年速36キロメートル   作:多手ててと

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02.タカキ君

明里は足早に踏切を去った。あれは貴樹君だ。もう13年も前の思い出の中の人の名前が、明里の頭の中で何度も響き渡った。明里はまだ結婚してまだ1ヶ月と少しの新婚で、つい先程まで新妻気分に浸りながら散歩を樂しんでいたのが、嘘みたいに動揺している。心臓がドクドクと動いているのがわかる。これはただ小走りで移動したことだけが原因ではない。

 

先ほど通過した踏切、あそこで気が付いてしまった。婚約を決めた時から、結婚生活を過ごしている今までの間、ずっと胸の奥底に引っかかっていた忘れ物に気がついてしまった。

 

どうして私は余裕を持った表情で、懐かしいねと、踏切の向こうに微笑みかけることができなかったのか、その理由に気がついてしまった。

 

『秒速5センチメートルなんだって』

 

明里の脇を散りゆく桜の花びらを見て、遥か昔、小学生の自分が言った言葉が頭の中に甦る。

 

いや違う。貴樹君は小学生だった時に仲の良かった男の子。中学の時、初めてのキスをした男の子。それはもう遥か遠くの思い出だ。今の彼はただ懐かしい数々の思い出の一つにすぎない。

 

そう、貴樹君はもう思い出の中だけの人だ。私の人生は夫となった人と添い遂げるものであって、先ほどすれ違った彼はただの幼い頃の甘酸っぱい思い出の残骸に過ぎない。

 

明里は頭の中で何度もそれを繰り返し、こういった時には必ず意識的に行ってきた、いつものように自分の中のスイッチを切った。これでもう自分は大丈夫。冷静に判断ができるはずだ。さっさと電車に乗って自宅に戻ろう。

 

それなのに、まるで子どもがするイタズラのように、なにかが明里のスイッチを勝手につけようとする。

 

さっきすれ違ったのは貴樹君。きっとこの近くに住んでいるか、仕事場が近くにあるはずだ。

 

ダメ。これ以上考えたらダメだ。スイッチを消して何か他のことを考えよう。

 

スイッチのONとOFFが何度も何度も急速に切り替えらる。照明が激しく明滅するような不快感が明里の心をもてあそぶ。

 

だが、しばらく明滅を繰り返した後、スイッチは壊れてしまった。明里の中で何か大事な物が、明里の孤独だった中学時代から彼女をずっと支え、守り続けてくれていた大切なものが壊れて動かなくなった。

 

明里の中には感情のスイッチがあった。それがオフの時、明里は冷静に行動することがてきた。そしてスイッチがオンになれば、積極的に行動することができた。これは遠い昔、この世界の奇跡に触れた時に手に入れたものだ。そのスイッチが中途半端な状態で、自分で思ったとおりには動かせなくなってしまった。

 

その後はどこにも寄らずに明里は自宅に戻った。駅で、電車の中で、このどこかに貴樹君がいるかもしれないと、不安そうにあたりを見渡す自分は、さぞ不審だったに違いない。

 

『ねえ、まるで雪みたいじゃない』

 

またあの頃の自分の声が頭の中で響く。耳を押さえながら、街のあちこちで咲き誇る桜も見ないで、足早に家路を急いだ。マンションに飛び込んで扉の鍵をかけてから、明里は大きく息を吐いた。ここにいれば何も怖くない。これでひとまず大丈夫。

 

明里は紅茶を入れて、とっておきのフィナンシェを取り出してきて自分の口に運んだ。甘さが口の中に広がる。休日出勤した夫はまだまだ帰って来ないだろう。今日は少し贅沢な夕飯を作ろう。これで私はもう大丈夫。明里はそう思った。

 

 

 

「タカキ君って誰?」

 

夫の冷たい声に明里の眠気がどこかに行った。

 

 

休日出勤なのに遅い時間に帰ってきた夫の祐一に、明里はいつものように振る舞うことができた。もう遅い時刻になっていたが、腕によりをかけた料理も喜んで食べてくれた。

 

