ムツキは医務室のベッドで悪びれる様子もなく呟いた。
先生の気を知ってか知らず。
当の先生は仕事に没頭する事で己の煩悩を打ち消していた。
シャーレの一角、午後の執務室。
書類が積まれた机に溜め息をつく。昨日よりも増えた書類、明日は更に増えているだろう。しかしやらねばならない。やらなければ、何を言われるだろうか。きっと恐ろしい事になる。
覚悟を決めて書類の壁を切り崩しにかかった私の目を、突然何かが塞いだ。
「だーれだ?」
鈴を転がして悪戯に笑う声がする。
「……ムツキ? いきなりどうしたの?」
「ピンポ〜ン! だいせいかーい!」
ゲヘナ学園の便利屋68に所属するムツキが、企みを両手に抱えて私の背後に立っていた。首に手を回して、体を密着させながら。
私はとりあえずムツキを離そうと、白くて細い腕を2回優しく叩いた。しかしムツキは離すどころか、余計に強く首を締めてきた。必然的に、体はより強く密着する事になる。
非常に不味い、様々な意味で不味い。
「ジタバタしちゃって、先生カワイイ♪ ほら、ギューってしてあげるよー♪ ギュー♪」
腕を叩けば叩くほど、ムツキが甘い声で私の首を締める。次第に視界が暗くなり……。
あ、川の向こうに誰かがいる……。
再び目を覚ますと、私はシャーレの医務室で天井を見つめていた。息ができるって素晴らしい。
ふと首を傾けると、ムツキが珍しく申し訳無さそうな顔をして人差し指を突き合わせていた。
「えっとー、先生ゴメンねー。そんなつもりじゃ無かったんだけどね……やりすぎちゃったかな」
「本当に死ぬところだった……。それで、そもそも何の用事だったの?」
「うん、先生と遊ぼうかなーと思ってね」
私は遊びで殺されそうになった事実に震えながらも、机の上に積まれた書類を思い出した。遊ぶ暇など無い、早く戻って仕事をしなければ。
「あれっ? 先生どこ行くの?」
「どこって、仕事に戻るんだけど」
「え〜つまんないの。せっかく遊びに来たのに」
つまらない……もはや小悪魔と言うよりも悪魔だ。
私は悪魔の誘いから逃れなくてはいけない。
「はい残念、逃がさないよー?」
ベッドに寝ている私が横に立つ悪魔から逃げる事は不可能であった。腕と肩を掴まれて私は身動きが取れない。とうとう私は悪魔に屈した。
「分かった、じゃあ30分だけね」
「わーい! 先生大好きー!」
「それで、何をするの? この部屋には何も無いし、見たところムツキも鞄を持っていないけど」
「んー? しりとりだよ」
しりとりなら命の危険性も、社会的地位の危険性も無いだろう。いや、あっては困るのだが。
ベッドに腰掛ける私と向かい合う形で、ムツキは向かいのベッドに飛び乗った。私は心の中で神に祈りを捧げた。ムツキの口が小さく開く。
「じゃあ私と中押し出ししりとりで勝負だよ♪」
神は悪魔の味方であった。
「なか……ゴメン、もう一度言ってくれる?」
「アハッ♪ 先生も欲しがりだね〜」
「いや、なんか変な言葉が聞こえてね」
「な・か、おし、だ・し、しりとりだよ♪」
これは罠だ。どこかに盗撮用のカメラが仕掛けられているかもしれない。そしてその罠にかかれば私は一生、生徒にセクハラ行為をした罪で犯罪者になってしまうのだろう。やはりムツキは悪魔。
「普通のしりとりじゃあ駄目なのかな? その、よくルールが分からないのだけど」
「え〜先生知らないの? じゃあ、ムツキが先生に手とり、足とり、教えてあ・げ・る♪」
「お、お手柔らかにね……?」
名称に反してルールは健全だった。基本は普通のしりとりで、特殊ルールとして中の文字を抜かなければならない。つまり「りんご」という言葉なら、「りで始まり、ごで終わる言葉」と伝える。相手はそれを元に、この場合は「りんご」と答え、次はごで始まり特定の文字で終わる言葉のヒントを伝える。どちらかと言えばクイズだ。
