扉を開けた先――あの空間の外はちょっとした部屋になっていた。
荒れ果てた場所だ。かつては物置か倉庫として使われていたのかもしれない。棚や木箱があちこちに置かれていたが、その殆どが壊れている。
地面には雑多なゴミが撒き散らされていて、部屋の端には蜘蛛の巣が張っている。どうやら長年放置されてきたようだが、焚き火の跡があったり、その周りは掃除されていたりと最近になって誰かやってきた形跡があった。
十中八九はあの男だろう。一人分の形跡しか見当たらないことに、アリサは取り敢えず安堵した。
彼の荷物はざっとしか確認できていなかったが、せいぜい一人分の旅支度としか言えない量だった。だがそれだけでは何とも判断できないし、不安だったものの、結局のところ彼に同行者はいないようだ。
あらかた、彼は単独の旅人か探索者の類だったのだろう。「基盤」の未探索地域を捜索し、価値あるものや新たな発見を目指す人々は結構いると聞く。
彼は偶然あの空間を見つけて、好奇心故に入ったのか。それとも……何か目的があったのか。本人が死んでしまった今では想像することしかできないが、大体はそんなところだろう。
ただ、どうしてこんな場所に繋がっていたのか。それは完全に謎だ。アリサには分からないが、取り敢えず部屋の外に出てみることにした。ベラはあの小さい扉を潜るのに若干手間取ったようだったが、抜け出してきたようでアリサの後ろに着いてくる。
先程のような気密扉ではない、普通の扉を開けて部屋の外へ抜けると、所狭しと計器や操作盤が並ぶ階段状の大部屋になっていた。正面にはガラスが嵌め込まれているが殆ど割れてしまっていて、その向こうには巨大な空間が広がっている。
どうどうと大質量の水が流れる音が聞こえていた。地下特有の籠もった重低音。水路というには大袈裟過ぎた。アリサが今まで閉じ込められていた場所も上から水が流れ込んできて煩かったが、それとは比べ物にならないほど。湿気を含んだ冷たい風が窓の割れた穴から吹き込んでいて、肌寒い。
ライトで向こうの空間を照らしてみる。幾本も並んだ巨大なパイプから水が滝のように流れてきて、下の水路に降り注いでいるのが見えた。
旧文明の浄水施設か何かだろうか。現人類によっては最早管理されていないようだが、「基盤」のインフラ施設の一部だ。そうなると、ここは施設の管理施設といったところだろう。
アリサは適当に机の上を見ながら降りていったが、特に目ぼしいものは見つからない。ずっと前に使えそうなものは持っていかれてしまったのか、機械の一部は分解され、中身がバラバラに散らばっていた。
部屋を抜け、廊下を真っ直ぐに進む。突き当たりの扉を開けると先は張り出しになっていて、外の大空間に繋がっていた。
壁に取り付けられた長い階段が下まで伸びているが、かなりの高さがある。しかも周りの手すりは既に壊れたか取り払われたかしたようでなく、杭が刺さっていたような穴があるだけだ。
どうやらこの階段自体が後付けらしく、無理やり作ったような印象を受ける。所々の段が抜けていたり、状態が良いとは決して言えなさそうだ。
アリサは階段を降りようとして、ゆっくりと足を踏み出した。壁に手を沿わせて。こんな高さは今まで経験したことがなく、否が応でも腰が震えた。
「ッ――」
細心の注意を払っていた。が、体重をかけた瞬間、足をつけた板が割れた。がくん、と身体のバランスが崩れる。それぐらいなら大して問題はなかった。けれども身体に思った通りの力が入らず、重心を取り戻すことができない。その場で何度かふらつき、落ちる、と思った時ぴたりと止まった。
「……あぶ、なイ」
ベラがアリサの腕を掴んでいた。彼女の腕の力は中々強く、少し痛い。いつもはもう少し優しく扱ってくれていたような気がしたが。
少し気になりはした。が、助けてもらった手前文句を言うことはできない。一度安全な場所まで戻ると、アリサは腕を離してもらって礼を言った。
「……」
ベラは言葉では答えず、ふるふると首を振る。どうしてか、そこにまた少しだけ違和感を覚えた。若干の不気味さを感じる。が、大した印象も受けなかったことから、一旦は意識の外に追いやることにした。
彼女に掴まれていた部分には、べっとりと血が張り付いていて、ぬるりとした生暖かい嫌な感覚がした。ベラの浴びた返り血はまだ乾いておらず、未だ血塗れのまま。そんな状態で腕を掴めば、血糊が付くのも当然のことだ。
動揺していたこともあってあまり気にしていられなかったが、これは早めに何とかした方がいい。下に降りたら、脇の水路で身体を洗ってもらおう。
血の汚れを一度指摘し、そう伝えるとベラは特に何か言うこともなく頷く。だが何を思ったのか次にした行動は突飛だった。彼女は突然走り始め、助走をつけると――張り出しから飛び降りた。
「ちょっと!?」
