マキマさんと犬とニャーコと過ごすデンジくんの話です。
バトル要素なし。モブが出ます。
(21年二月現在、未コミックス分のネタバレがあります)
時系列的には最終話の手前です。原作に準拠するレベルで、残酷要素はありません。
何も考えていない能天気な面としまりのない口元をしていて鳴き声がうるさいし動く姿だけでも騒々しいしメシを出せばやたらおおげさに喜ぶくせにたまの静かな時間には大人しくして濡れた眼でまじまじまとひとを見つめてくるのになんだか心がざわつくのでデンジは犬が嫌いになりそうだった。
犬の散歩は、朝の日課だ。
リードの束を取り出すと、とたんに犬たちは騒ぎ出す。
ウォンウォンウォンウォンウォウォオゥ~~~~ン——
せわしなく吠えて、後肢で立ち上がって急かす犬たちにリードをつけていく。付けた瞬間に走り出そうとするやつもいるから、リードを足元に落として踏んで動けないようにもする。
玄関を開けると、白々とした朝日と冷たい空気が肌を刺す。
犬たちに引かれながらいつものルートを進む。
住宅地をまっすぐ歩くと、いつも家の前を掃き掃除している婆さんがいる。
「おはよう」
あいさつをされたのであいさつを返す。
「オハヨウゴザイマス」
住宅地を抜けて、車道に面した歩道を進む。まだ朝が早いので車の行き交いは少ない。しばらく進んでから、角を曲がると、女が通りがかる。
女はいつも見かける相手だ。オレンジ色のウィンドウブレーカーを着て、黒いキャップにサングラス姿。この時間にジョギングしている。
「おはようございます」
「オハヨウゴザイマス」
またあいさつを返す。女はすれ違いざまにそっと犬の頭を撫でていく。犬たちは嫌がらないので、気づかないふりをする。
陽が昇るにつれて、次第に人が増えてくる。特に目立つのは学生だ。制服をまとった中高生や学校指定のジャージを着た運動部の連中が特に眼を惹く。
怪訝な顔で見てくるやつもいるので、こいつらにはあいさつをしない。
「おはようございまーす!」「犬だ! 犬いる!」「デケー! かっけー!」
小学生の群れがバカみたいに笑いながら、犬の群れをよけて突っ走っていく。
ただ走っているだけで楽しそうだ。
「…………はよ」
小声で小さく、去っていく群れにポツリという。
犬たちは子供が好きなので追おうとするが、全身で突っ張って止める。
しばらく歩くと、犬たちの足取りが落ち着いてくる。戻るルートに入ると、帰ってのメシが楽しみなのか、まだ足取りが早くなる。
自宅に着く。玄関先に犬を繋いでから、バケツにたっぷりの水を用意する。
犬たちが争ってバケツに顔を突っ込んで水を飲む間に、犬のフンの始末をする。そして、しまってあるドッグフードを出し、犬たちそれぞれの皿に入れる。
犬たちの脚を拭ってから家に入れ、リードを外す。エサの皿にめがけて走る様子を見て、調子が悪いヤツがいないか確かめる。みんな気持ちよく食べているので問題はなさそうだった。
キッチンに入る。冷蔵庫を覗きこみ、朝食のメニューを考える。
朝は手っ取り早く済ませたいが、生肉だとどうしても調理の手間が多い。
しばらく考えていたが……ふと、キッチンから離れる。
ドアを開けて、部屋の中を覗く。押し入れの戸は細く開けられたままだ。
近くに置いてあるエサと水の皿を見る。水は目に見えて減っているが、エサは減っていない。食べていないようだ。ため息が出る。
「ニャーコ。早く出てこいよ」
猫に解かるとは思わないが、いつも声だけはかける。
買い物はショッピングセンターで済ませている。
よく行く店は少し遠いが、二階建ての大型店舗でいろんな品物を取り扱っている。こまごました買い物はコンビニとかで出来るが割高だ。ここは犬たちのものを一番近くで扱っていて、ドッグフードと一緒にペットボトルの水とか飲み物を安く買える。
「今日のメシはどうすっかな」
ショッピングカートにドッグフードの大袋を積んで、店内をゆったり回る。
他の客がたくさんいる場所だが、一人になれるのは不思議とここで過ごす時だけだ。家には犬たちとニャーコとマキマさんがいつも一緒だ。自分だけの時間がない。
もってきたレシピノートを開き、野菜売場の特売品を見る。
レシピノートには丁寧に食材の種類に色が塗ってある。タンパク質なら赤、野菜なら緑、米とかパンと同じやつは黄色。これを見ると何を買えばいいか判る。
安かった野菜から作れるメニューを選ぶ。肉はあるから買わない。
