鏡の奥の向こう側   作:おおきなかぎは すぐわかりそう

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桂馬の高跳び歩の餌食

 

 

 

 六月二十二日、火曜日。コツツミさんと話していた所に、ウチハの友達が参加してきた翌日。勉強の方は、順調に進んでいる。まぁ、その順調に進んでいる内容は英語の単語や文法、数学の数式といった基礎を固めているに過ぎないが。基礎知識を使った応用問題は、勉強の時間が足りないので早速切り捨てた。英語や数学以外は暗記に重点を置き。あとは教科書を一ページ眺めるだけだとか、範囲の一文を読んでみるだとか。サラッと触れて後回し。虫食いの記憶と、前日の詰め込みでカバーする予定だ。テスト前の提出物については、国語のノート提出は完全に諦めている。担当の先生がヨボヨボの無関心で。結果、これはありがたいと学校での睡眠時間が集中。もうこの遅れはノート提出で得られる評価に見合わない。国語という雰囲気で高得点を狙える教科であったことも、授業態度が悪くなった原因だろう。

 以上が、テストよりも〝賢さ〟を優先した俺の末路だ。理想を言えば、テスト勉強も賢さの追求もどちらも全力でやるべきだ。だが情けないことに、あれもこれもと欲張れるほど俺の能力は高くない。何かを切り捨てることを前提にした、弱気な立ち回り。いま現在テストで痛い目にあっていても、まだ〝賢さ〟を諦めきれていない俺がいた。いや、もしかするとこの感情は、恐怖に近いのかもしれない。もしもこのまま〝賢さ〟を放置しつづけたら。きっと人生の大事な場面で、大きな間違いを犯してしまう……そんな予感がするのだ。大きな間違いを犯さないためにも、貴重な夏休みをテストの赤点に潰される訳にはいかない。

 赤点を回避するという目的がハッキリとすれば、後はやるだけ。賢さ探しの焦りはない。頭は驚くほど冷静だ。自分の成果がなさすぎて、いっそ清々しいくらいだ。この清々しさは、いま〝賢さ〟について考えた所で、俺の求める〝賢さ〟なんて見つかるわけがないという諦めからけるものだろう。昨日はウチハがちょっかいをかけてこなくて、心が穏やかだったのも関係があるかもしれない。余計な横槍が入らなければ、自分のやりたいようにやれる。……鏡に写るものを減らしていけば、本来の力を取り戻せる。ということなのだろうか。人の顔を見て話せなかったり、無性に一人になりたくなったり、部屋を暗くしたくなったり。くすんだ鏡が避けるものこそ、真に澄んだ鏡が追い求めるべきモノなのかもしれない。

 

 教室に入った瞬間、いくつもの視線に射抜かれるのを感じた。明らかに異質な空気を、気のせいだと自分に言い聞かせて。俺はそそくさと、自分の席についた。俺は誰かに注目されるような人間じゃない。きっとその関心は、他の違う誰かに向けられたものだ。だから、俺が気にすることなんて一つもない。

 自分の席に着いても、なぜか心臓はバクバクと激しくなっていた。〝気のせい、気のせいだ〟と何度も言い聞かせても、心臓はいつまでたっても静かにならなかった。教室中の音を、両耳が問答無用で集める。いつもと違う感覚に、体がぎこちなく動いた。カバンから教科書を出す。一時限目の用意をする。残りは机に入れる。そんな何気ない動作に手が震えた。ヒソヒソと、内緒話が始まる。内緒話をされるほど俺に価値はないと言う確信に、少し体がラクになった。それでも教室中の音を拾ってしまうことに耐えられなくて。筆記用具を抱え込み、片耳を塞ぐ形で机へ突っ伏した。

 なにも見えない暗闇。教室の中の別空間。この場所にくすんだ鏡は入ってこれない。教室で起こる出来事は、すべて違う世界での出来事だ。そのはず。なのに。どうして……。朝のHRが始まるまで、複数の悪意が向けられているような感覚が消えることはなかった。