これは予想していなかった。アリサは驚き、色々なわだかまりが煮詰まっていた頭も一瞬空っぽになる。だが、直後に大きな水柱と音が聞こえた。ライトで照らすとどうやら彼女は下の水路に上手いこと飛び込んだらしく、ばしゃばしゃ水面が派手に揺れている。
思わず溜息が出る。そして気がついた。心配した。安堵した。この状況において尚、ベラの身を案じたのだ。
度し難い。己ながら、全くもって度し難かった。
彼女はひとしきり水浴びを済ませるとすぐ水から上がり、今度は壁を垂直に登ってこちらに戻ってきた。その動きは何処か虫のようで、見ていて気持ちの良いものではない。
壁を登れるのも知らなかった。ただ、この得体の知れない生き物の生態に驚くのは最早今更だ。
戻ってきたベラはずぶ濡れだ。アリサが言った通り全身の血は殆ど流してきたようだが、長い髪は顔にべっとり張り付き、全身から水が滴っている。コートも水を吸ってだいぶ重そうだ。
「ベラ、一体何やってるんですか」
「……オリるテマ、はブけタ」
彼女はそう言うが、省けたとは一体どういうことか。勿論他に階段なりなんなりが見つかればもっと安全かもしれないが、どっちにしろ降りることには変わりあるまい。そのことをアリサは困惑しながら話すが、ベラはアリサに尋ねる。
「ナンで、オリる?」
「何故って、それは――」
続きを言おうとして、しかし思い浮かず言葉に詰まる。
何故降りるか。考えてみれば理由は大してなかった。閉じ込められた場所から抜け出した以上、元々の目的である居住地を探すということなるが。そういった今後の話をアリサは全く考えていなかった。
とにかく先に進みたいという気持ちばかりが早ったが、正直なところそう急ぐこともないのだ。
「からダ、ヤスめテ」
じっとアリサのことを見つめ、目を離さない。
ベラにしては珍しく、自分の意思を主張する言葉だった。
なるほど、さっきの違和感の理由が分かった。ずっとベラはその気持ちを溜め込んで、伝えようとしていたわけで。
(本当、馬鹿馬鹿しい)
彼女の本質はまるで変わっていない。こうして顔を真っ直ぐ見ると分かる。それこそ初めて会った時から、殆ど何も。
抑揚のない口下手で、淡白で、無感情らしい。勿論その中には価値観の違いから来る本当の無関心というものもあるのだろう。だが実際の話、自己表現が苦手だからというのも大きな理由であることをアリサはもう知っている。
本当に、変わっていない。いや、むしろ変わったのは自分なのだ。アリサは一人、心の中で本音を溢した。
アリサは考える。
確かに、疲労感と空腹感は既に耐えがたい。今だけでなく、ここ最近はずっとだ。だから元々体力が殆どない状態だったのに、それから身体を無理やり動かして歩いてきた。
「……分かりました。そうしましょうか」
アリサはベラに同意すると、休憩が取れそうな場所を求めて一度施設の中に引き返した。あの大部屋なら安全だし、適度な広さもある。
彼女は乾かした方がいいだろう。風邪を引くかどうか知らないが、ずぶ濡れのままというのはそれはそれで問題だ。
探すまでもない。燃やせそうな廃材はそこら中に散らばっている。適当な量を見繕ってくると、早速、携行マッチを擦って火を起こした。
ベラはやはり火を見ること自体が初経験だったらしく、明確に怯えるような様子を見せてその場から距離を取るように離れた。野生の動物さながらと言ったところだ。
暫くするとアリサの背に隠れるようにして戻ってきたが、あまり近付きたがらない。だがそれでは身体も乾かないし、無理やりに彼女を火の前に引き摺り出した。
彼女の着ていた厚手のトレンチコートも脱がせ、水を絞ってちゃんと乾く位置に置いておく。
異形は下着を付けていなかった。着ていた服はどうやらあのコートだけだったようで、それ一枚脱がせれば全裸になる。
火に照らされる異形の身体は、正直な話かなり綺麗だという印象を受けた。水浴びはたまにあの水路でしていたようだから、身体が酷く汚れているわけでもない。
勿論その下半身は人間のものではない。一般的な人間の美的感覚、つまりアリサの感覚からすればそれは異形のものであり、醜いとは言わないまでも不気味なそれだ。しかし上半身は紛れもなく人間のものであり、真っ白で傷一つない肌が暖色の光に当たって光っていた。
怪我ぐらいなら何度だってする。かすり傷やシミ一つないとなると、それはやはり彼女の回復能力故。世の中の女は皆羨むことだろう。
アリサは視線を外した。ベラ本人は大して気にする素振りは見せなかったが、そういった趣味は持ち合わせていない。まじまじと見つめるのも変だ。
くぅ、と腹が鳴った。空腹を我慢するのもそろそろ限界だ。気分も落ち着いてきたから、食欲も戻ってきていた。
