今後の更新はなろうと合わせて行っていくため、週一更新くらいまで更新頻度が下がってしまうと思います……。
10、亡霊
「基盤」の壁を崩して取り出した、大小の瓦礫。それを積んで作っただけの小さな塔。薄い板に書かれた名前はどうしようもなく空虚で、もう持ち主がこの世にいないことを示唆している。
アリサを産み、育てた女性が生きていた証は今となってはそれだけだった。
幼い少女はその前で立ち尽くしていた。来る日も来る日も村の共同墓地にやって来て、管理人に言われてやっと去っていくだけの毎日。かと言って何をするでもなく、涙すら流さない。
混乱していたのだろうか。突然熱を出して意識を失い、魘されベッドに伏すだけの日々が長く続き。やっと動けるようになった頃には、両親はどちらともいなくなっていた。
まだ五歳の彼女に残酷な現実を理解できるはずがないと周りの大人達は考えたし、彼女を引き取った叔父のボリスもそうだった。
けれども、アリサ本人は違かった。アリサは自分の母親が既に死んでしまったことを理解していたし、その結果自分がどうなったのかも間違いなく分かっていた。
ただ、どうしようもない現実を受け入れることがまだできなかったのだ。理解することと、受け入れることは全く違う。幼い彼女には、そんな大人でも難しいことをやり遂げる精神的な準備はまだ整っていなかった。
「アリサ、もう帰ろう」
帰りの遅い義娘のことを心配したのか、仕事帰りのボリスがやって来て、帰宅を促した。
彼は墓地の管理人からアリサをどうにかして欲しいと頼まれていたのだった。まだ彼女に辛い現実を押し付けるわけにもいかないとボリスはあまり物事を強要しなかったが、流石に時間も遅くなってくると連れ帰らなくてはならない。アリサは、放置すればそのまま餓死するまでそこに居座っているような感じをさせていた。
「叔父さん、人は死んだらどうなるの?」
アリサは唐突にそう口に出した。
死んだ母親は一体どうなったのか。自分が死んだらどうなるのか。
きっとそれは人類が文明を持ち始めてから現在までずっと抱え続ける命題の一つで、アリサも肉親の死という出来事を経験して自然と生まれた疑問だった。墓の前で問いかけ続け、しかし答えは未だに出ない。
アリサはその時、自分が一体何を恐れているのかさえよく理解できていなかった。自分も病の中で経験した、得体の知れない寒さ。あれを超えた先には一体何があるのだろう。不意に掴みかけて、手を離したそれ。正体の分からない深い闇。
ボリスは一瞬たじろぎ、しかしはっきりとした口調で聞いた。
「お前は魂を信じるかい?」
「……魂?」
「そうだ。人は死んだら古い肉体を捨てて、魂だけになる。そうして死後の世界に行くんだよ。そこで幸せに暮らすんだ」
死後の世界。アリサはその言葉を心の中で反芻する。
アリサの住む村では、旧文明にあったような体系付けられた宗教は信じられていない。その代わり、地下世界に広がる迷信めいた都市伝説が流布している。
曰く、「基盤」の地下深くには死後の世界に通じている。曰く、死んで供養されない魂は死後の世界に行くことができず、「基盤」の闇に捕らえられる。曰く――そんな、出所の知れない噂話。
ボリスの言った話は、曖昧ではあったがその中でも比較的楽観的で、尚且つ普遍的に信じられる死生観の一つだった。
アリサは、少なくともそう信じたいと感じた。だって、死んだら何もなくなって、ただの肉と骨になってしまうだなんてあまりにも残酷だ。救いようがなさすぎる。
けれども、本心からそう信じられるかどうかは自信が持てなかった。
「叔父さん、私、分からないよ」
ボリスは笑って、アリサの頭を撫でる。ごつごつしたコブだらけの掌。不器用ながらも、そこには確かな優しさと温もりがある。
生きている人間。その証拠を感じとる。
「お前がそう信じて、祈ることが大事なんだよ。さぁ帰ろう。今日は美味しいパイを貰ってきたから、温かいうちに一緒に食べよう」
「……うん」
アリサはボリスに連れられて歩いていく。
最後にちらと振り返った石の塔は、やはりどこまでも空虚で空っぽに思えた。
