「ツキノキさん」
「?」
「ウチハの件、日を改めましょう。急ぎの用というわけでもありませんし」
「……それは私を気遣ってかな?」
「それもあります。けどそれ以前に、俺が罪悪感で耐えられません」
「ほう……」
「嬉しいはずなんです、ツキノキさんとこうやって出掛けられるだけで。俺の知らない世界を、ツキノキさんは見せてくれる。……けど、俺はツキノキさんに貰いすぎなんですよ。これだけ惜しみなくツキノキさんに与えてもらっているのに、俺は全くお返しできていない」
「それは違う」
「……同情や哀れみでそう言ってくれてるのなら、やめてください」
「同情も、まして哀れんでもいない。なにも返せていないというのも誤解がある」
「いったいいつ俺がツキノキさんにお返ししましたか? あれですか? 素人仕込みの料理のことですか?」
「私はメツギさんと一緒に居ると楽しいよ」
「!」
ドキンッと心臓が跳ねた。どうして、この人は。そんなにまっすぐな顔をして好意を伝えられるのだろう。ツキノキさんの性格から、俺をからかってないことなんてすぐわかってしまう。あぁ、本当に。ツキノキさんはズルイ人だ。どうしてこんなにも、俺の心をくすぐるのだろう。ツキノキさんに〝一緒に居て楽しい〟なんて言われたら、引き下がれるわけないじゃないか。
「お、俺もツキノキさんと一緒に居ると、楽しいです……よ?」
「ならよかった」
それだけいうと、ツキノキさんはクルリと振り返って遠ざかっていく。危なかった。あのまま向かい合っていたら、恥ずかしさ爆発してしまうところだった。ツキノキさんを追いかけながら、呼吸を整える。俺のこの〝ツキノキさんが好きな気持ち〟を知られないように、ツキノキさんの前で平静を装うのに必死だった。
上りの列車に乗り込んで。着いた先は、以前来たことのある場所だった。前にウチハと買い物をしに来た所。ちょうどあの売店のずんだドリンクを飲んだのを覚えている。今は暑いからなのか、ずんだソフトののぼりが出ていた。正直、意外だ。ツキノキさんがこんなゴチャゴチャした場所を案内するだなんて。俺の勝手な想像だが。もっとこう、なんというか。穴場のん場所というか、隠れ家というか。知る人ぞ知る、みたいな。俺を驚かせてくれる場所を案内してくれるものだとばかり考えていたから。……まあ、でも。ツキノキさんと一緒なら、どんな場所でも楽しめてしまうんだろうな。好きな人と一緒に居られるならどこでもいい。俺はなんて単純な男なのだろう。
「それじゃあここで解散しようか」
「……え?」
「集合はここに一時間後。なにかあれば連絡を入れてほしい」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「ん?」
「なんか……おかしくありませんか?」
「聞こう」
「俺とウチハが一緒に出掛けるのを想定してるんですよね?」
「そのつもりだ」
「なのに別行動ってどういうことですか?」
「一緒に出掛けたからと言って、別行動をしてはならない理由はない」
「……だとしても、これだと二人で話し合えないのでは?」
「話し合うために離れるんだ」
「???」
「今日はメツギさんも疲れたろう。しばらく休んでいくといい」
クルリと振り返った背中。夜は楽しみで眠れなくて、朝は張り切って早く出た。だが疲れている自覚はない。ツキノキさんに疲れていないことを伝えようと伸びた手が途中で止まった。ツキノキさんが遠ざかったのをキッカケに、疲れを実感したからだ。さっきまでなんともなかったはずなのに。なんで、いきなり……。一人で動揺している間に、ツキノキさんの姿は見えなくなっていた。仕方がないので、フラフラと座れる場所を探す。この感覚は、体力がなくて疲れてるんじゃない。ウチハの準決勝で、終了ブザーが鳴り響いた時のような。応援していた緊張の糸が切れて、背もたれに体を預けるような感覚。……俺は、ツキノキさんの前でずっと緊張していた? いまのいままで、ずっと?
