年速36キロメートル   作:多手ててと

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03.カレーを作る

夜桜を楽しんだ後、貴樹は自宅兼オフィスに戻ると、郵便受けに荷物の不在者票が入っていることに気が付いた。長野の実家からの荷物のようだ。たまに出かけた時に限って、親からの荷物が届くことが多い気がする。明日店に電話して届けてもらおう。

 

部屋に戻ると、まずはPCを立ち上げて一通りメールの確認をする。今日は一日をオフにしてしまったが、日曜日だから、特に仕事で気にしておかないといけないメールは無かった。

 

今請け負っている仕事の進捗は問題ない。だからまずは夕飯にすることにした。

 

貴樹は最近自炊を始めた。だいたい平均すると2.5食ほどは自炊しているので、少しずつレパートリーが増えてきた。でも今日は基本に返ってカレー。一人暮らしなのでルーを一箱、一気に作れば、数日間はこれでしのぐことができる。

 

材料も鶏肉とタマネギ、それにジャガイモだけ。それらを切って、順番に鍋に放り込む。後は煮込み終わった後に、ルーを入れてかき混ぜるだけだ。煮込み終わるまでの間、貴樹は椅子に腰掛けて、再び今まで自分と関わりのあった女性たちのことを思い出した。

 

明里、澄田、リサ、そしてそれ以外の女性たち。その誰も幸せにすることができなかった。

 

澄田の気持ちには気が付いていたのに、貴樹は中途半端に彼女に優しくし、そして肝心な部分ところで彼女を拒んだ。彼女との別れは辛かったけれど、澄田はもっと苦しかったはずだ。

 

リサにだって、結局のところ貴樹は中途半端に受け入れただけで、貴樹からは最後まで彼女の内面に入ることが無かった。だからあんな長い別れのメールを受け取ることになった。読み切った貴樹も辛かったけれど、何度も推敲して別れを告げるメールを書いたであろうリサはもっと辛かったはずだ。

 

なぜ貴樹は彼女たちを受け入れることが、彼女たちを心から愛することができなかったのか、その原因が今日はっきりとわかった。貴樹の心の中を、小学生の頃から篠原明里がずっと占めたままだったからだ。だから自分は他の女性を心の底から愛することができなかった。

 

明里を守る力が欲しい。再会するまでには胸を張って会えるようになりたい。そんなことを自分に言い聞かせながら、一方で彼女との文通を途絶えさせてしまう。より強く、より遠く、より高みへと自分を駆り立てる情熱もまた、生活の中で失ってしまったことに気づかされた。

 

今日すれ違ったのは本当に明里だったに違いない。そして彼女はとても幸せそうに見えた。自分の手で明里を幸せにすることができなかったことはとても残念だけど、どう考えても長い間連絡すらしなかった貴樹が悪い。それに彼女が不幸になるよりはよほどよいことだ。

 

こんな年になってようやく本当の意味で初恋が終わるなんて、我ながら恥ずかしい話だ。

 

貴樹は鍋の蓋を開け、カレーのルーを入れながら、考える。今更連絡をとって花苗の古傷を(えぐ) ることも、あれだけ傷つけたばかりのリサに連絡を取るのも論外だろう。でもあの幸せそうな明里とならば昔話をできるかもしれない。

 

いやいや、明里に少しでもその気があったら踏切から去っていないだろう。別人だった。単に気が付かなかった。本人だったとしても既に貴樹を忘れたとか、貴樹のことは思い出したくもない過去だったので立ち去った可能性もある。ゆっくり歩いているように見えたが、単に時間が無かっただけかもしれない。

 

それに見たところ結婚している雰囲気があったから、そうだとすると明里への接触は夫の反感を買う可能性が高い。

 

貴樹は今日、自分が明里だけを愛し続けていたことを自覚した。そしてそれを諦めることができたと思う。だが本当に諦めることができたかについては自信がない。今の明里が何をしていて、何を考えているのか確認することができたらいいのに。

 

貴樹は明里の連絡先を彼女が高校時代の頃の住所しか知らない。そこに彼女の両親あてに手紙を送って、その中に明里あての手紙も同封するというのはどうだろう。

 

明里とその両親には迷惑な話かもしれないが、貴樹にとっては重要なことだ。そうすればちゃんと踏ん切りをつけることができると思う。

 

随分前に手紙を出した住所だし、あれから両親も引っ越している可能性がある。貴樹も明里も、親の転勤が多かった。貴樹の両親は、今は長野に落ち着いているが、明里の両親は、岩船からさらに転居している可能性もある。届かなかった時はその時で仕方がない。

 

そう思うと貴樹は自分が止められなくなってしまった。

 

明里と話をしたい。自分が13歳の時からどこまで来たのかを確認したい。本当に踏切の女性が明里だったのか。そして今彼女が本当に幸せなのかどうかを確認したい。明里にはさぞ迷惑に違いないが、もしそうならば彼女の両親が貴樹の手紙を廃棄してくれるだろう。

 

踏切で去って行った彼女のことを思うと、本当に未練がましく無駄な行為だとは思う。彼女の新婚生活に波風を立てる行為かもしれない。だがこれは昨日までの貴樹にはできなかったことだ。貴樹は明里とその両親あての手紙を書くことに決めた。

 

それから、貴樹はなおも考える。もっと新しいこともやろう。会社勤めをしている苦しい時間に貯めこんだ、使いみちのない金が十分にある。今はフリーランスだが、それでも若干黒字の状態が続いている。今の案件を終わらせたら、少し仕事以外のことをするのもいいな。音楽とかスポーツとかどうだろう。高校時代、貴樹は弓道をしていた。弓道は好きだったが、3年やってもうまくはなれなかった。自分には向いてないような気がする。

 

とりあえずは、伝手(つて)を辿って手に入れた、今の仕事を片付けることが優先だ。そして明里との関係をできれば会って確認したい。貴樹はカレーを食べながら、明里の両親に宛てた手紙をどのように書けばよいかを考えた。




貴樹が自分で食事を作るようになったことは「another side」基準です。
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