「ヤニの匂いが気になっちゃ、全力も出せんだろう。……店員に勧められたベンゾイン? ってヤツなんだがな?」
「……」
「コンセントはと……どうして財布を出してる」
「代金を支払おうと」
「あのなぁツキノキ、少し冷静になれ。教師が生徒から金を受けとるなんて構図、問題しかないだろう」
「……失礼しました」
「言葉足らずだったな。あくまでこれは、個人的な私のワガママだよ。一人で試すというのも勿体ないから、ツキノキは巻き添えだ」
「本格的、なんですね」
「入口に投げ売りされてた安物だよ。気分が悪くなったらすぐ言えよ?」
「甘い、匂い」
「樹脂の匂いだ。気分は?」
「問題ありません。タバコの匂いが、紛れます」
「そいつは良かった」
緩みそうになった頬を引き締めた。私は着席して、将棋盤の上に駒を並べていく。ツキノキも同じように、駒を並べ始めた。平手の勝負、か。指導対局と呼ばれるものがある。プロ棋士を相手にした対局の場。平手の場合、普通に戦えばプロ相手になんてまず勝てない。それなのに、わざわざ勝てない戦いを〝なぜするのか? 〟と問われれば。それは挑戦者を強くするために行われる。プロが相手の実力を見極め、ギリギリの勝負でたくさんの経験を積んでもらう。対局後は良かった点、悪かった点を振り返り。強みと課題を明確にし、今後の勉強の手助けをする。……とまあ、これが一般的な指導対局になる。対してこの勝負はどうか。
ツキノキは壁の高さを知っておきたいと言っていた。あからさまなヨイショだった。だが悪い気はしない。といっても、私の棋力は全盛期に比べ、かなり落ち込んでいる。記憶は曖昧で、思考もボヤける。以前よりも長い時間考えていられない。仕事が忙しくて、将棋の勉強をする暇がないというのも将棋の弱さに拍車をかけている。目覚ましい成長を遂げるツキノキ相手に、プロのようないい勝負を演じられる自信はない。その可能性を考慮した上で、だ。プロの何十分の一の力を出せるかわからない。わからないが、それでも持てる全力で、私はツキノキの願いに応えるつもりだ。
『よろしくお願いします』
振り駒の結果、私が先手番になった。まだツキノキの出方がわからないので、後手番で様子を見たかったのだが。ツキノキはどんな将棋を指すつもりなのだろう。ツキノキは実直な性格だ、小細工なんてマネはしてこないだろう。となると、ツキノキが好みそうなのは……。念には念を。形は決めずに、居飛車・振り飛車両方に対応できるよう駒組していく。
ツキノキは、六筋に飛車を回してきた。私がツキノキを破った戦法。未だ記憶に新しい、右四間だ。ツキノキは左美濃にも組み、玉を深く囲う。こちらも六筋に飛車を回し、四間飛車の構えを取る。攻撃陣が向き合う対抗形。玉を入場させ、美濃囲いに組む。両者とも、ほぼほぼ似たような形が完成した。早速、準備を整えたツキノキは仕掛けてくる。右四間は、一点集中に特化した破壊力のある戦法だ。良く言えば攻めが分かりやすく、悪く言えば攻めが見え見え。正面から受け止めるのは危険と判断。六筋での攻防を放棄。七筋の歩をついて戦線拡大。飛車のコビンを狙う。放置はまずいと歩は取られるが、これで飛車先が軽くなった。今度は飛車を七筋に振り変えて、七筋からの突破を図る。させまいとツキノキの飛車を寄る手。右四間の攻撃を中断させること成功。さて、ここからが振り飛車の腕の見せ所だ。
