病室とは、傷病者を収容する部屋である。
治療を受け身体を休め、完調させるために存在している。
現在、呉の鎮守府の広い敷地内にある軍病院の一室は酷い有様だった。
陸軍憲兵隊が大人数で出入りし、呉鎮守府からやってきた艦娘――曙や潮といった見知った顔だ――も忙しそうに書類を運んでいる。
書類とは作戦概要が記されているもので、山元から許可を得て松岡にノートパソコンを持ってきてもらい、この場で俺が作成したものである。ジュラルミン製であろうケースで厳重に持ち込まれた時は流石に及び腰になったが。
過去の作戦概要の記載された書類を参考にするために、呉鎮守府の山元が指揮を執った過去の作戦記録を参考にしたのですぐに作成できた。パソコンの中に入っていた文書作成ソフトにもひな形があったので社畜の技を光らせてやったのだ。きらきらである。
わざわざ定規を持ち出して丁寧に線を引いて……としないでいいとなれば、コーヒーを淹れている間にぱっぱと出来上がってしまうのだから楽なもの。さらにはひな形まで用意されているなんて俺にとってはホワイトな仕事です。
「モニターのコードはそこに繋げ! そこ……違う右側だ! コンセントがあるだろう!」
「はい! こ、ここですね? 設置しますよ!?」
「ああ、設置を――そこのコードは抜くな! 閣下のパソコンのコードだ!」
「ホワイトボードはまだかー! モタモタするな、早くせんかぁ! 戦況は変わっているんだぞ!」
「大本営の方は準備出来ているそうです! あとは元帥閣下を待つだけだと――」
「当然だろうが! 向こうはこっちと違って最初から全部揃ってるんだ! 元帥閣下がお戻りになる予定時刻は!」
「三十分程度との事であります!」
憲兵隊の屈強な男達が怒鳴ること怒鳴ること……うるさい。もう、すっごくうるさい。
曙や潮は俺の事を青い顔をしてみているし、本当にもうすみません……バタバタしてて……。
「繋げられるか。モニターテスト」
「テスト開始します。接続まで、三、二、一……はい、問題ありません。遅延も無いです」
「マイクの方もテストしろ、すぐに!」
「マイク入ります、あー、あーあー、テスト、テスト……こちら作戦本部、あー、あー」
『こちら新宿大本営。届いてます』
病室に設置されたモニターと言えば、手術後の経過をみるための心電図くらいのものだったはずが、今や室内は大本営に映像と音声を届けるための設備で三分の一以上が埋まっており、俺は酷く後悔していた。
夢で会った祖父に情けない姿を見せてはならない、どれだけ痛みがあろうと艦娘に心配をかけてはならないと気合を入れたのが原因である。
ぼうっとする意識を理性という鎖でがんじがらめにして、俺はベッドの上に座った状態で前を向く。
「閣下、準備が整いました――!」
「ああ。無理を言ってすまんな」
「いえ、作戦に協力でき、光栄であります!」
「……うむ」
松岡では無い、名も知らぬ若い憲兵に敬礼されたので、座ったままでごめんね、と頭を下げる俺。
時間の感覚も曖昧で、準備が整ったという声をかけられた時にはもう三十分も経ったのかと耳を疑ってしまいそうになったが、ちらりと壁にかけられた時計を見れば、長針はその通りに進んでいるのだった。
ベッドの真正面に設置されたモニターに視線をやると、丁度井之上元帥が室内にやってきた様子が映し出されており、顔も知らない大勢の軍人達が直立不動で敬礼しているのが見えた。
向こう側は会議室のようで、そういえば前の会社にいた頃にリモートワークを導入して二十四時間、寝ている時以外は常に働けるようにしようかという恐ろしい案が出たことがあったなと朧気に思い出しながら、傍に立っていた長門へ「上着と帽子を」と声をかける。
「提督……本当に無理は……」
「座っているだけだぞ? どこが無理なものか」
新しく用意してくれたのであろう上着を両手で丁寧に差し出す長門に笑顔を見せ、さらに、問題無いと念押ししてから上着に腕を通そうとした時、医師の一人が近づいて来て、小声で、失礼します、と言い俺の腕を取る。
ゆるりと頭を回して見れば、ぷつりと痛みが走った。おかげで一瞬だけ目が冴えて、点滴の針を抜かれたのだと気づく。仕事中に傷が痛まないようにと鎮痛剤を打ってもらったのだったか。
ああもう、とんでもないブラックじゃねえかよ……超ド級にブラックじゃねえかよぉッ!
