青葉が茂り始めた頃、明里は篠原明里に戻った。
離婚は結婚より遥かに難しい、そう聞いていたが、手続き自体は書類を役所に出すだけだ。
それまでに新居を決めた。これまで住んでいた東京の東側から離れたかったし、一応今の勤務地は新宿なので、蕨駅から少し離れた小さな部屋を借りた。ここなら両親の実家にも少しだけ近づく。
一応の勤務地、というのは上司に転属願いを出したからだ。明里がバイヤーだと、離婚が決まった夫に仕事で会う可能性がある。明里は今の仕事が好きだったが、しばらく夫に会うのは避けたい。自らも離婚歴のある上司は真剣に考えてくれた。
「篠原さんはバイヤーとして評価してたのだけど、そういう事情なら仕方がないね。異動となると、おそらく店頭に戻ることになると思うけど、それでもいいかな?」
明里は頭を下げる。
「ご配慮頂きありがとうございます」
上司はうなずいた。
「さっきも言ったけど、篠原さんはバイヤーとしての評価は高いんだ。2、3年店頭で働いた後で、またこっちに戻っておいで」
明里はまた頭を下げた。それまでのうちに夫であった人に会っても動揺しないように強くなりたい。だが今の明里にはその自信はまったく無かった。
休みをとった金曜の午前中、明里は自分の荷物を新居に送り出すと、短い新婚生活を過ごした家を出た。有休を取らなかった夫はいつもより早めに出かけたので、既にこの部屋にはいない。あらかじめ決めておいた通り、鍵を新聞受けに入れると、金属どうしがぶつかる嫌な音がマンションの廊下に響いた。
一ヶ月近くにわたる冷たい生活を過ごした後なので、夫にはもう未練は無い。だが、この家を出る時はさすがに寂しかった。引っ越しは幼い頃から何度も行ったが、こんなに短い期間で出ていくのは初めてだ。それなのにこの家にもう二度と戻らない事実が悲しい。なぜ私は人ではなくて家に愛着を感じてしまうのだろう。
幸いスイッチはオフのままだったので、泣き出したりすることも無かった。あれから明里はいまだにスイッチを自分で切り替えることができない。荷物は今日の午後には新居に着くので、荷物は必要なものだけを詰めこんだカバンだけだ。駅前の市役所の出張所で、離婚届を出し同時に転居に必要な手続きを済ませた。
こうして夫を違う男性の名前で呼ぶ妻と、それを容認できない夫、二人の婚姻期間は、付き合い始めてから結婚するまでの期間の10分の1にも満たない時間を過ごしただけで終わった。
これでよかったとはとても思えない。だが客観的に見て非難されるべきは明里のほうだろう。いわゆる関係未精算の男がいる妻と位置着けられでしまった。こうして慰謝料もなく、対等な形で別れられたのはまだ良かったのかもしれない。
明里の恋愛関係の数は、ちょうど片手の指で数えられる。そのうちふたりは向こうから申し込まれたもので、どちらもお試し期間で終わった。残りのうち一人は、一方的な片想いで終わった。
お互いに愛しあえたのは初恋の人と、先程別れの手続きを終えた相手だけだ。
貴樹くん、彼と最後に話したのはまだ明里も彼も13歳の頃、実家のある岩船駅のホームで別れた時だ。文通はその後1年と少し続いて絶えた。その後ふたりが会ったのはこの春に、あの踏切でただすれ違っただけだ。
多分私は本当はまだ貴樹くんのことが、好きなのだろう。彼を思い出にすることができたと私自身も思っていたが、それがあの踏切でただの思い込みに過ぎなかったことが明らかになった。
だがその確信が持てるわけではない。だから貴樹くんと会って話がしてみたいと思った。明里は既に過去形になってしまったが、貴樹くんはちゃんと誰かと結婚しているかもしれない。踏切ですれ違った時は、自らの動揺が激しくて、彼からは何も読み取ることができなかった。でもどうやったら、もう一度出会うことができるのだろう。
新居のワンルームの一角に積み上げられた荷物から、明里が最優先で必要なものから取り出していると、冷蔵庫や洗濯機などの家電類が届く。届いた家電の準備をしていると、今度は水道局が来たり、布団が届いたりと。けっこう忙しい。その間は前夫や貴樹くんのことを考えずに済んだ。
次の日の午前中に、持ってきた少ない荷物のおおよそを片付けると、明里は岩船の実家へと向かった。本当はまだ買い出しにいきたいものもある。だが両親には、先週、離婚することになったことと、今は何も聞かないでほしいこと、そして翌週に顔を出すことしか伝えていない。
