その老婆が村に現れたのは唐突だった。彼女は突然村の入り口に設けられた監視所にやって来るや否や、大事な知らせがあるから村中の人を集めるようにと伝えた。得体の知れない人間である、警備の男達はどうしたものかと渋っていたが、騒ぎはすぐに狭い村中に広まり自ずと村人達が集まってきた。
丁度その時アリサは村の雑用を手伝っていた。だが、村の周囲の通路の巡回に出ていた叔父のことだと聞くや否や、急いでその場へと向かった。
十分に人が集まったことを見ると、老婆は叔父と彼が率いていたパトロール隊に何が起こったのか話し始めた。彼女曰く、文字通り全滅したと言うのだ。地下世界では何が起こるか分からないのは常識で、パトロール隊が全滅するという悲劇だってあり得たのかもしれない。実際、老婆は叔父の持っていた帽子を証拠として持って来ていた。誰もが半信半疑ながらその言葉を取り敢えずは信じ、そして村の未来を担う男が死んだことに失望していた。
アリサは、目の前が真っ暗になったような感覚に襲われていた。それまで持っていた籠を取り落とし、膝から崩れ落ちる。信じ難かったが、血のついたあの青い帽子は間違いなく叔父のものだ。出かけた日だっていつも通りだったのに、すぐ帰ると言っていたのに、一体どうして――。
彼女にとって叔父は全能だった。彼は彼女の知らないことを何でも知っていたし、村の中でも誰にも負けないくらい強かった。あの人が呆気なく死ぬだなんて、想像したこともなかった。きっと、それは村人の中にも共有されていた認識だっただろう。
村にとって、これだけで十分な一大事であった。しかしながら、魔女は嗄れた声を張り上げて言葉を続ける。まるで、これこそが本題であるかのように。
「その男は禁忌を犯し、悪魔に呪われた!周りの人間ごと蝕み、闇に取り殺されたのだ!」
そうして老婆は自分がそういうことに詳しい「魔女」であると主張し、その証拠にと人々の目の前で「魔法」を披露すると言い始めた。
「魔法」!地下世界においてそれは都市伝説のようなものでしかない。誰かが聞いた、誰かが見た――そんな噂話程度でしかなく、実際に見た人というのは誰もいなかった。つまり、それは存在しないのと殆ど同じようなものだ。いや、だった。その時までは。
皆が嘘吐きと叫び、巫山戯ていると憤慨していた。しかし老婆が何事かを呟き、手に持つ杖を勢いよく振ると、先端から赤い鞭のような炎が突然噴き出した。大勢がどよめき、後ずさる。そしてその炎がまるで意思があるかの如く地面を舐めるように這い出すと、言葉を失った。
もう魔女を信じるほかなかった。目の前で証拠を見せられたのだ。一体どのように否定すればいいのだろう。
魔女は全員が静まったことを確認するように周りを見渡すと、もう一度叫んだ。
「呪いはまだ終わっていない!終わっていないのだ!悪魔は未だ血に飢えている。男の血縁者から、その近しいものから、その隣人から……。そうだ!もう始まっている。男の家族はもう呪われているぞ!」
皆がアリサを見た。アリサに叔父しか肉親がいないのと同様、叔父にももうアリサ以外に肉親がいなかったからだ。彼女を見つめる彼らの眼には家族を失ったという同情の心は最早なく、腰の引けた恐れと厄介者を扱うような冷たいものだけが浮かんでいた。
冷水をかけられたような、ぞくっとした恐怖を覚えた。自分の心臓を誰かに掴まれているような不快感。
「呪いの連鎖が起こるぞ!村が滅びるぞ!」
魔女が仰け反り、天井に向かって唾をまき散らしながら絶叫した。アリサは耐えられなくなって、追われるようにその場を飛び出した。実際は誰も追うことはなかったが、それ以降誰も彼女に関わろうとしなくなった。文字通り誰一人、親しかった友達も、優しかった隣人も、皆離れていった。生まれ育った村に居場所はなくなり、一人ぼっちになった。
アリサはもういっぱいいっぱいだった。叔父を亡くした上、自分もまた呪われているなどと。しかも、それで村に災いを引き起こす?一体どういうことなんだ。
その後は酷い日々が続いた。彼女は実質的に村八分の状態に置かれ、日々の配給も打ち切られた。話かけようとしても、アリサの姿を見るだけで皆逃げていく。積極的に害そうとはしなかったが、それはきっと呪いとやらが自分にも移ることを恐れただけなのだろう。人間はいつだって逸脱したものに容赦がない。それが昨日までの親友であっても、何かが自分たちと違うというだけで十分差別の理由になるものなのだ。何かきっかけがあれば、それは恐れだけでなく悪意や殺意という形で現れるだろう。アリサは彼女なりに気がついていて、恐怖していた。