八代の奴がいらん事をしなければ俺も怪我なんてしなかったのに……海軍はどうなってやがる!
なんて、今更だよな……なんて胸中で一人ツッコミ。
前の職場では病気による辛さが原因で今とそっくりな状況だったが、今回は怪我なので酷くはならないだろうという意味不明な理論で無理矢理に常識的な思考を押し流して、軍服を羽織ってボタンを留める。
長門から軍帽を受け取って、ぐっと被れば――自然と身が引き締まった。
これ、あれだ。スーツ着た後にネクタイを首元まで締める感覚と似てるんだ、と息を吐いた。
似ているだけで同じではないのは、やはり自分を取り巻く環境が非現実めいている事と、自分が大怪我をして虚脱状態であるからで、似ているところと言えば、身が引き締まる思いがするところ以外は、身体の辛さを理性によって誤魔化し奮い立たせているところだろう。
これは、いわば一種の自己暗示なのだ。業の深き社畜にしか扱えない技術なので、一般人が真似をするとたちまち死に至る。真似しないでね、まもるとの約束だ。
軍服の上着と帽子だけを着てから、ベッドの前に設置されたカメラを操作している憲兵へ「いいぞ」と言えば、モニターに映る面々の表情が硬くなったのが見え、病室の映像が届いている事を感じ取った。
俺の見る画面の中央に座す井之上元帥は神妙な面持ちで口を開いた。
『さて、海原よ。挨拶は結構だ。貴官の作戦は道中に聞いておるが、本題に入る前に確認してもよいか』
「はい」
『現在、柱島泊地の周辺に出現した未確認の深海棲艦を南方の遠洋へ誘導し、トラック泊地へ艦隊を進軍させ深海棲艦を撃滅する作戦を遂行中であると――これに間違いはないな?』
「はい。目下進行中であり、山元大佐を通してトラック泊地との連携も試みておりますが、そちらの方でも深海棲艦の出現が確認され、双方で戦闘が行われている状態です」
『……ううむ』
井之上元帥は疲れた様子を窺わせない覇気を纏っており、モニター越しからも頼りがいのある空気をひしひしと感じた。ただ劣悪な環境であるブラックな職場とは違い、頼れる上司の存在というのはやはり素晴らしい心理効果をもたらすな、と肩の力が抜けていくのを感じた。
頼りっきりですみませぇん……ただでさえ迷惑かけっぱなしなのに、えらい大事にしちゃってすみませぇん……。
でも井之上さんも悪いんだからな! わざとらしく溜息ついたってまもるゆるさないぞ!
でも、もうまもるの手には負えません……。手のひらくるっくるですみません……。
そもそも最初からお前の手に負えるわけがないだろうが、みたいな顔でテーブルから俺を見上げてくる妖精は手の平をかぶせてしまっておく。
いかんいかん、ぼうっとしているのを理由に無駄な事ばかり考えてしまう。
俺は手元にある海図へ視線を落としながら、ペンを片手に話した。
話す内容は――実のところ、既に井之上元帥も知っている。というより、井之上元帥が、こう話せ、と前もって大筋を作っている。
井之上元帥によれば、世間体というものが必要だそうで、それも国民を守る仕事なのだから面倒でも形を作らなければならないらしい。雑用の俺には分からん世界です。
大事になっている原因である八代少将の視察時に起きた事故はその場であきつ丸や山元が元帥に伝えていたらしく、俺が暢気に――暢気ではないか――夢を見ている間に、井之上さんは今の状況を作ることを考えたとの事だった。井之上元帥は「隠し立て出来ないのならば、公的に記録を残して被害の拡大を防ぐしかあるまい。汚点を非難されるのも仕事のうちだ」と言っていた。
モニター内の井之上元帥が、こつん、と指を机に当てて音を鳴らした。合図だ。
俺は
「――この作戦は私が完了させます。井之上元帥、作戦終了を機に、海軍の一部の再編をご検討いただきたい」
モニターの向こうが、ざわめいた。
* * *
病室が騒がしくなる、少し前の事。
《ザザッ……――こちら大淀。水上打撃部隊、空母機動部隊、物資輸送部隊は作戦通りトラック泊地へ向けて南下中です――接敵は今のところ多くありませんが、未確認の深海棲艦が連れていたと思しき駆逐艦級や軽巡洋艦級の深海棲艦が計六隻……足止めかと思われます。現場に到着するまでに、さらに出現する可能性は高いかと》
