鏡の奥の向こう側   作:おおきなかぎは すぐわかりそう

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ツァイガルニク効果

 

 

 

「おチ○ポ────────!!」

 

 ビルの上で、キングコングが叫ぶように。コツツミさんの声は、夏の河川敷に驚くほどよく響き渡った。野球少年の視線が、散歩していた高齢者の視線が、同じ学校の生徒の視線が、犬を散歩させていた飼い主の視線が。集まる、集まる、集まる、集まる。河川敷の人に注目されるキッカケを作ったコツツミさんは、清々しい顔で汗を拭いている。コツツミさんの横にいた俺は、なんで突然コツツミさんが奇行に走ったのか。全く理解できないでいた。むしろ、いますぐにでもコツツミさんのそばを離れて。他人のフリをしたいくらいだ。

 

「ほら! メツギくんも!」

 

「はぁ!?」

 

 コツツミさんのとんでもない誘いに、俺は驚いてコツツミさんの方を見た。コツツミさんは得意げな顔をしながら、〝バンバン〟と俺の背中を叩く。どうやら俺に本気で下ネタを叫ばせたいらしい。コツツミさんは、こんなに人の目耳が集まっている中で。俺に大声で下ネタを叫ばせたいようだ。

 ふざけんな。誰が楽しくて下ネタを叫ぶんだ。しかも、大勢の人に見られてるんだぞ? そんなこと誰がするもんか。というか、俺に話しかけるのをヤメロ。頭のおかしいコツツミさんの、知り合いみたいに見られるだろうが。もし頭のおかしいコツツミさんの知り合いだと思われてしまったら、俺まで頭のおかしいヤツ扱いされてしまう。

 俺はコツツミさんの誘いに知らない振りをして、なんとかコツツミさんとは他人のフリをしようとした。だがコツツミさんは、俺の知らないフリなど知ったことかと。いつまでも俺に話しかけてくる。コツツミさんがようやく静かになったのも束の間。コツツミさんは、俺の隣で再び深呼吸を始めていた。

 

「おマ○コ────────!!」

 

 もうイヤだ。誰かこの恥知らずを止めてくれ。俺は恥ずかしさのあまり、顔を両手で覆った。だが目が見えないのでは、コツツミさんから逃げることができなくなってしまう。いや。果たしてコツツミさんが、俺がこの場から逃げるのを素直に許してくれるだろうか。コツツミさんなら逃げる俺を面白がって、永遠に首根っこを掴まれそうだ。俺はコツツミさんから逃げる瞬間を完全に逃していた。

 

「えっ? なんでメツギくん顔隠してるの?」

 

「……」

 

「ねねねね。どうしてメツギくんは顔を隠してるわけ?」

 

「……」

 

「もしかしてさあ。恥ずかしいの? え? なんで? どうして? あたしが下ネタ叫んだからダメージ受けてるの? なにそれ? やばくない? メツギくん繊細すぎない?」

 

 コツツミさんからの追及が止まらない。俺はただひたすら、コツツミさんが俺への興味を失うのを待っていた。

 

「ねねねね。メツギくん黙ってないで教えてよ。あたしに話してくれないと、なんにもわからないよ? その顔についてる口は飾りなの? いままでどうやって生きてきたの? ここまで言われて、メツギくんはまだ黙ってるつもりなの? ん?」

 

 コツツミさんが俺の肩に手を置き、絡み付いてくる。耳元でコツツミさんが囁く。俺の体が柔らかいもので包まれていく。顔を隠した暗闇の中で。俺は河川敷中の視線が、俺達に集まっていくような感覚に陥っていた。俺の体が硬直して、もうこれ以上の反応はないことを悟ったのか。コツツミさんは、俺の肩に回していた腕を離し。俺の耳元でボソリと呟いた。

 

「メツギくんが言ってた、〝誰も俺の話を聞いてくれない〟ってそれ。メツギくんが喋れないことの言い訳にしてるだけなんじゃない?」

 

 俺の心臓が〝キュッ〟と縮んだ。どれだけ言葉を尽くしても、理解されなかった過去を思い出した。段々と、〝話すだけ無駄だ〟と思うようになり。いつしか、〝誰も俺の話を聞いてくれない〟と。俺が一方的に心を閉ざしただけなんじゃ……。もしコツツミさんが言うように、俺が言い訳をしているだけだとしたら。この〝賢さ〟を探す行動そのものが、ただの現実逃避なのではないか? 〝賢さ〟を見つけなければ、俺に未来はない。その前提が、俺の中で大きく揺らいでいた。コツツミさんが、〝ねぇ、どうなの? 〟と嬉しそうな顔を近づけて聞いてくる。そんなの、わかるわけないじゃないか。

 

「少し、一人で考えさせてくれないか」

 

