務が増えた事もあり、パソコンと向き合う日々が続いて視力が落ちたのだと父は楠木少年に語っていたが、その実、多忙を極める職務に伴う金銭と家族とを天秤にかけた末の結果であったのを知ったのは、少年が大人になった後の話である。

 

 ある日の食卓で、父は楠木に問うた。

 

『和哲。夢はあるか』

 

 楠木は悩んだ顔をしてみせたが、答えは一つしかなかった。

 

『自衛隊に入りたいんだ』

 

 父は白米を運んでいた箸を止めたが、それは一瞬のことで、すっと口に米を詰めると、しばし咀嚼した後に、母が作ってくれる好物でもある()()()()を飲んでから、喜んでいるのか、それとも嫌がっているのか分からない、複雑な表情をした。

 

『他には』

 

 短い言葉に、楠木少年は少なからずショックを受けたのだった。

 きっと父は同じ道を志したことを喜んでくれるものだとばかり思っていたからだ。

 そのため、楠木が父から投げられた問いに返す言葉は随分とぶっきらぼうになった。

 

『適当な会社に入ってサラリーマンとか』

 

 小中学生である弟と妹は、長兄と父の間に流れる微妙な空気を感じ取り、居心地悪そうに漬物を食べていた。

 母はと言えば、いずれそうなることを予見していたかのように、ただ黙って父の手元に置かれた空のグラスにビールを注ぎ、微笑むばかり。

 

『もっと、あるだろう。他にも』

 

 楠木の言葉に怒ることもなければ、悲しそうな顔をするわけでもなく、父はさらに問う。

 それは息子を思っての言葉で、息子を想っての猶予であったのかもしれないと楠木が考えたのは、ずっとずっと後になってからの事で、もうその時点で、取り返しがつかない未来は決定していたのかもしれない。

 否、それを決めたのは少なくとも、日本という国に生きる普遍的な、父に憧れた少年であるのは、言うまでもないだろうか。

 

『あんまり考えてないって。まだ』

 

 こうして、食卓に流れる気まずい空気をそのままに、会話は幕を閉じた。

 転機と呼ぶには弱いかもしれないだろうが、楠木和哲という少年にとっては、四度ある転機の中でも大部分を占めるものである。これは彼の根幹である。

 この会話があったからこそ、彼は、父の背を追ったのだ。

 

 三度目の転機は――二度目から間を置かず、高校卒業が見えて来た頃に訪れた。

 その頃より前から、高校を卒業したらどうするかと身の振り方を問われるのは常の事。卒業も間際となればより明確な進路を問い、具体的な話を進めなければならない。担任に提出を求められた進路相談のプリントに、楠木少年は父から譲ってもらった金属製のシャープペンシルで力強く、こう記した。

 

 ()()()()()、と。

 

 進路相談のプリントにも書いた。担任にも話した。周りの学友にだって、俺は自衛官になるんだと言い切った。

 さあ、これでもう後戻りなど出来ないぞ。自分を追い込んだように見せて、楠木少年は父を追い込んでいた。きっと彼の小賢しさは、航空機を操る父譲りである。

 

 こうなると父はもうお手上げだ。

 それから、地上勤務にもかかわらず出ずっぱりだったのに、いつしか家にいる事の方が多くなった父と食事を挟んで向き合い、かつて問われた事を、かつて答えたように、話すのだった。

 

『和哲。夢はあるか』

 

『自衛隊に入りたいんだ』

 

 父はやっと、そうか、と笑った。

 しかしすぐに真面目な表情をして低い声で言う。

 

『とても厳しいぞ。本やネットなんかで見たものとは、比べ物にならんくらいに』

 

『だと思う』

 

『思うじゃない。厳しいんだ。それでも、なりたいのか』

 

『なりたいよ』

 

『……そうか』

 

 険しい顔をしている癖に、父はずっと母をチラチラとみているものだから、威厳もへったくれもあったものじゃなかった。

 それらが完全に崩壊したのは、母が笑いながら『良かったじゃない』と父に言ってからだ。

 何がだ、と父は素知らぬふりを決め込んでいたが、母曰く、ずっと喜んでいたらしい。

 