俺が向かわせた艦隊は順調に天龍達を追いかけていた。
病室にやって来た長門は艤装を一部展開し、松岡から借りたスマートフォンを通して大淀や山元と連絡を取れるようにしてくれており、スマートフォンの画面は真っ白な状態でアプリを起動しているわけでもないのに、まるでラジオのように機能していた。お陰でテーブルの上に置いているだけでスムーズに意思疎通が可能となっているのだから艦娘というのはやはりすごいのだと実感させられる。
「空母機動部隊の艦載機で撃滅しながら進むんだ。水上打撃部隊が天龍達に追いつく事が出来れば問題は無い――金剛達の行く手を遮るものは全て沈めろ」
《っは》
テーブルの上に広げられた海図以外に、壁に貼りだされた南半球が大きく描かれている海図へ妖精に印をつけてもらう。撃沈場所と、俺が夢で見た艦これのマップを頭の中で照らし合わせると、それらは尽く一致しており、背筋に汗が伝う。
夢の記憶なんていうのは目覚めた瞬間は覚えているが、そこから一秒二秒もすれば徐々に薄れ、最後にはどんな内容だったか思い出せなくなるものだ。しかし俺に残る記憶は鮮明なまま。
何百か、何千回とクリアしてきたマップでもあるまい。艦隊これくしょんに紐づけられているから忘れられないのだろうかとも考えたが、どうにも、これについては俺がやり遂げねばならないという妙な使命感に駆られていて忘れられないといった方がしっくりくる。
祖父に影響を受けたのか。あるいは祖父が部屋を出て行った瞬間の光景が俺に恐怖を与えていて、ああなりたくないと必死になっているだけなのか。
ただの一般人で、ブラック企業に勤めていただけの無能である俺がどうして安い想像上で「できるかもしれない」を艦娘に実行させているのか分からない。
ゲームのようにクリックして進軍させれば良いわけでもなければ、実際の軍艦が過去にどのような戦争を戦い抜いたのかだって、知識にあっても明瞭に覚えているわけでもない。
しかしながら、不思議と俺は迷いなく、淡々と指示を出せていた。
妙な感覚だった。
「未確認の深海棲艦を、今後
《せ、戦艦に空母ですか……!? それに、あれをどうして軽巡などと……》
「私の偏見だ、それはいい。可能性の話だ」
構えておいて損は無い、という意味で口にする。
艦これではボス級――いわゆる、姫や鬼と呼ばれる特殊な深海棲艦が存在する。
圧倒的装甲、圧倒的火力、圧倒的物量で攻めてくる彼女らに何度苦汁を嘗めさせられたことか。
六隻のみの編成、または連合艦隊でも十二隻の編成で挑み、敗北を喫し撤退するというループは、艦これイベントにおける提督にとっての当たり前である。思い出したらちょっとお腹痛くなる。
編成に制限が無いため、俺は素人どころか小学生が考えたような、まもるがかんがえたさいきょうのかんたい! を向かわせているのは、これが現実で起きていることで、制限もへったくれもないからである。
これでは遠い世界の諸兄に叱責されてしまいかねないが、それはおいておく。
大淀に最大限の警戒を怠らないように言いつけてから、今度は山元に声をかける。
柱島の様子も聞いておかなければならない――なんて忙しさだよ……。
「山元、そちらに今、あきつ丸はいるか」
《っは。代わります》
《ザッ……こちらあきつ丸であります!》
「柱島のみなの様子はどうだ」
《閣下がお目覚めになったのを伝えてからは少し落ち着いた様子であります。八代少将も拘束されており、倉庫区画の一つを営倉の代わりにして詰め込んでおりますので、動くこともできますまい》
「ふむ……」
倉庫に閉じ込めるって憲兵怖過ぎだろう……阿賀野が苦しむような細工を艤装に仕込んでいたし、擁護する気も無いから気の毒とは思えど因果応報であるのだが。
「このまま呉の方で指揮を執るから帰るのが遅くなる。私が戻るまでは、あきつ丸、お前がしっかりと見てやって欲しい」
《っは! もちろんであります! それで……閣下、お身体の方は……》
「指揮を執れる程度には問題無い。医者曰く、命に別状はないとの事だ。心配をかけたな」
《そうで、ありますか……》
こんな俺でも心配してくれるんだから艦娘ってのは最高だぜ!