カゴに食材を詰めてから、レジに向かう。
「いらっしゃいませ」
さっぱりした顔の店員の女が一礼してくるので、軽くうなずく。
「いつもありがとうございます」
前も対応してくれたことがあるが、この店員は会計が早い。さっさと支払いを済ます。
品揃えもいいし、安いので、この店が好きだ。だけど難点が一つある。
「クッソ重ェ~~」
片手で食材の入った袋を提げて、ドッグフードの大袋は肩に担ぐ。歩きなので帰りは難儀だ。
店から出ると、すれちがった婆さんに頭を下げられた。
「こんにちは」
なんとなく頭を下げて、どこで会ったか思い出そうとする。
朝の散歩でいつもすれ違う婆さんだ。
それに気づいたのは夕食の時だった。
今日の夜はマキマさんをステーキにした。
マキマさんの味は、豚の肉を思い出させる。だから、ポークステーキのレシピを使った。厚く切ったマキマさんに包丁を入れてから、両面に塩コショウを振ってから、小麦粉をまぶす。温めたフライパンに油を引いて、マキマさんをしっかりと焼いた。
焼いたマキマさんを皿に取り分けてから、マキマさんの肉汁を残さないようにソースを作る。少しバターを足し、刻んだニンニクを入れて、油で揚げる感じで焦げない程度に火を入れてから、醤油を入れる。
野菜は手でちぎってサラダにした。洗い物が増えると面倒くさいので、サラダもマキマさんも一枚の皿に盛って、ソースを上からかける。茶碗にご飯を盛り、合わせて食卓に並べる。
「いただきます」
ニンニクの香りが、胃を揺すり、グルルと鳴らす。
噛みしめたマキマさんは柔らかかった。舌の上でとろけて、喉に沁み込み、胃に落ちるより前に一体になりそうだった。
食事の間はテレビをつけない。マキマさんと二人だからだ。
黙々と食べる。マキマさんは本当に美味い。だが――――
「食いてえな」
ポツリと言葉が漏れて、首を傾げる。
今まさに食べているのに、不思議だった。
「ごちそうさまでした」
皿洗いを済ませるともうすることがない。寝る支度をする。
食事の間、締め出した犬たちが鳴いて、早く開けろと急かす。
寝る前はいつも大騒ぎだ。賑やかだが、犬たちは犬たちだけでも楽しそうなので、少し置いてかれた気がする。
パワーと二人の時はそうでもなかった。
皿を洗う手が止まり、流れる水を眺めていたが——ふいに思い当って、冷蔵庫を開ける。
冷蔵庫にはぎっちりとマキマさんがつまっていた。
朝もマキマさん。昼もマキマさん。夜もマキマさん。
ずっとマキマさんと一緒だ。
いつものように朝の散歩で挨拶の交換。
「おはよう」
「オハヨウゴザイマス」
婆さんに挨拶を返す。
「おはようございます」
「オハヨウゴザイマス」
ランニング女に挨拶を返す。
「おはようございます!」「ワンちゃん!」
「……はよ」
登校途中のガキどもを見送って、散歩から戻った。
犬たちの面倒を見てから、ニャーコのこもった部屋に入る。
水は減っている。エサは減っていない。朝飯がまだだが、なんとなくそのまま部屋に留まる。
ここはパワーの部屋だ。
部屋の中は雑然としていて、足の踏み場もない。
買い込んだファッション誌は積まれて山になり、衝動的に買った小間物がメタルラックのフレームが歪むほど置かれている。なにも載っていないのはベッドの上だけだ。
他の誰でもない、まさしくパワーの部屋だった。
パワーがいなくなってから、ニャーコは目に見えて落ち込んだ。犬たちがいるのも気にくわないようで、パワーの部屋の押し入れにこもるようになった。
パワーのベッドに身を投げ出して、天井を眺める。
「ニャーコ……そろそろ出てこねーか」
呼びかけても返事はない。
そのとき、レバー式のドアノブがガタガタと音を立てた。ドアが開く。
身を起こすより前に、犬が一頭――ティラミスが、部屋に入ってくる。
軽快だが力強い足取りで部屋をぐるりと回ると、押入れが気になるようで、そちらの方向を嗅いでいる。
ベッドを叩くと乗ってきたので、ティラミスの顎の下を撫でてやる。
スンスンと鼻を鳴らし、腋の間に顔を突っ込んできた。
なんとなく添い寝の格好になり、ぼーっと天井を眺めていた。
今日の買い物は楽だ。重い犬のエサがない。
カートは使わず買い物カゴを提げて、店内を回った。
菓子のコーナーで足が止まった。
スナック菓子が眼に留まる。季節の変わり目だからいつもの定番と一緒に新作のポテトチップスが並んでいる。