くすんだ鏡の価値基準が、より短く・より近く・より激しくに置かれているのなら。澄んだ鏡はその逆。より長く・より遠く・より穏やかに価値基準を置く。……ウチハとのこの場所に買い物に来た時は苦痛だった。だがその原因は、買い物でもウチハでもなかったのだ。くすんだ鏡の基準に従っていたことが苦痛の原因。それならばツキノキさんのいうように、澄んだ鏡の基準で自由行動をした方が俺には合っている。けれどもですよ、ツキノキさん。そのお出掛けは澄んだ鏡同士で初めて成立する話。くすんだ鏡のウチハには、残念ながら適応……適応? ……果たして、本当にウチハはくすんだ鏡なのか? ツキノキさんがウチハのことを見誤るなんてことあるのか? ウチハについて、俺は大きな誤解をしているんじゃないか? ……いくら足掻いたところで、鏡の性質を変えることはできなかった。小さい頃のウチハは、誰かの背中に回り込むくらい臆病な子だったはず。当時のウチハは、とてもじゃないがくすんだ鏡には程遠い。だが澄んだ鏡の性質に、周囲の環境に影響を受けやすいというものがある。教室で横暴な態度をとるウチハの友達。もしもその振る舞いに、ウチハが影響を受けているのだとしたら。いやそれだけじゃない。俺や、俺の両親。ウチハの両親。周囲の期待をその鏡一つで集めて、その期待にウチハが応えようとしているのなら……。
いや、まだウチハが澄んだ鏡だと確定したわけじゃない。ウチハの口から直接聞かないことには、ただ俺の想像の域を出ない。まだ確定しないにしても。俺の味方をする発言、取り巻き襲来時にウチハの姿がなかったこと、ツキノキさんが妙にウチハを気にかけてきたこと。その全てに説明がつく。ウチハの休日を待つだなんて、そんな呑気なことを言ってる場合ではなかった。一日でも早く、ウチハの真相を確かめないと。……俺はウチハの真意を確かめて、どうするつもりだ? わからない。自分のことで手一杯な俺に、ウチハをどうこうしようだなんて。とてもじゃないが、どうすることもできない。とりあえず、ツキノキさんだ。ウチハが澄んだ鏡だったなら、その時はツキノキさんに相談しよう。……ツキノキさんとウチハが顔合わせしたのなんて、遊園地での一日だけ。それなのに、この限られた情報で。ウチハが追い詰められているかもしれないという推理を、ツキノキさんが組み立ててくるだなんて……。恐ろしさを越えて、なんだか畏敬の念を抱いてしまう。同時に、俺にはツキノキさんしかいないのだと、より確信に満ちていく。例えこれが心酔の類いなのだとしても。ツキノキさんを心の底から信じるこの行為に、疑いの余地は一切なかった。また一つ、夏休み中にやらないといけないことが増えてしまったな。
休憩終了。しかし、まだツキノキさんの指定した集合まで時間がある。せっかくこの場所に来たんだ、ウチハと来た時はじっくり見れなかった服を一通り見て回ろう。俺はオシャレがどうだとかに興味はないが、俺のダサさで一緒に居るツキノキさんの評価は落としたくない。最低限の無難な服をいくつか買っておくべきだろう。ベンチから立ち上がり、服屋へ向かう。
日曜日の昼下がり。家族連れやカップル、友人・知人のまとまりの中。俺はポツンと一人で買い物をする。ツキノキさんからの提案とはいえ、集団行動できていないことに恥ずかしさを感じながら。以前に気になっていた服屋に入っていった。じっくり服を見て、時間の確認を何度か繰り返し。待ち合わせ時間の十分前に、集合場所へと移動を始めた。
「あ、すみません。……すみません。あの、ちょっと!」
何事かと振り返ると、妙齢の女性と目が合った。周囲をキョロっキョロと見渡すが、視線は変わらず俺に向いていた。はて、俺はこの人を知らない。俺が知らない間に、俺がなにか失礼なことをしてしまったのだろうか。
「飼い主です。マルチーズの」
「あぁ……」
「後ろ姿に見覚えがあって声をかけてみたら、やっぱり」
「犬は、お元気で?」
「えぇ。今日は家でお留守番させてます」
「そう、ですか」
「ちょっと待っててくださいね……。フィナンシェ。マドレーヌに似た焼き菓子なんですけど、好きですか?」
「あぁ、えっと。はい」
「すぐそこのお店のなんですけど、私のお気に入りなんです。よかったらどうぞ」
「……頂きます」
