ラストスタリオン   作:水月一人

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世界渡りの儀

 翌朝、妻たちをプリムローズ城まで送った鳳は、いつものように朝食を家族で取って、いつものように家を出た。三人の妻が城門の跳ね橋の前まで見送りに来て、普通ならばその跳ね橋が降りてくるのを待つところだが、彼はいつものようにその前で振り返ると、

 

「それじゃ行ってくる」

 

 と言ってポータルを出してあっさりと飛んでいってしまった。それはこれ以上ないほど素っ気ない別れであったが、必ず帰ってくると約束した以上、いつものルーチンは変えたくなかったのだ。妻たちもいつも通り顔色一つ変えていなかったが、内心ではどう思っていたのだろうか……

 

 鳳はポータルから出ると、帝都の迎賓館の前でため息を吐いてしゃがみ込んだ。彼だって不安がないわけではないのだ。三年前はそこにジャンヌとギヨーム、それに堕天使たちという強力な仲間が居て、エミリアから授けられた救世主の能力と、更に帝国やレオナルドのサポートも得られた。だから、きっと何とかなるだろうと思っていた。

 

 だが、その仲間たちはもう居らず、今の彼はほぼ単身で未知なる世界に乗り込まねばならなかった。詳しい事情を知っているカナンが居ない状況では、上の世界でも救世主の力が使えるかどうかもわからなかった。本当なら、こんな慌ただしく出発することなどせず、いくらでも気の済むまで準備をしてから行けばいいだろうに、妻たちを悲しませてまで、彼はそうしなかった。

 

 それは三年前からそう決めていたからだ……何しろ世界を渡るなんてことは、いくら準備したところで十分なんてことは有り得ないのだ。なのにグズグズと出発を伸ばしたら、絶対に決心が鈍るだろう。それに自分には子供がいる。もしも一度行くのを躊躇してしまえば、それを言い訳にして動けなくなる可能性があった。

 

 それに恐らく、この世界はとっくに神に目をつけられている。次の驚異がいつ襲ってくるのかも分からないのだ。

 

 もちろんミーティアと約束した以上は絶対に帰ってくるつもりであるが、実際に何が起こるのか何一つ分かっていない現状では、この曖昧模糊とした気持ちを、どこにどうぶつけていいのか分からなかった。

 

「来たね、鳳くん……」

 

 だが、それはきっと残される人も同じだろう。少なくとも、鳳には行く行かないの選択肢があったが、彼女はどんなに望んでも、師匠を助けるために高次元世界へ乗り込むことは出来ないのだ。

 

 鳳が迎賓館の前でしゃがみこんでいると、ふっと人の気配が現れて、気がつけばいつの間にかそこにルーシーが立っていた。彼女は現在、帝都の宮廷魔術師になって、メアリーと共に鳳の世界渡りについて色々と骨を折ってくれていた。

 

 三年前、既に現代魔法の使い手として頭角を現していた彼女は、それからもメキメキと力を伸ばし、今では姉弟子のスカーサハをも超える大賢者と呼ばれるに至っていた。特に占星術師の迷宮を攻略して、この世の理を知った彼女は、空間を操る魔術師として無類の強さを誇っている。因みにその力にあやかろうとして、鳳も迷宮に挑もうとしたのだが、まるで歯が立たなかった。

 

 それ以来、現代魔法について鳳は彼女から学んでいた。尤も、あまり出来の良い生徒とは呼べず、彼女は向き不向きがあると言って慰めてくれたが、鳳はもしかすると純粋に自分の力だけで比較すると、意外とこの世界で一番強いのは彼女なのかも知れないと思っていた。

 

「お久しぶりです、勇者」

 

 そんな彼女の背後からスカーサハが現れた。彼女がここにいるのは、今日のために予めルーシーが呼んできてくれたからだった。

 

 3年前、帝国に請われてオルフェウス卿に就任した彼女は、普段はオルフェウスの首都に住んでいた。本当は新大陸に帰りたかったようだが、他に適任者が居なかった上に、うっかりオルフェウスの竪琴なんて物を継承してしまい、断れなかったのだ。

 

