鏡の奥の向こう側   作:おおきなかぎは すぐわかりそう

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長い詰みより短い必至

 

 

 

 資料室、慎ましい駒音。盤上に広がる包囲網。張られる位、威張る銀、睨む角。ツキノキの戦型は居飛車、右四間含み。囲いは左美濃。手早く組め、発展性もあり、そして守りが固い。この短期間での急成長に舌を巻く。付け入る隙のない、正確な指し回しだ。わかったところで阻止できない。ここまで一方的な対局だと、もはや清々しいまである。だがこのままおめおめとツキノキに勝ちを譲ってやるつもりはなかった。駒落ちの将棋は、有利な時の戦い方を学ぶのと同時に、不利な時の戦い方を学ぶ一面がある。ツキノキに不利な戦い方を学んでもらうためにも、最後まで戦い抜いて見せよう。……とはいえ、ツキノキとの戦力差は絶望的だ。だというのに、ツキノキは堅実な将棋で勝負に勝ちに来ている。付け入るスキが全くない。このままだと確実に負ける。無理矢理にでもツキノキのスキを作り出さなければ。飛車先の歩が突かれる。ツキノキから仕掛けてきた。モタモタしていると、右四間から総攻撃まで秒読み。仕掛けるならこの瞬間。この瞬間を置いて他にない。歩を取り合って、突き捨てて。綾を求めて端歩をつく。端の香車が手に入れば、出張ってきた飛車を生け捕りに。同時に、端は相手玉にも近い。たった一度の間違いで、途端に雲行きが怪しくなる。ツキノキに圧力を掛けながら、相手玉へ攻め味を出す一挙両得の勝負手。さあ、どう出る。

 ツキノキはしばし考え込んだ後、自然にこちらの攻めに対応。落ち着いている。問題ないとみているわけか。こちらも仕掛けた以上、簡単に引き下がるわけないはいかない。苦しい攻めながら、なんとか攻めを繋げていくが……。ツキノキが守りの銀を補充する手を見て敗北を悟った。これは血も涙もない、徹底的に反撃の糸口を掴ませない戦い方だ。強者の指し方になってきたな。教え子の成長を喜ばしく思う反面、盤面は非常に喜ばしくない。こちらの勝負手は不発に終わり、ツキノキの包囲網が徐々に迫ってくる。真綿で首を絞めるかのように、段々と盤面が苦しくなっていく。大駒に成られ、逃げ惑う手に、頭金で即詰み。

 

「参りました」

 

「ありがとうございました」

 

「手も足も出なかった。強くなったな」

 

「ありがとうございます」

 

「次はどうするかな。二枚落ちの次だから、飛車落ちで先生と戦ってみるか?」

 

「……」

 

「まあいいさ。また気が向いた時に声をかけてくれれば。ひとまずは、おめでとう」

 

「……先生」

 

「ん?」

 

「タバコ臭いです」

 

「ゲ!? 消臭剤の振りが甘かったか?」

 

 シャツをつまみあげて鼻に近付ける。今朝、丁度消臭剤が切れてしまっていたんだ。それでも職員室や教室でタバコの臭いを指摘されなかったから、大丈夫なのだと安心していたのだが。窓を開け放つ。澄んだ空気が部屋に流れ込んだ。眩しい西日。運動部の掛け声。一日一日が、あっという間に過ぎ去っていく。ほんの少し前まで将棋のルールも知らなかった生徒が、いまや駒落ちとはいえ完璧に指しこなしている。若者の成長は著しい。それに比べて私はどうだ。鈍くなっていく頭と、言うことを聞かない身体。私はあと何回教え子たちを見送ることができるのだろうか。私の生徒達への接し方は、果たして本当に正しかったのだろうか。……。

 

「いいえ、私の気のせいかもしれません」

 

「いや、気のせいじゃない。先生がタバコ吸ってるのは知ってるだろ?」

 

「いつもよりタバコの臭いが強い気がしたので」

 

「……もしかしてずっと鼻に付いてたのか?」

 