 

 

 

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 授業が始まっても、教室の違和感は消えない。それどころか、その違和感はどんどん強まっていくように感じた。その違和感に、俺の周囲の人間がキョロキョロと辺りを確認し出す。その流れは、二時間目を終えた頃にはすっかり確認を終えたようだった。思い込みの力というのは恐ろしい。一度〝そうかも〟と考え始めてしまうと、なかなかその考えから抜け出せなくなってしまう。今の状況が、まさにそれだ。まず、冷静になって考えるべきだ。第一、俺のことを会話に上げる理由がないじゃないか。こんな俺みたいにつまらないやつを話題にするよりも、もっと面白い話題なんていくらでもある。それなのに、〝自分に注目が集まってる〟だなんて。一体どこのナルシストだ。休み時間になるたび、俺は毎回席を立った。用もないのに、フラフラと校舎を渡り歩く。階段を上がって降りて。人のいない廊下で休憩して。トイレの個室に篭ったりして。そうやって、授業の始まるギリギリまで時間を潰す。何度目かの休み時間。何度目かのトイレを出ると、そこにはコツツミさんの姿があった。

 

「さっきの授業のノート取ってる?」

 

「え? あ、あぁ」

 

「貸してくんない? 板書消されちゃってさぁ」

 

「別にいいけど……」

 

「ほら、早く。チャイムなっちゃう」

 

「……今じゃなきゃダメか?」

 

「ほんの数行だから。すぐ返す」

 

 コツツミさんが居なかったら、本当になんの成果も得られず途方に暮れていたところだった。コツツミさんは人間性に問題があるものの。だからといって、コツツミさんに感謝しなくていい理由にはならない。俺のできる範囲で感謝を伝えることができるのなら。コツツミさんの願いは、積極的に叶えてあげるべきだ。突然コツツミさんにノートを見せてなんて言われ、少しばかり疑いの心がありながらも。俺は言われた通り、机から先ほどの授業のノートを取り出した。横合いから伸びたコツツミさんの手が、無言でノートをかっさらっていく。今更だ。こんなことでいちいち腹を立てていては、コツツミさんの力を借りようだなんて考えにはならない。コツツミさんは机に広げられたノートにサラサラと文字を書き込むと、一瞬でノートをこちらへ投げ返した。鳴り響くチャイム。急いで次の授業の準備をする。〝ありがとね〜〟と軽い調子で手を振るコツツミさん。一瞬、コツツミさんの口元が歪んでいるような気がした。見間違えかとコツツミさんを確認。そこには、なんだか愉快そうなコツツミさんの姿しかなかった。その時になって、ようやく気づく。教室中の視線が、俺に集まっていることに。

 

 "え? ──────"

 

 なんで、俺を見てるんだ? 俺が、何かしたのか? なんだ、その目は。まるで、楽しいおもちゃでも見る目じゃないか。みんなを不快にするようなことは一度も……あ。ようやく、理解に及ぶ。コツツミさんがいじめられていたから、見落としていた。俺もまた、このクラスの不快な存在であることに。そして、いままでずっとウチハによって守られていたということに。そんな。いきなり。どうして……。決まってる。ウチハが俺を見捨てたんだ。家族に好き勝手迷惑をかける俺に、ついに愛想が尽きたんだ。ウチハに見捨てられた事実に、俺は衝撃を受けていた。確かに俺は、不器用だ。なにをやっても中途半端で芽が出ない。でも、それでも。中途半端なりにこれまで試行錯誤してきたつもりだった。いつも気にかけてくれるウチハには、その頑張りが少なからず理解されているものだと思い込んでいた。けど、違ったんだ。俺にとっての頑張りは、どうやらウチハにとっては頑張りですらなかったらしい。……なんて惨めなんだ。俺は一体、ウチハに何を期待していたのだろう。ウチハに知らず知らずのうちに守られていて。ウチハにろくに心中も明かさないで。勝手にウチハを都合よく捉えて。勝手にウチハに裏切られてたと傷ついて。だけど今更、俺は〝賢さ〟を諦めることなんて出来ないんだ。とにかくいまは、テストを切り抜ける方が先だ。それさえ乗り越えれば、あとはツキノキさんが必ずどうにかしてくれる。だからそれまでの辛抱、辛抱……。この時は知る由もなかった。直面した問題の、その深刻さに。

