年速36キロメートル   作:多手ててと

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07.AKARI

貴樹はほぼ一日中、PCの前でキーボードを叩いている。もし誰かが見ていたら、熱心に、あるいは必死に仕事をしている若者だと思うだろう。だがそれは違う。一日のうち、仕事をしている時間はかなり減った。

 

今や貴樹は仕事をしている時間よりも、趣味を楽しんでいる時間の方が長くなってしまったのだ。それは仕事が来なくなったということではない。仕事を再開し始めたときは、過去の同僚や取引先に電話をかけて、どんな仕事でもいいいから回してほしい、と言って回った。それから数ヶ月の間に、貴樹はフリーの腕の良いプログラマーとして知られるようになった。

 

そうなると貴樹の方が仕事を選ぶことができる。義理があるところには一度は必ず恩を返すことにはしているが、それ以外はスジのいい客からの仕事、条件のいい仕事、面白そうだと思う仕事だけを選んでそれらを受けている。今受けているのも、なかなか割のいい仕事だ。そして余った時間を自分のために使っている。

 

 

一つはごく普通のこと。自炊はまだ続いているのでそのための食材を買いに出かけることだ。もちろん冷蔵庫があるので、毎日買い出しに出る必要はない。

 

一人暮らしだと1週間ぐらいの食材をまとめて買っても冷蔵庫に収めることができる。だがそうすると、車は学生の時に一度買って手放したままなので、持ち帰りが大変になっていまう。

 

だから2日に一度は、健康のことも考えて、歩きで、あるいは自転車で近隣の店に行くことにしている。新しい店を見つけると、そこには初めて発見するものがあったりする。別に商品だけじゃない。なぜこのお店はバターとチーズの売り場がこんなに離れているんだろう、とかそんな発見もある。

 

そして行きとは別の道を辿って周囲を見渡しながら帰る。新しい道を通れば、新しい発見がある。新しく見つけた小さな喫茶店にフラっと立ち入ると、そこはもう仲間内だけで盛り上がっている空間だったこともある。そういう時はコーヒーをさっさと飲み切って店を後にして、この店にはもう行かないようにしよう、とスマホのメモに残している。

 

なぜ自分がこんなことをしているのか、貴樹にはよくわかっていない。単純に新しい発見をすることが楽しい。それは事実だ。だが、どこかに明里がいて、再び偶然出会うことを願っているのもまた事実だと思う。

 

明里の両親に送った手紙は返ってこなかった。ということは彼女の両親はまだ岩船に住んでいるのだろう。そして貴樹と明里に連絡をとらせるべきではないと、誰かが判断したのだろう。

 

だから明里に会える可能性は限りなく低い。それなのに、いやそれだから、こうやって街をさ迷っている。もしかしたらまた偶然出会えるかもしれない。明里に、あるいは明里にとって代われる存在となりうる誰かに。

 

 

そして部屋に戻ったら、もう一つは趣味として、またPCに向かってプログラミングを始める。最近、こちらの趣味が佳境に入って来たので、夜遅くまでPCを叩いていることが多い。貴樹が作った、分散型大規模データシステムは、もうテスト段階が終わろうとしている。世界には、公官庁や国際機関が発表している公式なデータが無数にある。これらを使って貴樹の思い通りの結果が出るかを確認を続けていた。

 

出来上がった当初は貴樹のPCだけで試して動かしてみる。こちらは問題なく動いた。今のところOSはUNIX系の無料で使えるものを利用しているが、ゆくゆくはいろんなOSで動かせるようにしたい。

 

そして今は数十台の異なる性能のマシンを使って、うまく分散処理ができるかのチェック中だ。これほどの台数の新しいマシンを買うのは貴樹には無理だが、今は使いたい時だけネット上で使えるコンピューティングシステムが世の中にあるのがありがたい。

 

もちろんこれだって金がかかるが、テストの時間しか使わないことを考えると、購入することに比べると随分安い値段で済ませることができる。こうして試験しているうちに少々問題が見つかった。全力で動いているマシンとさぼっているマシンがいる。その問題点を見つけて、それもまた修正して再度テストする。

 

こうやってどんどん大きなデータを、あるいは複数の形式のデータを、より多くの性能の異なるマシンを連携させて、早くその解析結果を出せるようにする。もちろんユーザがより扱いやすいようにしなければならない。初めての人でも簡単に使えるように。慣れた人ならより複雑な設定でのデータ処理が可能なように。設定ファイルを一つまとめて、そこを変えれば規模に応じたカスタマイズが簡単にできるように設計にする。

 

いくつかの仕事と趣味、それらにあけくれているうちに、ようやく趣味の方が形になった。自分ひとりでできることはほぼやり切った。簡単ではあるが頑張って英語のマニュアルも書き終えた。そろそろこの子をオープンソースで世の中に出してもよい段階になったと貴樹は判断した。貴樹はこのソフトウェアに初恋の人の名前を取って「AKARI」という名前を付けた。そこには世の中の深淵を除く灯火(ともしび)になってほしい、という願いもまた込められている。

 

貴樹はオープンソースコミュニティの一つに、AKARIを公開した。きっと世界が驚くに違いない、そう考えていたが、思ったほど反応がない。ダウンロード数はほんの少し、一日に一桁づつ上がっていくだけだ。仕方がないので、貴樹は仕事をこなす一方で、一人でAKARIのさらなる機能改善を続けた。

 

夏が近づき、高校の同窓会がそろそろだな、と思っていたころに、貴樹は見知らぬ人物から英文のメールを受けた。ドイツのとある自治体の公営企業で働いているエンジニアだと名乗っている。どうやら日本の水道局にあたる組織のようだ。簡単に要約すると以下のような内容だ。

 

AKARIは素晴らしいよ、でもここの処理はこうした方がいいんじゃないかな、というもので、コードが張り付けてある。なるほど、良いやり方だ。貴樹はお礼のメールを返し、そのコードを反映させたAKARIのテストを行う。確かにこのやり方の方が若干処理効率が上がった。貴樹はAKARIのマイナーバージョンを更新する。

 

このやりとりの直後、また別の人物からメールが来た。今度はアメリカのとある金融業者の下請けエンジニアだと名乗っている。彼が言うには、AKARIを商用に使いたいが、顧客がサポートがないことに二の足を踏んでいる。個別に保守を依頼できないか、というものだ。

 

正直に言うと気がすすまない。NGの回答が返ってくることを期待して、オープンソースコミュニティに確認すると、貴樹の期待に反して問題ないという回答だった。だから自分が年間サポート費用として、自分が10年は食べていける金額と、相手にとって厳しいと思われる条件を並べた見積書を送り付けたが、貴樹の言い値で契約書案がメールで送り付けられてきた。

 

判断を誤ったかもしれない。仕方がないので、貴樹は国際商取引に強いと言われる弁護士事務所に契約書のチェックと先方とのやりとりの代行を依頼することにした。

 

このように彼がAKARIにかける時間は増えていった。そしてAKARIの作成者である貴樹とコンタクトをとりたい、そういう内容のメールが何通か届いた。

 

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