年速36キロメートル   作:多手ててと

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08.今までに読んだ本

明里は東京駅の近くの店に転属になった。希望を言うなら貴樹くんの行動範囲と思われる新宿が良かったが、時期外れにわざわざ異動させてくれたのだから、これで文句を言うのは贅沢というものだろう。なお渋谷は元夫と出会う可能性が高いので避けたい。

 

明里は去年までは店頭に立っていたので、仕事のやり方はわかっている。この肩書は何人かいる副店長の一人になった。ちなみに副店長は主任レベルの平社員だ。

 

バイヤーだった時は普通に土日が休みだったが。店は東京駅のそばという立地から、年中無休で、朝8時から夜21まで開いている。社員だと、普通は土日の片方と、平日のどこかが休みになる。こういったシフトを組むのが明里の副店長としての主な仕事だ。

 

正社員・契約社員・パート社員・アルバイト社員、それらをうまく組み合わせるのは中々難しい。人をできるだけ増やさずに店を維持することはとても難しいのだ。大規模店でスタッフの人数も多いので、毎日のように何かが起きる。病気になるパート社員もいるし、無連絡で遅刻するバイト社員もいる。それにも備えたシフトを組まないといけない。学生バイトが入れ替わる3月4月は特に大変で、それにかなりの時間をかける必要があると引継ぎを受けた。

 

平日は昼休み中と夕方17時以降の仕事が多い。このピークタイムは、レジ周りはバイトとパートが主力で、社員はレジの責任者と人が足りない時のカバーが仕事だ。遅番の日は22時頃まで各レジで金額あわせをしなければならない。

 

その一方で、店員としての担当の売り場も決まっていて、明里は児童書を担当することになった。幼児向けの絵本から、中高生が読むライトノベルまでと範囲が広い。図鑑も守備範囲内だ。なおマンガは別の担当者がいる。

 

レジに入らなくていい時間帯は、事務所でシフト表を作ってその調整をしたり、店頭で自分が担当する売り場のメンテを行う。売れた本の在庫の確認と必要な発注はある程度自動的にシステムがやってくれるが、最終的な判断はまだ人間がする必要がある。そして何よりも恐ろしいのは万引きだ。

 

万引きされた本は棚卸しないと把握することができない。本当に万引きは本屋の敵だ。マンガの担当者は毎日のようにぼやいているが、他の社員も思いは同じだ。サラリーマンが多い立地なので、これでも他の店舗よりは恵まれているほうだ。

 

こうしてまた店頭での仕事の勘が戻り始めた頃、一人の身なりの良い若い母親がお客様としてやってきた。幼稚園ぐらいの男の子を連れていて、ベビーカーを押している。子どもが着ている服も、明里が知っているブランドだ。上客の匂いがする。

 

「この子達の誕生日のプレゼントを探しているの、なにか良い本を教えてもらえないかしら?」

 

二人の子どもの年齢は離れているが、たまたま誕生日は似た時期にあるのだろう。

 

この手の質問は明里の得意分野だ。伊達に小さな頃から本を読み続けてきたわけじゃない。明里はしゃがみこんで男の子に話しかける。

 

「今まで読んだ本の中で、好きな本を私に教えて欲しいな?」

 

男の子は物怖じせずに、明里に何冊かの本の名前を告げた。そのラインナップからこの年でちゃんとした教育を受けている事がわかる。そして聞いた題名から、いくつかの本を選んで紹介する。

 

まだベビーカーで眠っている子どもの本は、母親が読み聞かせるのだろう。明里と年齢が同じぐらいの母親から持っている絵本の名前を聞いて、明里のお勧めを紹介した。上の子向けと下の子向け、そのうちの何冊かをご購入いただけることになった。時間はそれなりにかかったが、満足のいく仕事ができた、明里はそう思った。その時母親が明里の胸の名札を見て話かけてきた。

 

「間違ってたら悪いのだけど、あなた日本文学科にいた篠原さんよね?」

 

その言葉に明里はその若い母親の顔をまじまじと見ると、明里の中に思い当たる名前があった。

 

「もしかして英米文学科にいた、佐々木さん? そうよね? とても懐かしいわ!」

 

綺麗で頭のいい佐々木さん。学科は違うが文学部で共通の授業がいくつもあったので、何度か共通の友人と一緒に話したことがある。だが、彼女は2年生で大学を休学した。ハワイで式を挙げて、その後新婚生活を1年楽しんだ後に復学する予定だと聞いていたが、休学後はキャンパスで会ったことがなかった。

 

明里はつい男の子の方を見てしまう。

 

「あはっ。私は2年生の終わりに結婚して休学したでしょう。その時にできちゃったのよね。だから続けて2年休学することになっちゃったのよ。だからみんなより2年遅れで卒業したの。しかも卒業する時にはこの下の娘がお腹の中で大きくなっていたのよ」

 

佐々木さん、今は新しい苗字だと思うがそちらは知らない、彼女はそう言って笑った。

 

「私もこのお店で篠原さんと会うとは思っていなかったわ。このお店には何度も来たことがあったのにね。やっぱり雰囲気が大人っぽくなったというか……」

 

佐々木さんは明里を見た後、言葉を濁す。明里は首を(かし)げた。

 

「ううん、なんでもないの。篠原さんを見て高校の時の友達の事を思い出したの。なんでかな、外見は全然似ていないのにね。ゴメンね」

 

明里も笑って答える。

 

「いえいえ、話せてよかったわ。お買い上げありがとうございました」

 

そしてまたしゃがみこむと男の子に話かける。

 

「その本を読み終わったら、どう思ったのかを教えてね」

 

そう言うと男の子もうなずいてくれた。

 

「家がこの近くだから、私結構な頻度でこのお店に来るわよ。今度は篠原さんを指名するからね」

 

東京駅の近くに自宅? いったいどれくらいの金持ちなんだろう。

 

また来るわ、そう言って店を去る親子を見て、私と同級生なのに、もうあんなに大きな子どもがいるんだ。自分もそんな年齢になったのだと明里は思った。

 




明里の大学の同級生である、英米文学科にいる綺麗な佐々木さん。彼女が大学2年生で結婚して休学するという話は「秒速5センチメートル another side」に出てきます。
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