アリサは担いできた男のナップザックの中身を漁る。缶詰が何個か、携行食糧の袋も少し。替えの下着、水筒、燃料、小型ランプ、携帯ナイフ、弾薬、煙草、その他諸々。中身をひっくり返してみても、身分証明書になりそうなものはなかった。家族写真くらいならあっても良さそうだが、そういうものでさえなかった。
ベラが持ってきた時には袋は少し破けていたから、もしかしたら何処かに落ちたのかもしれない。あるいは男が身につけていたか。アリサは彼の死体を漁ることは流石にできなかったが、あったとしても血塗れで読めなかっただろう。というか、元々持っていなかった可能性だってある。
結局、彼が何者かは分からず仕舞いだ。名前すら分からず、どうしようもない。
食糧の入っている袋を開ける。脱穀して乾燥させたエンバク(オートミールのこと)を固めた棒状のバーが結構入っていた。他にも、ごろっとしたチーズの塊や燻製肉が少々。
柔らかいパンはなかった。地下世界では――特に、アリサが住んでいたような小規模居住地の大部分では――ライ麦から作られるふかふかの黒パンは高価な食べ物だ。アリサの村では祭日の日など特別な日には食卓に出されるが、それ以外の時は滅多に食べることがなかった。
安価な食事となると、カーシャ(粥)やシチー(野菜スープ)が一番になる。蕎麦の実のカーシャは特に一般的で、腹も膨れる。ただ、旅人にとっては調理に少しばかり手間がかかった。水も常に豊富にあるわけではない。
そういった場合に、乾燥させたエンバクのバーのような品は安価で保存が効き、軽くて持ち運びも便利と良い保存食だった。このまま食べることもできるし、水で戻せば料理にも使える。
他にも、保存食で言えば何度も繰り返し高温で焼いたハードブレッドのようなものもある。ただこれはエンバクと比べると高価になるし、準備に相当時間がかかることや、石のような硬さからあまり好まれなかった。
アリサはチーズを薄く切ってバーに乗せ、火で少しだけ炙る。やがて熱でチーズが溶け始め、鼻にその芳醇な香りが届いた。
一口齧る。エンバクのナッツのような香ばしい風味とチーズの濃厚な舌触りが広がった。
(美味しい……)
久々の文明的な食事。何年前に作られたかも分からない、得体の知れない缶詰とは比べ物にならない。というか、アレに感動していた自分が馬鹿みたいだった。
勿論これだって大した食事ではないのは確かだが。火に向き合い、ゆっくりとまともな食事に集中できるのは一ヶ月以上ぶりと言ってよかった。あの魔女が来てからは、そんな機会は殆ど無くなってしまったのだから。アリサは喉に詰まらせながらも、胃にものを入れていった。
ベラも匂いに反応したのか、鼻をひくひくさせている。少し分けて食べさせたが、どうやらあまり気にいらなかったらしい。一口食べると、それ以上は欲しがらなかった。
試しに燻製肉を与えてみると、こちらは気に入ったようだ。彼女に一枚与え、アリサは食事を終えて横になる。
久々の食事ということもあって胃袋が相当小さくなったのだろうか。元々小食なのもあったが、バーを二本も食べれば腹は一杯になってしまった。
これからどうすればいいのだろう。
腰を落ち着けてみれば、そんな迷いが頭を支配し始めた。
自分のこともそうだが、ベラに関してもそうだ。彼女を連れて行くべきか、それとも置いていくのか。それとも別の選択か。
思い付かない。思い付かなかった。
詰め込んだ中の廃材にまで火が回ったようだ。更に赤々とした炎の勢いはどんどん強くなっていく。その炎の中に、アリサは答えを求めるように見つめる。
正直な話、あの場を抜け出した、という実感はまるで湧いてこなかった。
ただ鈍感なだけで、少し時間を置けば実感も湧いてくるのかもしれない。だが、あそこを抜け出したからといって問題が解決したわけではなかった。未だ安住できる場所が見つかったわけでもなく、土地勘もないような場所を彷徨い続けなければならない。目的の達成にはまだまだ遠いわけだ。
ベラの扱いはもっと厄介で、これから先の物事を色々と難しくさせる。
この外見からして完全に人外の存在は、その中身も完全に人外であることを証明してしまった。少なくとも今のアリサにはそうであるということが理解できる。
例えば彼女を連れて行ったとしても、アリサの目的とする居住地を見つけた時、ベラは受け入れ難い存在なのは間違いなかった。
彼女を解き放ったのは自分自身で、責任はアリサにある。けれども、あの闇の空間に置いていくのがアリサとベラ両方にとって一番良いことに思えた。
それは果たしてただの厄介払いか、エゴに過ぎないのか。所詮、どう感じようが自己弁護であるのは薄々理解していた。
(眠い……)
アリサは疲れていた。眠気にぼやけた頭に色々なことが浮かぶ。
考えることは多い。しかもその殆どが今すぐ結論が出るとも思えないものばかり。
なんとかできないものだろうか、と思っているうちにアリサは眠りについてしまっていた。
夢は見なかった。