「……」

 

「鋭いんだな、嗅覚。そうか、ツキノキはずっと我慢していたのか」

 

「やはりおかしいのでしょうか」

 

「人と異なる点をおかしいとするなら、な。確かにツキノキは人とは違う」

 

「……」

 

「ツキノキが慎重なのは、他の人より感覚が鋭いからかもしれないな」

 

「……どうすれば、感覚を鈍くできるでしょうか」

 

「難しいな。それは桃の種を栗や柿の種にしてくれと言っているようなものだ」

 

「人間は、植物ではありません」

 

「遺伝子情報を継承すると言う点では、動物も植物も大差はない。……理系は専門外だから、自信はないが」

 

「……」

 

「土を耕し、種を植え、水をやることはできる。だが土に根を張り、いつ芽を出し、どんな実をつけるかはその種次第だ」

 

「……私は、どう生きるべきなのでしょうか」

 

「人間には二種類の生き方があると思う。アレクサンダーのように苛烈に生きるか、ディオゲネスのように安らかに生きるかだ。余力のある時代はアレクサンダーの力が求められ、余力を失った時代はディオゲネスの力が求められる。二人の生き方に優劣はない。ただ力を発揮する方向性が違うだけだ」

 

「……」

 

「……将棋だってそうだ。将棋で最も大事な能力は終盤力なんて話がある。何故なら、序盤中盤どれだけリードしていても、勝ちきれないことには意味がないからだ。それなら終盤だけ鍛えればいいかといえば、それも違う。序盤と中盤が不安定だと、そもそも終盤の土俵にすら上がれない」

 

「……」

 

「無理して、頑張って、我慢してまで周りに合わせる必要はないんだ。ツキノキは、ツキノキらしくあるだけでいい。……真逆のことを教える学校で言われても、って話だが」

 

「……人は余力を求める。そうおっしゃいますが」

 

「む?」

 

「親しい間柄がいるのなら、その人に助けを求めることができます。……けれど、そんな関係性を構築できない人間は、どこに余力を求めればいいのでしょうか」

 

「もしも、今ある世界に余力がないのなら……新しい世界へ探しにいく他ない」

 

「学校には、救いはないということでしょうか」

 

「………………」

 

「……」

 

「「……」」

 

 

 

《スネヤ先生、スネヤ先生。職員室までお越しください》

 

 

 

「……悪い、席を外す。帰るつもりならここで鍵を受け取るが?」

 

「いいえ、しばらく……ここにいます」

 

「そうか。……帰る時は、職員室に鍵返せよ」

 

 

 

 ──────

 ────────────

 ──────────────────────

 

 

 

「それでは、試験的に実施する方向で」

 

「……」

 

「頑張りたまえよ」

 

「はい!」

 

「……何かあれば、相談に乗ります」

 

「スネヤ先生も、ご協力感謝します」

 

 新任教員からの成績向上の提案。より良い進路を訴える側と、他業務が疎かになるのを危惧する側。終わりの見えない平行線は、最終的に折衷案で決着する。発案者である新任教員のクラスで限定的に実施されることとなったのだ。言いたいことは山ほどあったが、私はそれら全てを飲み込んだ。一度火のついた若者は誰にも止められない。そんな言い訳が頭の中を満たした。問題なのはこの後だ。成績向上の提案が成功するにしろ失敗するにしろ、生徒への影響は必ず出る。その流れが悪い方向に向かわないことを願いながら、私は静かに自分の机に向かった。タバコ・ライター・携帯灰皿を手に取る。一瞬、自分の机に置かれた小洒落た紙袋に目を向け。私は職員室を退出した。

 学校には救いがない、か。学校教育の基礎が作られたのは約二百年前。始まりはプロイセン。国家を守る屈強な兵士の育成だった。次はアメリカ。企業の労働力確保のためだった。そして現在は、国家・企業も含んだ社会のための教育が行われている。紆余曲折を経ながら、現在でも東西問わず運用されるこの仕組みは優秀だ。優秀だが、この流れの根底にあるものが生徒のためにあったことは一度もない。時代は変わる。価値観も変わる。今と昔では比べるまでもないほどに様変わりしているというのに。このカビ臭い仕組みによって不具合が起き、反発が生まれ、死者が出たとしても。世界は、大人は、私は。今日も生徒達を犠牲にする。