実際その危機感は当たった。そんな日々が二週間ほど続いたのち、魔女が「呪いを断ち切るには、その小娘|(アリサのことだ)を儀式にかけて殺さなければならない」とか言って、自分を殺そうとしていると聞いた。誰もアリサに話しかけないのだから、それを知ったのは完全に偶然だった。空腹に耐えかね、せめて残飯でも漁ろうと人目を避けて動いていたら、村人がそう話しているのを耳にしたのだった。
話していた人間はどちらもアリサの友達の母親だった。彼女たちも数日前まではアリサに笑顔を向けていたはずなのに、今では「あんな娘、村のためにもさっさと殺していまえばいい」と恐れと嫌悪の混じった表情で吐き捨てる。
正直なところ、魔女が本当のことを言っているのかは分からない。恐らく村人たちもそうであるはずだ。だが魔女はもはや絶対的な正義であり、価値観であった。
(もしかしたら本当に自分は呪われていて、死ななければいけないのかもしれない……)
アリサはそうも思ったが、ただの村娘である彼女に真実は分からない。分かるはずもなかった。
けれども一つ確かなことはある。どうであろうと関わらず、自分の命を捨てたいとは思わない。自殺願望なんて全く持ち合わせていなかった、ということだ。
だからきっと、そのことを知れたのは幸運だったのだろう。このままでは本当に命の危機がやって来ると思い、その日のうちに皆が寝静まった真夜中に村を逃げ出す計画を立てた。倉庫に忍び込んで物資を幾つか盗み出し、なけなしの食料や水を袋に詰めた。小柄な彼女では多くのものを持ち出すことはできなかったが、どちらにせよ持って行くものなんて殆どなかった。食糧や武器といった重要な物質の殆どは監視付きの別の倉庫に置かれていて、手の出しようがなかったからだ。
村の全ての入り口にはミュータントや盗賊からの防衛のため、武装した男達が詰める監視所が設けられている。本来外からの守りになるものだが、この時ばかりは内側からも人を抜け出させない障害になっていた。そのまま外に出してもらえるとは思えなかったし、捕まればどうなることか想像に難しくない。
だから本来なら人目を忍んで抜け出すことなど不可能に近かったが、彼女は抜け穴となる通気孔を知っていた。何かあった時に、と叔父が教えてくれたのだった。この抜け道は叔父が子供の時に見つけたらしく、他の誰も知る人はいない。
件の通気孔は村の外れにあり、捨てられた廃材の山に隠れていた。何とか手前のものをどかしてみれば入り口はかなり狭く、アリサが入り込むのも窮屈といった程だった。これならたとえ追手が来たとしても追いつかれることはないだろう。ここがどこに繋がっているか、それはアリサと叔父しか知らないのだから、回り込まれることもない。
最後に彼女は後ろを振り返った。生まれ育った村は寝静まっていて、明かりの光も殆ど無い。今までの思い出――友達と遊んだ記憶や、大人に褒められた記憶――が浮かんだが、それはもう裏切られ、穢されていた。振り払うことは何の苦でもない。むしろ、そんなことが浮かんだこと自体が彼女にとっては苦痛だった。
けれど、一つだけ違かった。亡き叔父の姿を思い浮かべると涙が溢れてきて、アリサはいつかの誕生日に贈られたメダルのペンダントを握りしめる。これももう形見の品だと思うと、どうしようもなく悲しくなってくる。
優しい叔父の記憶だけが、アリサの持つ思い出の中で輝いていた。ただそれだけで、村に残りたいという未練を生まれさせていた。
瞼を開く。涙に滲んだ視界は暗く、霞んでいて、いつもと全く違って見えた。
それが全てだった。
叔父は死に、その他の人達は自分を裏切った。もうこの村はアリサにとって同じものではなかった。「いつも」なんてものが、もう既に失われて消え去ってしまったことをアリサは理解した。
通気孔に蓋をしていた金網は簡単に外すことができた。そこからは冷たくてカビ臭い空気が流れてくる。外の世界の空気だ。叔父の話の中でのみ聞いて、実際には経験したことのない世界。想像だけの世界。とてつもなく恐ろしくて、とてつもなく広い。
その感覚を感じ取ってか一瞬躊躇したが、恐る恐るながらも一度手を掛けてみれば、大したことではなかったのだと気がついた。身体を縮こませて中に入り込み、出来るだけ物音を立てないよう、突き出している突起で怪我をしないよう、注意しながら這って進んだ。
こうしてアリサは故郷を捨てた。生まれて初めて、村の外へと手を伸ばした。
実際やってみれば、想像していたよりもずっと簡単なことだった。