ふと横を見ると、パワーが立っていた。
菓子を指して、パワーが言った。
「おい、今日はこれにしよう」
「…………」
うなずくと、パワーが笑った。
「新しいゲームが楽しみじゃの」
眼を瞬かせる。パワーがいない。当然だ。
パワーと二人暮らしの時は、ここで菓子を買うのが常だった。棚から何も取らずに離れて、レジに向かう。
「いらっしゃいませ。いつもありがとうございます」
いつもの店員に会計をしてもらい、店を出る。
「こんにちは」
不意に後ろから声がかかる。
朝会う婆さんだ。
「…………ちわす」
挨拶を返すと、婆さんは微笑んで通り過ぎていく。
婆さんは小柄だった。丸まった背中がちんまりとしていて、手にはパンパンに詰まった買い物袋を提げており、いかにも重たげだ。
自分の手の買い物袋を見た。スカスカで片手で軽く持ち上がる。
「なあ、婆さん」
婆さんが振り返る。
「それ、持ってやろうか」
婆さんは、満面の笑みを浮かべた。
帰りは婆さんと一緒だった。婆さんはひどく話好きで、ずっと一人暮らしをしていること、家族が関西の方にいるがなかなか帰ってこれないこと、ここで買い物するのが楽しみなこと――そんな話を黙って聞いた。
「ほら、これ持って帰りなさい」
家に着いた婆さんはさっき買ったばかりの菓子をくれた。
「こんな歳なんだけどあたしお菓子が大好きで。ついつい食べ過ぎちゃうの。よかったらもらってちょうだい」
菓子のパッケージを見て、眼を疑った。
手を出せずにいると、遠慮したと思った婆さんが押しつけようとしてくる。
「………………アリガトウゴザイマス」
婆さんと別れて、帰り道についた。
婆さんがくれたのは、パワーが選んだ菓子だった。
店の中を回ったが、どこにあるか判らなかった。
ふと見ると、いつもの店員が居たので、声をかけてみた。
「ちょっと聞きてェんですけど」
「はい?」
「あの…………コロコロ? あります」
「漫画の?」
手を振って否定した。手で床をコロコロする動作をすると、店員が真似た。
「ああ、カーペットクリーナー」
店員はわざわざ持ってきてくれた。
「これ買います。替えも」
「はい、いつもありがとうございます」
いつもの店員は、それこそいつものように律儀に頭を下げた。
「ワンちゃんたち、みんなで暮らしてると抜け毛も大変ですよね」
「…………っすね」
なんで犬のことを知ってるのか不思議に思った。でも、よくよく考えたら犬のエサをいつも買っていた。
帰ると早速掃除を始めた。
犬たちとの生活でやることは多い。散歩やトイレの始末も大変だが、毎日難儀なのは落ちた毛の始末だ。カーペットクリーナーで、落ちた毛をとっていく。
やってみるとこの作業は楽しかった。
クリーナーを回す手ごたえが面白いし、粘着テープを剥がすのが気持ちいい。
公安の仕事を辞めたので、やることがあるのは悪くなかった。マキマさんとずっと一緒だけど、何かをしていると気がまぎれる。
ただ、皿を洗う時や洗濯の時は少し物足りない。
洗うものが一人分だからだ。
掃除してからパワーの部屋に入った。
先客――ティラミスが顔を上げて、再び床にぴたりと身を伏せる。いつのまにかパワーの部屋に入り浸るようになっていた。ニャーコがいるのが気になるようだが、マキマさんのしつけがいいから、ニャーコのエサや水を勝手に食べたりはしない。
今日も、ニャーコのエサは減っていない。最近はドライフードではなく、缶詰のいいヤツを入れている。ほっとくと腐るので、新しいものと入れ替えた。
「ニャーコ、出てこねえか」
押入れ越しにニャーコに呼びかけた。当然返事はない。
仕方ないので、その場に座り込む。押し入れに背中を押しつけて、眼を閉じた。
すぐに後悔した。この部屋にはパワーの匂いが色濃く残っていた。
うるさくて好きなことしかしないヤツだったが、居なくなると静かすぎる。
立てた膝に額を押しつけて、静かにしていると、ティラミスがそっと寄ってきた。
横に座り込んで身体を押しつけてくるので、そのままにさせておく。
ティラミスは静かだった。
静かにしたまま、じっと押入れを見上げていた。
朝の散歩に出る。今日も犬たちは元気だ。
いつもの経路で行くと、玄関の掃除をしながら、婆さんが待っていた。
「おはよう、デンジくん」
「おはよう……ゴザイマス」
なんだか堅苦しいわね、と婆さんはクスクスと笑った。