「こんな時に納品ができなくなるなんて困るんだよな」

「私の同僚も愚痴をメールでこぼしていたわ。担当が私じゃなくて良かった」

 

明里は大手の書店のバイヤーで、祐一は出版社の営業マンだ。職場は違うが業界は同じ。こうして普段通りの夫婦の会話ができている。

 

料理を作るのは明里、そして片付けるのは夫の祐一の役割分担となっている。祐一が片付けをしている間、明里は風呂に入り、入念に体を洗った。まだ新婚、でも今日は遅いし、明日は月曜日。また一週間が始まる。

 

風呂を出ると、台所は綺麗に片付けられていた。寝る前だからミルクを少しだけレンジで温めて飲むことにした。

 

「もう遅いから、今日はこのまま寝てしまおうか」

 

祐一のその言葉に明里は安心してしまったのかもしれない。

 

「そうしよっか、貴樹くん」

 

明里は自分が発した言葉に違和感を感じることができず、レンジから出した生暖かい牛乳に口をつけた。

 

「じゃあ私は先にベッドに行くから、ゆっくりお風呂に入ってきてね」

 

そう言ってその場から去ろうとする明里を祐一が呼び止める。

 

「タカキ君って誰?」

 

祐一の冷たい声を聞いても、すぐには明里は気がつかず、少し間が空いてから、ようやく自分の失言に気がついた。

 

「えっ、それはね。その、えーっと、私がまだ小学校の時にね、仲が良かった男の子の名前だよ」

 

自分でもおかしなぐらい、うろたえながらなんとか明里は言葉を返した。

 

「そうなんだ」

 

幸いな事に、夫はそう言った後、そっぽを向いて風呂へと向かった。明里は寝室にフラフラと入った。もうだいぶ季節は進んだはずなのに、冬布団(ふゆぶとん)が随分と冷たく感じた。

 

そして唐突にここ10年以上感じたことの無い孤独感が明里を襲った。

 

そうだ、あの奇跡の瞬間から、明里は何か優しいものにずっと守られていた。人間関係が上手く行かない時に、何もかもから逃げ出したい時に、いつでもそっと隣にいて痛みを分かち合ってくれる存在があった。

 

その優しい存在もまた、気がついた時にはいなくなっていた。それは祐一の求婚を受けた時には既に消えていたのか、結婚した時に失ったのか、今日あの踏切で落としてきてしまったのか。それすらもわからない。

 

明里はあの懐かしい優しさに哀願した。中学校でクラスで孤立した時も、高校で人間関係をこじらせた時も、私が苦しい時はいつでも優しく私を慰めてくれたじゃない。助けて。今すぐに私を助けて。

 

明里はなかなか寝ることができなかった。そして、同じ家にいるはずの夫も日が変わってもなかなか寝室にやって来なかったが。夫がベッドに入ってきた時、明里はなんとか寝ているふりをした。だが、夫から酒の匂い漂うのを感じた。

 

同じベッドの上で、明里に背を向けて横になった夫を見て、明里は迷った挙げ句、夫に抱きつこうとした。人には誰かにすがらなくてはいけないことがある。だが夫は面倒くさそうに明里の手をはねのけた。




明里の夫の名前はコミカライズ版に出てきます。

明里の中にある、「切り替え可能な感情のスイッチ」の話と、「彼女と痛みを分かちあい、守り続けてくれる存在」については、小説「秒速5センチメートル anothere side」に出てきます。大学生の明里はそれらの「生きるために必要な力」を貴樹から奪ってしまったのではないか、と危惧していたのに、結婚後は「ずっと昔の素晴らしい体験から得た」と表現されています。意図的に表現を変えているのだと思いますが、この違いは大きいと思いました。

その一方で幸せな結婚生活の中でも、「大事な約束を忘れている」、「誰かの大事なものを借りたままにしている」とも表現されています。

当たり前ですけど、人生って難しいですよね。
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