女子にひっぱたかれたことはあるか〜い
クレショフ効果
バチン
いい音が鳴った。肌と肌がぶつかった音だ。俺が平手打ちされた音だった。ひりひりとする頬に手を置いて。俺はただ、目の前で起きた一瞬の出来事に。ただただ唖然とする他なかった。何が起きた? この場所には俺とコツツミさんの二人だけ。俺の目の前には、嬉々とした顔で手を振り抜いたコツツミさん。は? え? なんで? 俺……え? 俺は知らない間に、コツツミさんに嫌われるようなことをしてしまったのだろうか。動揺で揺れる俺の瞳が、目の前のコツツミさんを初めてちゃんと捉えた。青みがかったサイドテールの黒髪。まつ毛の長いコツツミさんの瞳は、大人しいどころか力強くて。いつも静かだった口は、僅かにだが笑っている。俺が知っている、〝いじめられている可哀想なコツツミさん〟の姿はどこにもなかった。
「感想は?」
「???」
「感想」
「……は?」
「わからない? 突然女の子にビンタされたメツギくんの感想」
「……は?」
「メツギくんのこと〝バカだな〟とは思ってたけど。これはあたしが思ってた何倍もバカだわ」
コツツミさんの言葉に、俺は頭を抱えそうになっていた。いままでのコツツミさんからのあまりの豹変ぶりに、俺の理解が追いつかない。コツツミさんに聞きたいことは山ほどあった。だがその前に……なんで俺ぶたれたんだ? 単純に、コツツミさんを怒らせてしまった? いや、それはない。怒っているなら。興味深そうな目で俺を見たり、楽しそうに笑ったりしない。だとすると、考えられるのは一つ。コツツミさんは、〝面白そうだから俺をぶった〟ということだろうか。もしコツツミさんが、面白そうだからなんて理由で俺のことをぶったのなら。俺は相当面倒臭い人に声をかけてしまったことになる。
「……」
「もしもーし」
「いや、意味わかんない」
「なにが?」
「……なんで俺をぶったんだ」
「あ? なんとなく? メツギくん、なんだかぶたれたそうな顔してたから」
コツツミさんはとぼけたようにそう言い放った。なんだよ、ぶたれたそうな顔って。俺はぶたれたそうな顔をした覚えなんて一切ないぞ。コツツミさんは、俺が感じている不満なんて知らないとでも言いたいのか。〝メツギくん、ホントに大丈夫? 〟と心配? してくれた。
「なんかめんどくさそうだから帰るね? じゃ」
「いやちょ、ちょっと。待って」
「あ? なんなの? あたしメツギくんほどヒマじゃないんだけど」
「悪いけど、とりあえず止まってくれないか?」
「なんであたしが止まらないといけないわけ?」
「止まらないと、俺がコツツミさんと喋れないだろ」
「いま喋ってるじゃん」
「じゃあもう、歩きながらでいい。コツツミさんは、どうやって〝賢さ〟は多角的視点という答えに辿り着いたんだ?」
「そんなの、ちょちょいのちょーいって」
「いや、全然わからないんだけど」
俺はコツツミさんの適当な言葉に、少しイライラし始めていた。確かに俺は、〝賢さ〟がどうたらとヘンなことを聞いてはいるが。それにしたって、コツツミさんの対応は酷いものだ。これが、最初から拒否一辺倒というのならまだ理解ができる。だが、ここでコツツミさんにイラッとするのが。コツツミさんがずっと中途半端な発言を繰り返していることだ。知ってるなら知ってる、知らないなら知らないで会話を終わらせることができるのに。コツツミさんは、曖昧な返事しかしない。俺にはそんなコツツミさんの態度が、どうにも腹立たしく感じた。