いかん、あきつ丸にデレデレしている場合ではない。
軽巡棲鬼の撃滅を優先しなければならないところだが、八代少将の問題は俺の手には負えん。
あきつ丸に連絡を取ってもらうことも考えたが、ここでも甘えていては示しがつかないと俺は山元へ再度代わるようにお願いする。
《代わりました》
「うむ。それで山元、阿賀野の様子は」
《気を失ったままでして……明石殿によって艤装の修復はある程度完了しているのですが、気を失った状態で入渠させるのは危険であるとの事で……》
そりゃ気を失ったままお風呂に入れたら溺れちゃうよ。あぶねえよ。
「それは、そうだな……艦娘を何名かつけて入渠させてやってくれ。出来る限りの事をするんだ」
《っは!》
「それと、これから大本営へ繋ぐ。井之上元帥に現状を報告したい」
《元帥閣下でありますか? それは――》
「緊急の事で出撃は私の判断だが、以降の判断は私の一存で決めるべきではない」
要するに俺の手におえる事柄じゃないってことです! 分かれよ!
《……やはり、少将について、でありますか》
山元が言うように一部はその通りだが、俺が井之上さんにお願いしたいのはそうじゃねえんだ……。
深海棲艦は大淀達に何とかしてもらうんで……その、雑事を、全部、ってところぉ……ですかねぇ……。
クズですみませぇん……。
現場の指揮を執ったところで俺に出来ることなど、深海棲艦を倒す艦娘達のご機嫌をとること以外には艦これ知識で、もしかしたら、といった情報を与えるまでのこと。その他と言っても、編成について、兵装について、艦娘に関する事で知っていることを話すくらいのものだ。実はゲームの知識なんですけども、とは口が裂けても言えない。
山元や清水と同じようなパターンであれば俺にも何とか出来たかもしれないが、阿賀野の艤装が爆発するくらいに無茶なことをした男だ。阿賀野を救えたとしても、八代についてはどうにもできませぇん!
「出来る限りの事はするつもりだが……私の手には負えん」
正直に言うと、山元は低い声で唸った。
《う、むぅ……閣下であれ、手の施しようがないとなれば……少将は、もう……》
「私が出来ることは――井之上元帥の意を汲み、それに従う事のみだ。お前や清水についても、私は口添えこそしたが、決定したのは井之上元帥であり、私の意思ではないと言えば分かるか」
今回に限っては八代は倉庫に突っ込まれてる上に俺は病室で、軽巡棲鬼まで出現していて指揮を執っているのだから身動きが取れない。少将という立場があるのだから相当に頑張って来た男なのだろうが、俺にとって他人であり、艦娘もまた俺にとって他人ではあるが好意すらないときた。
好ましい相手であれば、仕事ができる相手であれば、相手が心から反省して礼を尽くしてくれる山元や清水のような男であれば――いくつもあるたらればにさえ当てはまらない男だ。冷たいかもしれないが、俺だってトンデモ世界で生きねばならないのだから、これ以上面倒は見ていられない。
ただでさえ大勢の艦娘の面倒を見なきゃいかんのだぞ!
艦娘のためならいくらでも働くが他は知らん! 自分で何とかしてぇ!
《では、自分は……どうすれば……》
「――このまま大本営に繋ぐから、お前は正直に話せ」
《っ……》
山元の沈黙を肯定と受け取り、俺はそのまま長門を見る。
すると、彼女は重々しく頷き、目を閉じた。
スマホの画面は真っ白なままだったが、通話を繋げるようなぷるる、という小さな音が入り込み――数コールで女性の声が返って来た。
《こちら日本海軍司令部――》
あれ大本営じゃないのか? と俺が長門を見るも、彼女は頷くだけ。
大本営には違いないが、電話では司令部と受け取るのだろうか、と考えつつ言う。
「柱島泊地所属の海原という者だが、元帥閣下はおられるか」
《え……はい……?》
電波悪いのか?