◾︎
代わり映えのない毎日だった。
アリサとベラは旅を続けていた。浄水施設を出てから、途中で何本かの脇道を見つけたものの、ずっと水路に沿って真っ直ぐ街道を歩いている。稀に昔人間が来たのだろうという跡は見つけるものの、未だ村どころか生きた人間に出会うことはできていない。
一体いつまで続くのだろう。
そんな考えが頭に浮かぶのも無理はない。だが、それでも一人で歩いてきた時を思えば気分は遥かに楽だった。
なにしろ、今は同行者がいる。無口な方だが、話しかければ答えてくれるし、自分以外に温もりを感じることができるというのはアリサの精神を予想以上に健全にさせていた。
物資が比較的潤沢なのも理由の一つだろう。ランタンと違って電気式の懐中電灯は遥かに遠くまで先を照らすことができるし、電池にはまだまだ余裕がある。食料だって当分は心配しなくていい。ベラというミュータントに対抗する手段だってあった。
村を出た時は、それこそあまりにも貧相な装備しか持っていなかった。何処かで人知れず行き倒れる為に歩き続けたようなもので、そんな自殺同然の旅路に明るい希望はまるで望むことができなかった。
今は、希望がある。それまでには色々なことがあったし、精神には確実に大きな亀裂が残った。それでも今日を生き延びることができれば、明日を生きる権利を得る。これだけは間違いなく、その点で言えばアリサは自分の未来に確信を持てたし、進む先に光を求めることができていた。
目の前をずっと、真っ直ぐ歩くだけ。ただそれだけの代わり映えのない行為でも、心の持ち様で大きく性質が変わっていた。余裕を持つということの重要さを思い知る。
ここ数日、暇を持て余したアリサはこの水路が何処に続いているのか考え続けていた。
この行く先を知っている人がどれだけいるだろう。この水路だけではない、「基盤」を流れる全ての水路に言えることだ。その全てが下へと流れていくが、実際に何処が終着点なのか聞いたことがなかった。
アリサの村の近くにも水路はあったが、それもまた同じようなものだったはずだ。行き止まりになっていて、地面に空いた大穴から下に濁流が流れ込む。その先に人間が足を踏み入れる事は流石に出来ず、何処に繋がっているのかは分からない。
何処かに行き着いているはずなのだが、同時に「基盤」が冠水していない以上、地下には何かの施設があるに違いないという考えは広く信じられている。しかしその実態を見た者はおらず、かと言って気にする人間もそれほどいない為、アリサの知る限りでは完全な謎だった。
かつて聞いた話を思い出す。「基盤」の最下層は死後の世界に繋がっていると。真偽のほどはアリサに分かるはずもないが、もしもそうなら、この水路を永遠と辿り続ければ、いつか死後の世界とやらに辿り着くのだろうか。そんな、くだらない考え事をしていた。
少し歩幅を開けて後ろをついて来るベラが大欠伸をした。思考が途切れて、現実に引き戻される。
長い距離を歩いてきたが、アリサにはまだ体力がある。それならベラも有り余ってそうだが、しかし、かなり眠たそうだ。
ここ暫く彼女と一緒に旅を続け、四六時中生活を共にして分かったことの一つが、ベラの睡眠時間がかなり長いということだった。時計が手元にないので正確な時間はわからないが、それでもアリサの睡眠より遥かに長い時間、彼女は眠りにつく。かといって、起きている時間が長いわけでもない。
一日の中で、起きている時間と寝ている時間が殆どイコールなのだった。それでもアリサが時間を見計らってベラを起こしているのだから、放置していればもっと長い時間、下手したら一日中寝ていてもおかしくなさそうだ。
それが分かってからは、彼女の眠気に合わせて旅を続けることにしていた。何かトラブルが起きた時にベラが動けないとなると大問題になるし、とにかく急がなければいけないというほど余裕がないわけでもない。
丁度、目の前に壊れた馬車が打ち捨てられていた。随分と古いもので、所々朽ちている。さほど手間は掛からず分解し、焚き火の燃料にできるだろう。