 以来、ヘルメス卿になったクレアとも何かと縁があるようだが、会う度に、探検団を率いて新大陸に渡ったヴァルトシュタインのことが羨ましいと愚痴っているようである。

 

 そんな彼女を呼び出したのは、正にそのオルフェウスの竪琴が必要だったからで、彼女にはこれから一緒に、とある場所までついてきてもらう予定だった。

 

「やあ、おはよう。ルーシー、スカーサハ先生。今日はよろしくお願いします」

 

 鳳は取り繕うようにさっと立ち上がると、二人と握手しながら通り一遍の挨拶を交わした。恐らく彼女らは、彼がポータルから出てくるなりへたり込んでいた姿を見ていただろうに、何も言わなかった。彼らはそのまま何事もなかったように迎賓館からすぐの皇居の正門まで歩いてきた。

 

 すると今日は珍しく通用門ではなくちゃんと正門が開いていて、正装をした護帝隊の隊士たちがズラリ並んで出迎えてくれた。きっと帝国としても今日のことは正式な行事と認識していると言いたいのだろう。この敷居をまたぐのは、魔王討伐の表彰をされて以来であろうか。ルーシーが先頭を進んで、鳳とスカーサハがその後に続く。

 

 門をくぐるとすぐにマッシュ中尉フェザー中尉の二人を連れたメアリーが待っていて、鳳を見るなり楽しそうに駆け寄ってきた。お付きの二人と比べて、こちらは大分ラフな格好である。

 

「ツクモー! 待ってたよ。それじゃ早く行こうか。高次元世界ってどんなとこだろ。楽しみだね」

「おはようメアリー、ついてきてくれと言っておいてなんだけど、なんか軽いな。死ぬかも知れないっつーのに」

「皇居の中で退屈で死ぬくらいなら、冒険で死ぬ方がずっといいわ。エミリアたちにはそういう冒険心がわからないのよ」

「まあ、悲壮感漂わせているより、そっちの方が俺も気が楽だけど」

「ツクモこそ気負いすぎなんじゃないの? 自分が世界を救うんだとか、そんな大それたこと考えてるんじゃない?」

「う、うーん……」

 

 そんなつもりはないと言いたいところだったが、ある意味図星でもあった。救世主だとか突然言われて、あっちの世界に行けるのも自分だけかも知れないと思うと、例えこれが友達を救出するために自分が望んだことであっても、妙にプレッシャーが掛かる気がするのだ。

 

「失敗したら今度こそ世界は終わりかも知れないって思ってるんでしょう? でも、失敗した後のことなんて考えても仕方ないわよ。成功して、ここに戻ってくることだけを考えていた方が良いわ」

「まあ、そりゃそうなんだけどな。あっちの世界に行って、本当にちゃんと力が使えるのかって思うと不安なんだよね。ケーリュケイオンも持ってけないし」

「そのために私がついてってあげるんじゃない」

 

 高次元世界に渡るにあたって一番の懸念は、こっちの世界と違ってあっちでは鳳の力が使えないかも知れないところにあった。

 

 おさらいになるが、この世界で彼が強い力を持っているのは、何もかも全て、1000年前にこの世界を救ったエミリアのお陰なのだ。

 

 1000年前に世界を救い、その後訪れた神の刈り取りに対抗しきれないと判断したエミリアが、その知識の集大成として帝都のP99を遺し、そして救世主として鳳白を復活させたわけだが、鳳がただの人間のはずなのに、神人を凌駕する力を発揮できる理由はそこにあった。

 

 と言うか、この世界の人間にレベルがあるのも、レベルが上がればステータスも上がるのも、実はエミリアの遺した遺産のお陰なのだ。

 

 元々、このレベルという概念は、誰も彼もが強い力を使えないように、リュカオンと戦う神人を統制するために作られたものだった。だから、普通に考えれば、これから彼らが行く高次元世界の人間には、そんなものは存在しないはずなのだ。

 

 そんなわけで3年前、カナンは世界渡りの際にはメアリーも必須だと言っていたわけだが、こうして準備を整えて、いざあっちの世界に行こうとしていても、その懸念はどうしても拭いきれなかった。本当に、あっちにメアリーを連れて行くだけで、鳳は力を取り戻すことが出来るのだろうか……

