あまりにもちっぽけな本性を、小さく小さく畳み込んで。どうせなら、希望の余地すら挟めないくらい。何もかも奪い去っていってくれれば良かったのに。与えることが難しいのなら、せめて何も恵んでくれなければ良かったのにと。俺に出来ることといえば。もしもを想像して、現実との差に落胆して。俺には未来がないのだと、途方に暮れることしか出来ない。
「メツギさん?」
涙で顔がグチャグチャになっているところを、よりにもよってツキノキさんに見つかってしまった恥ずかしさ。全部全部、吐き出してしまいたくなるその声に。俺の胸は、酷く痛んで切なくなった。今だけはやめて欲しかった。だがツキノキさんに見つかってしまった。俺の心の奥の奥。土に埋もれていた本当の自分を。突然みっともない姿を見せられれば、動揺するのは当たり前で。それでも俺は恵まれていたから、たくさんの人に元気付けられてきた。俺みたいな半端者にも、たくさんの人が優しくしてくれた。ツキノキさんも優しくしてくれる人達と同様に。俺に優しくしてくれるのだろう。この展開にハマったら最後、俺はロクな結末を迎えたことがなかった。萎れた体を引っ張って励まされ。〝置いていかれるぞ〟と危機感を煽って励まされ。俺の体は、無理矢理叩き起こされるのだ。けれども折角優しくしてくれたのだから。優しくしてくれた相手の前でだけ、元気を取り戻したフリをして感謝を告げて。相手が満足そうにして別れた後で、俺はますます体を萎らせていくのだ。
内心あれだけ慕っていた筈のツキノキさんにさえ、〝いま優しくされてしまうとキライになってしまう〟と自分の意思を伝えることができないのなら。本当はツキノキさんのことなんて、最初からどうでもよくて。自分の都合が悪くなれば切り捨ててしまうような、その程度の存在だったのだろうか。暗い土の底から、自分の醜さが日の目を浴びてしまうのだと思うと心底恐ろしい。だから、ツキノキさんにはこの場から立ち去って。見ないフリをして欲しかった。
「……少し、公園の周りを回ってくるよ」
ベンチで屈んだままの俺。離れていく足音。鼻をすすって、涙を拭って。ゆっくりと背後を伺う。そこにツキノキさんの姿はなかった。ツキノキさんは、俺が泣き終わるまで待っててくれるつもりなんだ。ツキノキさんの優しさに力なく笑って。一度深呼吸してから、覚悟を決めた。全て捨ててしまおう。みんなみんな、何もかも手放して。もう取り返しがつかないくらいグチャグチャに。そうすればもう、こんな辛い思いしないで済むだろうから。ツキノキさん、ごめんなさい。ツキノキさんの期待に応えられなくて残念ですが。どうやら俺は、どうしようもない愚か者だったみたいです。どう伝えれば、ツキノキさんは諦めてくれるだろうか。できることなら、ツキノキさんを傷つけるようなことはしたくない。全てを捨てようと決めておきながら。俺はこの後に及んでまだ、捨ててしまう相手のことを考えている。誰かに優しくする力なんかないクセに。自分にさえ優しくできないクセに。つくづく俺は……情けない。赤橙の空。どこへ行こうと、何をしようと。自分から逃げることはできない。惨めなことは罪なのか、向き合うことが罰なのか。デキの悪い俺には、知る由もない。公園の街灯が付く。薄暗くなった公園で。俺の座っていたベンチが、光によって浮かび上がる。ツキノキさんが公園を周り終えたのか、俺の所へ戻ってきた。
「久し振りだね。メツギさん」
「……お久し振りです。ツキノキさん」
「もう一周……してこようか?」
「それで問題が解決するんですか?」
「私からは、なんとも」
「分かり切ったことじゃないですか。解決なんて、しませんよ」
「そうなのかもしれない」
「……どうしてツキノキさんはいつも言葉を曖昧にするんですか」
「言葉を一度明確にしてしまうと。最悪の場合、取り返しがつかなくなってしまう」
「それなら、何もかも言葉を曖昧にすれば。いつでも取り返せるってことですか?」
「言葉通りに受け取るなら、そうなってしまうかもしれない」
「……そんな態度でいたら、正しい答えなんて永遠に見つかりっこない」
「そうかもしれない」
「俺は一生、情けない俺のままってことですか?」
「そうかもしれない」
「これまでのツキノキさんとのやり取り全部、無駄だったってことですか?」
