コーヒーを片手に持ったまま、明里は貴樹くんと並んで歩く。明里にとって重要なのはただ一つ、貴樹くんが私をまだ好きだと言ってくれたことだ。それについてどう返事をすればいいのか、明里は言葉を選ぼうとしたがやはり難しい。もう自分の気持ちをそのまま伝える以外の方法はないのだと思う。
駅前の広場の前の赤信号で、明里は貴樹くんに話かけた。
「貴樹くん。さっきは私のことを好きだって言ってくれてありがとう。でもね、私の方はとてもひどいんだ」
貴樹くんが明里を見つめる。
「文通が途絶える前から、貴樹くんのことをどうやって思い出にしようかとずっと考えていたの。だから、大学に入って好きな人ができた時に、貴樹くんのことはもう思い出にできたの。その大学の時の恋は一方的な私の片思いに終わってしまったけれど」
信号が青に変わったので、明里は横断歩道を渡る。貴樹くんが明里のすぐ横にいてくれる。
「もう3年ぐらい前かな、取引先に感じのいい人がいて、その人と仲良くなったの。そしてプロポーズされて、今年の1月にその人と結婚したの」
駅前の広場で空いてるベンチを探して、貴樹くんと並んで座る。
「幸せな結婚生活だったよ。でもね、春に貴樹くんと踏切ですれ違ったでしょう? さっきも言ったけど、私あそこから逃げ出したの。子どもの頃の貴樹くんとの想い出が一気に溢れてきて、踏切に留まることができなかったの。ゴメンね」
そう言って、明里はここに来るまでに冷えてしまったコーヒーを一気に飲み干した。
「その後の私については、もう思い出したくないの。とにかくあれから1カ月と少しで、私たちは離婚に至ったの。職種も変えてもらった。それは貴樹くんのせいじゃないよ。さっき喫茶店で貴樹くんは自分のことを卑下していたけれど、私はもっと馬鹿だったってだけ。結婚までしてから、貴樹くんを思い出にできていなかった自分に気が付いたんだから。私は今の貴樹くんのことをほとんど知らない。それなのに貴樹くんのことが今も好きだよ。それが今日、私が今日一番言いたかったことなの」
貴樹くんが私を見ている。お互いに自分の想いを伝えあったはずなのに。想いが通じ合ったはずなのに、貴樹くんの顔は寂しげだ。
「明里、ゴメンね。そしてありがとう」
多分私も同じような顔をしているんだろうと明里は思った。
「ううん、こちらこそ。だからね、今日は私が知らない貴樹くんのことをいっぱい教えて欲しいな。そして貴樹くんが知らない私のことも知ってほしい。今日は私は仕事はお休み。貴樹くんもまだ時間あるよね?」
明里の問いかけに、貴樹くんは少し困ったような顔をした。午後から用事があるのかな?
「今日は何も予定を入れていないよ。でも3カ月もしたらまたアメリカに行くことになっているんだ。そうなったら今度は年単位で日本に戻らないと思う。だから今日できるだけ話をしよう。そして明里が休みの日は全部教えて欲しい。この3カ月でできるだけ僕のことを知って欲しいし、明里のことを知りたい」
明里は驚いた。貴樹くんがあと3ヶ月でアメリカに? そしてもう何年も戻ってこない?
東京と栃木、その距離は中学生の明里と貴樹には遠すぎた。
栃木と種子島、その距離は高校生の明里と貴樹には遠すぎた。
東京とアメリカ、その距離は大人になった明里と貴樹にも遠すぎる。
「たった3ヶ月しかないの? せっかくこうやって再会したのに、3カ月後にはまた思い出にしなければいけないの? どうして?」
貴樹くんがゆっくり、優しく話しかけてくる。
「明里、その3カ月のうちに決めないといけないことがあるんだ。まずは、明里が僕がこの後も一緒にいるかどうかを決めて欲しい。僕はさっき聞いた話でしか今の明里を知らない。でもこの後はずっと一緒にいたいと思っている。明里もこの3ヶ月の間にそれを決めて欲しいんだ」
「それならもう答えは出てるよ。貴樹くんとずっと一緒にいたいと思っている」
明里は反射的に自分の口から出た言葉に驚いた。これってプロポーズの返事だよね。
「そんなに簡単に決めない方がいいと思うよ。僕はこれまで、いろいろ女性にはひどいことをやってきたからね」
「私なんか夫をむごい目に合わせたよ」
明里は苦笑いで答えた。
「とにかく一緒に話をしよう。そしてもし今後も一緒にいることになったら、後はどちらに合わせるかの話をしよう。今回僕がアメリカでもらう仕事はとても魅力的だけど、もちろん日本にも愛着があるんだ。僕が先方に断って日本に残ってもいい。そして明里がもしその気になったなら明里と一緒にアメリカに行くのもいい。まあそれはちょっとあちらの会社、というか誘ってくれている組織に相談が必要だけど」
そう言って貴樹くんが今日初めて微笑んだのを明里は見た。
3カ月後、貴樹くんがアメリカに行く直前にふたりは入籍した。明里の再婚禁止期間の問題があったからだ。それから1カ月で明里は務めていた書店を辞め、さらにその1カ月後には一人、成田空港でサンフランシスコ行きの飛行機に乗り込んだ。目的地の空港では貴樹くんが待っていてくれるはずだ。
成田からサンフランシスコまでは8000キロメートル以上距離がある。それを飛行機は時速900キロメートルでたった9時間ぐらいで飛ぶ。明里の想像を超える速さだ。
「もうすぐこちらでも桜の季節になるよ。だから一緒に見に行こう」
夫とはそう約束している。その時明里は、この飛行機が飛ぶ距離を桜の花びらが移動するにはどれだけ時間がかかるんだろうかと考えた。秒速5センチメートルを時速に直す。手元の紙で計算すると、たった180メートルしかいかない。そのまま計算を続けると1年間でもたった36キロメートルにしかならない。あれっ。どこかで計算間違っているよね。でもこれが合っているとすると東京の桜の花びらがサンフランシスコに届くまでには250年もかかってしまう。
まあそれでもいいや。明里はペンを置いて寝ることにした。次起きたらもうアメリカが近い、そして空港のゲートをくぐったら貴樹くんが待っているはずだから。
完
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
ところで再確認したら、秒速5センチメートルだと年速は1500キロメートルを越えますね。6年あれば太平洋を超えることができます。でもタイトルはこのままにします。
また再婚禁止期間は、2016年までは6カ月でした。