 

「ん、おつかれスネヤ先生」

 

「……タバコ。辞めたはずでは?」

 

「いかんね。習慣ってやつは」

 

「ならライターを忘れないでくださいよ」

 

「いや、毎度すまないね。……スウゥ──────ふぅ──────。ささ、先生も」

 

「私のライターなんですが。……スウゥ──────ふぅ──────」

 

「例の件ですな?」

 

「どう見ます?」

 

「ありゃ成功しますな」

 

「その心は?」

 

「理路整然とした論理、道徳的な正しさ、底なしの情熱。なにより、若いってのが決め手だ」

 

「生徒達も協力を?」

 

「少々の背伸びくらいはしてくれるでしょう」

 

「となると次は……」

 

「後に続け。ですな」

 

「カンナエの夢は見たくありません」

 

「〝人類が歴史から学べることは、人類は歴史からなにも学ばない〟。でしたかな?」

 

「……その言葉。私は少し違うと思うのです」

 

「というと?」

 

「学ぶ、学ばない以前に……どうすることも、できなかったのだと思います」

 

「……」

 

「だからと言って、何もせずにはいられませんが」

 

「今更ですな。教師がいままでどれだけの生徒を犠牲にしてきたか。知らないとは言わせませんぞ」

 

「……」

 

「ヘンな期待は捨てるべきです。世間も、生徒も、先生も。理由は言わずともわかるでしょう」

 

「……」

 

「まだ生徒が犠牲になると決まったわけじゃありません。今はただ、生徒のことを信じましょう」

 

 

 

 チャイムがなると、一斉に椅子が引かれた。日直が号令をして、生徒が残らず頭を下げる。私も少し頷くと、あるものは前の生徒の肩を叩き。あるものはだらしなく椅子に座り。あるものは私の背後、黒板の板書を気にする。私は授業で使った資料をまとめ、教室を出た。短い一日が終わった。資料室のカレンダーをめくって、月日の経過を思い知る。荷物を整理し、鍵をかけ。ふと振り返った。気のせいだった。ツキノキの気配がしたと思ったんだが。どうやらただの思い過ごしだったようだ。

 

「先生」

 

「うぉ!? ……頼むからいきなり出てこないでくれ。心臓に悪い」

 

「では今まで通り、背後からお声掛けした方が?」

 

「いや、いや。足音出せ、足音。くノ一じゃあるまいし」

 

「……」

 

「誰かに喋りかける前でいい。自分の存在を主張しなさい」

 

「はい」

 

「悪いな。昨日は雑に切り上げて」

 

「いいえ。先生というお仕事は、とてもお忙しいですから」

 

「……一局、指していくか?」

 

「一つ、お願いがあります」

 

「む?」

 

「平手で勝負していただけませんか?」

 

「容赦しないぞ?」

 

「一度、壁の高さを知っておきたいです」

 

「わかった。ツキノキに年の功ってやつを教えてやろう」

 

 仕事が忙しいのはその通りなのだが。〝将棋を指す〟と言ってしまったものは仕方がない。職員会議を終わらせ、教室へ飛び、また職員室へ蜻蛉返り。中年にはとても似合わない、小洒落た紙袋と鍵を忘れずに。資料室の扉の前で待っているツキノキ。おっさんには似合わない小洒落た紙袋のことを指摘されないかと内心落ち着かず。資料室の扉を開け、開け放っていた窓を閉める。長机の上に紙袋を置いた。白々しく、なんてことないように言葉を切り出した。

 

「ヤニの匂いが気になっちゃ、全力も出せんだろう。……店員に勧められたベンゾイン? ってヤツなんだがな?」

 

 

 

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