 息子が俺と同じ道を選んでくれたんだ。自衛官だぞ! そう簡単に目指そうと思えるものじゃない。だが息子はその道を選んだ。あの頑固さは俺譲りだ。

 

 バラされてしまっては父も形無しとなり、母に向かってやめてくれと小声で反抗するも、はいはい、なんて言ってビールを注いでもらっただけで閉口してしまう。

 

 ――そうして少年は、いや、楠木は、高校を卒業し、防衛大学校へ進む。

 規律の厳しい生活だったが、憧れの自衛官への道すがらであると思えば苦しくなど無かった。それどころか、規則正しい生活によって航空機の事ばかり調べて夜更かしを繰り返していた高校時代よりも健康的な生活である。

 

 ただ、親しい友人、というものは出来なかった。

 

 防衛大における厳しい生活についていけず、日を経ずして辞めていく者もいれば、一年踏ん張ったのに、心が折れてしまった者――残った者は()()()()を共に乗り越えたおかげで連帯という面においては信用に足る奴らばかりだったが、だからといって互いを深く理解するような、いわゆる、青臭い関係にはならなかった。

 

 時間と共に苦楽が楠木という人格を育て、卒業する頃には、立派なエリートと呼ばれる人材となったのだった。

 

 そして念願だった自衛隊に入隊してからは、防衛大卒という経歴もあり、そこで培われた能力によって頭角を現し、考えうる限り最短で、ウイングマーク――パイロットたる資格の証――をその身に輝かせた。

 

 父と同じ場所に来た。

 

 これから自分は、父と同じ景色を見るんだ。

 

 夢想し続けた大空を、風を切り裂いて線を描くのだ。

 

 楠木和哲、二十四歳のことである。

 夢にまで見たパイロットという仕事が、案外空を飛ぶばかりでないのだという現実を知るには十分に大人であった楠木は、パイロットスーツを着て待機所で二十四時間過ごさねばならない勤務を経験しても、さして落胆は無かった。

 

 なにせ自分はパイロット。憧れの父と同じ、戦闘機乗りだ。

 

 日本国の領空を守る唯一の存在にして、あらゆる厳しい訓練と検査を超えた先に立つ存在。何を苦しく思う事があろうか。

 家族を守り、国民を守り、日本そのものを守る。

 そのために自分は大空を切り裂く鋼鉄の鷲となったのだ。

 

 誇りを胸に数年、最後の転機が訪れた。

 

『アメリカ西海岸にて未確認生物が確認されたとの報告』

 

 その日の管制塔は、どう表したものか、ともかく、大騒ぎだった。

 年間にして四桁に及ぶ緊急発進(スクランブル)を経験していたから油断した、という事は無い。それはまさに異常だったのだ。

 

 どこから現れたのかも不明な生物が海岸線に襲来している。

 初めは映画の宣伝でもしているのじゃないかと思っていた。

 

 馬鹿馬鹿しい。なんだそれは。胸中で訝しむも、しかしスクランブルに応じないわけにはいかない。これが楠木の職務であるのだ。

 

 アメリカのみならず、各国から報告が上がった。

 とりわけ日本はかなり激しい攻撃に見舞われたと知ったのは、一連の騒動が落ち着いた後だ。

 

 海自、陸自、そして自分らが総出で事にあたり、未確認生物とやらが一体どんなものであるのかを見た。

 

 ――化け物である。海底で地獄の門が開いたのだと楠木は本気で思った。

 人の頭蓋を伸ばしたような異形の口と思しき場所から舌ではない棒が伸び、その先端から業火が噴き出していた。

 

 海岸に面した町はほぼ壊滅の状態となり、海上自衛隊では多数の死者が出たと言う。陸自も同じく、海岸より応戦したが、一切の兵器が通用せず、最終防衛用である炸裂兵器さえも持ち出したが、結果は、言わずもがな。

 

 空を埋め尽くすような異形の飛行物体とも応戦したが、彼奴等は楠木の夢をあざ笑った。

 戦技未達とは無縁のトップパイロットである楠木をして、異形のコバエは地獄の妖精が如く舞い、楠木を含む多くの仲間の攻撃をかいくぐり、お前達は何も守れないのだと言わんばかりに地上へ唾を吐いた。