「じゃあ初めてやる先生からでいいよ? ムツキを倒せるかなあ? キャハハ、頑張ってね♪」
「なら“き”で始まり“す”で終わる5文字の言葉」
「かんたーん。“キ”ヴォト“ス”でしょ?」
「はい正解。ムツキの番だね、“す”からだよ」
「えーとね“す”で始まり“た”で終わる3文字の言葉、分かるかなー? “す”から、“た”だよ♪」
そう言うなりムツキは、近くの掃除用具入れから箒を取り出すと自分の足に挟んだ。箒を前後に激しく動かす様に、私の脳裏はある言葉を思い浮かべた。“す”で始まり“た”で終わる3文字の言葉。前後する箒、悪魔の罠、悪魔の微笑み。何か違う言葉を思いつかなければいけない……。
「す……」
「すぅ?」
「す、“す”が“た”」
「え? 今なんて言ったの?」
「だから、すがた。姿だよ」
私の完璧な答えにムツキは不満そうだ。狙った答えが得られずに動揺を隠せていない。
「じゃあ私の番。“た”で始まり“ち”で終わる12文字の言葉。難しければヒントをあげてもいいよ」
「“た”きのうしゅうへんそう“ち”」
「ば、馬鹿な……」
「多機能周辺装置でしょ? 例えばオフィスの複合機とかがそうだよね。先生、ムツキの事を甘く見ているんじゃないの?」
今度は私が動揺する番だ。流石に自分から勝負を持ちかけてきたのだ、相当な自信があって当然と言えるだろう。とすれば、私には不利すぎる。
そして今度はムツキの番だ。また先程の様な、先生泣かせの問題を出してくるに違いない。
「“ち”で始まって“い”で終わる3文字だよ♪」
「えっと……ちせい、知性とか?」
「ピーンポーン♪ せいかーい♪」
急にムツキの出す問題が簡単になった。先生が困る事も、泣く事もない問題だ。
「なら、“い”で始まり“せ”で終わる四文字熟語」
「え? 四文字熟語かー、ちょっと苦手かも」
いける、私は勝利を確信した。これで悪魔から開放されて仕事に取り掛かる事が出来る。
「“い”っしょういっ“せ”でしょ? 一生一世」
私は敗北を確信した。とてもじゃないが敵う気がしない。しかし次はムツキの番だ。まだ勝機があるかもしれない。次に正解さえすれば……。
だがムツキは何も言わない。
じっと私の目を見つめてくる。
薄く開いた窓から風が入り、白い髪が揺れる。
「えっと……ムツキ? どうしたのかな?」
「……せんせ♪」
ムツキが私の膝に飛び乗った。私の腰がベッドに重く沈み、ほんのり温かく、空気が甘い。
とろけるような視線が私に刺さった。
肩に優しく小さな手のひらが置かれ、そのままムツキが耳元で囁いた。息は熱く柔らかい。
「“せ”で始まって……“す”で終わる。ムツキと先生がとっても楽しくなれる事って、なーんだ……? くふふ♪ 先生分かるかなー?」
驚愕して動かせない私の視線の先では、ムツキが指で輪を作り、その輪に別の指で意味深な動きをしていた。悪略ここに極まれりだ。
「せ……」
「せぇ?」
「せ……」
「もっとハッキリ言ってよね、せんせ♪」
「せ……“せ”ん“す”! せんす! 扇子!」
「そうそうムツキと扇子で……え? 扇子?」
「そ、せ、扇子で遊びたいけれど時間が無いからまた今度ね! それじゃあ仕事があるから!」
「あれ? 先生? せんせーい? あれ?」
私は膝の上のムツキを隣に降ろしてその場から逃げた。もう、まともにムツキの顔を見られない。自分がどんな顔をしているかも分からない。
その後は、仕事をする事で気を紛らわせた。
因みに、後日ムツキと本当に扇子で遊んだ。