「柱島の、海原だ。聞こえるか」
ゆっくりとした口調で言うと、女性は「な、なんっ……!? しょ、少々お待ちください! 今、元帥閣下は大本営におられないのですが、すぐにお繋ぎしますので!」と言って保留音を流した。
電話口から聞いたことも無いオーケストラのような曲が流れたのもつかの間、すぐに聞き馴染みある声が出る。
《井之上だ》
「井之上元帥……! 連日、何度もすみません……少将についてお話が……」
《聞いている。八代が柱島において事を起こしたそうだな》
「はいぃ……。それと同じくして深海棲艦も出現してしまい、もう……」
おっと、いかん――! 長門や松岡が俺の事を知っているとは言え、上司がさらに上の上司に泣きつくような事を言うなど……しかし、つける恰好がないのも事実……せめて落ち着いた口調で、泣き言じゃなく、私では判断できませんからという雰囲気で話すのだ……すまんじいちゃん……俺は親不幸どころか皆に不幸を振りまいている気がしますぅ……。
《時は待ってくれず、か。海原、深海棲艦の方は》
深海棲艦が問題なんじゃねえんだよ! 艦娘が深海棲艦に負けるぅ!? あり得ないね!
だって艦娘だから!(理論破綻)
それよりも問題は艦娘を傷つけた方ですって! と俺の心のろーちゃんが憤慨中である。
「深海棲艦が問題なのではありません。問題なのは……八代少将です」
《山元よりある程度話は聞いているが、お前の口からも説明してくれんか》
確認、というやつだろう。やっぱ仕事出来る人はこういうところからして違うのだな、と自分に至らなさに辟易しながら話した。
「今日――じゃないですね……先日、視察と演習を申し込まれましたので、八代少将を迎え入れましたが、少将の連れていた艦娘、軽巡洋艦阿賀野の体調が思わしくなく、柱島に所属している明石のもとで異常が無いか確認してもらったところ、今回の事故が発生しました。怪我人は私以外にいない様子ですが、私が倒れている間に山元大佐が憲兵へ連絡を取ったようで、現在は憲兵が柱島の倉庫に拘束中である、と。八代少将はどうにも深海棲艦の艤装の一部を所持していた様子でありまして、それを用いて深海棲艦を呼び出したものと理解している状態です。深海棲艦については艦隊を即時編成して撃滅へ向かわせていますが……私が出来る事は、ここまでで……」
《っくく……ここまで、か。流石のお前とて庇いきれんとは、我が軍のことながらほとほと呆れる》
「元々、庇う気など……」
不思議に感じて間抜けな声を出す俺だったが、井之上さんは自嘲気味な笑い声で言った。
《呑み込めんのは、ワシとて同じ事よ。諸外国と共同戦線の締結までした男の傀儡がここまで派手に動いたとあらば、この争いを隠し立てする意味など失われたも同義。お前はよくやった。多くのしがらみをここまですり抜けて動ける軍人など、お前の他におるまいが――最後に一つ聞いておく。良いのだな、海原》
「よ、良いとは……?」
井之上さんの言葉の意味は分かる。好き勝手に動くお前すげえなと。すみません。
しかし良いなという最後通告のような言葉の意味が分からず問えば、井之上さんは深呼吸をするような間を置いて、重々しい声で言葉を紡いだ。
《これは――賭けだ。軍人として決して手を出すべきではない大博打だ。お前はそれでも、ワシについてくるというのだな》
え、えぇ……賭けって何ですかぁ……。
そりゃあ俺を救ってくれたのは井之上さんですからついて行かない選択肢がないですけどもぉ……。
井之上さんは艦娘を大事にしているし、あきつ丸の事だって大切に考えてくれている人だ。
それに秘書艦としてか、呉に
艦娘を守るために必死になって働いている井之上さんに、まもる、ついていきます!
その必死になって、という殆どが最近において俺の尻拭いなのが申し訳なさ過ぎて、俺は見えてもいないのにテーブルに両手をついて頭を下げていた。許して井之上さん。今度美味しい間宮羊羹――あるかどうかは分からん――を差し入れするから……。
「艦娘を救い、国を守るために働く井之上さんという上司に救われた私になんの憂いがありましょうか。私はあなたの部下なのです。お聞きになるまでもないでしょう」
《……言うまでも無いが、体裁が必要となる。これは海軍という機構の改革だ。ワシのみならず、陸軍どころか政府をも巻き込む大改革になるだろう。決して楽な道ではない。その時、お前は本当にワシを――》
井之上さんまで難しい話しないでくださいよぉ!! まもるついていくって言ったでしょッ!!