質の良さそうな、厚手に個包装された二つのフィナンシェ? という焼き菓子を受け取る。受け取ったのを女性は確認すると、〝彼女にもよろしく伝えておいてください〟と告げ。女性は一礼してその場を立ち去っていった。……律儀な人だな。俺の鏡が反応して、体が動いただけなのに。ポッケに入れる……のは流石にないか。生地がボロボロになってしまう。このまま手に持っているわけにもいかないし。それならツキノキさんと一緒に食べてしまおうか。ウチハにはなにか、お土産でも買っていけばいいだろ。解散を言い渡された場所に五分前。人混みの向こうから、ツキノキさんがこちらに向かってくる。
「待たせたね」
「いいえ、ちょうどいま来たところです。……あの、これ」
「? これは?」
「あー……頂き物です」
「ふふ。ありがとう、頂くよ。そこのテーブルで食べようか」
「……あの、ツキノキさん」
「ん?」
「ツキノキさんの意図は、なんとなくわかりました。……けど、これで終わりってわけじゃないんですよね?」
「ふむ。口で説明するよりも、まずは行動で示そう」
そう言うとツキノキさんは立ち上がって、スタスタと歩き出す。俺もフィナンシェの包み紙をポケットに突っ込んで、ツキノキさんの後を追うために立ち上がった。俺の予想が正しければ、ここからが本番。ウチハと二人で話し合うために大切な場所へ、ツキノキさんが案内してくれるはずだ。けれども一体、どこに向かっているのだろうか? 立ち並ぶ店々をいくつか通り過ぎると、奥まった場所でツキノキさんが止まる。ツキノキさんが止まった先を、俺は肩越しから覗き込んだ。落ち着いた色調と厳格な佇まい。そこには庶民なら萎縮してしまいそうな、高級路線の喫茶店があった。
「気が進まないかい?」
「……」
「時にメツギさん」
「? なんですか?」
「個人で投資可能な先で、最も利益率の高い投資先とはどこだろう」
「投資、ですか? ……すみません。株とかよくわからないです」
「そう難しく考える必要はないよ。誰もがごく自然に行っていることだ。人々の生活に溶け込んだ、ごくありふれた行為。つまり……」
「つまり?」
「自己投資。より身近な言い方をするなら、自分へのご褒美だ」
ツキノキさんはそう言い終えると、俺が返事をする間もなく入店してしまう。高いお店だからと、尻込みしてる場合じゃない。ツキノキさんから、ウチハとの話し合いに必要なことを学んで。あわよくば、ツキノキさんの〝賢い〟を探ろうと。ツキノキさんを店の中まで追いかけた。店内に充満するのは、コーヒーの香り。カウンターには、何やら大掛かりな装置まである。入ってすぐの赤い絨毯。足裏を包み込んで、沈み込む感触。天井の照明。レトロ調で、温かみのある柔らかい光を放っている。音楽の主張は弱く、しかしハッキリと耳まで届く落ち着いた曲。洗練された接客をする定員さんに案内され。俺はツキノキさんの背中にひっつき虫のように張り付いて、店内をキョロキョロと見回した。案内されたソファー席。窓からは湖を一望できる。渡されたメニュー表。中を開いて、ギョッとした。値段が書いてない。どのページを開いても、価格が載っていない。〝時価〟というやつだろうか。なんだか怖くなってきた。
「メツギさんは決まったかい?」
「……」
「心配せずとも、お金の準備はしてきているよ」
「水だけというのは」
「却下」
「……」
「難しく考える必要はないよ。メツギさんはただ、自分の心に従えばいい」
〝すみません〟と手を挙げたツキノキさんは、定員さんに宇治抹茶氷を注文。俺もいっそ、ツキノキさんの注文した宇治抹茶氷に飛び付いてしまいたい。……いや、いや。自分の心に従うってのは、誰かの後追いをすることじゃないだろ。俺は別に、宇治抹茶氷が食べたいわけじゃない。それ以前に、俺は〝心〟がなんなのかがいまいちわかっていないじゃないか。ここを曖昧にしたままで、自分の心に従えるなんて到底思えない。しっかりと自分の中で、〝心〟とは何かを整理する必要がある。………………。
人間は……大きく三つの要素に分けることができる。心・技・体。ウチハの本に載っていた、剣道用語。人間がもし鏡であるのなら、同様に三つの要素に分けることができるはずだ。……まずは簡単そうなのから。〝体〟はそのまま、鏡本体に置き換えることができる。〝技〟は厄介だな……本体に左右され、外部に影響を及ぼす現象となると、鏡の反射が一番近いか? そして、最後の〝心〟……。鏡本体、鏡の反射ときて、最後の一つ。あと足りない要素はなんだ? 鏡における、心。核心。その鏡の、決定的なナニカ。………………。わからない。どうもあと一歩が足りない気がする。