婆さんは犬たちのおやつを用意するようになった。あげるのが楽しいようなので、朝のエサは減らす代わりに、ありがたくもらっている。
「おうちはここから遠いの?」
「遠い……っす」
「いつもワンちゃんたちの散歩大変ね」
「大変っす」
婆さんは色々と気になるのか、質問してくるようになった。
「ご家族は?」
「…………独り暮らしで……えと、みんな、いないっつーか、いなくなったっつーか……」
あらあらと婆さんは口を丸く開けると、きゅっと閉じた。
二人して黙りこくってしまう。こんな時騒がしければ間が持つのに、犬たちも何かを察したのか、急に静かになった。
居たたまれないので、その場から離れようと思った時だった。
「おはようございます」
聞き覚えのある声が投げ込まれた。
例のランニング女だった。その場で、足踏みをしながら笑いかけてくる。
婆さん顔を輝かせて近づいた。きゃらきゃらと笑いながら、二人して何かを話している。
女の話は意味不明だから犬たちの相手をしているフリをした。すると、犬たちが後肢で立ち上がって、女に撫でられるのをせがんでぴょんぴょん跳ねた。
「あーらあら、覚えててくれてたの~」
「…………」
女に目顔で撫でていいと示すと、女は両手がかりでわしゃわしゃと犬たちの頭を掻き混ぜた。犬たちはアホ面で撫でられている。婆さんもニコニコと微笑ましそうに見ている。一人だけアホらしい心地で、黙っていた。
「それじゃあ、また。お待ちしております」
女は言い置いて、その場から走り去った。
「知り合いすか」
尋ねると、婆さんはうなずいた。
「ええ、いつもお世話になってるじゃない」
「あー……?」
「それより、ちょっとこっちに来てちょうだい。ワンちゃんたちは繋いでね」
「……はァ」
招かれるままに家の縁側に座らせられた。
「もしかして、ご家族がいないのって……悪魔のせい……かしら?」
「……………………ハイ」
婆さんは黙ってしまった。
正直に言わない方がよかったかもしれない。でも、アキやパワーのことをウソにするのは違う気がした。
だしぬけに婆さんが言った。
「私もね、悪魔に家族を殺されているの」
婆さんはぽつぽつと喋り出した。
唐突に現れた悪魔に、一緒に暮らしていた夫が殺されてしまったこと。息子は関西で仕事をしているのだが、独りだと心配だから、一緒に暮らさないかと誘われていること。思い出の家を離れられないけど、独りだと寂しいこと。
「今でもあの人が恋しいわ」
その言葉にパワーの顔が思い浮かんだ。
「家族を悪魔に殺されるなんて珍しい話じゃないわ。でも、あたしみたいな年寄りなら老い先短いからいいけど……あなたは若いのに……」
黙っていると、そっと膝の上に手を乗せられた。
「本当に、楽なことじゃないわね」
その一言が、何かを少しだけ融かしてくれた。
「大変……っすね」
「デンジくんも辛かったら言ってね」
「…………はい」
婆さんは俺の手を握ってくれた。
小さな手なのに、大きくやわらかなものに包まれたようだった。
眼の裏が焦げそうなほど熱くなった。零れそうなものを堪えて、顔を上げた
さっきまでの晴れ空に、いつの間にか厚い雲がかかっているのに気づいた。
「本当に許せないわ…………悪魔なんて、みんないなくなればいい」
婆さんが暗く、呪うような声で呟いた。
「悪魔が……『銃の悪魔』がいなければ……」
『銃の悪魔』。
その言葉だけで、頭を撃ち抜かれた。熱くなっていた眼が一瞬で凍りつく。
そのあとはうわの空で話を聞いた。お礼を言って、婆さんの家から逃げた。
今日はマキマさんを鍋にした。
マキマさんを薄く切って、野菜と煮るだけで出来るから考えずに作れる。
鍋が煮えるのを待つ間にパワーの部屋を見に行った。ドアを少し開けて覗きこむと、のっそりと犬たちが頭をもたげる。
犬たちはパワーの部屋に入り浸るようになった。部屋は荒らさない。というか元から荒れているので、犬たちが伏せられるように床を見えるぐらいに片付けたぐらいだ。
犬たちはニャーコのいる押入れを見上げて、じっとしていた。
ニャーコは出てこない。エサも一切食べていない。
煮えた鍋を食卓に持っていく。蓋を開けてやっと気づいたが、量が多すぎた。
何も考えないでアキのレシピに従ったのだが、よくよく読むと、三人分の量で書いていた。
闇の悪魔との戦いのあと、アキとパワーでいつも家にこもっていた頃、アキは始終ノートにレシピを書いていた。なぜか訊くと、おまえたちのためだとアキは言った。