さらに八筋の歩を伸ばす。桂馬取り。長期戦になれば、駒得を主張できる。だから私が桂馬を取って駒得するまえに、ツキノキは反撃を用意しなければならない。じっと、桂馬を歩で支えてきた。桂馬を取れば、歩が前進。と金作りが狙いか。単純ながら、確実な手だ。こちらも、うかうかしてられない。私が桂馬を取って、ツキノキの歩が迫ってくる。こちらは角筋を通し、角交換を迫る。取れば大駒が捌け。尚且つ、手順に飛車で取り返すことで、次の八筋突破を見せる。取ってしまうとこちらの思う壺。ツキノキは角交換を拒否して歩で遮断。次は、遮断してきた歩を目標に。右へ左へ揺さぶって、戦いの主導権を握らせない。ジリジリとツキノキとの差を広げていく。こちらが確実な優位を築きながら、終盤戦に突入。互いに相手玉に迫る中、こちらは豊富な持ち駒を駆使する。横から縦から攻め込んで、息つく暇も与えない。やがてツキノキは頭を下げて投了した。
「参りました」
「ありがとうございました」
「終始、押される展開でした」
「伊達に年は取ってない、と言いたい所だがな。ツキノキの受けは抜群だったぞ。実際、終盤まではほとんど差がつかなかった。一つでも指し手を間違えていたら、こうはいかない。……ツキノキ、お前誘導したな?」
「本棚から、これを」
「〝右四間で戦う対四間飛車〟。なるほど、私はまんまとツキノキの罠に飛び込んだいたわけだ」
「平手で挑んだ以上、勝負として成立させたかったので」
「油断も隙もあったもんじゃないな。ツキノキの攻めを正面から受け止めないで正解だった」
「光栄です」
「ただな、気になる点が一つある。右四間は、ツキノキの性格には合ってないんじゃないか?」
「……」
「右四間は駒を集結させる攻撃的な戦法。対して四間飛車は、相手の攻撃にカウンターを入れる守備的な戦法。ツキノキは攻めというより、守りを重視している。右四間と四間飛車では、四間飛車の方がツキノキの性格に合っている」
「振り飛車、ですか」
「ま、振り飛車と一口にいっても種類があるが。とりあえずは色々試してからだな、と」
私は席を立つと、資料室にひっそりと置かれた本棚へ向かった。背表紙をなぞり、目当ての本を引き出し。ツキノキの前に本を置く。ツキノキはジッと見て、手に取って。私に何度かの質問をしていると、もうこんな時間だ。私は〝仕事が残っている〟と決まり文句をツキノキに残して、今日の部活を終える旨を伝えると、ツキノキは静かに頷いた。ツキノキが帰り支度を整える間に資料室の簡単な片付け。資料室の鍵は先生が預かるとツキノキへ伝えて廊下に出し。ディフューザー? だったか? 肺に影響するものだ。ちゃんと手入れ、しておかないとな。
「資料室に忘れ物はないな?」
「はい」
「それじゃあな」
「はい。さようなら、スネヤ先生」
「真っ直ぐ帰れよ」
ペコリと頭を下げるツキノキを見送って、職員室へ向かって歩き出す。議事録の作成がまだのはずだ。今日ももう一踏ん張りといったところ。自販機に寄り、眠気覚ましにコーヒーを。本当ならタバコと一緒に楽しみたいが。職員室は禁煙だ。タバコを吸いたい気持ちを誤魔化しながら、職員室でコーヒーをチビチビ飲むさ。職員室。教員達が忙しそうに仕事をしている。その中の一角。山積みの書類を作る彼。データを打ち込む後ろ姿。今朝も顔に疲れが出ていた。彼が自分で蒔いた種に違いない。違いないが、説得しきれなかった私にも、責任の一端はある。
「一服入れてください」
「スネヤ先生、ありがとうございます。頂きます」
人の良さそうな笑みを浮かべ、彼は缶コーヒーを受け取った。過去十年の大学入試から、次回のテスト範囲に該当する部分を抜き出して配布ね。生徒側は、テスト対策と入試対策を同時にこなせるという寸法らしい。他にも、基礎問題の復習プリントの配布。朝五分の学習時間を設定。テスト順位の張り出し等々。学力を向上させる施策を実行してきた。結果は、良好らしい。彼の指導が良かったというのも、大事な成功要因に思える。すでに他クラスの一部では、導入してほしいとする声さえある。この動きは、じきに学校全体へ広がっていくことだろう。
………………。
