瓶詰めの終末   作:eliS*m

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5、異形 前編

 穴の先には目印になるようなものもなく、自分が真っ直ぐ進んでいるのかも分からない有様だった。

 トンネルを進んでいた時は、横幅もそれほどない場所だった。だから最悪壁に手を這わせていればなんとか前に進むことができた。しかしここは横幅もかなり広く、まさに大空洞と言っても差し支えがないほどがないのではないだろうか。

 

 光が殆ど足元程度しか照らせないため目は効かず、実際の大きさは全く把握しきれない。それでも、足音は何処か遠くの方まで反響して響いている。

 

「誰か、いませんかー!」

 

 不安感からアリサは大声で呼びかけてみた。声は足音と同じように反響し、エコーのように繰り返しながらか細く消えていった。

 当然、返事が返ってくることがない。期待もしていなかった。

 

 歩き続ける。上っているのか、下っているのか。

 不意に、何かが足に当たった。いや、何かに引っ掛かった。

 何だろうと思い、足元を光で照らしてみて――アリサは言葉を失った。

 

 それは、人間の形をした何かだった。地面に伏した胴には太い筒状の金属杭が突き刺さり、タイルの床にそれを縛り付けている。

 長く、真っ白な白髪はアリサに骨を連想させた。色素が異常なほど薄い腕なんかは干からびて、萎びれている。一見人間のように見えるものの、古びた黒いコートの下からは何本もの虫のような脚が伸びている上、アリサの胴ほどはありそうな尻尾が生えている。肌や髪の色とは違い、サビのような、あるいは肉のような赤茶色。白髪の中には歪な形をした角や、尖った耳さえ見えた。

 

 ミュータント。思い浮かんだのはその言葉だったが、これほど人間に似た種類は聞いたことがなかった。あるいは新種なのだろうか、それにしたって不思議で不気味だ。

 下半身や一部の身体的特徴は人外のそれのものの、上半身だけなら殆ど人間のもの(恐らくは女性だ)で、それこそ人間に別の生き物の特徴を貼り付けたような――そんな、歪な生き物。

 

(もう死んでる、よね……)

 

 その異形は明らかにミイラ化していた。外にあった人間の死体のように腐敗はしていなかったが、萎びれたそれは明らかに生きてはいまい。

 

(あれなら、もしかして……)

 

 異形に少しばかり注意は引かれたが、それが死んでいるならばどうでもいい。そんなものよりアリサの目に止まったのは、ミイラを突き刺している錆びた杭だった。

 先端はかなり尖っていて、槍のような印象を受ける。少々大き過ぎる気もするが、アリサはあれを使えば先程拾った缶詰に穴を開けることもできるのではないかと考えた。

 

 ミイラから杭を取り除こうとするが、骨か何かに引っかかっていたのかもしれない。中々上手く取り除くことはできず、左右に捩ったり捻ったりしているうちに勢い余って手が滑り、錆びてボロボロになった表面で手の平が切れた。

 

「痛ッ……」

 

 血が飛び散り、ミイラや床に降りかかった。鋭利でもないもので切れたせいで、切ったというより抉れたというに近かった。傷はあまり深くはないが、それでも痛いものは痛い。ただ、その苦労もあって杭を取り出すことができた。

 

 缶詰を床に置いて足で押さえ、蓋の部分に先端を押し付ける。何度か体重をかけてみれば、ブシュッと汁が漏れる音と共に貫通した感覚がして穴が空いた。ぐりぐりと捻って穴を大きくする。

 

 はたして、中身は豆のスープだった。一体いつのものなのか分からないし、色も少しばかり黒ずんでいる。

 ただ、匂いは酷くない。少なくとも腐ったりはしていなかった。手の平を切っていない方の指を突っ込んですくい、一口食べてみる。味も悪くなかった。なにより久しぶりにありついた食事だ。元々大して美味しくもないスープなのだろうが、それでもこの時ばかりは今まで食べたどんなものよりも美味に感じた。

 自然と涙が溢れてきた。一言も発することなく、ただただ目の前の食べ物に集中していた。

 

 だからだろうか、アリサは目の前の缶詰の中身がなくなるまで、自分の周りの異常に気がつかなかった。

 

――ぴちゃ……ぴちゃ……。

 

 自分の後ろから水音が聞こえた。何かを舐めるような、そんな音。はっとなって振り返るが、この暗い空間ではその先に何がいるのかなぞ分からなかった。

 それでも、そこには何かがいるのだという確信を受けた。

 

――かちかち……ぎちぎちぎち。

 

 音が近づいてくる。

 最早言葉は上げられなかった。喉元を締め上げられた――実際はそんなことはなかったが――ような感覚があり、声どころか呼吸さえまともにできなかった。

 

 闇に二つの光が浮かび上がった。赤い、緋色の光。一瞬遅れて、それが眼だということに気がついた。射通すような視線が、こちらをじっと見つめていた。

 ずい、と影がこちらに身を乗り出してくる。

 

