七月十二日、月曜日の夜。この日、俺は。ようやくツキノキさんへのお返しを実行に移せる。ついに味噌煮込みうどんの完成形にまで漕ぎ着けることができたのだ。コツツミさんからの助言。そして家族に味噌煮込みうどんを振る舞って、それぞれの意見を聞き入れながら。土日を使った最終調整を経て、ついにその成果をいまからツキノキさんに届けに行く。欲をいうと、本当はツキノキさんを後回しにしてコツツミさんから先に味噌煮込みうどんを振る舞いたかったのだが。ツキノキさんによりおいしい味噌煮込みうどんを食べてほしいと言う気持ちからも、ツキノキさんを後回しにすることに何の躊躇いもなかった。しかし、ツキノキさんは自分のワガママに従うべきだと言った。それは裏を返せば、ツキノキさんが俺のワガママに付き合ってくれるという宣言でもあった。ここで迷惑だろうとワガママを出し渋るのは、ツキノキさんのワガママに付き合うという想いを突っぱねることになるのではないか? と思い至り。だからこそ俺は、あえてツキノキさんへのワガママを優先することに決めたのだ。 見方を変えれば。ツキノキさんとの出会いは、ツキノキさんのワガママな願いから始まった。コツツミさんに協力してもらうためにも。ある程度コツツミさんと仲良くなるためには、ワガママな光の放出を上手く使いこなす必要がある。
「よし。いくか」
立ち上がる前に、バックの中身を確認。バッグの中には、味噌煮込みうどんの材料が詰まっている。中でも忘れちゃいけないのが、この赤味噌だ。赤味噌、買ったはいいけど。これ、全部使い切れるのだろうか。発酵食品だから、保存は効くみたいだが。味噌煮込みうどん以外の他の使い道、考えておかないと。リビングでは母さんの大きな笑い声と、テレビの音が聞こえてくる。俺はバッグを背負い直し、玄関を開けた。母さんには、夜出掛けるという話は済ませてある。ウチハも何故か、母さんへの説得を一緒にしてくれた。俺はウチハの警告も聞かず、好き勝手してたって言うのに。ウチハの無償の優しさに、胸の奥がチクリと痛む。
「いってらっしゃい」
「あぁ……いってくるよ」
背後からウチハの声がした。俺は後ろへ振り返らず、正面を向いたまま返事して。そのまま一度も振り返らずに、俺はツキノキさんの元へと向かうのだった。
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
数ヶ月ぶりの再会。心臓の昂りを隠したくて、ついそっけない態度をとってしまう。ツキノキさんは俺が出会ってきた中でダントツに鋭い人だ。俺のこの不自然な態度の理由も、ツキノキさんには簡単に見破られてしまっているんだろうな。それなのに必死になって本心を隠そうとしている俺は、なんて滑稽な有様なのだろう。どうもツキノキさんを前にすると、調子が狂ってしまう。ツキノキさんが見てないのを見計らって。俺は自分の頬をパチンと叩いて、浮ついた気持ちを引き締めるのだった。ツキノキさんの部屋は、まるで別世界だ。ツキノキさんの部屋に漂うこの甘い香りを嗅いだだけで心が落ち着いてきて、安心して眠ってしまいたくなる。一瞬、なんとかしてツキノキさんの使っているこの匂いの正体を確かめて、家でも堪能したい欲求に駆られる。だが俺はすぐに首を振った。もし仮に、ツキノキさんの使っている匂いの正体を突き止めたとしてだ。ツキノキさんの部屋と全く同じ匂いを自室に再現したとしても、ここまでの心の落ち着きと安心と眠気までは再現することはできないであろう。この心の落ち着きと安心と眠たさは、ツキノキさんがいて初めて成立するのだから。
「部屋の温度は?」
「はい、丁度いいですよ」
「私は座ってていいのかい?」
「えぇ、はい。ゆっくりくつろいでてください」
キッチンを借りて、手際よく準備を整えていく。ツキノキさんの前だからって、張り切る必要はない。もう何度目も作って慣れている料理だ。気楽に行こう。
「……よくよく考えてみると、季節外れですよね? 七月も半ばになろうって時期に、味噌煮込みうどんだなんて」
「……暑い日に熱いものを食べるというのも、乙なものじゃないかな?」
「暖房の効いた部屋でアイスを食べるみたいなものですかね?」
「現代ならではの贅沢だと私は思うよ」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
うどんに鶏もも、油揚げ・紅かまぼこ・青ネギ・卵・だしの素・豆みそ・みりん。そして砂糖。投入する砂糖の量に気圧される。コツツミさんの言っていた砂糖をぶち込むという表現は、誇張されたものでもなんでもなかった。ツキノキさんの健康を考えて、出汁をぶち込む方法も最初は考えたりもした。だが、あまり手間をかけてしまうと、自分軸ではなく相手軸で動くことになる。俺が勝手に尽くす分にはいい。けれど、その重い感情がツキノキさんの重荷になってしまうのだけは絶対にダメだ。ツキノキさんの重荷にならない俺のワガママ。それを実現するためには、ある程度の手抜きも必要だ。軽く料理の味見を済ませて。失敗らしい失敗もなく、味噌煮込みうどんは完成した。あとはこれを、ツキノキさんに食べてもらうだけ。