 

 考える間も無ければ、感覚が浸透する間も無く、人類は敗北を喫した。

 このまま人類は死するのか――いいや、そうではない。

 

 そこに希望が現れた。異形では無く、少女という姿で。

 

 くしくもそれらが艦であるというのを理解してからは、人々はここぞと踏ん張り、被害の拡大を防ぐことが出来た。

 ……拡大は、防げた。

 

 被害は出ていたのだ。

 

 日本沿岸部――特に、北太平洋側の関東沿岸は悲惨なものだった。

 

 多くの人が、大切な家族を失った。楠木は、化け物に夢を奪われた。

 

 楠木が家族の安否を確認出来たのは、襲撃が収まってしばらくしてからのことである。

 

 家族は、誰一人として残っていなかった。

 

 

 急転直下。平凡から非凡へ、憧れから現実へ上り続けた楠木の物語は、海底へ沈む鉄のように、緩やかに、いいや、見るよりも早く落ちていった。

 

 

 深海棲艦と呼称されるようになった攻撃性の高い個体群は、目下のところ人類が撃滅せねばならない目的となり、同時に出現し対話が可能であった非攻撃性の個体群を人類の協力者として迎え入れ、それらは日本を含む全世界に大きな変化をもたらした。軍事機構の復活である。

 実のところ名称的な変更を彼女らが求めただけであり、大きな混乱こそあれど国民の殆どが生き延びるべき道に敷かねばならないのであらばと首を縦に振らざるを得なかったが、事実上、国民に対して力の行使が及ぶことは無かった。

 

 自衛隊は軍となり、陸軍、海軍として再編制され、航空自衛隊は日本海軍航空隊として吸収された。

 

 彼は海軍の人間となってからも精力的に活動を続け、異形から人々を守るために必要な事ならば何でもやってのけた。

 艦娘、と呼ばれるようになった少女達が効率よく敵を打ち倒すためには、彼女らをより深く理解せねばならず、同時に敵がどのようなものであるのか調べ上げねばならない。

 

 地頭の良かった楠木は道筋を組み立てるのが得意で、目的を達するのに必要な最低限かつ最短の方法を導き出せた。艦娘を調べるのならば、そのような機関があれば良い。異形――深海棲艦を調べるのならば、それも同じく。

 では何が必要であるか。人である。

 

 彼は自らで艦娘の調査する一切を取り仕切る艦政本部の立ち上げを提案し、それを実現した。

 もう一方は他国にさせるべきであると考えたのはその時である。二足の草鞋を履くような真似をしていれば必ずどこかでボロが出る。一つに絞れば問題も最小限で済む。

 

 海軍でも一目を置かれる存在となった楠木は防衛外交として海外の研究機関と艦娘のデータをやり取りし、その見返りに深海棲艦の研究データを得た。

 

 深海棲艦が出現して、二年、三年と経つにつれ、艦娘のデータの蓄積は大きくなり、また深海棲艦から得られるデータも大きくなったが――人類が危機に瀕していようとも、政にかかわる上役の愚かさは変わらないものだった。

 愚かと一括りにすべきではないとも理解していたが、やはり、どうしても愚かだと感じてしまう。

 一見して理解出来る人類の共通の敵である深海棲艦を前にすれば一時的には清廉潔白を叫ぶが、それも数年経てば、やれ予算だの、やれ外交だの、まるでかつての冷戦を模倣するような様相を呈した。

 データを出し渋る、出し渋られる。金や資源、果ては人材までも交渉の材料にして自分だけが得をするようにと狡猾さを見せた。

 

 自分だけ、その規模は国に及んでいる。その得の正体とは生きる時間、あるいは命そのものである。互いが互いの国を守るために、牽制しあった。

 

 それは転機ではなく、彼を()()()()にした出来事だった。

 

 彼は、海外とのやり取りを続ける中で、一人の艦娘と関係を深くした。

 その艦娘を――Lexington級二番艦、大型正規空母、サラトガという。

 

 なんて事はない。人類を脅かす敵に立ち向かおうと心を燃やす男に、海外から派遣されたすらりとした美人の艦娘が惚れただけである。日々、命のやり取りをするような世界において情愛が発生することはなんらおかしなことではなかった。