明里は昨年の年末に、結婚するために東京までの電車に乗った。あれからまだ半年もたっていないのに、離婚の報告を親に告げるため、逆方向の電車に乗っている。その事実が悲しい。
そして同じ方向の列車に、13歳の貴樹くんが乗っていたことに気が付いた。明里との待ち合わせ時間から、どんどん遅れていく電車。あの時の彼は、今の明里以上に心細かったに違いない。
実家に着くと両親は落胆を隠しきれない様子だったが、それでも明里を元気づけようとしてくれた。お土産に持って来たお菓子で一服すると、明里は随分と落ち着くことができた。やはり実家は安心できる。そうして明里は両親に元夫との間になにがあったのかを告げた。
簡単な話だ。昔好きだった人と踏切ですれ違ったこと。そしてそこから自分が逃げ出してしまったこと。それ以降、夫をその昔好きだった人の名前で繰り返し呼んでしまったこと。そしてそれに耐えられず、明里を無視するようになった夫のこと。
「私たちはこれ以上一緒に生活を続けられないことがわかったの。だから別れたの。もちろんそれは私のせいね」
両親は沈痛な面持ちで明里の話に相槌を打ちながら聞いてくれた。
「その……明里はまだその……昔好きだったという人のことを思っているかい?」
父親がおずおずと核心に触れることを聞いてきた。
「多分そうなんだと思う。でも自分でもまだ心の整理がつかないの。だから今の彼ともう一度会ってみたら、それがわかると思うの」
今度は母親が聞く。
「メールアドレスとかは消してしまったのかい?」
明里は少し笑った。
「メールとかは元々知らないの。知っているのは高校生だった頃の彼の住所だけ。さすがに、あそこにはもういないんじゃないかな?」
その時明里は両親がお互いの顔を見たまま、固まっていることに気が付いた。しばらくその状態が続いた後、母が明里に尋ねる。
「明里が昔好きだった人って、なんて名前の人?」
小学校の初恋の人が忘れられない。それを言うのは少し恥ずかしいが、明里は間をおかずに答えた。
「お父さんもお母さんも、もう覚えていないんじゃないかな。まだ小学校の時に仲が良かった男の子だよ。遠野貴樹くん」
その名前を聞いた時に両親の顔色が変わったことに明里は気が付いた。
「二人とも、貴樹くんのことを覚えていたの?」
母は懐かしそうに言った。
「もちろん覚えているわ。あの頃の明里はずっと貴樹くん、貴樹くんって言っていたから。それに岩船に越してくる時に、珍しくあなたが東京に残りたいとわがままを言ったことも、その後も
父は無言だった。母の顔色は相変わらず悪い。
「そっか。お母さんは気が付いていたんだ。でも文通は途絶えたから、私が知っているのは彼が高校の時の住所だけなのよ。私が携帯を持ったのは高校に入ってからだし」
その時父が明里に頭を下げた。
「すまん、明里。お前にはとても悲しい思いをさせてしまったな」
「やめてよ。全部昔のことだし、しかたがないことよ」
明里は少し笑って答えた。
「昔のことだけじゃない、ごく最近のこともあるんだ。実はその遠野君から、手紙が届いたんだ。母さん、あれは一ヶ月ぐらい前だったかな?」
明里の目に光が戻る。だが、母親が話を続けた。
「そうね、たぶんまだ一ヶ月経ってないわね。でももうその手紙は残っていないの。もう結婚した明里には余計な手紙だ、私たちはそう思ったのよ。あなたを見かけたこと。とても懐かしかったので連絡を取りたいこと。あなたの状況次第で私たちにこの手紙を処分して欲しいこと。そして彼の連絡先、それだけが書いてあったわ」
母は少し泣きそうな顔をしながらお茶を一口飲んだ。
「そして私たちは、手紙を処分することにしたの。手回しのシュレッダーにかけて、その次のごみの日に捨てたわ。住所は新宿区か渋谷区だったけど、ちゃんと覚えていないの。ごめんなさいね」
明里も母と同じようにお茶に口を付けた。
「仕方がないよ。その頃の私たち夫婦のことをお父さんもお母さんも知らなかった訳けだし」
手紙が失われたことは残念だ。そして貴樹くんはこの後二度と手紙をくれないだろう。それでも、貴樹くんが私を探そうとしている、その事実が嬉しかった。あの広い東京で一度は巡り合えたのだ。もう一度巡り合うことも不可能とは限らない。
明里は自分の中のスイッチが入ったことに気が付いた。