「井之上さん」
《……》
「私は、あなたの部下です」
《海原……》
「あなたの指示であるならば、出来る限りの事はします。ですから、どうか」
これ以上難しい話はしないでください……全部ぶん投げるために電話したんですから……。
《全く、お前というやつは……あぁ、本当に……――海原よ》
「っは」
《国を守る剣となり、盾となってくれるか。彼女らを、守ってくれるか》
それは聞くまでもないでしょう、と息を吐き出す。艦娘がいる時点でそれは成されているのだ。
艦娘が戦うのだから、それを支えるのが提督である俺の仕事。ならば井之上さんの言葉に対して、やはりイエス以外の選択は無い。
「謹んでお受け致します、井之上元帥」
《……ワシにはもったいない部下よ、お前は》
役立たずですみませんけど電話口ではやめてください。長門や松岡もいるんで……。
「おやめください井之上さん。私と井之上さんの仲ではありませんか」
《やめろやめろ、年甲斐もなく目元を熱くさせんでくれ。……ふぅ。では、すぐに手筈を整えるが、言い切ったお前にはいやーな仕事を任せてやろう》
えっ。
待ってくださいよ井之上さん。
「井之上さん、それは……」
《艦娘の教育、管理の責任者としてお前を据えることを前提に――抜本的な改革の提案をしてもらいたく思う》
待ってくださいよッ!! ちょっとッ!!
「え、あの、井之上さん。艦娘の教育と管理の責任者だなんて、私は柱島泊地の提督であって、深海棲艦の撃滅が艦娘の仕事で――え、ええと……!」
《くっくっく。その仕事を続けたくばしっかりと働け。言ったであろう、体裁が必要になるのだと。我々は国畜だぞ? 絵図を描かねばならんのだ》
こくちくって何だよ! 社畜の仲間ですか!? グレードアップさせないでくださいよぉッ!!
いや、この場合はグレードダウン……? ってそういうことじゃねェッ!
「体裁って、それはそうでしょうが……!」
国や国民を対象にしている仕事なのだから体裁というものは大事なのだろう。
最初は艦娘の面倒を見るだけで良いって言ったじゃん! 井之上さんの嘘吐きッ! こ、この……ハゲ……ては無かったな……老人……にしては山元に負けず劣らずの筋肉だったし……ナイスミドルって感じの……畜生、欠点という欠点もねえ! 無敵か!?
俺は艦娘の面倒しか見ないからな! いくら井之上さんがお願いしたって無理なものは無理……と、ここで俺は気づく。
艦娘の教育と管理の責任者――体裁が必要――まもるの天才的頭脳は導き出した。
艦娘の面倒を見る、と言えばあんまりに単純な言い方だが、井之上さんは教育と管理と言った。
体裁ってそういう事ぉ!? もぉ驚かすなよ爺さんさぁ……。
「はぁ……承知しました。井之上さんのやりやすいようにお願いします。ですがせめて私にもやりやすいようにお願いします。深海棲艦を倒すために出撃している艦娘へ指示も出さねばなりませんので」
《ワシを相手に溜息か! はっはっは! それが一度で済めばよいがな!》
すみません無意識に出ちゃったんですって。ごめんて。
《時間をかけて原稿でも用意してやりたいが、お前の事だ、要点だけを伝える。ワシが調査したところ、艦政本部での不審な動きがいくつか見られた――だが不審なだけで、詳しい調査をしようとなれば多くの手続きが必要となる。さらに、本部長の楠木以下、八代を含む数名の少将、舞鶴の中将にも出頭させて公正に裁判せねばならん。名目は……まぁ、どてっぱらを噴き飛ばされたお前に言うまでもなかろう》
「……事故の調査ですね」
大丈夫です。まもるそこまで馬鹿じゃありません。
井之上さんはこの事故の原因は何だったのかを調査するために、艦政本部に手を入れるつもりなのだろう。艦政本部とは海軍の技術省――これくらいの知識はある。艦これプレイヤーなので。
原因を調べるついでに艦娘に対して悪さをしている奴らがいたらを叱ってやろうという寸法だな!?
っへへ、任せてくださいよ……その皮切りの役目くらいこなしてみせますとも……!