 彼もまた、研究機関とのやり取りで度々逢う彼女を「サラ」という愛称で呼び、深海棲艦に家族を奪われた傷を徐々に癒していった。消えずとも、忘れずとも、その記憶が遠い彼方へいくように。

 

『また、沿岸が襲われたって』

 

『ああ……私の力が足りないばかりに……研究が、間に合っていれば……』

 

『そんなことないです! ……私は知っていますもの。あなたがとても頑張っていること』

 

『サラ……』

 

『約束したでしょう? 全部終わったら、海に出ようって。今度は二人で、好きな服を着て、なぎ、なぎ……?』

 

『渚を歩こう、だったか……ああ、そうだな。約束だものな』

 

『ええ。約束ですもの』

 

 まさしく楠木は英雄に足る男である。深海棲艦と艦娘のデータをもとに、艦政本部と南方海域を行き来していた彼は人類を救うかもしれない一手を見出した。

 

 深海棲艦を一掃せんと大規模艦隊が動いた時、それらが尽く阻まれた。その際、楠木は――艦娘達が通信と呼ぶ連絡方式と、深海棲艦が連携の際に発する電波が非常に似通った超長波である事を発見したのだ。

 どれだけ遠くにいようとも確実に互いを認識する方法としてポピュラーなものだったが、唯一、その超長波がどのようにして送信され、どのように受信されているかが不可解であった。

 

 楠木が手をこまねいている間に、深海棲艦は、海軍でも精鋭と呼ばれた、ある男の大進撃を止めた。

 

 艦娘は受信機構として妖精という媒介を通しているのであろうと予想した楠木はさらに研究を進めたが、オカルト的でスピリチュアルな存在である妖精を見ることはかなわず、研究は難航した。彼女らは艤装を介するが、その電波の発生源では無かったのだ。

 一方で、深海棲艦はその超長波の受信に艤装の一部を介しているというデータを得た彼は、深海棲艦を外海へ遠ざける事が可能であるかもしれないとして、艦娘サラトガの協力のもと超長波発生装置の開発に取り組む。

 

 サラトガは楠木の開発した装置を身にまとい、何度も出撃してデータの収集に励んだ。

 多くのデータは深海棲艦の()と思しきものであったが、貴重なものであるとして共有された。

 確実性は未だ無いとして表沙汰にはしなかったものの、彼はこれが世界を救うと信じてやまなかった。

 

 しかしある時、異変が生じる。

 

 サラトガの調子が良くない。日を追うごとに彼女は艤装の展開すらも難しくなっていった。

 原因を調べても分からず、入渠させても変わらず、口数も減り、ただ海を眺めるだけの日々。

 

 艦娘を戦わせろ。

 

 ソロモン諸島で研究に励む楠木に、いつしかそのような声が本土から届くようになってから、彼は無理はさせられないとしてサラトガを秘匿するようになった。

 

 それも、あっという間に終わりを告げる。

 

『提督……声が聞こえるの……向こうの海から、声が……』

 

『サラトガ、もういい、やめよう。こんな研究がなくたって私が何とかする』

 

 出撃出来なくなっていた彼女が、突如として艤装を展開して出撃を望んだのである。

 もちろん楠木は止めた。サラトガの調子が思わしくないこともあったが、何よりも彼女は海外から派遣された艦娘であり、互いの立場があったからだ。

 睦まじい関係も、互いの立場と利害が一致していたからであり、どれだけの想いが間にあったとしても、彼女が大きく傷ついてしまえばこの関係は終わってしまう。

 

 研究を一時停止すると海外の研究機関に伝えたところ、それは却下されてしまった。

 ならば少しだけ、彼女の回復を待っている間だけでもと頼ったが、それもまた、却下されてしまった。

 

 海軍内で研究を停止すると明言すれば、きっと彼女にも非難は集中するだろう。

 

 人類の滅亡か、艦娘一人の命か。当然だ、天秤にかけるまでもない。

 

 彼は必死だった。彼の唯一の心のよりどころと言ってもよい存在が消えてしまうかもしれない。

 大空を飛んでいる間に失われた家族のように消えてしまうのだけは避けたかった。

 

