約束の日、貴樹はアラームよりも随分早く起きた。この後、数時間後には明里と会う予定だ。でも本当に会えるかどうかはわからない。
明里が自分の意思で来ないとは思はない。でもこれまで、同じ中学に受かっても親が引っ越したり、会おうとしても大雪に邪魔されたり、十数年ぶりの再会はすれ違っただけで、電車の通過に邪魔され視線を合わせることすらできなかった。
今回もなにか不思議な力が働いて、きちんと会うことができない気がする。
文通が途絶えたのは貴樹と明里のせいだからあれは仕方がない。とはいえ、もし中学高校時代、貴樹が東京で暮らせていれば、ああもあっけなく文通が途絶えることはなかったと思ってしまう。
今回も、例えば明里が関西にいたら、佐々木が連絡先を仲介してくれても会うことは無かったと思う。例えどんなにツールが発達しても、物理的な距離は心理的な距離に影響を与えるに違いない。
通勤ラッシュにはまだ早いはずなのに、思いのほか混雑した山手線で、そんなことを貴樹は考えていた。
電車だと距離が短いから、あっという間に池袋に着いた。約束の喫茶店はすぐに見つかった。あらかじめ調べておいた開店時間を過ぎたばかりで、幸いまだ空いている。入り口が見える場所で、楽なソファ席を貴樹は占拠した。明里との約束の時間までまだ3時間近くある。貴樹は店で一番大きなサイズのコーヒーをテーブルの脇において、ノートパソコンを取り出した。どうせなにも考えられないのならせめて仕事をすることにした。
貴樹は思ったよりも仕事に没頭することができた。区切りのいいところで、一旦データをセーブして手を休めてコーヒーを口に運ぶ。
ふう。
仕事がうまくいった充実感を感じながら一息つくと、一人の女性が喫茶店の広い窓からこちらに向かっているのが見えた。
明里だ。やはりあの踏切ですれ違ったのも明里だ。まだ約束の時間より1時間以上も早い。
貴樹は急いでカバンにノートパソコンをしまうと、明里が店に入ってきてあたりを見渡しているのに気が付いた。そして貴樹に気が付いたのか二人の目が合う。それだけで貴樹の脳裏を、小学生の葵と中学生の葵が駆け巡る。
なんとか右手を上げて明里にアピールする。明里がうなずいたあと店のカウンターに並ぶ。その間にノートパソコン以外の資料を片付ける。後ソファ席は明里が座ったほうが楽だろう。貴樹は自分とその荷物を反対側の座席に移動させる。
こちらの座席に座るとカウンターが、明里が見えない。明里がもし帰ってしまっても、貴樹はそれを追いかけることができない。貴樹はじりじりしながら明里が来るのを待った。
先ほどまで貴樹がノートパソコンを広げていたところにコーヒーが置かれた。
「貴樹くん、久しぶり」
「久しぶりだね、明里」
貴樹は自分の声が自然に出たことにむしろ驚いた。そして自分の向かい側の席に腰かけた初恋の女性をしばらく見つめ続けた。
しばらく無言の時間が過ぎる。でもこの無言の時間が僕には必要だ。周囲のサラリーマンたちが、一人、また一人と席から立ち上がるのを視界の端で捕えながら時が流れるのを感じる。だが何を伝えたいことと伝えなければならないことは違うし、それをどう言葉にすればいいのか貴樹にはわからない。
そしてその間、明里も貴樹を見つめたまま無言だった。明里もなにを話せばいいのかわからないのかもしれない。
「いまさらだけど、明里って呼んでいいかな?」
明里がうなずいてくれる。昔と多少違うけど、それでもあの頃の明里の仕草が残っている。
「私も貴樹くんって呼ぶね。あの頃みたいに」
それだけで貴樹はほっとした。
「ありがとう。あのさ、岩船の駅で話をしてから、随分いろんなことがあったから、なにから話せばいいのかよくわからないんだ」
明里はうなずいた。
「わかるよ。私も今同じ状態だから。本当にいろんなことがあったから、何から話してよいのかわからない」
いきなり、中1の時の大雪の岩船での一夜の話をするのも、途切れた文通の話をするのも、春にすれ違った踏切の話をするのも、かなりデリカシーに欠ける気がする。
一方で、自分が精神的に破綻して会社を辞めたことや、あるいはアメリカへ行こうと考えていることから始めるのも違う気がする。やはりまずは無難な話から始めるのがいいのだろう。
例えば今、小学校時の別の友達に会ったとしたらどうだろう。
元気? 今何やってるの? どこに住んでるの?
そこから始まって、そのまま会話が終わってしまう。明里とそんな会話をしただけで帰りたくはなかったけれど、そのあたりから始めるのが無難なのだろう。いや、もう一つの会話の切り口として共通の友人の話がある。今回仲を取り持ってくれた佐々木だ。そこから話を広げていけるのではないだろうか?
だが貴樹が会話を始めようとした時、明里の方から話しかけてきた。
「この前は逃げてゴメンね」
貴樹は少し混乱したが、この前というとあの踏切しか思いつかない。葉書の件だと「逃げた」につながらないし。ただ、いきなり明里が核心に踏み込んできたことに少し驚いた。
「えっ? この前の春のこと? あれは……残念だったけれど、正直に言うと少し救われたところもあるんだ」
「救われた?」
貴樹は言葉を選びながら話そうとするがうまくいかない。
「僕は今の明里の状況を良く知らない。それに、僕のあの時の感情を言葉で説明するのはとても難しい。それを無理やり簡単に取り出すと、あの時の明里はとても幸せそうに見えた。だから明里は大丈夫なんだな、って思ったんだ」
明里の表情が少し暗くなったのがわかった。どうやら貴樹の言葉の選択は間違っていたようだ。
「あの頃の僕はちょうど自分を立て直そうとしているところだった。冬の初め頃、3年間付き合った彼女と別れ、新卒で入った会社も辞め、何か月か僕は引きこもり生活をしていた。そしてようやくフリーのプログラマーとして仕事を始めたばかりの頃だった。ああ、違う。こんな話をしたいんじゃない」
貴樹は自分の頭を掻きむしった。
「本当はもうちょっとお互いの今の状況を確認してから、話さないといけないことだと思うんだけど、先に今日一番言いたいことを言うことにする。僕は明里のことが好きだ。小学校の時から、ずっと今も明里のことが好きだ。明里に妄執したまま、他の女性と付き合っては不幸にし続けた。明里を守るために強くなろうとして、挫折し続けてきた。そして明里自身にも僕はなにもできなかった。それが今の僕だ」
貴樹は一気に自分の言いたいことを言いきって荒く息をついた。周りのサラリーマンがちらちらとこちらを見ていた。失敗した。一番ダメな自分をさらけ出してしまった。
少しの沈黙の後、明里が荷物をまとめて席から立ち上がろうとしていた。そりゃ帰るよな。今の僕を相手にするのは誰だって嫌だと思うだろうと貴樹は思った。
「貴樹くん、これから公園かどこかに行かない?」
明里の表情は寂しげで、不安そうに見えた。貴樹は自分の荷物をまとめ明里と一緒に店を出る支度をした。