 

 とは言え、今更怖気づいても居られないだろう。仮に向こうに行って、何の力も使えなかったとしても、だったら行かないのか? と問われたら、彼は行くと答えるに決まっていた。

 

 それに3年前、この世界で目覚めた時、鳳は何の力も持っていなかったのだ。それでもなんやかんやで面白おかしくやってこれたのだから、今度だってなんとかなるだろうと、そう信じて進むしかない。

 

 自分を鼓舞するようにそんなことを考えながら、メアリーに先導されて鳳は皇居の中を進み、ついに禁裏の召喚の間へと辿り着いた。彼が勇者召喚で呼び出された、ある意味はじまりの場所である。

 

 その部屋の中央に設置された台座の上には、今は一部分が欠けた水晶玉が置かれていた。それはレオナルドの寝室で発見されたもので、3年間の調査の結果、レオナルドの迷宮そのものであることが判明していた。

 

 本来なら、彼の迷宮はもっと違う形でこの世に顕現するはずだったのだろうが、あの状況で無理矢理世界を元に戻した影響で、どうやら聖遺物(アーティファクト)が壊れてしまったようだった。この水晶玉の中には、今も彼が作り上げたこの惑星の分身、アリュードカエルマ世界があの時のまま残っている。あの時のままとは、つまり世界に第5粒子エネルギーが溢れ続けているという事である。

 

 この中は高エネルギーの海で満たされており、何の対策も取らず無防備に突入すれば、ものの数秒で全身が焼けて死ぬことになる。というか最初、鳳はルーシーの開いたポータルを使って中に入り、危うく死にかけた。それ以来、彼らはこの世界を探索するための方法を探して、世界中の迷宮を攻略していたわけである。

 

「勇者様、ようこそおいでくださいました。この度は勇者様と真祖様がこの世界をお救いになる旅に出られるというのに、我々は何の力にもなれずに申し訳ございません」

 

 その台座の前では皇帝が待っていて、いつもとは違う儀式めいた衣装を身に着けていた。帝国の式典や、勇者召喚の儀式の時にも着ていたものだが、この日のためにわざわざ正装に着替えてきてくれたようである。それくらい、帝国も全面的に協力しているという気持ちを表しているのだろう。こっちは大事な真祖を連れて行こうと言うのに、有り難い限りである。

 

 皇帝はいつもより厳かな調子で言った。

 

「世界渡りの儀に関しては、今回私には何も出来ませんが、もし万が一あちらの世界でお二人が命を落とされた時は……この召喚の間にて、勇者召喚の儀を執り行わせていただきます。ただ、お分かりでしょうがその時はもう、恐らく今の勇者様の記憶は無くなっていると思われます。まだ、新婚と言っても差し支えもない時期に、本当によろしいのでしょうか?」

 

 彼女はこれから高次元世界へ渡るという鳳に、最終確認のつもりで尋ねているようだった。もちろん、そんなこと、今まで幾度となく考えてきた彼は、力強く頷くと、

 

「ええ、仮に新婚だろうと、銀婚式を迎えていようと、この世に未練が残るのは変わりません。それに、俺は別に世界を守るために行くわけじゃありません。居なくなった友達を探しに行くんです。自分のためなのに、気を使われてはかえって恐縮してしまいますよ」

 

 皇帝はそんな彼の言葉にじっと耳を傾けた後、一行に道を開けるように台座の前から離れた。ここから先、自分にはもうやれることはないと言うことだろう。

 

 入れ替わりに、宮廷魔術師となったルーシーが前に進み出て来て、鳳に向かってというよりも、その場にいる人々全員に説明するように、これから始める儀式の内容を話しはじめた。

 

「それではこれから、勇者鳳白様、真祖ソフィア様、オルフェウス卿スカーサハ様、そして私の四名で、この水晶の中の世界……アリュードカエルマへ突入します」

 

 その言葉を合図に、鳳たちがルーシーの前に歩み出る。彼女をそれを待ってから、

 

