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1、闇の先
一人の少女が歩いていた。何処までも、あてもなく。
どれだけ長い距離を歩いてきたのだろう。全身の倦怠感は見て分かるほど酷く、ヨロヨロとでもゆっくり前へと進むことが精一杯。淡く、少しばかり紫がかった黒の長髪は枝毛だらけで乱れ、身なりも相応に酷い。放浪者という表現さえ違和感がなく、そして紛れもない事実だった。石か何かに躓けばなすすべなく転んで、もう二度と立ち上がれないかもしれない。なけなしの荷物でさえ、次の瞬間には彼女を押し潰してしまいそうだった。
周囲は完全な暗闇に包まれ、光の兆しは皆無。いつもなら何処かから響いてくる水音ですら今は静まり返り、トンネルに響く足音と自分の弱まった心臓の鼓動だけが異常に大きく聞こえる。まるで自分の最後を暗示しているかのようだ――彼女、アリサ・クレーヴェラは一人他人事のように思った。
古くから闇は恐怖の象徴の一つだ。人類が地下に住み始めてから長い年月が経つが、未だに適応したとは言い難く、コウモリのように暗闇を見渡せるわけがない。明かりがなければ、遠近も何もなく、何処まで続くかわからない濃密な黒に塗り潰された光景が網膜に映るだけ。
だがそれは「無」ではない。「虚空」ではない。人類の感覚の大部分を司る視覚が遮断されてしまう環境において知覚できないだけで、「闇」の先には確実にナニカがある。それがただの空間であるならば問題ないのだが、もしかしたら一寸先が崖になっているかもしれず、あるいは人食いミュータントが口を開いて待っているかもしれない。それとも、ソレはもっと危ない得体の知れないナニカだろうか。たとえ何もなかったにしても想像力を無駄に掻き立てられ、恐怖に恐怖する。それがこの時代の「闇」であり、一番身近にあって恐れられるものだった。
アリサは一人、そんな場をずっと歩いてきたのだ。最初はランタンがあったから良いが、燃料が切れてからはその心細い灯でさえ潰えてしまった。一気に時間が濃密になったように感じられ、それだけ疲労も心体共に重くのしかかる。
暗闇の中を歩き進めることになってしまった始めは、気が狂いそうになっていた。もはや自分は死んだものと諦め、衝動的に大声で泣き叫んだが、反響して響いた自分の声に驚いて泣き止んだ。それが自分の声だと分かっても、あちこちに跳ね返って加工された絶叫はまるで悪魔が恐ろしい雄叫び声を上げているように思えたからだ。
じっと身体を固めて耳を澄まし、何もないことを確認してからまたゆっくりと進み始めたが、動き始めるだけでもどれだけ時間がかかったか。
慣れない間は壁が突然目の前に現れたような幻覚を覚えたり、幻聴だろうか低い地響きのような音が聞こえてきたりして、その度にアリサは動きを止めて安全を確認しなければならなかった。
そんな風に歩き続ければ疲れはかなり早く溜まり、当然のように身体が休みを求めて睡眠が必要になる。通路の脇に手頃な場所を見つけて、小動物のように身を埋めて眠るたび、もう目覚めることはないのではないかと恐れるがそれでも睡魔はやってきた。呆気ないほどあっさりと泥のような眠りにつき、そして意識的には次の瞬間に飛び起きている。真に眠ったかどうかなんて自信が持てない。自分がまだ生きていることにほっと安心するが、そんな状況では疲れは殆ど抜けない。
歩いて、疲れて、眠って、目覚めて。寝ても覚めても真っ暗闇の中、そんなサイクルをぐるぐると五周ほど巡った。そうして今となっては永遠に思える時の中、ただ黙々と繰り返すだけだ。アリサは何処か、自分が現実世界にいないような気さえしていた。
実は自分はもう死んでいて、これはあの世へ向かう道なのではないか。あるいはこれが、これこそがあの世なのか。そんなことさえ思った。
積み重なった疲労と空腹からか自分の四肢の感覚は朧げになっていて、指の先なんてもう捉えられない。そんな中では自分の身体が闇の中に溶け込んでしまっていて、闇が自分の身体の一部のようにさえ感じ始めていた。
