年速36キロメートル   作:多手ててと

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04.亀裂

次の朝、明里も夫も無言のままそれぞれの職場へと向かった。結婚してからこんなことは初めてだった。

 

明里から夫に話しかけるべきだ。明里はそれを十分に理解していたが、いざ話しかけようとすると、おはようの一言すら発することが、できなかった。

 

そして夫から感じる悪意がそのまま明里に突き刺さる。もちろんその原因が自分自身にあることはわかっている。朝起きた時、朝ごはんを食べる時、そして夫が先に出かける時、話かける機会は何度もあったのに、明里のスイッチはオフのまま、そこから動かすことができない。

 

まるで貴樹くんと出会う前の自分に、まだ小学生頃、周りからぶつけられた悪意に対して、ただ黙って立ち続けることしかできなかった頃の自分が戻ってきたかのようだった。

 

明里はいつものように、勤め先のある事務所がある新宿駅で降りた。昨日あの踏切で会ったことを考えると、貴樹くんも新宿で働いている可能性は大いに考えられる。毎日どれだけの人がこの駅周辺にいるのだろうか。これまで出会わなかったからと言って、これからも出会わないとは限らない。そう昨日のように、ある時突然に。

 

もし再び出会うことがあれば、自分が既に幸せな結婚生活をしていることと、貴樹くんにはとても感謝していること、この二つを告げればいい。

 

だが実際にもし出会ったら、そういうことができるはずがない。私はまた逃げ出してしまうだろう。そういう確信もまた同時にあった。

 

そんなことよりもまずは今日の仕事をこなすこと。そして夫婦関係を修復することだ。今日は仕事で、書店のバイヤーと出版社の営業マンとして、夫と出会う予定はない。それでも、予定がなくても、祐一が今日、事務所に一人の営業マンとして来てくれればいいのに、お弁当が無駄になっても食事に誘ってくれればいいのに、明里はそう思った。そして本当に他力本願な自分になったことに気が付いてまた自己嫌悪に陥った。

 

事務所に近づく前に、仕事は仕事、家庭は家庭、もう一度自分に言い聞かせてオフィスに入った。また今週の仕事が始まった。

 

仕事が始まると思いのほかきっちりと、それをこなすことができた。チェーン全体の書籍の在庫を確認し、必要な分の発注処理を取次店に依頼する。出版社からひっきりなしにくる「期待の新作」についてのメールに目を通し、自分が気になる書籍については詳しく調べる。そしてその書籍についてレポートを書いて、どの程度仕入れるかについて、会議にかける準備をする。

 

同僚とも普段通りに話せる自分に、明里はむしろ恐ろしいものを感じた。

 

その日は定時で上がって、新宿の街で買い物をして帰ることにした。祐一と仲直りするために食材を新たに買い足し、少し奮発してケーキも買った。だが、時折立ち止まって周囲を見渡す自分に気が付いた。この人であふれた新宿のどこかに貴樹くんがいるかもしれない。勝手にスイッチが入って、そう思ってしまう心を押し殺し、いつもの家路を急いだ。

 

夕飯を作り終えた頃に祐一が帰ってきた。今日は彼も早めに帰ってきたようだ。今度はお帰りなさいと声をかけることができた。そして夫も明里の声にいつものように、ただいまと答えてくれた。

 

やはり時間が解決してくれたのだろう。明里は祐一と楽しく食事をすることができたし、ふたりでケーキを美味しく食べることができた。そして今日の仕事がどうだったのか、お互いに話をすることができた。

 

「先輩からは、そういう時こそ男の度量の見せ場だと言われたよ」

 

祐一はそう言って明里に笑った。

 

だが、明里は貴樹くんについての話はしなかった。もう少し先になれば、明里は祐一に彼のことを笑って話せるようになるに違いない。それまでの時間が夫婦には十分にあるだろうと思った。

 

いつものように祐一が夕飯の後片付けをしてくれるので、その間に明里は風呂に入った。もうすっかりいつもの自分だと思った。風呂から上がってパジャマ姿でリビングに行く。台所はすっかり片付けられていた。

 

今日はまだ時間が早いから、明里は祐一とテレビでも見ながらくつろごうと考えていた。だが、祐一はそのまま風呂に入る準備を始めた。

 

「今日は、早めにベッドに行こうと思うんだ。明里はベッドで待っててくれないか」

 

明里は少し顔を赤らめたと思う。

 

「うん、じゃぁベッドルームで待っているね、貴樹くん」

 

今回は自分が発した言葉に、明里はすぐに気が付いた。夫の顔がみるみる険しいものに変わるのがわかった。

 

罵ってくれればいい、明里はそう思った。夫はなにかを明里に言い返そうとしていたが、結局なにも言わなかった。その代わりにリビングで自分の財布を掴むと、会社帰りの恰好のまま玄関から出て行った。

 

明里は夫を止めるそぶりすらできなかった。

 

明里はふらふらとベッドに入った。自分がこのままどうなってしまうのかわからなかった。そしてこんな馬鹿な自分と、怒って当然の夫と、思い出の中の貴樹くんのことを思い出して泣いたら、いつの間にか眠りに落ちていた。

 

その日結局夫は、帰ってこなかった。翌朝、どの部屋にも夫の姿が見えなかったからだ。

 

明里は自分の朝食だけを食べて仕事に出かけた。もう、仕事のこと以外はなにも考えたくなかった。




この後は週3回あたりの投稿を予定しています。
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