雑事は全部井之上さんがしてくれるのだからお安い御用である。
《大本営に戻り、すぐに軍議を開く。お前も参加できるようにそちらで設備を整えろ。呉の鎮守府からでも憲兵でも何でも使え》
うーん、どうしようちょっと失敗したかもしれない。
ちょっと怪我してるんでぇ……と言い訳をかまそうとするも、逃げ道はあっという間に塞がれる。
「軍議には参加でき――」
《馬鹿者、容態は分かっておる。東京に出てこなくとも良い。そちらから遠隔で軍議に参加しろ。いいな》
「……だ、だめですか」
それ絶対に参加しなきゃダメなやつですか……艦娘に指示も出さなきゃいけないんですけども……。
《当然だろう》
「……そうですか」
《働き過ぎるのも考えものだな、まったく》
じゃあ休ませてよぉ! とは言えないヘタレの俺、閉口。
それから、井之上さんに多くの指示を受けた俺は頭をぐらぐらさせながら了承した。
お、覚える事多くない? 大丈夫? などという弱気な事も言えず。
そうして――
* * *
モニターの向こうのざわめきがスピーカーを通して聞こえても、俺は言葉を紡ぎ続けた。
「件の事故を受け、艦政本部のやり方や各鎮守府における管理体制が果たして本当に正しいのかと、甚だ疑問でなりません。現在は柱島に所属している工作艦明石に修理を行わせ、同時に調査させていますが――如何お考えでしょうか」
井之上さんを責めるような口調もまた、彼にお願いされたものだった。
一見して追い詰められているような形だが、これこそが今の海軍には必要なのだと彼は言う。
『艦政本部の管理については、楠木少将に一任しておるが、その責任者は誰かと問われたらワシであると言う他無い。此度の事故についてはしっかりと艦政本部を調査させ、改装記録も全てあらためる』
「お願い致します。それと併せまして、責任の所在を伺いたい」
『……』
黙り込む井之上さん。
すると、井之上さんが予想していた通りに周囲の顔も知らない軍人達が口々に話し始めた。
『事故の被害者であることを考慮しても、いきなり顔を見せたと思えば元帥閣下を責めるなど……!』
『艦政本部の調査にどれだけの手続きが必要になると思っているんだ、大将閣下は……ぺら紙一枚でどうこうなる話では無いとご存じであろうに……』
『艦政本部が調査されるとなれば、アメリカにもこれが知れる事になるんだぞ……』
『海原大将も手続き上の事を済ませるので手一杯であったから軍議にも参加出来なかったと聞いているが?』
『大規模な作戦を遂行中なのだから、大本営に事を投げたのは英断であるとも受け取れる』
『国民への説明はどうするのだ!』
『だから、それを投げたのだろう。大将閣下は作戦に集中して確実な殲滅を考えておられるのかもしれん』
『だとしたら……まさか……』
『今回の事故と作戦に乗じて、海軍の改革を裏で済ませてしまおう、と……!?』
『なんったる……――!』
『そうなれば、体制の変更のみを国民に知らせるだけで済む。西日本全体に迫っていた危機が去った証拠さえあれば、追及はうやむやにできるかもしれん……! しかし、メディアに陰謀論でも報じられてはたまらんぞ……!』
「――戦っているのは我々です。戦えなくなるかもしれなかった大事故なのですから、私の提案もご納得いただきたい」
俺が口を挟むと、さらに会話は加速した。
『官僚らはそれで納得すると思うか? 自分はそうは思えんのだが……』
『下手な命令をすれば深海棲艦という脅威に対抗する手段を失うのは向こうも同じであろうが……』
『だが、深海棲艦の出現すら牽制に使おうなどとは……国民から顰蹙を買うどころの話ではないぞ……』
『政府を脅すわけではあるまいが、元帥閣下はどうお考えか……』
『静粛に』
井之上元帥の声にざわめきは嘘のようにぴたりと止まった。
『海原大将の言はもっともだ。管理体制の抜本的改革を視野に、艦政本部への本格的な調査を行うべきか……意見のあるものは』
先ほどまでの会話からして一つや二つくらいは何か言われそうなものだったが、誰一人として発言することは無かった。
『では、海原大将の調査要請を受理し、管理体制の変更についても検討しよう。海原大将から何かあるか』
井之上さん……恨むぜ……と、いう気持ち。
これで艦娘と過ごせるぜ、ありがとう井之上さん……と、いう気持ち。
対極な気持ちが混ぜ合わさるのを感じながら、俺は軍帽のつばに指をかけて、またも予定された言葉を口にするのだった。
「よろしければ、私が艦娘達を全て引き受けましょう」
ざわめきでは収まらない音が、病室に設置されたスピーカーを揺らした。