しかし、そんなある意味での無敵感や万能感は長続きしない。所詮一過性のものにしか過ぎず、ちょっとした衝撃ですぐに割れて消えてしまう。何度も何度もこの空間の中で繰り返し経験していたのだから、それは誰よりも彼女自身がよく理解していた。
「あぐッ……」
遂に何かに躓いて転ぶ。アリサは糸が切れた人形のようにパタリと倒れた。背負っていた袋から中身の殆どなくなった水筒が転がり出て、カラカラと金属特有の空虚な乾いた音を立てて転がっていった。殆ど受け身も取れなかったので、どうやら身体を強かに打ってしまったらしい。膝も擦りむいたのかズキズキ痛み、顔に触れる地面は湿っていて冷たい。当然とばかりの我が物顔で現実感が帰ってきて、さっきまで感じていた夢のような浮揚感は四散していく。そして、突然堰を切ったような悲壮が溢れてくる。あまりの惨めさに、アリサは一人自嘲混じりに目を伏せた。
(叔父さん……。私なんかには、やっぱり無理だったのかな……)
問いかけるように古いメダルのペンダントを握りしめるが、それもまた冷たいだけで何も返してはくれない。緑青色のメダルに彫られた、名も知らない壮年の男性が表情を変えるはずもなかった。いや、本当は彼女も既に分かっているのだ。アリサはこの試み自体がそもそも無理なものだったのだろう、と何処か悟ったような確信を持っていた。
唯一の家族たる叔父が死んでから、「魔女」を自称するあの老婆が村にやってきてから。それまでは大きな問題なんて殆どなかったのに、まるで突然奈落の底に突き落とされたかのように境遇は暗転し、アリサを取り巻く環境は急速に悪化していった。積み上げてきたものが、あれだけ確かにアリサの手の中にあったものが、一瞬で零れ落ちて崩れていった。
この数週間は全てが濃密だった。比較的安定して呑気な日々を送っていた彼女にとっては、それは数年分の記憶にも匹敵するほどの密度がある。ほんの少し前の、一か月ほど前の情景が脳裏に浮かんだ。もうきっと手に入らない、当たり前だった日常。それが大昔のことのように思えた。
彼女には止むに止まれぬ事情があった。こんな子供が一人で村を出ることを決意するほどの。彼女は無知であったが愚かではなかったので、自身の行いがどれほど危険なことであるかは十分承知の上だった。承知の上で、村を出た。
彼女には頼る先どころか行き先もない。ただ村から逃げ出しただけだ。行き着く先がどうなるかなんて全く分からなかった。何処かの村か街に辿り着ければ……と楽観論を思い浮かべ、きっと何とかなると自分に信じ込ませて足を進めた。そうでもしなければ脚がすくんだが、村に留まることはどの道絶望でしかなかった。
だが、現実はあまりにも非情だ。早々に幻想は打ちひしがれ、足を進めた未来は行き止まり。結果はこの末路だった。殆ど外界へ出たことのない少女は自分の試みが無謀な挑戦どころか、ただの現実逃避にしか過ぎなかったということを、今度こそ確実に理解した。
今はまだ生きている。足も頭もまだ動く。
ただそれも時間の問題だ。このまま諦めて身体を放り出してしまえば、トンネルに巣食う生き物に食われてそこらに散乱する骨の一部となる。
故郷という、温かで平和だった場所から壁一枚挟んだ向こう側。
この世界はあまりにも、命の価値が軽い。
一体どうすればよかったのだろう。
いくら考えても答えは出ない。きっと何が正しいとか間違っているとかじゃなく、ただそこにはこうであるという結果だけが無慈悲に転がっているだけなのだ。もしかしたら、アリサ・クレーヴェラという人間の人生はここで袋小路になる運命だったのかもしれなかった。
溜息が暗闇に消え、一筋の涙が頬を伝った。悲壮はもう十分だ。なんにしろとにかく今は歩き続けなくてはならなかった。ずっとこうして横たわっているわけにもいかないのだ、そうすれば本当に死んでしまう。