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
「……」
「先に頂いてしまうよ?」
「えぇ、はい。どうぞお構いなく」
ツキノキさんの顔が見えなくなるほどのボリューム。キメ細やかな白い山の山頂が、抹茶色に染められている。横に添えられたあんこに白玉、さくらんぼ。サクリとスプーンを刺す音に、山のてっぺんが持ち上がる。ツキノキさんの口に運ばれていくのが、ガラスに反射してよく見えて。その小さく形のいい唇の中に消えていった。……イカンイカン。いまはツキノキさんを眺めている時間じゃない。心がなんなのか理解することに集中しないと。……遺伝子的には全く同じ、一卵性双生児の双子でも。正反対の性格になったりするんだったか。方向性は多分、間違ってはないはずだ。本体、反射、それとあと一つ。何か……何かヒントはないのか。
救いを求めて店内を見渡した。壁にこのお店の創業者が微笑んでいる。内装、装飾、間取り、配置、音楽、メニュー、サービス。高い価格設定にするのは、そこにたくさんのこだわりがあるからだ。あの創業者の趣味なのだろう。それは体でも技でもないもの。あの創業者自身の人生といえよう……。人生・反射・本体。人生は……鏡らしくないな。人生を鏡に置き換えて考えるとすると……歴史? とかになるのか? 歴史・反射・本体。………………。その人の歩んできた歴史が心を作り。その人の持つ反射が技となり。その人の本体が、精神的・肉体的な体の限界を決める……。うん、悪くない。悪くないんじゃないか? 自分の心に従うとは、自分の歴史に従うということ。つまり、自分の好みを優先させればいいわけだ。……なんだ、そんなことだったのか。俺はこんな当たり前なことに、どれだけ頭を悩ませていたんだ。こんな単純なことにもわからなかっただなんて。本当に、情けない。……んで、これでようやくスタートライン。ここから自分の好みに従ってメニューを選んでいく訳だが……話はそう単純じゃない。俺の好物で真っ先に浮かぶものに、味噌がある。だが見たところ、このお店のメニューに味噌を使った商品はない。自分の好みがメニューにない場合は、どうやって心に従えばいいんだ。
カラン
グラスの氷が溶けて、崩れて、鳴った。俺が考え込んでいる間に、ツキノキさんはすでにかき氷を半分食べ終えている。残りあと半分……勝手に注文までの残り時間を想像してしまう。ツキノキさんがかき氷を食べ終わる前に、なんとか注文を決めたいところ。……好きでメニューを絞れないなら、ひとまず嫌いの心に従ってみるか。このお店のメニューは大きく三つに分かれている。ドリンク、デザート、軽食。いまはそれほど暑くないので、冷たいものを食べたり飲んだりする気分じゃない。お腹もそれほど減ってはいない。となると、だいぶメニューを絞れてくる気がするぞ。ドリンク、温かい飲み物。コーヒー・紅茶・スープの三種。コーヒーの美味さがいまいちわからない。舌に絡みつくあの苦さには、なんだか苦手意識がある。紅茶もそんなに印象がないな。家族が紅茶を飲まないってのもあるが。そうなると、やはり味の想像しやすいスープがいいのかもしれない。料理の勉強にもなるだろうし、味の想像がしやすいので失敗も少なそうだ。なら、店のオススメ。コーンスープに、決定……。注文は決まったはずなのに、メニュー表を手放せない。なんというか、言葉で説明しにくいが。心のどこかで納得していない自分がいる。ちゃんと嫌いの心に従ってメニューを決めたはずなのに。俺はもしかすると、何かを見落としているんじゃないのか? 本当はコーンスープなんて飲みたくないんじゃないか? 自問自答を繰り返すも、一向に答えは出てこない。ここまで育ててきた論理は、一瞬のうちに枯れ果てた。……やっぱり俺は、一生賢く生きられないのだろうか。
「人は一瞬で判断する」
「……?」
「直感が働くのは、ほんの一瞬の出来事だ。一説には、海馬にある長期記憶を参照し結論を出すまでの過程を指して言うらしい。その間0.01秒。……後に付いてくる思考は、いってしまえばオマケのようなものになる」
「……それじゃあ、考える行為は無駄ってことですか?」
「そうとも言い切れない。未知の知識や体験、初めて遭遇する事象には、直感が当てにならないこともある。その場合は、思考で補う他ない」
「メニュー選びなんて、初めての体験じゃありません」