 ――賢いからこそ、悲しむ人は一人で良いと戦ってきたからこそ、彼は追い詰められてしまう。

 

 人は追い詰められた時――他人を蹴落とすものである。

 

 捨て艦作戦――苦心に苦心を重ね、苦悩の末に彼が選んだ、間違いだった。

 

 たった一人の艦娘を守りたかったが故に彼は全てを捨てた。

 自分と、自分を救ってくれた彼女が生きるためならばと。

 

 超長波の研究は停止されず、彼は多くの艦娘に新兵器の研究であると言って装置を持たせて深海棲艦へ特攻させた。大惨事になるかと思いきや、それは最悪の形で結果を出し、深海棲艦を退けた。

 弾丸もかくやと特攻されてしまえば深海棲艦も太刀打ちできないのかと、多くの者が模倣した。

 

 人が壊れるまでの過程は、あまりにも単純で、残酷で、短い。

 

 楠木は模倣する者達を操り、サラトガをひた隠しにし続けた。

 

 戦いが激化するにつれて艤装を展開して長時間の維持ができなくなっていた彼女が、今度は逆に、艤装を収められなくなってきているのにも気づかず、彼はどんどん艦娘を特攻させていった。周りも彼のやぶれかぶれの戦法を力強き猛将の策だと謳い、どんどん、どんどんと特攻させた。

 

 本土で反対派と人権派が形になった頃には、サラトガは入渠ドックから出られなくなるまでに衰弱し、美しい白い肌は、まるで死人のような灰色になっていた。

 艤装もボロボロになっており、それがどうして損傷しているかも原因は分からず。

 

 だが、入渠ドックにいる時だけは、彼女と会話が出来た。

 

『サラトガ、君は艦娘だから、きっと治せる。きっと治る。だろう?』

 

『……もう、やめましょう』

 

『研究を? ダメだ、止められない。深海棲艦の侵攻がある限り、きっと世界は止まらない。どちらかが歩みを止めてしまえば、一方が消えてしまう。これはそういう戦いなんだ』

 

『でも、つらいわ』

 

『……すまない。君がつらい思いをしているのは、知っている。だが、絶対に治してみせる。深海棲艦の動きも予想出来るどころか、多少ならば誘導できるまでに研究は進んでいるんだ。これならば遠くないうちにサラの不調の原因だって分かるはずだ』

 

『分かっている、でしょう……? 見てください、私の、姿を』

 

『分かっている……分かっている……!』

 

 海の向こうから聞こえる声を受け止め続けた彼女は――すでに、サラトガと呼べる姿では無かった。

 

 声は消えないという。どれだけの深海棲艦を撃滅しても、声は聞こえ続けるという。

 楠木はもう、自分の心さえ捨てて、彼女を救うべきだと考えた。

 

 何としても彼女を隠し通すのだと感情を殺して、海軍のみならず陸軍さえも欺くために、彼は世界を救うために研究していたデータ番号で彼女を呼び、秘匿した。

 

 研究番号、ヒトナナヒトフタ。

 深海棲艦の長距離通信における超長波の受信機構、及び、艦娘の長距離通信における超長波の送受信について。

 各検体をもとに研究中ながら、深海棲艦については艤装の一部を模倣する事により誘導できる可能性あり。

 

 彼は声の正体など、どうでもよかった。一滴の興味さえなかった。

 

 邪魔をするならば全てを排除する。それが自軍であろうが深海棲艦であろうが、もう関係ない。

 ただ、家族を失った自分を受け止めてくれた彼女を救うために、世界を敵に回してやる。

 

 多くの艦娘を犠牲にしながら深海棲艦を鹵獲し、艤装の一部を採取して弱らせた状態で解放する。

 その艤装の一部を用いてあらゆる場所へ誘導し、彼は世界を翻弄した。

 

 

 これは、彼が人でなしになった、どうしようもない軌跡である。

 

 

* * *

 

 

「不確定要素にここまで踊らされるのも愉快なものだ。そうは思わないか、ヒトナナヒトフタ」

 