私はどっかりと椅子に座り、パソコンを起動する。その待ち時間で、腕を組んで。私は静かに目を閉じた。
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「……なぁツキノキ。一つ聞いていいか?」
「? なんでしょうか」
「墾田永年私財法の正答率が異様に高いんだが、どうしてなんだ? やっぱりあれか? 語呂がいいから?」
「それも、あると思いますが……漢字が易しくて、覚えやすいというのもあるかもしれません」
「むーん。確かに〝墾〟以外は書きやすいな。そこさえどうにか出来れば、後はそこまで難しくないか。お? その手には攻防に角を打つ手が激痛だぞ?」
「……では、ここで守りを固めると」
「それだと瞬間駒の効率が悪くなる。相手に端攻めをされると……ほら」
「相手の攻めがが間に合ってきてしまいますね」
「〝終盤は駒の損得より速度〟。将棋は玉を追い詰めるゲームだということを忘れてはいけない」
季節は夏。場所は図書室。私とツキノキは、つい先ほど終わった対局の感想戦をしていた。なぜ図書室なんかで将棋を指しているのかと言われれば、それは部室として使っている資料室が暑過ぎるからだ。もともと物置きの用途で使われている活動場所。冷房・扇風機なんてあるはずもなく。放課後は特に、西日が直射する。扉と窓を開けて風の通り道を作っても、カーテンで直射日光を遮っても。とてもじゃないが将棋に集中できない。そこで、涼を求めて図書室に逃げ込んだというわけだ。ただ、残念なことに。図書室ではお香を焚くことは出来ない。こればかりは仕方がないので、消臭剤を強めに撒くという荒技で私はツキノキと対峙していた。将棋の内容はというと、少々危うくこちらが勝った。戦型は、ツキノキの四間飛車に対し、こちらは右四間飛車。ツキノキと平手の真剣勝負をした時から、まるっきり立場が入れ替わった形だ。あの日以来、ツキノキは振り飛車の勉強を開始した。三間飛車・中飛車・向かい飛車と紆余曲折を経て。最終的に四間飛車の形に落ち着く。そこからメキメキと実力を伸ばし。今では、こちらがヒヤリとする場面も増えてきた。
「正答率の高さで言えば、フランシスコ・ザビエルも印象に残りやすい気が……」
「あの宣教師か。あの謎の人気はなんなんだ?」
「……」
「やっぱりハゲてるからか?」
「……」
「それなら先生も学校で人気になってもいいものだが」
パチンと、広い額を手で鳴らした。ツキノキを見ると、無反応だ。ツキノキとは、そこらの生徒と比べれば付き合いがある方だが。いまだにツキノキの笑った顔を見たことがない。渾身のハゲネタで笑いを誘ったつもりだったのだが、どうやらダメだったようだ。見事にハゲネタがスベってしまい、なんだか情けなくなってくる。それもこれも、全部このハゲ頭が悪い。パチン、パチンとつづけて広い額を鳴らし、目の前の将棋盤に集中する。振り返りをする盤面に、所々で助言。ツキノキから質問が出れば答える。そうこうしていると、ツキノキの手が唐突に止まった。具合でも悪いのかと、私はツキノキの顔を伺う。見ると、ツキノキの顔が赤らんでいて、俯いていて。それが恥ずかしいのか、口元を手で隠していた。突然のことに困惑していると、ふとあることに気が付く。肩が……上下している?
「……笑ってるのか?」
「すみません。……落ち着くまで、少し待ってください」
手で隠した口元から上擦った声を出しながら、ツキノキは涙目になってそう告げる。これまでのやり取りで、ツキノキの笑いのツボに入るようなことは起きていない。いや、一つだけあった。私の渾身のハゲネタだ。だとすると、これは。腹話術の、声が遅れて聞こえてくるのと同じ。笑いが遅れてやってくる、ということなのか? ……。なんにせよ、ツキノキが笑ってくれるのならそれでいいか。