「それならばもう結論は出ている」
「ちょ、ちょっと待ってください。俺がメニューを開いた瞬間から、すでに注文は決まっていたと?」
「あるいは、メニューを選ぶより前から」
「……」
メニューも見ないで注文を決めるだなんて、そんなことできるのだろうか。その疑問を口にする前に、ツキノキさんは再びかき氷の掘削作業に戻ってしまった。その姿は〝必要なことは話した〟とでも言いたげだった。まあ、確かに。すでに俺の中で結論が出ていたとなれば、心のどこかで納得していない自分がいることにも説明がつく。長期記憶という、個人の歴史の集合体。俺の直感は、コーンスープ望んでいなかった。だからいざ注文するぞとなったときに、納得できなかったのだ。……なんだか、ウチハと買い物した時のことを思い出してしまう。〝どっちがいい? 〟だなんて。二つの水着を交互に見せて聞いてきて。俺は〝聞く相手を間違えてないか? 〟という言葉をグッと堪え。選ばないとウチハが拗ねてしまうと、より露出の少ない方を指差す。するとウチハはしばらく悩んだ後、俺が選ばなかった方の水着を会計に持っていくのだ。〝参考にしないのならなぜ聞いた? 〟。こんな場面に遭遇するたび、毎回疑問に思っていたことだ。だがウチハの中ですでに答えが出ていたのなら、一定の理解を示すこともできる。あの時のウチハは、〝本心を確認したかった〟のだ。自分の直感を後押しされれば、素直にそれに従えばいい。逆に反対されれば、納得できない自分がいることに気がつける。直感は、分かりづらい。すぐに思考に追いつかれて、あっという間に直感はわからなくなる。だから俺に水着を選ばせて、心の揺らぎを確認してた。あの時のウチハが意地悪してきたと言うより、直感を引き出そうとしていたと言われた方が自然な考え方だ。……手相だとか、占いだとか、呪いだとか。こういったものが現代でも廃れない背景には、自分の直感を確かめる道具としての背景があるのかもしれない。なんだったら、俺が直感的になにを欲しているのか占って欲しいくらいだ。……初めてだな、いまほど誰かに占ってもらいたいなんて感情になったのは。あぁ、もう。やめだ、やめ。根っこが絡み合ってる。ツキノキさんもいっていただろう、〝難しく考える必要はない〟と。考えれば考えるだけ、どんどん根っこが複雑に絡み合っていく。複雑に考え込む必要はない。もっと、素直に。自分の感覚を信じて、選び取るんだ……。壁に掛けられた、微笑んでいる創業者を見る。さて、どこまで遡ろうか。……案内されてきた高そうな喫茶店。その時の俺は、ツキノキさんの意図を探ろうと必死になっていた。この時はお店のメニューなんて考えてる余裕はない。ツキノキさんがお店に入ってしまって、俺も慌てて後につづいて。そこで一番最初に感じたことが、店内に充満するコーヒーの香りで。………………。
「ふむ。流石にこの量は体が冷えるね。……メツギさんはどうかな? 何か注文したいモノはあるかい?」
「……コーヒー」
「?」
「コーヒーに、挑戦してみたいです」
「何か希望はあるかな?」
「えっと……特には」
「私もコーヒーにこだわりはない。どうだろう。ここは一つ、このお店のオススメを注文するというのは」
「はい。お願いします」
「すみません」
「はい。ご注文お伺いします」
「オリジナルブレンドのコーヒーを二つ」
「以上でよろしいですか?」
「はい」
「オリジナルブレンドコーヒーの方、お時間頂きますがよろしいでしょうか?」
「はい」
「かしこまりました。少々お待ちください」
「……心には従えたかい?」
「えぇ、おそらく」
「その感覚を忘れないことだ」
「……はい」
正直な所、俺が本当に自分の心に従えたのかどうかよく分からない。だが、ちょっと良い所のコーヒーを試してみたくなったと言う好奇心は確かにあった。あの創業者が微笑むほどのコーヒーならば、なんだか美味しく飲めてしまえるような気がした。これも多分、直感なのかな。こんな高そうな喫茶店に来るような機会は人生でなかった。安全を取って無難な選択もいいけれど、折角ツキノキさんと居るんだ。ちょっと攻めた動きをしても、ツキノキさんと一緒なら、素敵な思い出になりそうな気がするから。ここはツキノキさんの胸を借りるつもりで。飛び込んでみようと思えた。しばらくして、コーヒーが到着。カップを軽く持ち上げて嗅いでみると、なんだか果実のような甘い香りがする。とりあえず、一口。軽い苦みに顔をしかめた。だが飲み込むと苦味がスッと消え、爽やかなコーヒーの風味が鼻を駆け抜ける。飲みやすい。以前試しで飲んだコーヒーとはえらい違いだ。もう一口飲むと、口に苦味が広がる。チラリとツキノキさんの様子を伺った。ツキノキさんは優雅にカップを傾けてコーヒーを飲んでいる。窓から差し込む陽光と相まって、まるで一つの絵画のようだ。……ツキノキさんのような大人には、遠く及ばない。俺もまだまだ、お子様ってことか。観念してミルクと砂糖を半分ずつ入れると、随分と飲みやすくなった。
