初めは薄ぼんやりとした意識だった。
五感の全てに靄がかかり、まるで水の中にいるようで。アリサはふと、生まれる前の胎児の感覚はこのようなものなのだろうか、と考えた。恐らく、二度とは経験するはずのないものだ。
しかし、その心地良いとも何とも言えない感覚が引いていくのに従って、鈍い苦しみが激しくやってきた。先程とは真逆の不快感。
後頭部をハンマーで叩かれたような頭痛、全身を何処かに打ち付けたような痛み、そして単純な寒さ。
次第に鈍痛が末端の神経から頭の芯に響くようなものになり、それに引き摺られて自我が戻ってくる。染色材が水に拡がるように、ジワジワと。それでも身体の状態は最悪で、精神的にも最悪の気分。
どうにもおかしい。それでも意識はまだ薄ぼんやりとしているから、状況が上手く把握しきれない。
昔、高熱を出して倒れた時のことを朧げながら思い出す。タチの悪い風邪でも引いたのだろうか、アリサは呑気にもそう考えた。
きっと叔父さんは温かいベリーのお茶を出してくれる。蜂蜜をふたさじ、ピンク色の甘いそれは風邪を引いていなくても子供達は飲みたがる。アリサだってそうだ、甘味など味わう機会は滅多にないのだから。
眼をゆったりと開けるが、ぼやけた視界が回復するのに暫く時間がかかった。その間、ゆっくりとだが取り戻した理性が認識をまともなものにしていく。視界が明瞭なものになるにつれ、周りの状況がしっかりと見えるだけでなく、それを問題なく認識する力も何とか得た。
怠い身体を起こし、一度落ち着いて周りを見ると……アリサは自分が全く知らない場所にいることに気がついた。
ここは少し開けた空間のようで、少し離れたところにある天井に開いた大穴からは、勢いよく水が流れ込んでいた。地面には水が薄く張っているものの、何処かに流れ込んでいるのかあまり深くはない。薄暗いが、壁や天井に張り付いている緑色の淡い光を発するキノコやコケのおかげで周囲はぼんやりと照らされ、周囲を確認する程度ならば十分だ。
自分の記憶をいくら漁っても、こんな場所に見覚えはない。当然自分の部屋ではないし、かといって村の何処かでもない。
それはまさしく叔父の話の中で聞き、想像しただけの景色の一つ。それが今、現実のものとしてアリサの目の前にある。
(そっか……)
アリサは思い出す。自分が故郷を離れたこと。永遠に思えるような暗闇を歩いてきたこと。そして、ミュータントに襲われたこと――。
色々なことが頭に浮かんでは消えた。しかし何故だろうか、そのどれもがレンズを一枚通したかのように思え、どうにも自分自身ではなく他人事のように感じた。ついこの間までの人格と、今の自分の人格に連続性を感じられない。朧げで、薄薄としていて――そんな不思議な感覚。
一度死にかけて何か吹っ切れたのだろうか、とアリサは思う。死に瀕して人が変わってしまうなど珍しくもないが、現実感がないのもまた当然と言えた。故郷で平和に暮らしていた頃の自分に、今の状況を理解できるはずもない。それと同様で、今となってはかつての日常を信じることができなかった。
鈍痛はずくずくと続いていたが、状況を把握して落ち着いた頃には、精神はだいぶ落ち着いていた。いや、むしろ冷めていた。自分自身を一歩引いた目線から見ていた。
あの時、アリサは自分が死ぬという確信を紛れもなく抱いた。受け入れがたい不条理に対する憤りと恐怖心、そういった感情を超えた先にあった一つの悟り。それはきっと生物的な本能だ。故に、己がまだ生きているということが、正直信じられなかったのだ。運が良かったのか、酷い怪我をしているような様子もない。文字通りこれは夢なんだと思った方が違和感がなかった。
ただ、その運の良さでさえいつまで続くものか。いや、何の意味があるものか。アリサの頭は諦念の感情でいっぱいになっていた。