「やることもないしな」
「俺たちに料理やらせんのか?」
アキはうなずいた。そして、叩いてなくなった方の腕を示した。
「せめて片腕の分の仕事はしてくれ」
「……おう」
了解はした。だけど、断たれた腕からは眼を逸らしてしまった。
もくもくとマキマさんを口に運びながら、あの婆さんのことも考える。
『銃の悪魔』があの婆さんの家族を殺した。
あのあと、アキが婆さんの家族を殺していないことを祈った。そして、一つだけ決めた。婆さんとはこれ以上仲良くならない。でも、荷物もちはずっとやる。
アキは大好きだ。生きてるときは気づかなかったけど。今もただ恋しい。
だけど、アキのやったことは赦されない。でもアキは死んだ。だから、アキのせいかもしれないことを、大好きなアキの代わりに背負いたかった。
マキマさんを噛みしめる。やはり蕩けるような味だった。
今もマキマさんが超々々々々々々々大好きだ。少しも嫌いになれないことに驚いているぐらいだ。
でも、マキマさんは俺のことをなんとも思っていなかった。
マキマさんが好きなのはポチタで、チェンソーの悪魔だった。その臭いに惹かれていただけで、少しも見てくれていなかった。いや、臭いすらも覚えていなかった。
ふと、あることに気づいて笑ってしまった。
マキマさんは俺を犬だと言った。だけど、マキマさんは臭いでしか、周囲を区別できなかった。それこそ犬みたいに。
自分も犬なら、マキマさんも犬だった。
犬が犬を食ってる。悪い冗談だ。
鍋の具はすべて食べた。うどんと卵を落として、汁まで残さなかった。
唐突に、犬たちの鳴き声が響いた。
不思議に思ってパワーの部屋に行くと、ティラミスが押入れをガリガリと引っかいている。他の犬たちも鳴き声を上げて、ティラミスを囃している。
犬は嫌いだ。バカなことばかりする。
ゆっくりとティラミスに近づくと、引っかく前肢を押さえて、やめさせた。
「ティラミス。ニャーコが驚くからやめろ」
ティラミスは訴えるように鳴いた。こちらへではない、押し入れに向けてだ。
押入れはニャーコが出入りできるように、いつも細く開けてある。
「ニャーコ……出てこねえか」
いつものように呼びかけた。しかし、ニャーコは出てこない。
忙しなく犬たちは動き回り、押し入れの方を気にしている。
いつもだったら諦める。だが、今日は違った。
押入れを荒々しく開けた。開く音に犬たちがピンと耳を立てた。
ニャーコは押入れの中で小さく小さく丸まっていた。背骨と鎖骨が浮き上がり、明らかに瘠せていた。
「ニャーコ……」
手を伸ばすと、ニャーコが荒んだ眼で睨みつけ、鋭い鳴き声で威嚇してきた。
慌てて伸ばした手を引っ込める。ニャーコは全身を膨らませて、毛を逆立て睨みつけている。低い唸り声を聞きつけた犬たちは、尾を隠して、床に身を伏せた。こんなニャーコは初めてだった。
「…………わかった、ニャーコ、わかったからよ」
開けた押入れからゆっくり離れる。ニャーコはび丸まった。そして、寝床にしているモノに顔を擦りつけた。
何の上に寝ているのか――それに気づいて、慌てて押入れを閉めた。そのまま部屋からも出る。
押入れの中には洗っていないパワーの服が大量に詰め込まれていた。パワーには洗濯物を脱衣籠に入れるのすら面倒がり、押し入れに放りこむ癖があった。
ニャーコはずっと、もういないパワーのTシャツに包まれて寝ていた。
今日もショッピングセンターに買い物に行った。最近は婆さんと最初から一緒に行ったりする。ただ、今日の買い物は大変だった。
「デンジくん、無理しないほうがいいわよ」
「ヘーキっす……よ……、と」
犬たちのエサが切れかかっているのを忘れていた。片手で婆さんの分の買い物袋を二つに自分の分の袋を一つ。その状態で肩に犬のエサの大袋を担いだ。婆さんは心配げに見上げてくるが、笑ってみせた。
両足を大きく広げて、一歩一歩踏ん張りながら歩く。
歩く格好がおかしいのか他の客がくすくすと笑った。でも、気にならなかった。婆さんが手を伸ばすのを振り切って、店から出ようとした――時だった。
「お客さま」
振り返る。いつもの店員が立っていた。
「あらまあ」
婆さんが頭を下げる。
俺もなんとなく頭を下げると、店員は店のフロアに手を差し向けた。
「よろしければ、こちらへ。お客さまにおススメのお品物がございます」
「………………はあ?」
もっと買えっていうのか?