「出来ました」
「ありがとう。……メツギさんの分はあるのかい?」
「えぇ、ありますよ。いま持ってきますから」
ツキノキさんと対面のテーブルに自分の分の味噌煮込みうどんを運び終えると、ツキノキさんは〝いただきます〟と手を合わせた。俺も慌てて、〝いただきます〟と手を合わせる。ツキノキさんが味噌煮込みうどんに箸を伸ばす。緊張の瞬間だ。ツキノキさんのお口に合えばいいけど。もしツキノキさんの口に合わなかったらどうしようと、なんだか心配でソワソワしてしまう。料理を振る舞うなんて、一般的な感覚から言わせればなんてことない普通の行為だ。だというのに、俺はいまこの場から逃げ出したくなるような恥ずかしさを覚えている。その感覚が、どこまでいっても一般的な感覚からズレているような気がして。どうしても修正することのできないこのズレに、申し訳ない気持ちになった。ツキノキさんは味噌煮込みうどんをチュルリとすすって、ゆっくりと味わって。固唾を飲んで見守る俺に、〝おいしいよ〟と微笑んだ。そのあまりにも魅力的な笑みに、呼吸を忘れて。いつもならずっとうるさい頭の中は、この時だけは真っ白で。一瞬のようで、永遠のような。そんな居心地の良さに悶えた。俺はなんて単純な男なのだろう。ツキノキさんの〝おいしいよ〟の一言だけで、こんなにも舞い上がってしまうのだから。夢のような時間は終わった。俺の意識は現実に引き戻される。ツキノキさんの〝おいしいよ〟に、俺はまだ返事できていない。ツキノキさんへ何でもいいから返事しないとと焦って、〝はひ〟とマヌケな返事をしてしまう。そのあまりの恥ずかしさに、心臓がいまにも破裂してしまいそう。俺は変な返事をしてしまった恥ずかしさを誤魔化すように、味噌煮込みうどんを食べることに逃げた。
静かな食卓だ。だがそこには、会話のない気不味さではなく。妙な心地よさがある。何か会話をしなければという焦りはない。俺は基本一人が好きだが、ツキノキさんだけは例外だ。ツキノキさんと同じ時間と空間を共有することは、あるべき場所に収まっているという安心感がある。俺がどんな姿であっても受け止めてくれる場所。むしろ、一人の時間を過ごすことが寂しくなってしまうほどの居心地の良さがそこにはあった。無言で食事は進んでいき、気付けば両者は完食。腹の膨れた満腹感に満足しながら。どうツキノキさんに会話を切り出そうかと言葉を探る。
「時に、メツギさん」
「? なんでしょうか」
「調子はどうかな?」
「……えぇ、まあ。それなりに」
「もし良ければなのだが、今度は私のワガママを聞いてはもらえないだろうか」
「ツキノキさんの……ワガママ?」
「どうだろう」
「いや、もう。それは是非」
「お墓参りにいきたいんだ。少し遠出になる」
「喜んでお供します」
「ありがとう。そしてすまない。貴重な夏休みの一部を削ってしまうようなマネをしてしまって」
「夏休みといっても、これといった予定はありませんので。お気になさらず」
「……余計なお世話かもしれないが。メツギさんは、ドウゾノさんとどこかへ出かける予定はないのかい?」
「ウチハは剣道で忙しいですから」
「そういうものと決めつけてしまえば、見えるものも見えなくなってしまうよ」
「……」
「目をそらすばかりでなく、一度ドウゾノさんとちゃんと向き合ってあげてほしい。……無論、これは私の勝手なワガママに過ぎないが」
「……そろそろいい時間ですね。洗い物して帰ります」
「あぁ、私の分は気にしなくていいよ」
「いいえ、やります。やりたいんです。……俺の勝手な、ワガママですから」
俺は居心地の悪さを感じて、一方的に会話を切り上げた。自分でも露骨な反応にびっくりした。内心、ウチハの話題をこんなに嫌っていたことに。考えてみれば、ツキノキさんといるときに俺の方から〝ウチハ〟の名前を出したことは一度もない。心のどこかで、無意識にウチハの話題を避けている自分がいた。ジワリとイヤな汗が流れた。自分の汚いところをツキノキさんに見られてしまった。その事実だけが、いつまでも頭の中をグルグルしている。俺は洗い物を済ませ、そそくさと帰り支度をする。ツキノキさんに相談することも忘れて、〝ウチハと向き合ってほしい〟というツキノキさんのワガママに明確な返事もしないまま。結局その日は、逃げるようにツキノキさんアパートから立ち去るのだった。