「突入後、我々は空間に満ちている第5粒子をかき分けて、あちらの世界に残されている『アロンの杖』を奪還し、勇者様、真祖様の二名はその場から高次元世界へ渡ります。その後、私とスカーサハ様の二名はケーリュケイオン、アロンの杖の二つの聖遺物を回収してここへ戻ってきます。手順は以上です。何か質問はありますか?」

 

 彼女の言葉にその場の全員が沈黙で答えた。ルーシーはたっぷり一分ほど待ってから、鳳、メアリー、スカーサハの三人に確認するように頷くと、

 

「ではこれより、世界渡りの儀を執り行わせていただきます」

「勇者様、真祖様……お二人がご無事であるよう、ここでお祈りさせていただきます。ご武運を」

 

 皇帝の言葉を合図にルーシーがポータルを作ると、鳳は感謝の言葉を彼女に返してからその中へと入っていった。

 

 ポータルの出口は光の海の中だった。360度見渡す限り真っ白な光しか見えない空間で、自分が立っている地面が辛うじて見える程度だった。

 

「ケーリュケイオン!」

 

 このままここに佇んでいたらあっという間に焼かれてしまうから、鳳は大慌てで杖を使って周囲のエネルギーを吸い取り、4人が入れるだけの隙間を作った。続いてポータルからスカーサハが出てきて、すぐにその隙間を抑えてくれた。彼女の竪琴は、高次元からくる攻撃をなんでも弾いてくれる。オルフェウスの竪琴の支援が無ければ、鳳だけではそう長くは持たないのだ。

 

 そうして二人が空間を確保した後に、メアリーとルーシーがやってきた。術者がポータルを潜り抜けたことでそれが閉じ、いよいよこの世界とあちらの世界は別々の空間となった。あっちに戻りたければ、ルーシーと逸れたら一巻の終わりである。

 

 尤も、言うまでもなく、鳳にはもうあちらに戻る意思は無かった。目指すはただ神の世界、高次元世界に消えた仲間たちを救出するのだ。

 

 そして4人は眩いばかりの光の海の中を一歩一歩確かめるように歩き始めた。地面は砂漠のようにサラサラの細かい砂で覆われており、道標になるようなものはどこにも見当たらなかった。仮にあったとしても、この世界は空間そのものが壊れてしまっており、目印なんて何の役にも立たなかっただろう。この中を迷わず進むには、ただ空間という認知そのものを感じ取れるような素質が必要なのだ。そしてそれは占星術師の迷宮を攻略したルーシーの役目だった。

 

 精神世界のことは、鳳もこの三年間でどうにか少しは感じ取れるようになってきたが、まだまだルーシーには遠く及ばなかった。一行は彼女を先頭に、まるでジェンカを踊るように一列になってじわじわと進んだ。

 

 そしてルーシーは何かを探すように時折立ち止まりながら、一歩一歩ゆっくりと歩いていき……

 

「……あったよ」

 

 と、アリュードカエルマ世界に来てから数分後、彼女はあっさりとそれを見つけてしまった。3年前、カナンが残していったアロンの杖である。

 

 彼は高次元世界に消える際に、落ち着いたら追いかけてきてくれとこれを残していった。あれからこんなにも時間が流れてしまったが、彼はまだ無事なのだろうか……

 

 ルーシーが杖を回収し、その機能がまだ健在であることを確認する。それをメアリーが受け取って鳳の方へと振り返った。

 

 鳳がそんな彼女の下へ行こうとした時、竪琴を持つスカーサハがやってきて何かの袋を差し出した。

 

「勇者、これをどうぞ……」

「これは?」

「この中に私の髪の毛が入っています。確かカナンの話では、DNAを持ち込めさえすれば、私たちもあちらに転生することが可能とのことでした。ケーリュケイオンに取り込んでおいて、もし仮にあちらで私たちを呼び出す機会があれば、遠慮なくそれをお使いください」

「……ありがたく受け取っておきます。出来るだけ使わないようにしたいですけど、何があるか分からないんで、その時はよろしくおねがいします」

 

 スカーサハがニコリとした笑みを返して一歩下がる……入れ替わりにルーシーがやってきて、同じように袋を差し出してきた。

 

「私は特別に下のお毛々を……」

「よし、捨てよう」

「わー! うそうそ! ただの髪の毛だから、ちゃんと持ってってよ」

 