しかし、ニコニコ笑う店員の顔を見ると言いかえせなかった。一端、買い物を婆さんに預けて、店員に導かれるままに移動した。
このショッピングセンターは広い。普段は食品ぐらいしか買わないが、奥の方にはホームセンターとかで扱うような、大型の商品を陳列していた。
「こちらの商品はいかがですか?」
店員が示したのは台車だった。
荷物を積む台の部分に、L字型にハンドルが伸びてて折り畳めるやつだ。
タイヤはやけにごついが、外でも使えるようにしてあるかららしい。
「こちら、現品限りで傷ありの品になっていますので――」
値段を聞いて、眼を剥いた。バカみたいに安かった。
反射的に値札を見てみるが、桁が違った。
「あ? え? あ?」
怪訝な顔になっても、店員はニコニコ笑っている。
「いつも重い荷物をお運びですよね。あると便利ですよ」
「……あ、あ? いや……ええと、なんか…………」
台車をよく見た。傷ありの品だというが、どこに傷があるのか判らない。
「あの、ええと……傷とかねえみたいだけど……なんで……」
店員はにこにこ笑ったままで、台車のハンドルを掴んだ。
そして、片足を上げると――――台車に思い切り靴底を叩きつけた。
「これで傷ありです」
「…………え、ええ~~~~⁈」
意味が解らなかった。騙されている――いや、なにをしてもらっているのかもわからない。
戸惑っていると、店員が一歩踏み出し、そっと耳打ちしてきた。
「ずっと在庫になっててジャマな商品なんです。買ってください……それに」
店員はニヤリと笑った。
「いつもワンちゃんに触らせてもらっているお礼です」
「…………あ?」
初めて店員の顔を見た気がした。キャップやサングラスで顔が隠れていないが——よくよく見れば、いつも朝見ていた顔だ。
「ワンちゃんたちの買い物、いつも大変ですよね。これがあればすこし楽になりますよ」
「なんで、こんなことを……」
「たいしたことじゃないですよ。今日もおばあさんの重い荷物抱えて頑張ってるから……少し助けてあげたくなっただけです」
店員が笑った。有無を言わせない強い笑みだった。
店員と婆さんと一緒になって、台車に買ったものを積んだ。
帰り道は驚くほど楽だった。犬のエサの袋を担いで歩くのに比べれば、天地の差だった。
「あの子、いつも親切にしてくれるのよ」
「……そう、なんすね……」
「あなたの日頃の行いがいいから、見ていてくれたのよ」
「………………そう、なんすかね?」
婆さんはバシバシと肩を叩き、声をあげて笑った。
婆さんと別れてから帰宅した。買い物袋とエサの大袋を部屋まで運ぶ。
「お~い、おまえら、帰ったぞ」
買ったものをしまってから、パワーの部屋に行く。
今日もいつものように犬たちは部屋の中でたむろし、ニャーコは押入れの中にこもっている……はずだった。
犬たちは部屋の中にいなかった。
思わず部屋の中に入ると、硬い何かを踏んだ。
「いてッ! ……なんだァ?」
踏んだのはドッグフードの粒だった。床にはドッグフードがぶちまけられている。見れば、まだ中身が残っていた袋が床に転がっており、引きされて中身が散らばっていた。
なんだかイヤな予感がした。押し入れを開き、ニャーコを探す。
ニャーコの姿はなかった。猫缶と水は少しも減っていない。
「……ニャーコ?」
パワーの部屋から出る。ニャーコと犬たちを探して、部屋を回る。
居た。寝室だ。
敷きっぱなしにしておいた布団の上で、丸まった犬たちが身を寄せ合って眠っている。
ニャーコもそこにいた。
身を寄せ合った犬たちと一緒に、ティラミスの腹の上に乗って揃って丸まり、安心しきった様子で寝ている。 ゴロゴロと喉を鳴らし、寝返りをうつ。転がって見えた腹は、はち切れんばかりに膨れていた。
ニャーコの口元の汚れを見て解かった。ニャーコは俺のやったエサは食べなかった。しかし、心配した犬たちが持ってきて分けたエサは食べたのだ。
ドッと力が抜けた。安心したからだと思った。
ニャーコがエサを食べた。それは嬉しいことのはずだった。
なのに、胸の内を冷たい風が吹き抜けていくような感じがした。
ニャーコと犬たちは何も不安のない様子で寝こけていた。
完璧だった。完璧なものを見ていると思った。なに一つ欠けることなく、満ち足りていて、幸福そのものの固まりだった。
だけど、そこは遠かった。たどり着けないぐらいに遠くに見えた。