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翌日、放課後。電車の乗降口、その脇。時折来る振動に体を揺らしながら。俺は電車の窓から空をぼんやりと眺めていた。空は一面の黒雲。いまにも大雨が降ってきてしまいそうな悪天候。その悪天候を、自分のいまの心境と重ねた。目的地に近付くにつれ、どんどん心が暗くなっていく。だが、送ってしまったメッセージはいまさら取り消せない。もう夏休みも間近。それまでにどうにかしてコツツミさんから協力を取り付けなくてはならない。だがこれは、所詮は勝手な俺のワガママ。コツツミさんに〝協力する価値なし〟と判断された瞬間、コツツミさんは簡単に俺を簡単に見捨てられる。夏休みを実りあるものにできるかの瀬戸際なんだ。これを逃せば、もう〝賢さ〟なんて追い求めている暇はない。夏休みが終われば、俺は問答無用でくすんだ鏡達の競争に放り込まれる。"賢さ"がなんだと疑問に思う暇もなく、自分の将来に向けて忙殺される日々が目前にまで迫ってきている。俺はその荒波の中で立っていられる自信がない。その前にせめて、せめて何か心の支えになるものが欲しい。世間の荒波の中ででも、自分を信じていられるほどの実績。願いはただ一つ、ただそれだけなんだ。
……こんなに追い詰められるとわかっていたら、俺はどうしてツキノキさんに頼らなかったのだろう。ちゃんと後がないことをツキノキさんに伝えていれば、もっと簡単にコツツミさんに協力してもらえただろうに。この後に及んで、俺は未だに他人を気遣っているつもりなのだろうか。不毛な優しさごっこなんか今すぐにやめるべきだ。目的のためなら手段を選んでいる暇はない。それは俺が一番わかっているはずなのに、俺は全くと言っていいほど行動に移せてない。……はぁ。自分の鏡を否定してどうなる。自分を否定するやり方で、俺は何度も何度も失敗してきたじゃないか。未だにくすんだ鏡のやり方が抜けきってない。ツキノキさんのような澄んだ鏡のやり方に切り替わるには、まだまだ先は長そうだ。目的の駅についた。外は土砂降りの雨。持ってきていた傘を差す。駅を出て、スマホを見つめた。コツツミさんの家は、駅から徒歩五分の場所らしい。スマホの道案内に従っていくと、そこには立派なマンションが立っていた。
白を基調にした高級感のあるエントランス。電子式のマンションのオートロック。コツツミさんは確か一人暮らしをしていると言っていた。こんな立派なマンションに一人で暮らしているのか。親は相当な金持ちなのだろう。そしてこの感じだと、コツツミさんは相当甘やかされているのだろう。タッチパネルに、コツツミさんの部屋番号を入力して呼び出し。しばらくしても応答がないので、機械の故障を疑って。カメラに手を振ってみる。するとオートロックのマイクから、微かな笑い声が聞こえてきた。俺はすぐに、コツツミさんに遊ばれていることを理解する。こっちはコツツミさんに協力を取り付けられるかどうかという、今後の将来が決まってしまうかもしれない瀬戸際だってのに。コツツミさんはなんて余裕そうな態度なのだろう。俺はカメラへ冷たい視線を向けた。もう隠す気もなくなった笑い声がするマイクからは、コツツミさんの〝開けてほしい? 〟と挑発する声が聞こえた。俺は無言でその挑発に対抗していると、コツツミさんの馬鹿みたいな笑い声がエントランス中に響く。コツツミさんの笑い声がデカすぎて耳が痛い。この俺とコツツミさんのやり取りの、一体どこが面白いのだろうか。コツツミさんの気が済んだのか、ドデカい自動ドアは開き。俺は終始無言のまま、エレベーターに乗り込んだ。目的の階層で降り、コツツミさんの家の前。息を吸って、吐いて。深呼吸を何度か繰り返して、覚悟を決めてインターホンを鳴らした。コツツミさんの家の詳しい台所事情はわからない。レンジを置いてある確認は取れているので、耐熱のタッパーに出来合いの味噌煮込みうどんを冷凍したものを保冷バッグに入れて持ってきた。これで味噌煮込みうどんの準備や調理に気を取られずに、コツツミさんの説得に存分に集中できる。それに、この冷凍した味噌煮込みうどんには、あまりコツツミさんの家に長居すべきではないという判断もある。……コツツミさんには常に、常識が通用しないという恐怖がついて回るからだ。
「あ〜メツギくんだ〜いらっしゃ〜い♡」
「……」
「おい、なんで無反応なんだよ。せっかくあたしがサービスしてやってるってのに」
コツツミさんのぶりっ子な出迎えに言葉を失った。そんな俺の反応を見たコツツミさんは反転、ぶっきらぼうな物言いで俺へ詰めてくる。コツツミさんが何をしたかったのかサッパリわからず、俺は反射的にコツツミさんから目を逸らした。いや、なんだ。思わず目を思わず逸らしたのは、あまりにもバレバレなコツツミさんの演技に、見ているこっちが恥ずかしくなってしまったのだ。コツツミさんは〝つまんね〜〟といじけながら、家の奥に引っ込んでしまった。俺は〝おじゃまします〟と一言告げて、コツツミさんの家に上がろうとして。玄関入ってすぐの光景に絶句した。