恐らく、自分は壁を突き破ったあと、運良く何処かの水路に落ちたのだろう。それに流されてここに行き着いた。どれだけ長い間水に浸っていたのか分からないが、全身はずぶ濡れで服もボロボロに擦り切れ、持っていた荷物も殆どを無くしていた。残っているものは首にかけていたメダルのネックレス程度か。形見を無くさなかったことは嬉しいが、これが今の状況に役に立つことはないだろう。
体温はかなり下がっていた。この状況でよく目を覚ますことができたと思う。いや、もしかしたら目を覚さない方がよかったのか。
なにせ希望が何も見えない。無駄に苦しみを長引かせるだけかもしれなかった。
「なら、大して状況は変わらない、よね」
ぽつりと呟く。それは望外のところから現れた考えで、一瞬遅れてアリサは驚いた。
元々絶望的だった状況が更に悪化したところで、大して何も変わらない。最悪が最悪になるだけだ。なら、気にするだけの意味もない。
ふらり、と危なっかしくアリサは立ち上がった。暫く気絶していたとはいえ、体力は殆ど回復していない。生まれたての家畜の如く膝がガクガクと震え、一歩を踏み出すどころか立つことでさえ困難だ。体を動かしたせいか、今まで大量に飲み込んでいた水を咳まじりにゲーゲー吐いた。
だがそれでも、行けるところまで行ってみよう。
気を持ち直したわけではなかった。むしろ、それはある種の現実逃避だったのかもしれない。けれどもここに突っ伏しているよりも身体を動かしていた方がまだ意味があると思い、アリサは取り敢えずこの空間を探ってみることにした。
多くは望まない。期待しない。どうせ裏切られるだけだ。だがもしかしたら、せめてこの寒さくらいは凌げるかもしれない。
◾︎
空洞は広く開けていたが、一本の道のようになっていた。どちらに進めば良いのかは分からないし、アリサは取り敢えず目の前の方向に向かうことにした。ただ、進んではみたものの暫く行ったところで行き止まりに突き当たった。瓦礫が天井から崩落していて完全に塞がれてしまっている。水の流れはそちらに向かっているから、この先にも空間があるのだと思うが、少なくとも自分が通れそうなスペースは見当たらない。
そして、そこにあったのは瓦礫だけではなかった。端の方に、瓦礫にもたれかかるように座り込んだ人影があったのだ。暗がりだから一瞬人間かと思い、声をかけようと近づいたが、それが半分白骨化した死体であることに気がついた。
殆どかけただけの衣服はボロボロで、残った人体の黒ずんだ片鱗が異臭を放っている。腐敗のせいで顔はぐちゃぐちゃに損傷していて、片目はなくなりもう片方は飛び出ていた上、半分溶けていた。
それだけではない。瓦礫のそばには流れ着いたものと思われる、大量の骨が散乱していた。人間のものだけで何人分かも分からない。それ以外の動物の骨も漂着していて、さながらここは墓場のよう。その中にこの間遭遇した大鼠のミュータントよりも巨大な頭蓋骨を見つけて、アリサは戦慄した。
思わず目を背け、すぐにでも引き返そうとしたところ――アリサは様子を確認するために近づいたため、見えてしまった。死体が手に持っている、銀色に鈍く光る容器が。
それは多分、何かの缶詰だった。恐る恐る、一度は離れかけた死体に近づき、それを手に取ろうとする。死体の指は死してなお容器をがっしりと掴み、指を外すには少し苦労しなければならなかった。結果的に指が二本千切れたところで、アリサは缶詰を手に入れることができた。
こちらも切羽詰まっているからだろうか。死体からものを奪うことに関しては、罪悪感らしきものはあまり感じなかった。どうせ、この人にはもう必要ないものだと思った。しかしそれでも、初めて触れる死体――それも腐ったもの――は、酷く気味が悪かった。
瓦礫にも所々生えている光るコケやキノコにかざして見てみたところ、外装は汚れていて何も読み取れない。代わりに、アリサは容器には爪で削られたような細かな傷や、何かにぶつけたような凹みが沢山あることに気がついた。
どうやらこれは開けるために専用の器具が必要なもののようで――恐らく、あの死体はこれを結局開けることができないまま、飢えか何かで死んだのだろう、と予想がついた。