学校の昇降口。下履きに履き替えたコツツミさんは、俺へ一切顔を向けずに歩きつづける。俺も一切立ち止まらないコツツミさんへのイライラを抑えて。まだコツツミさんに聞きたいことが残っていると、コツツミさんのことを追いかけた。校門を出たコツツミさんの後をつける。コツツミさんの横に並ぶことも考えたが、なんだかコツツミさんの横に並びたいと思えなかった。どうにかしてコツツミさんに話しかける頃合いを見計らっていると。コツツミさんが大きな交差点の前で、ようやく止まってくれた。
「メツギくん、まだついてきてたんだ」
「俺の話はまだ終わってない」
「なら早く終わらせてよ」
「どこかで落ち着いて話さないか?」
「あ? ヤダ」
信号が青に変わり、コツツミさんが再び歩き出す。……いい加減俺も、我慢の限界なんだが。コツツミさんの横に張り付いて、しつこく話しかけるべきなのだろうか。そんなことをしても、コツツミさんが会話をしてくれるとは限らない。最悪コツツミさんに嫌われたら、口も利いてくれなくなってしまう。そうなれば、いままでの積み上げてきたコツツミさんとの時間が水の泡だ。強引な手は取れない。しかしこのままだと、いつまで経ってもコツツミさんから多角的視点について聞くことができない。俺は一体、どうすればいいんだ。
いつまでもコツツミさんに切り出せないまま、コツツミさんの後をついていく。コツツミさんは時折チラチラと、俺の方を気にしているようだ。俺に気づいているのなら、立ち止まって俺の話を聞いてはくれないだろうか。そんな願いがコツツミさんに届くはずもなく。コツツミさんは、変わらないペースで歩きつづける。曲がり角を右へ左へ、左から右へ。〝なんだかコツツミさんの動きが変だな? 〟と疑い始めたその時。コツツミさんは振り返って、俺の腕を引っ張って建物まで引き込むと。掴んだままの腕を天井高く掲げた。
「この人ストーカーです」
交番で書類にペンを走らせていたおまわりさんが、ポカンとした顔で俺たちを見る。俺は徐々に、コツツミさんの言っているストーカーが俺であることに気がついて。コツツミさんの手を振り払おうとした。だがコツツミさんの手は、俺の腕からなかなか離れてくれない。この交番に来るまでの間に、俺がコツツミさんの後をずっとつけてきたことを思い出して。俺は焦ったように、交番のおまわりさんに視線で助けを求めた。
「えっと、お嬢さん。まず長期間に渡って、ストーカー被害に遭ったと証明できるものを提出してもらえるかな?」
「んーないですね」
「見たところ、この交番の近くの学生さんだね。悪いんだけど、ストーカー被害の証明ができないと警察は動けないかな。もし本当に困ってるなら、学校の先生に一度相談するといいよ」
「はい。ご丁寧にどうもありがとうございました」
コツツミさんはおまわりさんへ軽く頭を下げると、そのまま交番の外へスタスタと出ていった。俺もおまわりさんへ頭を下げて、急いでコツツミさんの後を追いかける。交番の外に出ると、コツツミさんが俺を待っていた。コツツミさんは、手を叩いてヘラヘラと笑っている。あぁ、なるほど。コツツミさんは、俺をからかって遊びたいだけなんだ。はじめから俺の話を聞く気なんてさらさらない。これ以上コツツミさんと話をしようとしてもムダだ。〝賢さ〟を多角的視点と考えたコツツミさんの意見を、一度は聞いてみたかったが。コツツミさんが俺と話す気がないのなら、コツツミさんから話を聞くのはもう諦めよう。幸い、俺にはまだツキノキさんがいる。ツキノキさんの力さえ借りることができるのなら、俺の〝賢さ〟探しはつづけられる。一人で爆笑しているコツツミさんのせいで、通行人の視線が集まってきていた。これ以上の長いは無用。コツツミさんが話を聞いてくれる気がない以上、すぐにこの場所から離れるべき……。