 それは先程のミイラだった。だがそれは最早干からびてなどおらず、生気をまるで感じさせない白い顔をこちらに向けていた。

 開いた口は耳まで大きく裂けていた。下顎は複数に鋭く割れていて、虫の口器のような構造を覗かせている。二股に分かれた細長い舌をちろちろと蛇のように扱い、床に落ちたアリサの血痕を舐めとっている。

 

 アリサはまだ傷の止血をしていなかったことに気がついた。

 もしや、血の匂いに反応したのだろうか。思い至って傷口を服で拭おうとするが、どう考えてももう手遅れだった。

 

 異形はずりずりと床を這ってアリサの元にやって来る。その動きは怠慢なもので、その場を走って逃げれば追いつかれるはずもないものだった。だが、アリサは身体が石になったかのようで指一本動かすことができなかった。

 そんな内に床に放置していた杭を異形が尻尾で払い、視界の外に消えていく。唯一の武器らしいものは失われ、化け物がすぐ目の前に近づいていた。

 

――からから、くるくる。

 

 喉を鳴らして顔を近づけてくる異形。アリサの顔からすぐそこに異形の青白い顔がある。吐いた冷たい息が顔にかかった。味見をするかのように、細長い舌が頬を舐めねぶる。

 それはまさしく怪物だった。化け物だった。異形だった。あるいは――一体どのように表現すればいいだろう。アリサの頭の中に、その冒涜的なナニカを形容する的確な語彙が浮かぶことはなかった。

 

 恐怖、嫌悪、忌諱……。色々な感情が鬩ぎ合い、頭の防波堤を超えそうになる。

 目の前の視界が狭まっていく。淵を黒が塗り潰していく。瞳孔が収縮し、見開いた眼からは液体が流れ始める。心臓が痛いほど強く肋骨を叩いているのに、酸欠に陥ったかのように息苦しい。身体が痙攣している。肉体が、精神が、目の前の存在に犯されている。

 

 遠くなる意識の中で、アリサは辛うじて言葉を紡いだ。

 

「あなた、私を食べる気なんですか」

 

 譫言だった。本当に発したかどうか、自分自身でも分からない。自らの耳にすら届いたか分からない、絞り出したかのようなか細い言葉。

 しかし、アリサは間違いなく返答を聞いた。

 

「いイや」

 

 気がついた時には異形は顔を遠ざけていて、代わりにアリサの出血した掌を舐めていた。

 どれだけ間、意識が遠い場所に行っていたのだろう。時間感覚は完全に狂ってしまっていた。かなり長い間明瞭な意識が消えていたような気がするし、かといって実際は一瞬だったのかもしれない。

 

「あまイ……」

 

 ぽつり、と嗄れた声が響いた。アリサは口を開いていない。ならば、この空間では言葉を発する存在は目の前の異形以外の何者でもなかった。

 

 何故だが、最早嫌悪感というものは感じなかった。恐怖というものも消えていた。あるいはそれが限界を超えてしまったが故か。

 アリサの精神はどうしたことか正常なものに戻っていた。それどころか、目の前の異形が何処か儚くて脆いものにさえ見えてくる。

 

 どうやらこの化け物はいきなりアリサのことを食べてしまおう、というわけではないようだった。暫くして口を離し、その赤い眼でアリサのことを見つめてくる。その中に敵意や害意というものは感じられない。それどころか、それは人生の中で見たことがないほど純粋な視線だったかもしれない。

 

 手の平を見る。異形がついさっきまで舐めていたからか唾液に汚れ、薄暗い光の中でてらてらと光っていた。が、間違いなく出血は止まっていた。傷口さえ見えず、怪我をしたことが嘘なほど綺麗になっていた。

 一体どういうことだろうか。こんなすぐ治るほど浅い切り傷というわけではなかった。この異形に舐められたせいで治ったのだろうか、そういう予想に行き着くのは当たり前のことだった。

 

「あなたも、一人ぼっち?」

 

 自然と声をかけていた。

 異形は首を傾げるだけで返答しようとはしない。だが、表情や顔色は明らかに理性のそれを浮かばせていたし、言葉を理解していないわけではいなさそうだった。

 ただ純粋にどういう意図なのか分からない、という様子だった。

 

「私、アリサっていうんです。あなたはなんて言うんですか?ここに、ずっと一人?」

 

 言葉を変えて聞いてみる。放たれた言葉を噛み砕いているのだろうか、ややあって異形は返答を返した。

 

「ナマエ……はなイ。ソう、ずっとヒトリ」

 

「はは、じゃあ私と一緒。二人ぼっちですね」

 

 そう言うと、異形は何処か困惑した様子を見せた。

 

「ふタり……ぼっチ……ふタりぼっチ……」

 

 二人ぼっちという言葉を連呼しながら頭をゆらゆらと揺らす。その姿はアリサよりも歳上のものに見えるのに、どうしてか子供の仕草のように思えた。

 

「……疲れました。少し寝させてください」

 

 未だに連呼を続ける異形の横でアリサは身体を伏し、横になった。太い尻尾に背中を預けるような形だ。異形の身体は冷たかったが、それでも久しぶりに感じる自分以外の体温に少しだけ安堵した。