「……そうかも、しれない」
「諦めて、受け入れて、忘れてしまうことが……あるべき大人の姿なのでしょうか?」
「……」
「なんとか言ってくださいよ」
「メツギさんは……自分のことが嫌いかい?」
「……突然なんです?」
「いやね。いまのメツギさんは、変化することに躍起になっている気がしてね」
「……バカにされてる?」
「す、すまない。そんなつもりはないんだ。ただ……」
「なんなんですか。ハッキリ言ってくださいよ」
「何かに憧れることを悪いとは言わない。しかし、過去の延長線上に今があり。今の延長線上に未来があるならば。自分を削除し、憧れを転送するその行為には。……少々、無理がある気がするんだ」
「じゃあなんですか? 自分を大切にして、自然に振る舞ってさえいれば人生は上手くいくって言いたいんですか? 誰も望んでませんよそんな理想論なんて。……なにも持ってない凡人は。社会に必要とされる人間になるために、必死で自分を殺すんです。それなのに、俺はまだ自分を殺しきれていない。自分を生かしてる場合じゃないんです。もっと自分を殺し尽くさないといけないんです。じゃないと、じゃないと──────」
溢れ出そうになった涙がこぼれないように両目をつぶった。土に被せていた本音を口に出せて、また悲しくなってしまったのだろうか。〝全て捨て去る〟という決意は、いったいどこにいってしまったのだろう。俺はペラペラと、余計なことを喋りすぎだ。これでもう満足しただろう。ならさっさと、ツキノキさんと縁を切るべきだ。
「……知った風な口ぶりを承知で私から言えるのは。メツギさんは誰かの想いに応えたくて、いままで必死に耐えてきた。とても純粋で優しい子に映った」
「違うんです……俺は、俺の本性は──────」
「自分ばかりを責めてしまうメツギさんを優しくないだなんて……私には到底思えない」
「……」
人の涙腺は一度が緩むと、簡単に決壊するようになるらしい。涙が溢れそうで、両目をつぶっていたのに。それ以上に涙が溢れて、まぶたの隙間からこぼれ落ちた。普段は土の底に隠していた弱さを、脇目も振らずにただ放出する。気づいた時には、ツキノキさんが目の前にいた。俺の目の前まで来たツキノキさんが両腕を広げて、俺を優しく抱きしめる。俺は無意識に、ツキノキさんを抱きしめ返していた。男が人の目がある場所で大泣きだなんて。本当なら、恥ずかしいことのはずなのに。不思議と、ツキノキさんの前で泣くことに恥ずかしさはなかった。涙が止まって、全部出し切って。俺が落ち着きを取り戻す間。ツキノキさんは静かに、ずっとそばにいてくれた。俺がだんだんと落ち着きを取り戻すにつれて。ツキノキさんに抱きしめられているという実感に、俺はだんだんと恥ずかしさで耐えられなくなっていた。
「あの、ツキノキさん?」
「ん?」
「そろそろ、離してもらえませんか?」
「あぁ、すまない。いま離れるよ」
ツキノキさんから離れた途端、ツキノキさんから顔を逸らした。ツキノキさんに抱きしめられて、赤くなっているであろう顔や。泣き腫らして、酷いことになっているであろう顔を見られたくなかったからだ。スーツ姿のツキノキさんは、きっと仕事帰りなのだろう。仕事帰りで疲れているはずなのに、最後まで俺に付き合ってくれるだなんて。ツキノキさんにはちゃんと、謝らないとな。
「……突然泣き出したりして、見苦しかったですよね。すみませんでした」
「そんなことはないよ。溜め込んだものは吐き出すに限る。溜まる一方では、いつか限界が来てしまうだろうから」
ツキノキさんは、カサカサととビニール袋から何かを取り出し。俺へと差し出した。それは、サンダルだった。さっき公園を一周している間に買った物だろう。俺は自分の足元を見た。靴下が酷く汚れている。〝これ以上、ツキノキさんに迷惑をかけてしまっていいのだろうか〟。ツキノキさんに何から何まで甘やかされて。俺は、ツキノキさんに差し出されたサンダルを素直に受け取っていいものかと迷っていた。
「メツギさん」
「?」
「このサンダルは、上から目線で与えるモノでも。見返りを求めて投資するモノでもない。私から、いままで必死に頑張って来たメツギさんへ送る。ささやかな贈り物だ。……どうか、受け取ってもらえないだろうか?」