俺はいまだに一人で爆笑しているコツツミさんを無視して。家に帰ろうとコツツミさんに背を向け歩き出そうとした動きを、何者かによって阻まれた。ついさっきと同じように腕を掴まれ、俺は恐る恐る背後を見る。コツツミさんがランランと瞳を輝かさせて、俺の腕を掴んいた。俺が何かを言うより早く。コツツミさんは、俺の腕を掴んだまま歩き出す。俺はコツツミさんの手を振り払おうとするが、コツツミさんの腕はガッチリと俺の腕を掴んで離さない。どうにかしてコツツミさんから逃げられないかと四苦八苦していると。気づいた時には、俺は河川敷にまで引き回されていた。俺の腕を掴んでいたコツツミさんの腕がパッと離される。俺は掴まれていた腕をさすりながら、辺りを見渡した。澄んだ青空に、高くそびえる入道雲。一面芝生の河川敷。立派な橋をかけるくらいの幅のある川。小さい頃、親に連れられて来たのことのある場所は。その当時と、全く景色が変わっていなかった。
「メツギくんは、ここの河川敷まで来たことある?」
「……小さい頃は来た思い出があるが。それ以来、河川敷にはめっきりこなくなった」
「メツギくんって、引きこもりだもんね」
「河川敷に来る理由がないからな」
「メツギくんはここら辺が地元なんでしょ?」
「なんで知ってるんだ? ウチハに聞いたのか?」
「あったりー」
「……ウチハと仲良くできてるなら、それでいいか」
「なんだ。メツギくん、普通に喋れるじゃん」
「別に喋れないわけじゃない。ただ……」
「ただ?」
「誰も俺の話を聞いてくれないだけだ」
「ふーん」
コツツミさんはつまらなそうにそういうと、河川敷の斜面を駆け降りていった。俺は一瞬、帰ろうかとも思ったが。いまのコツツミさんは話を聞いてくれるようなので、このままコツツミさんに付き合ってみることにした。
「もちょっと先行くと、あたしのお気に入りの場所」
「へー……。なぁコツツミさん。ひとつ聞いていいか?」
「〝賢さ〟がどうたらってやつ?」
「いや、それももちろん聞きたいが。その前に、聞いておきたいことがあるんだ」
「なに?」
「コツツミさんは。クラスで、その。ヤな思いとかしてないか?」
「あは。もしあたしが〝ヤな思いしてる〟ってメツギくんに言ったら。メツギくんはあたしに何かしてくれるわけ?」
「それは……そうなった時にまた考えるよ」
「あっはは。メツギくんって、ホンモノのバカだよね」
「……」
「ゴメンね? あたし、メツギくんみたいな愉快な人にい初めて会ったから。つい」
「それじゃあ、コツツミさんは別にクラスでヤな思いはしてないってことでいいんだな?」
「うんうん」
「そうか。なら、よかった」
「ここがあたしのお気に入りの場所」
河川敷の段差の中間。眼下には野球のグラウンドが整備されている。ピッチャーが投げたボールを、バッターがカキンと打ち上げた。ボールが高く上がったことに、歓声がひときわ大きくあがる。コツツミさんは、野球が好きなのだろうか。高く打ち上げられたボールの行方を追いながら。俺はようやくちゃんとコツツミさんと向き合えた気がして、ふっと安堵の息をついた。
「コツツミさんは、学校で見るのと。その……」
「雰囲気がちがうって?」
「あぁ、いや。別に言いたくないのなら──────」
「前の学校退学になって、今度の学校ではおとなしくしているようにって親に泣きつかれてるの」
「……」
触れづらい話題にコツツミさんが応える。俺はコツツミさんの話の反応のしにくさに困っていると。なぜか準備運動をしているコツツミさんが目に入ってきた。……なんだろう。コツツミさんとマトモにやり取りをしたのは、ほんの僅かな時間のはずなのに。なぜかはわからないが、猛烈にこの場から逃げ出したくなってきた。深く息を吸い込むコツツミさん。俺にはもう、コツツミさんを止めることはできない。
「おチ○ポ────────!!」
ビルの上で、キングコングが叫ぶように。コツツミさんの声は、夏の河川敷に驚くほどよく響き渡った。