「あーあ。そうやってまた逃げるんだ」

 

「……」

 

「メツギくんはそうやって、死ぬまで自分から逃げつづけてればいいんじゃない?」

 

 コツツミさんは俺の肩にポンポンと手を置いて、そのまま俺の前から姿を消した。コツツミさんが立ち去ったあと。気がつくと俺は、河川敷のベンチに腰掛けていた。不思議なことに、足に力が入らない。俺の背中とお尻と足の裏から根が生えてきて、その場に縛り付けているんじゃないかと思えるほどビクともしない。自分の中で、このまま〝賢さ〟を探しつづけていいのか答えを出すまで。このベンチから逃げることはできない。……コツツミさんの言うように、本当に俺が自分から逃げているとしてだ。しかし他に道は残されているだろうか。今までの人生は、イヤでも自分から逃げられなかった。自分から逃げられなかった結果が、いまの追い詰められた俺を作り出しているのだとしたら。自分から逃げずに立ち向かう道に、未来はない。まだいまの自分から逃げて、逃げた先で新しい未来を探している方が希望が持てる。それにだ。もしかすると俺は、自分から逃げているわけではないのかもしれない。もし俺が本当に自分から逃げているとしたらだ。俺はツキノキさんに、とっくに見捨てられているんじゃないか? 自分から逃げている俺に、〝メツギさんはすでに賢さを持っている〟なんて言葉をかけるだろうか。俺がツキノキさんの立場なら、そんなことはしない。つまり俺は、自分から逃げているわけではないのだ。少なくとも、ツキノキさんはそう考えている。……そう信じていたい俺がいた。逃げているにしろ、逃げていないにしろ。どちらにせよ俺には、この〝賢さ〟を探し求める道しか残されていないのだ。頭の中の整理がついた。ようやく足に力が入るようになって、俺はやっとベンチから立ち上がる。家に帰りながら考えるのは、どうやって〝賢さ〟へ迫っていくか。俺の頭の中は、〝賢さ〟のことで一杯だった。

 

 

 

 夏休みまでを指折り数える、期末テスト二週間前を切った今日。みんな形は違うが、テストに意識を向けているのを感じる。誰だって待ちに待った夏休みを、テストの補習で潰されたくはない。まして高校二年の夏は、実質高校生活最後の夏休みだ。高校三年にもなれば、大学見学だとか、職場見学だとか。自分の将来のことを考える時間が増えてきて、夏休みがまったく夏休みではなくなってしまう。俺にとっても、この夏休みは勝負の時。なぜなら、〝賢さ〟について本格的に考えていられる最後の時間だと考えているからだ。

 これを逃せば、もう現実からは逃げられない。俺はなんの信念も持たないまま、将来の選択をしなくてはいけなくなる。なんの信念もないことに必死になっているのかと、人からは笑われてしまうかもしれない。むしろ、信念を持っている人間の方が珍しいくらいだ。だが俺には、なんとしても信念が必要なんだ。世の中の言う〝普通〟にすらなれない俺には。心から信じられるだけの、心の支えが必要だ。心の支えがなければ、俺はきっと途中で人生を投げ出してしまうだろう。だからこそ俺には、〝賢さ〟が必要なんだ。俺自身が納得できる〝賢さ〟に出会えたその時。きっとその考え方を使って、より良い将来を選べるはずだから。そのためにもまず、テストの赤点は回避しなくちゃいけない。だが果たして、俺は夏休みの時間だけで〝賢さ〟を見つけることが出来るのだろうか。これまで何度か〝賢さ〟について考えてきてはいるが。いまのところ、俺が納得できる〝賢さ〟には一度も出会えていない。本当にこんな調子で、夏休み中に〝賢さ〟を探し出せるのだろうか。その不安は、日々積み重なっていくばかりだ。

 休み時間。トイレに行きたくなって席を立った。用を済ませてトイレを出ると、男子トイレの前で、コツツミさんとすれ違った。コツツミさんは俺が〝賢さ〟を探す上で、無視できない存在だ。確かに性格には難があるかもしれないが。俺がなんの脈絡もなく聞いた〝賢さ〟の質問にも、コツツミさんは素早く返答するほどに頭がいい。夏休み中に本気で〝賢さ〟を探し出すつもりなら。コツツミさん力は。なんとしてでも必要だ。俺はコツツミさんへ、〝なんて声を掛けようか〟と考えていると。コツツミさんの方から手を振って挨拶される。俺はコツツミさんに軽く手を振り返した。コツツミさんは俺が手を振り返したことに満足したのか、そのまま通り過ぎていった。

 

 バラララッ

 

 音のした方を見ると、ウチハが無言で立っていた。ウチハの足元には、ノートが散らばっている。ウチハは無言のまま、ただ俺のことを一点に見つめていた。

 

 

 

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