そこに俺はいない。俺は完璧からも幸せからも遠く離れている――
その場から逃げた。パワーの部屋に駆け込み、ベッドに飛び込んだ。
突っ伏して枕に顔を押しつける。言葉にならない叫びをあげた。
マキマさんを殺してから犬たちを迎えに行ったとき、犬たちはキラキラとした顔でこちらを見上げてきた。俺のことを群れの仲間だと思っているのだ。身体ごとぶつかるみたいにして、頭をこすりつけてくるのを受けとめるのが大変だった。
犬たちは俺がマキマさんを殺したことを気づいていなかった。漫画とかだと犬は真っ先に気づくのに、唸ることもなくて、無心でこっちを見つめていた。
犬はバカだと思った。おまえらの主人を殺したのは俺だ、と叫びたかった。
なのにそんなことも知らずに、犬たちは俺が大好きだというように身体を擦りつけ、顔を舐め、奇麗な眼で見つめてきた。
マキマさんの犬だったから、面倒を見るつもりだった。だけど、そんなふうに振舞われると、どうしても世話をしなくちゃいけなくなった。
犬たちを見ていると、何も知らなかった頃の自分を思い出す。知らなきゃ幸せだったことを思い出す。マキマさんの犬だったことを思い出す。
だが、犬たちはマキマさんや俺には似ていない。少しも似ていない。欠片も似ていない。まったく違う。
だって犬たちは優しい。一緒に暮らしている猫を心配するぐらいに優しくて、互いに殺しあったりしない。そして、そういう気持ちは通じる。
ニャーコに必要なのは俺じゃなかった。優しい犬たちだった。
俺なんか誰も必要としない、必要じゃない。
マキマさんも悪い人だったけど、俺の方がマキマさんより悪い。マキマさんは俺を騙して大勢の人間とアキとパワーを殺したけど、俺もマキマさんを騙して殺したし、アキのことももう一度殺した。それでもマキマさんが大好きで、でも大好きな気持ちと同じぐらいの大きさでマキマさんを許せないから、殺したマキマさんを食っている。
みんな優しくしてくれるから、死んでったみんなも優しかったから、勘違いしていた。
人間は人間を食わない。犬も犬を食わない。俺は人間でも犬でもない。
俺は悪魔だ。
だから、誰にも必要じゃないし、誰にも優しくしてもらう価値なんかない。
大きな声で叫び続けた。叫ぶだけ叫ぶと、意識が途切れた。
気づいたら眠っていた。
夢を見れればよかった。だけど、そんな逃げ場はなかった。
パワーの部屋には時計がないから、今が何時か判らない。
しかし、カーテン越しの窓の陽が、すでに朝になのを教えてくれた。
全身がだるくて重かった。思えば昨日は昼食以降、何も食べていない。
マキマさんを食べなくてはいけないが、身体が動かない。疲れているのとも違う。眠くて動けないのとも違う。心底から腹が減っているのに、何も食べられなかった頃の気持ちに似ている。でも、あの頃はポチタがいた。ポチタを抱きしめれば、いつでも走り出すエネルギーが湧いてきた。
今の俺には、何もなかった。
独りきりの心地に浸って、ベッドの上で身を縮めている。
すると、ドン、ドン、という音がした。
「…………ン?」
寝転がったまま、視線だけを振り向けた。音はドアからだ。扉に何かがぶつかっている。開けろとせがんでいるようだ。
おそらくは犬たちだが……どの犬か。あてずっぽうに言ってみた。
「……ティラミスか?」
ウオン、と返事。ティラミスの鳴き声だった。
虚ろな頭で考える。まだエサをやっていない、水も与えていない、散歩もしていない。
ドン、ドンと、ドアにぶつかる音。
ぶつかる音だけでなく、ガリガリと扉を引っ搔く音も同時に聴こえた。。いつもどおりでないから、早く出てこいとティラミスは言っているのだ。
無視してもよかった。
犬たちはただ世話をしてほしいだけだ。別に俺が必要なわけじゃない。世話をしてくれる誰かであれば、マキマさんでもいいし、俺でもいい。
だけど、身体はそれでも動いた。
ベッドから立ち上がり、扉に移動する。
(誰でもいいかもしれねえけど……)
身体は重かった。もう動きたくないって感じだった。
(……ここにはマキマさんはいねえ……)
パワーもいない、アキもいない。みんないない。
動きたくないし、やりたくはない。だけど、俺しかいない。
犬たちには俺しかいないのなら、俺がやらなくちゃならない。
ドアを開いた――――
足に鋭い痛み。見下ろすとニャーコが足に爪を立てて、すがってくる。