俺はツキノキさんの顔を見た。そこには俺に対する軽蔑も、優越もない。あったのは、ツキノキさんのただ純粋な善意だった。ツキノキさんは、なんて優しい人なのだろう。俺がツキノキさんに気を使わないように、サンダルを〝贈り物〟といって俺に差し出してくれたんだ。いや、思えばツキノキさんに初めて会った時から。ツキノキさんはずっと優しくて。誰よりも俺のことを考えて、ずっと動いてくれていた。ツキノキさんのその優しさは、いったいどこから来るのだろう。ツキノキさんの優しさの出所がわかれば。俺もツキノキさんのような、立派な大人になれるかもしれない。知りたい。ツキノキさんのことを、もっと。ツキノキさんが俺に贈ってくれた、サンダルに手を伸ばした。ツキノキさんの顔を見る。ツキノキさんは、静かに微笑んでいた。ツキノキさんにもらったサンダルを汚したくなくて、俺は靴下を脱いで素足になった。素足にサンダル、ビニールには汚れた靴下を入れて。俺はツキノキさんに、感謝の言葉を伝えた。
「ありがとうございました。ツキノキさんのおかげで、なんだか心が軽くなったみたいです」
「私の方こそ、すまなかった。……メツギさんがここまで追い込まれているだなんて考えが及ばずに」
「それは考えすぎです。ツキノキさんのせいじゃありません」
「いや、メツギさんが悩んでいるという前提はすでにあったんだ。未来のことばかりに気を取られ、目の前のメツギさんのことが見えていなかった。優先順位を誤った私の落ち度だ。すまなかった、メツギさん」
「……ダメですね、ツキノキさんに頼りっぱなしで。俺も少しくらいは、ツキノキさんにいいところを見てもらいたいんですけど。なかなか上手くいきません」
「上手くいかない原因は様々だが。一度、前提を考え直すというのはどうだろう。 といっても、直近のことがある。メツギさんには、何かしらの基準が必要なのだろう。〝私がメツギさんの基準になる〟などと大それたことは言えないが。だが、ある程度の方向性ならば。私にも指し示すことができると信じたい。……私の力で良ければ、メツギさんに協力させてほしい」
「っはい、よろこんで。……ツキノキさんが協力してくれるなら百人力です」
「メツギさん、あまり私を買い被って貰っては困るよ。事実、私はメツギさんが追い詰められていることに気付けなかったのだから」
「それでもですよ。真剣に向き合ってくれるのは、ツキノキさんだけですから」
「……私への評価は、メツギさんの判断に任せる。さて、メツギさん。明日の予定は空いているかな?」
「明日、ですか。急ですね。いえ、イヤと言う訳ではなくてですね?」
「メツギさんも急いでいるのだろう? どうせなら早い方が良いと思ってね。不満かい?」
「そんな事ありません。ツキノキさんの時間を、是非俺に下さい」
「ふふ、余り期待されてしまうのも困り物だ。……少々、試してみたいことがあるんだ。手間と時間が必要だが、実地試験と行こうじゃないか。構わないかな?」
「ツキノキさんの迷惑にならないのなら」
「よし、決まりだ。いきなりの事だから、帰宅してから諸々詰めていこう。大事な予定が入っていたら、遠慮なく言ってほしい」
「わかりました。ツキノキさん。何から何まで、本当にありがとうございました」
「うん。それじゃあ、また」
「はい、また後で」
手を振るツキノキさんに、俺も照れ臭く手を振り返した。ツキノキさんと一緒にお出掛け。それも、二人っきりで。ツキノキさんに浮かれていることを悟られないように、俺は足早に公園を後にした。ご機嫌な帰り道。だが、自分の家に近づいてくるにつれて思い出してしまう。どんな事情があろうと、ウチハにしてしまったことが消えるわけじゃない。今頃はとっくに、夕飯の時間だ。みんな揃って食事するのが家の決まりだった。ウチハへしたことは、母さんに伝わっている可能性が高い。絶対、ゴリゴリに母さんに詰められる。俺が全部話すまで、絶対に解放してくれない。最悪、明日のツキノキさんとのお出掛けはおろか。ツキノキさんに会うこともできなくなるかもしれない。家に帰りたくなかった。けれども俺には、逃げる場所なんてどこにもない。だから、一縷の望みをかけて。俺は真っ暗で人のいる気配のしない、ウチハの家のドアノブを引いた。
「おかえりエイタ」