アリサはベラに声をかけた。
「今日はこれくらいにしましょう。水を汲んできてください」
こくりとベラは頷き、手渡された小さい鍋を持ってすぐそこの水路まで歩いていく。その間に、アリサは廃材を集め、火を起こす準備をしていく。
馬車の中身は何もなかった。埃がかなり積もっていることからも、長い間ここに放置されていたのだろう。一体どういう経緯でこんな何もない場所に放棄されていたのか謎だが、アリサがそれほど気をかけるようなことでもない。
捨てられた何かの機械や、崩れかけた小さな小屋。地下世界にはそういうものが多くあって、この旅の間にも幾度となく見かけてきた。
適当な場所を見繕って、野営地を確保する。テントや寝袋でもあればもっと雰囲気が出たかもしれないし、快適に違いないが。生憎とそういうものは手に入っていなかったから、火を起こして馬車から引き摺り出した椅子を二つ並べただけ。
ベラから水を受け取り、火にかけて湯を沸かす。彼女は未だ火に慣れない。最初の時ほど怯えるような仕草は見せないが、それでも自分から近づこうとは中々しない。それを少し微笑ましく見つめながら、今日の食事の準備をしていった。
今日はいつものエンバクのバーを一本と、背の低い缶詰が一つ。開けてみると魚の缶詰だった。小さなサバのオイル漬け。冷たいよりは温かい方が良いに決まっているので、火の近くに暫く置いてから食べることにした。
鍋には簡易スープの素を入れる。ブロック状の固形物。本当は一つそのまま使うのかも知れないが、これはあまり数がない。だからいくつかの塊に砕き、何度かに分けて使っている。味は薄くなるが、それでも無いよりは良い。身体が温まるし、知らぬ間に積み重なる精神の疲れも解してくれる。
ベラにはいつも通りの燻製肉だ。彼女はこれがかなり好きになったようで、大事そうにガジガジ食んでいる。最初こそ一気に食べていたが、一度に沢山食べられるわけではないことに気が付いたらしい。それ以来、こうしてゆっくり食べることを覚えた。一つの成長だ。
もしも道中で何がしらミュータントに出会うことがあれば、ここにもう一つ巨大な肉塊が並ぶことになる。が、最近はそういうことも滅多になくなった。だから、ここ数日はこういった食事を一日に二食。それだけというか、それほどというか。自分がついこの間までよりも、遥かに恵まれていることは間違いない。
ベラとの食事は基本的に静かなものだ。本来、食卓というものはみんなで楽しく会話をするものだし、アリサも村にいた時はそうだった。
ところが、彼女は無口だから会話は進まないし、アリサもあまり積極性を持ってコミュニケーションを取ろうとはしない。いや、最初はアリサも話をしようとしていたものの、結局話の種に困って気まずくなってしまう。アリサ自身、あまり自分から話す方では無いのだ。いつしか諦め、これが日常になった。
ただ、それが緊張感に溢れているわけでは無いし、ギクシャクしているわけでも無い。一人と一匹の関係としてはそれこそ自然な形で、アリサも居心地の良さを感じていた。
食事を終え、スープをちびちび飲みながら休憩を取っていた。眠気が来たら寝るだけの、何もやることがない時間。こんな時、本でもあれば嬉しいものだが。
うとうとしていると、突然通路の奥から強い風が吹いた。火の粉が舞い、思わず顔を手で覆う。目を開けるとあれだけ強かった火が消えていた。視界が真っ暗に閉ざされ、手探りでライトを探す。
なんだか肌寒い。気温が何度か下がったような気がした。ベラが唸り始める。威嚇するように、からから、くるくると喉を鳴らしている。
「どうしたんです――」
これまでにないほどの警戒心と敵意を剥き出しにするベラに戸惑いながらも声をかけた直後、視界の端が青白く淡く光る。
通路の奥――自分達が来た方角から、それはやって来た。ゆっくりとこちらに近づいてくる。アリサはその不思議な光る存在に全く心当たりがなく、一瞬唖然として目を奪われた。