 この得体の知れない異形に襲われるかもしれない、という不安感はなかったわけではない。冷静に考えれば、何故自分が未だにこの妙ちきりんな生き物から逃げないのかよく分からなかった。

 けれども疲労感は強く、加えて少しは腹を満たせたことから眠気は争い難いものになっていた。

 

 目が覚めた時には、異形は側から消えていた。

 

 

 

◾︎

 

 

 結局、あの後もこの場所から脱出する方法は見つからなかった。

 

 あの異形がいた空間だけは広過ぎて探索しきれていない。闇の深さから来た方向が分からなくなり、遭難する可能性が極めて高かったからだ。

 だが、少なくともあの大穴を抜ける方法は見つからない。瓦礫を少しずつ積んでいけばあるいは、とも思ったが、大穴からは絶え間なく水が流れ落ちてきている。ある程度までなら可能だろうが、恐らく崩されてしまうだろう。

 あるいは通路の両端を塞いでいる瓦礫の山を取り除けばここから抜けることはできるかもしれないが、それにはかなり長い時間が必要になる。

 

 そうなると、この閉塞された空間で暫くの間生き抜かなければならない。水の問題はないが、食料に関しては大問題だった。群生している光るキノコやコケ、あれは食べ物にならない。人間にとってはむしろ有毒なものなのだ。

 この間の缶詰のようなものが見つかれば一番良いのだが、あんなものはそう滅多に手に入らないだろう。

 

 火が手に入らないのも大きな問題だった。燃やせそうな廃材は多く流れ着いていたから、マッチなりライターなりあれば暖をとれただろう。だが荷物は流されてしまったし、そもそもそういった明かりになるものは使い切ってしまっていた。

 この空間は「基盤」の中でも相当深いところにあるのかもしれない。水が流れているのだから気温が低いのは当たり前だが、それにしても耐えがたい寒さがアリサの体力を蝕んでいた。

 

 「基盤」は地下深くまで根を張っている。地上に近い上層は侵入してくるミュータントや汚染の影響が酷く、人類はあまり居住地を構えていない。主に人類の生息圏であるのは中層であるが、その下にも空間は広く、深く続いている。下層、深層と呼ばれる場所だ。ここまで来ると浸水や崩落、ガスの問題が激増し始める。当然、そんな場所に人類の手は殆ど伸びていない。

 アリサは自分がこの階層にまで落ちてしまったのではないか、と考えていた。もしもそうだとすればここから元々の目的である何処か別の居住地を目指す、というのは遥かに困難に思えた。

 

 だが、だからといって諦めてしまうわけにはいかない。本来なら絶望し、自殺さえ選ぶかもしれない状況の中だったが……魔女に追われ、故郷を捨てた時の経験がアリサに生への異常な執着心を植え付けていた。

 絶対に、絶対に死んでたまるものか。それだけの一心で、殆ど執念だけで、アリサはなけなしの生にしがみ付いていた。

 

 ある時、例の異形がまた姿を現した。あれ以来彼女は姿を見せていなかったが、今回は口に大鼠のミュータントを咥えていた。

 ちょうどその時アリサは瓦礫を撤去するがてら何か使えそうなものがないか崩落した山を漁っていたが、突然真横にミュータントの死体がぬっと現れたので死ぬほど驚いて飛び退いた。

 一度そいつの同族に殺されかけたのだ。トラウマや恐怖を感じるのも仕方ないところだったが、そんな様子を知ってか知らずか、異形は死体を落としてアリサに平坦な声で告げる。

 

「あげル」

 

「え……いや……」

 

 アリサは困惑した。

 一応彼女に自分をどうこうしよう、という気はないのは理解しているが、それでも何かくれたりするような関係ではないとも理解していた。

 もしかして懐かれたのだろうか、アリサは考える。考えて、尋ねた。

 

「どうしてこんなのくれるんですか?別に私、何もしてませんよ」

 

「……オマエは、ボクをタスけタ。あの、イタいノをヌいてくれタ。だかラ、あげル」

 

 辿々しく言葉を紡ぐと、背を向けてのろのろとあの闇の空間に去っていった。声をかけようとしたが、彼女は振り返ろうともしなかった。

 

 大鼠の死体を見る。半分はあの異形が食べたのだろうか、齧られていて内臓が若干溢れていたが、それでも十分大きいと思うほどでっぷりと太っていた。

 アリサは当然空腹だった。あの缶詰以来、何も食べていないのだから。だが、だからといって大鼠のミュータントをまるごと食べられるわけでもない。

 こいつは人間が食べられる生き物ではある。実際、アリサも村にいた時に何度か食べたことがあった。地下世界では貴重な肉の一つとも言えよう。だが生臭いのは酷いし、噛み切るのも大変なほど繊維が固かった。

 なにより、アリサは肉を焼く火がないのだ。異形はこんなものを生で食べられるのかもしれないが、人間のアリサにはかなり難しい。それはただのゲテモノで、危険な行為だ。

 

(いや……流石に無理……)

 

 少し考えて、この鼠は放置することにした。空腹は辛いが、こんな状況では病気にかかるのも恐ろしかった。


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