座り込んだティラミスが、澄んだ眼で見上げてくる。
「ワン!」
一声鳴くと立ち上がり、前肢を俺の肩にかけて抱きつこうとしてくる。
「エサならすぐに……」
部屋から一歩踏み出すと、何か踏み砕く感触――覚えのある感触。
床を見渡した。床にはドッグフードがばらまかれている。
見れば、昨日買ってきたドッグフードの新しい袋が床に転がっていた。噛み破って引き裂いた箇所から、中身が零れ落ちていた。
ティラミスが離れると、ドッグフードの大袋に噛みついて、引きずってくる。
俺の前に袋を持ってくると、立ち上がって顔を舐めた。
「ワン! ワンワン!」
せがむ声ではなく、訴える声だった。
ニャーコも爪を立てて、脛に頭を擦りつけてくる。
「おまえら……」
ティラミスが促すままに、床に座り込んだ。
バラバラと散らばったドッグフードを一粒つまみあげる。
ドッグフードは、床に落ちてホコリにまみれている。そもそも人間の食い物じゃない。
だけど、俺は迷わずに口に入れた。
堅い粒を奥歯で噛みしめると、素朴な味が口にひろがった。
美味くはない。こんなものを食う犬どもの気がしれない。
それでも、落ちている粒を一つ一つ拾い上げて、口に運んだ。
ティラミスは眼を輝かせて、ベロベロと俺の口元を舐めてきた。
一粒一粒を噛み砕いて、飲みこむ。
思えばマキマさん以外の食事は久しぶりだった。
文字通りの犬のエサだ。マキマさんと較べれば天地の差だ。だが、ティラミスに輝く眼で見つめられ、ニャーコに喉を鳴らされながらする食事は、不思議な満足感があった。
ひと通り食べると、みんなと一緒に眠った。暖かい毛皮に包まれて横になり、一日何もしないで過ごした。
初めてマキマさんを食べなかった日だった。
だけど、初めて寂しくない日だった。
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今日も犬たちと散歩に出た。ニャーコ用のリードも用意したので、一緒に散歩に出た。
朝の冷たい空気の中をみんなで連れ立って歩く。ニャーコは途中で歩くのをやめて、人の肩に乗ってきたので肩に乗せて運んだ。
「あら、今日は大勢ね」
婆さんが声をかけてきたので、自分から挨拶をする。
「おはようっす」
「はい、おはようございます。ねえ、聞いた。あの子がね――」
あの店員の話だった。
この間、店に行ったとき聞いたのだが、なんでも近く結婚する予定があり、引っ越すのでしばらくしたら店も辞めるそうだ。忙しくてランニングもしばらく休むから、俺によろしく、とのことだった。
「だから、今日は会えないかもしれないわね」
「そうすか……残念っすね」
「…………言いづらいんだけどね、私も――近く引っ越すの。関西に息子がいるって言ったでしょ……やっと決心したのよ」
胸の内を、冷たい風が吹き抜けていくような気持ちになった。
俺はその言葉を、なんといえばいいか知っていた。
「寂しいっす。すげえ、寂しい」
婆さんは笑った。目尻の涙をぬぐいながら言った。
「…………あなたはいい子ねえ。本当に優しい子よ。あなただけを残していくみたいで、本当に心苦しいんだけど……」
ウオン、ウオン、と犬たちが一斉に鳴いた。
ニャーコは鳴くかわりに、グリグリと俺の顔に頭を擦りつけてきた。
婆さんは眼を丸くして、大きな声で笑った。
「そうね、そうね……あなたたちがいるものね」
散歩の帰り道、部活の学生たちが群れを成して通り過ぎていった。
「……おはようっす」
通り過ぎる群れに小声で言った。何人かと眼があったので、目礼をした。
続けて、いつものように、小学生たちが群れで走り抜けていく。
「おはようございます!」「おはよう!」「ワンちゃん!」
突っ走っていく子供たちを見送り、その背中を見つめた。
背負っているランドセルが揺れて、中で跳ねたモノがガタガタと音を立てている。
騒々しい、活気そのものの姿に、何故だか眼を離せなかった。
学生たちの走り去っていくその向こうを、見通したくて眼を細めて見つめた。
「学校か――」
しばらく立ち止まっていた。
飽きた犬たちが声をあげてから、背を向けてようやく歩きだす。
あっちに行ってみてもいいかもしれない。初めてそう思った。
「…………今日は本屋でも行くかあ」
読める字が増やすか――そんなことを考えながら、ニャーコと犬たちと、一緒に帰り路を歩いた。