最後に時計を見たのは一体いつだったか。最早、時間など今はもう分からない。ただ長いこと移動してきたことだけは事実だ。もう少しくらい歩けば何がしら助けになるものが見えてくるのではないか。それがきっと報われない願いであるとは頭の何処かでもう気がついていたが、なんとか身体を起こして立ち上がる。存在すらしない希望を求めるように正面を向き、また歩き出そうとした。
そして気がついた。さっきまではしなかった、何かが腐ったような生温かい臭いが前の方からすることに。
前は完全な暗闇だ。だが、眼では見えないその中には何かの気配がある。
心臓が跳ね上がる。とっさに、肩に背負っていた古いボルトアクションライフルを構えた。村を出る前にせめてものと拝借した荷物のうちの一つ、村の倉庫に仕舞われてそのまま忘れ去られたのであろう、無駄に重くて長い鉄の棒のようなものだった。確実にアリサの体力を削り取っていくだけで何の役にも立たなかったから、これまでに幾度となく捨てようかと思った代物だ。「もしも」という恐怖心から結局捨て切れなかったのだが、今はこの物干し竿に心から感謝した。
アリサはただの村娘だ。銃を撃つ訓練など殆ど受けたことがなかったが、昔叔父が見せてくれたものを必死に思い出して操作する。
ちゃんと動作するかも分からなかった。だが祈るようにトリガーを引くと、鈍い爆発音と閃光が上がった。
瞬間、空間が明るく光り、暗いトンネルを照らし出す。壁や天井に走る古いケーブルやパイプの束、点検用の計器類。そしてなによりアリサは自分のすぐ目の前にいた存在をしっかりと捉えた。
涎を垂らし、二メートルも近いだろう巨大な大鼠。ギラギラと牙を剥き出しにし、ガラス球ほど小さい黄色い眼はこちらを間違いなく見ていた。
手応えはなかった。弾丸は当たっていない。しかも銃声は相手を驚かせるどころか、怒らせようにさえ見えた。
必死に銃を操作して、相手に今度こそ銃弾を当てようとする。
だが、
「そ、そんな……ッ!」
一発は撃ち出すことができた。だが油も差さず長い間放置されていたライフルにはそれが限界だったのだろう。次弾を装填しようと引いたボルトは半分もいかないほどで引っかかり、正真正銘ただの物干し竿に成り果てた。
アリサは今度こそ銃を放り投げて踵を返し、来た方向へと全力で走り始めた。元々体力は残っていない。それでも振り絞るように、とにかく目の前の危険から逃れる為に。動物としての、本能的な行動。この時ばかりは頭から疲労や諦念が抜け落ちてしまってさえいた。
(嫌ッ!死にたくない……死にたくない!)
グズグスせずに転んですぐに起き上がっていれば、奴が近づいてくるのにもっと早く気がつけていたのではないか。そんな後悔が一瞬頭を巡るが、パニックにかき消されてただただ生き残りたいという気持ちだけが残った。
神様でも悪魔でもなんでもいい。お願いだから私を助けて。なんだってするから。本当だから。
死にたくない、死にたくない、死にたくない。
私は。私は、私は――。
だがもう、全てが手遅れだった。
後ろから何か大きなものが追いかけてくるような音がして、背中に大きな衝撃を感じる。そのまま前に弾き出されるように身体が飛んだ。壁に身体が叩きつけられて顔面を強かに打ち、脳が揺れる。苦痛を感じる前に目の前の壁がぐらりと揺れ、割れた。
時間が酷く引き延ばされたように感じた。視界は働かないのだから、感覚だけをスローモーションに感じた。ふわり、と全身を浮遊感が包み込む。それは今まで味わったことのない、奇妙な感覚だった。最後の瞬間、自然と全てを悟る。あれだけ動転していた頭はどうしてかすっきりしていて、何処までも透き通っていた。口は動かなかったが、頭の中で彼女は呟く。ああ、もう自分は死ぬのだ――と。
身体が、空いた穴から繋がった広い空間に落ちていく。そして、落ちた先で何かにぶつかる衝撃が訪れる前に彼女は自分の意識を手放した。
それはこの世界にありふれた話。こうして誰にも知られることなく、一つのヒトの命が暗闇に消える。
そうなる筈だった。