 鳳が、こんな時に仕方ないやつめと苦笑いしていると、彼女は鳳の胸に額を当てながら、ぎゅっと腰に抱きついてきた。

 

「鳳くん……これが今生の別れになるのは嫌だな。だから絶対に帰ってきてね?」

「うん」

 

 鳳が短く答える。ルーシーはまるで猫が自分の匂いをつけるかのように、彼の胸に何度も何度も額を擦りつけていた。

 

 もしかして泣いているのだろうか……? 鳳がそんな彼女になんて声を掛ければいいか分からずに黙っていると、やがて彼女はいつものように、誰もが振り返るような清々しい笑顔をみせて、

 

「……あっちで新しい体を手に入れたら、また処女が抱けるかも知れないよ? だから一日も早く、私のことを見つけてね?」

「君……本当にどスケベだよね。流石にお兄さんも、そんな発想はなかったよ」

 

 二人は小鳥のように、ちょんと短いキスをしてから、

 

「でも、すんごいやる気が出た。だから……頑張ってくるよ」

「うん、頑張ってね……」

「じゃあ……いってくる」

「いってらっしゃい」

 

 鳳がアロンの杖を持つメアリーのところへやってくると、二人のそんなアツアツな姿を見せつけられた彼女はほんの少し顔を赤らめつつ、

 

「もう……そう言うのは二人きりの時やってよね!」

「ごめん、これからは気をつけるよ」

 

 まあ、これからがあるかどうかも分からないのであるが……鳳はそんな言葉飲み込んで、

 

「それじゃあ、いこうか? メアリーはやり残したことはないかな?」

「ううん、何もないわ」

「……なんなら、今日は中止して、また今度でもいいんだよ?」

 

 鳳がしつこく念を押すと、メアリーはうんざりといった感じに肩をすくめて、

 

「大丈夫だって。ツクモの方こそ、今更怖気づいたりしてないでしょうね?」

「流石にもうそんなことは無いけどさ、なんつーか、君まで巻き込んでしまったことが申し訳なくて。本当なら、君は俺と違って、こっちの世界で面白おかしく暮らしていてもいいはずなのに……」

 

 鳳が最後の最後でそんな事を言いだすと、メアリーは少し怒った感じに顔を上げて、

 

「あのさあ、ツクモ。あなたは何でもかんでも自分の責任みたいに言うけども、元はと言えば、この世界にあなたのことを呼び出してしまったのは、私なのよ? そして、忘れているかも知れないけれど、地球でオンラインゲームをしていた時も、そしてこっちに来てからも、ジャンヌはずっと私の親友だったのよ。その親友を助けに行くことに、後悔なんてあるわけないでしょ?」

「そっか……そうだったな」

「あなたと私は同じなのよ。エミリアに作られて、この世界の宿命を背負わされた。それでいいじゃない。3年前、私たちはこの世界を救った。今度はあっちの世界に行って、みんなを救いましょうよ。私たちにはそれが出来るわ」

 

 メアリーの、カラッと乾いた言葉が胸に染みた。あーだこーだと考えていても、結局は行ってみないと何もわからないのだ。そしてもう、行く決心はとっくについていた。

 

 鳳は大きく深呼吸してから、最後の確認をするかのように、右手にケーリュケイオンを持ち、左手をメアリーの持つアロンの杖に添えて、彼らの方をじっと見守っているルーシーとスカーサハの方を向いて、両足で力強く地面を踏みしめながら言った。

 

「それじゃあ、行ってきます」

 

 そんな彼の緊張を解すかのように、ルーシーとスカーサハは笑顔で手を振る。

 

「アロンの杖よ、俺たちを導いてくれ!」

 

 鳳がそう宣言するや、彼の体が徐々に透き通ってきた。遅れてメアリーが宣言すると、二人の体はどんどん透明になり、そして呆気ないほど簡単に消えてしまった。

 

 程なく、鳳が持っていたケーリュケイオンとアロンの杖が地面に落ちて、ルーシーはその二本の杖を回収すべく駆け寄った。最後の瞬間、彼が何かを言っていたように見えたが、その声は聞こえなかった。多分、またねとか、そんな軽いものだろうと思う。