 

 

 

 ──────

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 教室中から監視されているような感覚は放課後まで続いた。〝直接害はないのだから問題ない〟。そう簡単には言い切れないほどに、精神がすり減っていくのを実感する。いつの日か、コツツミさんが俺に放った感情の増幅器という言葉。まさにいまこの瞬間、俺はイヤというほど理解させられていた。これが、夏休みまで続くのか……。教室の時計が、別物みたいにゆっくりと進む。やっとHRが終われば、一目散に荷物をまとめ教室を出た。あの教室に、一秒でも長く居たくない。いま集中すべきはテストだ。なのに、今日の授業はまったく集中できなかった。せっかく自習の時間もあったのに、無駄にしてしまった。こんな事で心が折れかかっているようじゃ、明日からが心配だ。

 

「やっほー」

 

「……」

 

「どした? 話聞こか?」

 

「……知ってたのか?」

 

「あ? 何を?」

 

「惚けるなよ。あからさまに教室で絡んできただろ。……目的はなんだ?」

 

「べっつにー?」

 

「……悪意があるのは否定しないんだな」

 

「火元がなければ燃えないでしょ。火種を見落としてたのはメツギくんの責任じゃん?」

 

「……」

 

「で? どうすんの?」

 

「どうもこうもない。……テストがあるんだ。まずはそれを片付けてからだ」

 

「はいバカ」

 

「は?」

 

「特別にメツギくんに教えたげる。いますぐ動くべき。さもないとお前は破滅する」

 

 淡々と言葉を告げながら、コツツミさんは迫ってくる。俺はコツツミさんに迫られて、廊下の壁に背をついた。コツツミさんは信用ならない。だがコツツミさんの発言を無視するだけの根拠もない。情報が少なすぎる。まずはコツツミさんの話を聞いてからだ。

 

「だからって……テストを片手間に対処できるほど──────」

 

「あたしが代わりに動いてやるよ。見返りは、メツギくんの夏休み丸々」

 

「……ふざけるな。こっちは一日だって惜しいんだ」

 

「今後の人生をたったの一ヶ月ちょっとで守れるなら、破格の取引だと思うけど?」

 

「断る。……じゃあな」

 

「後悔しないようにね」

 

 振り返らず帰路につく。執拗に絡まれなくて良かった。ホッと安堵する傍で。なぜだか背後のコツツミさんが、楽しそうに笑っているような気がした。

 

 

 

 教室で異変が起きたその日。家で夕飯を食べたあと、机に向かってテスト勉強をする。夕飯の時のウチハは、なんだか元気がないような気がした。俺が〝賢さ〟を諦めれば、全てが丸く収まる。その代わり、コツツミさんは疎か、ツキノキさんとの関係も消えてなくなる。そうなれば、俺はまたちっぽけな自分に逆戻りだ。……。いや、いまは考えてる場合じゃないんだって。勉強しないと。やりたくないが、英語と数学の遅れがひどい。俺は特別、勉強する能力が高いわけじゃないんだ。テストで結果を出すためには、時間と回数が必要だ。積み上げてきたはずの英語と数学は、途端に解けなくなっていた。勉強で一度つまずくと、追いつくためにはいままで以上に頑張る必要がある。つまずいたヤツが、どんどんつまずきやすくなる仕組み。〝学校は生徒のための場所じゃないのか? 〟頭にふと浮かんだ疑問に、俺は頭を振った。

 

 

 

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