 ガラスプールに手袋に包まれた両手をぴったりとくっつけ、水族館で綺麗な景色を見つめるような表情を向ける楠木に対して、ヒトナナヒトフタと呼ばれた彼女はゆらりと動いて、手を重ねた。

 

 ぱくぱくと口が金魚のように動いているが、楠木には何も聞こえなかった。

 修復液の温度を保つためにつけられたヒーターの稼働音だけが、部屋を支配する。

 

 端的に言わば、彼は失敗した。

 

 邪魔になる存在を順次始末していき、最終的には日本海軍どころか世界中の軍事機構を一斉に襲って麻痺させ、自らが用意した手段によって深海棲艦を撃滅するという計画は、全て水の泡となった。

 

 たったの一日。

 

 内陸部を攻めるのに最適であると選んだ呉鎮守府、柱島泊地の襲撃に失敗。

 

 たったの二日。

 

 軍事行動としても常識外れのスピードで南方海域が攻略された。

 

 たったの数日。

 

 殺したはずの男が大将となって戻って来た。

 それも、こちらの手札を全て潰すかのような勢いで周囲を巻き込んで。

 

「どうしようもない正義とやらが、救えもしない人々のために立ち上がって戦う……美しいな。反吐が出るほどに美しい、なんて、愚かな」

 

『……』

 

「見てくれ、これを」

 

 ガラス越しに重ねた手を離して、楠木は室内にあるテーブルに歩み寄って紙束を手に取り、ガラスプールへ押し付けた。

 疲れたような声で話す彼に、彼女は悲しそうな眼を向ける。

 

「日本国はまだ諦めていないらしい。こちらから送った艦載機は全て岩川や鹿屋の付近で撃墜され、取りこぼして日本海側へ回った奴らも舞鶴におさえこまれているし、太平洋側なんて、殆どが横須賀にやられている。私の予想以上に戦果を挙げているとは優秀な事だ。……アレを有効活用しているのは佐世保と舞鶴くらいのものか」

 

『……』

 

 彼女が何かを言っている。だが楠木はプールに押し付けた紙束をプールからの逆光で読んでいて、視線は交わらないままだった。

 

「海原という男が消えて、瀬戸内海から、と思ったら――はは、どうだこれは、冗談みたいだろう。呉を潰すために送り込んだ潜水艦隊は四国の付近で反応が途絶えた。全てだぞ? 偵察隊と一緒に送り込んだ水上部隊すら柱島の近くで沈められている。帰って来たんだ、あの男が。邪魔をされんようにと――殺したはずなのにッ!」

 

 だん、とガラスプールに拳がぶつけられたが、その中にいる彼女は微動だにしない。

 彼女はその理由を知っているようだった。彼はその理由が分からないようだった。

 

 海さえあればどこにでも攻撃が可能である彼がここにいるように――

 

「忌々しい……提督風情がッ……!」

 

『……』

 

 ――海があればどこへだって助けに現れる存在がある事を、彼女は知っている。

 だから、彼女は、どうか届いて欲しいと、愛する男へ向かって何度も訴えかけた。

 

 そして――

 

「どう、すればいい……どうすれば、あいつを……!」

 

『オワラセ……マショウ……』

 

「ッ!? こ、声……声が……!」

 

『ナギサ…デ……。イツカ…ナギサデ……――』

 

「そ、う、そうだ、そうだ! 終わらせよう! 一緒に終わらせるんだ! なぁ!」

 

 その言葉が、正しく伝わっていることは無かった。

 彼はすでに彼女を見ているようで、見ていなかったから。

 

 ガラス越しで、紙切れ越しで、データ越しで、消えゆく家族の記憶と同じ場所にあるくらいに、遠かった。

 

「佐世保が放ったアレが動いているんだ! お前も、私と一緒に行こう! 全部終わらせてやろう! そうしたら、きっと、一緒に……!」

 

『ア、ァ……ワタシヲ、ミテ……ヒカリヲ……ミテ……』

 

 楠木はばさりと紙束を投げ捨てるとガラスプールへ背を向け、歩き去っていく。

 全てを破壊し、なんのしがらみも、邪魔もない世界で、記憶のうちにある彼女と渚を歩むために。


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