アリサも何も持っていないのだからこれを開けることはできない。空腹の中、食料らしきものを折角見つけたのに食べられないとは失望する気持ちが大きかったが、なにより自分も現状を何とかしないとこの死体と同じ運命を辿るだろう。嫌な想像が頭に浮かぶ。
結局、収穫はそれだけだったが、完全に徒労だったわけではない。行きよりも少しだけ元気を取り戻したアリサは、今度は反対側へと進むことにした。
だが、反対側も同じようなものだった。少し進んだところで瓦礫が崩落していて、どうにも通れそうにない。つまるところ、ここは完全に閉塞した空間だった。
「基盤」自体が相当古いのだから、人の管理の手が及んでいない、居住地から離れた場所ではこういったデッドスペースは珍しくもないという。アリサは叔父からそんなことを聞いたことがあった。そういった場所に入り込んでしまった場合、抜け出すには基本的に元来た場所からになるということも。つまり、この場合は天井――未だに水が流れ込んでくる、五メートルは頭上の穴であった。流石に自力で這い上がることはできない。
あまり大きな空間ではなかったから、体力の続く限りアリサはこの場所の探索を続けた。もしかしたら何が見つかるともしれず、あるいは動くことをやめたらもう立ち上がれないかもしれないと思ったから。
その結果として、アリサは妙なことに気がついた。ここの空間は至る所にキノコやらコケやらツルやらが群生しているのだが――一箇所だけ、不自然に綺麗な場所があった。どういうことか、ここの壁だけ植物が張り付いていないのだ。まるで自分から避けていったかのように、ぽっかりと空白が開いてしまっている。
よくよく見てみると、心なしか表面も他の場所よりも滑らかで、アリサはもしやと思い至った。試しにコンコンと手の甲で壁を叩いてみれば、明らかにここだけ音が違う。
ここの後ろには空間があるのだ。理由は分からないが、ここは元々壁などなく、後々埋め立てられたのではないか。
すぐに手ごろな瓦礫の塊を幾つか持ってきて、壁を殴りつけ始めた。壁は予想以上に脆く、何度も叩くとやがて手を突っ込める程度の穴が空いた。その先の空間は真っ暗で、こことは違う嫌な空気が流れてくる。湿っぽくて冷たいだけではない、かといって埃っぽいだけでもない、何処か粘つく別のものを感じる。アリサは全身の毛穴を突くような不気味な違和感に、思わず生唾を飲み込んだ。
だが、望みはここぐらいだ。これはまさに目の前に垂らされた、得体の知れない糸。取らないという選択肢はない。
アリサは一瞬だけたじろぎ、またすぐに穴を拡張するべく腕を振り続けた。
三十分ほど作業をしただろうか。穴は今や大きく広がり、アリサ一人が屈んで入ることぐらいならできそうだった。
穴の先は真っ暗で、どれほど続いているのかもよく分からない。こちら側の空間は手元くらいなら見えるほど明るいのだが、その光が全くこの先の空間には入り込まなかった。それは酷く不自然なほどに。光さえこの闇を恐れているように思える。
どうして埋められていたのか。壁の脆さからしても、つい最近になって作られたわけでもなさそうだったが、その間植物は全く寄りつこうとしなかった。
疑問はどうにも尽きないが、進んでみるしかない。もしかしたらその理由が分かるかもしれないし、何がしら自分の助けになるかもしれない。
アリサは一際強い光を放つキノコを幾らか集めて束にし、松明代わりに持って穴の先の空間に足を踏み入れた。やはりというか光は全く通らず、むしろ濃厚な闇が淡い光を吸収しているように見える。
明らかにこの場所はおかしい。嫌な予感がする。叔父からですら、こんな場所の話は聞いたことが一切なかった。
闇にはもう慣れたと思っていた。あれだけ長いこと真っ暗な中を歩き続けていたのだから。けれども今のアリサは暗闇を歩き始めた始めの時と同じくらい、この闇の中を進むことに躊躇していた。
あの慣れ親しんだ暗闇とは何かが違うのだ。それはどうしてか理解していた。けれども、肝心のその何かの正体なぞは、アリサに皆目見当がつくはずなかった。