 

 でも、そんな簡単な言葉さえも、もう彼の口から聞くことが出来ないのかも知れないと思うと、彼女はどうしようもなく泣けてきた。ポタポタとした滴が地面に落ちて、乾いた大地に吸い込まれて、あっという間に消えていく。

 

「ルーシー……私たちも退避しないと、ここはすぐに火の海です」

「分かってます……分かってますよ、先生」

 

 彼女は涙を拭って立ち上がると、それがまた零れないように空を見上げた。しかし、そこには青い空は無く、ただ白い空間が広がっているだけだった。

 

 もし、神がいると言うなら、神は世界をこんな風に変えて、一体何がしたいというのだろうか? 幾千万の世界を創造して、そして幾千万の世界を滅ぼして、人間を創造し、文明を与え、時には奇跡を授けたり、希望を与えたりした末に、どうして我々人類の、そんな些細な喜びすらも刈り取ろうと言うのだろうか。

 

 もし、本当に神がいるというのであれば、どうか彼の言葉を聞き届けて欲しい。我々はただ生きたいだけなのだ。生き続けたいだけなのだ。

 

*********************************

 

 人が全く存在しないアマゾンの奥地で、今、一本の大木が根本からポッキリと折れた。この時、木が倒れる音はするか、否か?

 

 答えは否だ。観測者がいない限り、その音は存在しない。音というのは空気の振動が伝わって、それが観測者の鼓膜を揺らした時に、脳内で起こる知覚のことなのだ。だから、聞く者がそこにいなければ、そこには大木が倒れたという現象が起きただけで、音は存在しない。音というのは、人間一人一人の、頭の中にだけ存在する物なのだ。

 

 だが、もしも神がいるなら話は別だ。天網恢恢疎にして漏らさず。神は全ての現象の観測者でもあるから、アマゾンの奥地で大木が倒れた音も、ちゃんと聞いているはずである。本来だったら有り得ない現象が存在することになる。この世界は、そうして創られた。神がいるから、この世界は存在するのだ。

 

 私たちが隣の人に耳打ちした、その聞こえないくらい小さな囁きも、神には全て聞こえている。例え黙して語らずとも、その脳内で考えていることは全部お見通しだ。

 

 そんな存在に、どうしてたかが人間ごときが挑もうというのだろうか。

 

「……ュー……キュー……シーキュー。こちら……プロテスタント……」

 

 ぼんやりと意識が戻ってくる。暗い部屋だ、でも見えなくはない。何かの非常灯のようなランプが光っている。もしくは電源ランプだろうか? 身動きが取れず、体は宙に浮いているかのように、信じられないほど軽かった。どうやら自分は何か箱の中にでも入っているようだ。

 

「繰り返す……鳳白、応答せよ……」

 

 薄ぼんやりとする意識の中で、何かの音が聞こえていた。そのザラついたノイズはラジオだろうか? 電波状況は悪いらしい……内容はよく聞き取れない。だが、その中で自分の名前が呼ばれたような気がする。

 

「……我々プロテスタントは失敗した。カインは逃げ、サタン、ベルゼブブ、アシュタロスは処刑された。ジャンヌ・ダルク、ビリーザーキッドの両名は大罪人として捕らえられ、処理された。神はアナザーヘブンをそのまま泳がせ、鳳白を捕らえようとしている。あなたが来るのを手ぐすね引いて待っている」

 

 また眠気が襲ってきた。どうやらはっきりしないのはその内容ではなく、彼の頭がまだ覚醒しきっていないからだ。彼はともするとまた眠りに落ちてしまいそうな中で、その音をぼんやり聞いていた。

 

「もし、この音声を聞いているなら、こっちへ来ては駄目だ。今すぐ引き返しなさい。もし、それでもこちらの世界に来てしまったのなら、もうそこは危険だから、すぐに逃げなさい。ドミニオンが放たれ、あなたを処分しにやってくるだろう。だからすぐに逃げなさい」

 

 その緊迫するラジオの声が告げる。

 

「シーキュー、シーキュー、シーキュー……私はエミリア・グランチェスター。我々は失敗した……鳳白、応答せよ!」

 

(第一部・完)


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