段々とこちらに近づくにつれ、その詳細が分かるようになって来た。人影のような形をしているが、それにしてはあまりに大きすぎる。胴は細く、背は高い。なにより、顔があるべき場所は削ぎ落とされたかのようにつるつるだった。
ベラが遂に飛びかかりそうになる。慌てて彼女の胴にしがみ付いて抱きとめ、未だ唸り続ける口を手で塞ぐ。最初は嫌がって抵抗したベラだが、なんとか宥め抑えて大人しくさせる。
直感だろうか。
アリサはそのままベラを連れ、光から隠れるように馬車の影に回り込んだ。息を潜め、強張った体を縮こまらせて。
光の人影は何かを探すような素振りを見せた。きょろきょろとあちこちを見渡し、先程までアリサ達がいた焚き火の跡を見つめている。
自分達を探しているのだ。そのことに気がつき、アリサはぞっとして思わずベラにしがみ付いた。彼女も気を利かせてくれたのか、アリサを守るように腕や尻尾を巻きつかせてくる。少し冷たいが、それでも確かな温もりを持つ肌に包まれて少しだけ安心できた。
暫くして諦めたのか、その得体の知れない何かはその場を離れた。来た時と同じように、道をゆっくり進んでいく。
たっぷり五分はあったような気がした。実際はもっと短いのだろうが。完全に光が消えて、音も静まり返った後ちょっとして、アリサは大きな溜息を吐いた。
もう流石に大丈夫だろう。物陰から出て来て、アリサは焚き火の火を戻した。
その日は殆ど眠ることができなかった。あんなものを見てしまってからは頭が完全に冴えてしまっていて、また戻ってくるかもしれないという恐怖にベラの側を離れることができなかった。
ベラはというと、いつものようにすぐ寝こけてしまったのだが。これでも何かがあればアリサよりも早く反応できるのだ、無理やり起きていることもないだろう。とにかくアリサは火を絶やさないようにした。
いずれにせよ、
次の日(次の日と言っても、実際の時間は分からないため感覚的なものだが)になってベラを起こし、旅の続きを始めようとした時になってアリサは道端に小さな塔らしきものがあることに気がついた。これもまた相当古いものだ、書かれた文字は掠れてしまって読めないし、半分崩れてしまっている。
アリサは少しばかり考え、これを直してから出発することにした。
今になって思えば、あれは「基盤」で言うアノマリーの類なのだろう。この短期間に二つもそんな怪現象に遭遇したことをアリサは恐ろしく思った。
では、昨夜出会ったあれは幽霊だったのだろうか。確証は持てないが、それでも多分そうなのだろうな、という根拠のない想像が頭に浮かぶ。
「基盤」には沢山ああいった幽霊の話があり、死んで供養されない魂が闇に囚われ、苦しみながら姿を表すと言われている。勿論、今まで見たこともなかったが。
ずっと昔に聞いた叔父の話を思い起こす。
いつだったか、そう、母親が死んだ後だった筈だ。十年も経った今では朧げなものだが、死んだ人間がどうなるのかと、子供心ながら中々に難しい疑問をぶつけた。
(叔父さんは、困ったような顔をしていたっけ……)
そうだ、そしてアリサに魂の話をした。
随分と昔に聞いた話にも関わらず、意外にもそのことを覚えていたことにアリサは少しばかり嬉しくなった。
死後の世界。そんなものが何処かにあるならば、きっと叔父も母親もそこにいるのだろう。そう信じたい。
けれども、アリサの脳裏にふとよぎったことがあった。
死後の世界だって無限の広さがあるわけではないだろう。長い人類史の中、しかも人類は一度は滅びかけて今に至っている。それこそ数えるのが億劫なほどの数、人間は生まれて死んでいった。
そんな大量の人間が死後の世界とやらに収まりきるのだろうか?
もしも。もしも死後の世界に限度があるならば。それが一杯になってしまった時、死んだ人間の魂はどうなるのだろうか。あるいは、もう既に一杯になってしまっていたのだとしたら。
(いや、やめよう……)
アリサはこの問いがどうしようもなく不毛であると共に、答えを出すことが極めて危険であるということを悟った。
この話はもう気にしない方がいいだろう。アリサは心の中でそう結論付け、鍵をかけて奥底にしまい込んだ。