お店の中には、ゆったりとした時間が流れている。最近バタバタと忙しかったからか、なんだか眠たくなってきた。それは非常に勿体無い。ツキノキさんと一緒に居られる時間は何よりも貴重なんだ。会話の一つでもしていれば、カフェインが効いてくるかも。ツキノキさんを見る。何やら本を読んでいるみたいだ。あの表紙の感じ、七手詰めの表題……将棋? か? 将棋の本は、以前ツキノキさんの家で見たことがある。ツキノキさんが将棋に興味があるだなんて。以外でもなんでもないな。知的なツキノキさんのイメージにはぴったり。なんならとっても強い気さえする。
「……将棋。指すんですか?」
「昔は、指していたんだがね。いまはめっきり」
「仕事とか、ですかね?」
「それもあるね。……だが一番は、私の気持ちの問題だ」
「……」
「詰将棋の本も、久しぶりに触った。問題を解くのも久しぶりだが、案外。体は覚えているようだね」
「……気を悪くしたらすみません。もしかして、今日お墓参りしたスネヤ先生と関わりがあるんじゃ……」
「その読みは正しい。将棋は先生から教わったものなんだ」
「ツキノキさんの先生であり師匠ってことですか。……俺なんて足元にも及ばないんでしょうね」
「それは私も同じだよ。実際、真剣勝負で勝てたことは一度もなかった」
「ツキノキさんから見て……どんな先生だったんですか?」
「……歴史上の人物で表現するなら、まるで家康のような人だったよ。雰囲気が思考に影響するのか、はたまた思考が雰囲気に影響するのか。先生の口から、幾度となく家康についての話を聞いた。なぜ先生は私に家康の話をしてくれたのか。……その真意を、私は聞きそびれてしまった」
「家康って、あの徳川家康ですよね? なんか、こう……渋いですね」
「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食ふは徳川。確かに戦国三英傑の中だと、どうしても家康の功績は霞んでしまう」
「それなら、どうして先生は家康の話を?」
「〝真の偉大さは死後でわかる〟。……国家とは、巨大なキャンバスのようなもの。真新しいその白紙に、理想の世界を描いていく。はじめの内はいい。自由に、伸び伸びと。筆を走らせることができる。だが、もしも筆が止まってしまった時は? 英傑に頼り切れば、その英傑が居なくなった時に混乱が起こる。後進を育成し混乱に備えても、英傑の意図を正しく汲んでくれるとは限らない。かといってルールを厳格にして縛りあげれば、今度は移り行く時代の波に対処出来なくなる。二百六十四年つづいた大平の世。その礎を築いた家康は、世界に類を見ない偉大な為政者なのではと……先生は、語った」
「な、なんだか深い話に「私はこの考え方が心底キライだ」……え?」
「……すまない、見苦しいものを見せてしまった。忘れてくれ」
「……」
ツキノキさんは、〝カシャン〟とぶつけてしまったコーヒーカップとソーサーを手で隠した。ツキノキさんの表情に影が差し込む。俺はそんなツキノキさんに酷く困惑した。過去にスネヤ先生との間に何かがあった。そう確信するも、俺はその〝何か〟を聞くことができなかった。ツキノキさんにイヤな気持ちを思い出させてしまった罪悪感に押し黙りながら。俺は逃げるように、コーヒーを飲み干した。冷めたコーヒーの苦味が、さっきより強く舌に絡み付いてくるような気がした。
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「エイタ! 話ってなに!?」
「……髪、乾いてないぞ」
「い、急いで出てきたから」
「風邪引くぞ」
「うんうん」
「はぁ。ほら、タオル貸せ」
そう言って、ウチハのタオルを奪い取る。タオルとタオルの間に髪を挟んで、優しく包むようにして水気を拭き取った。昔はよくこうして髪を乾かしたものだ。前髪を張り付けたままリビングに向かうウチハの背中を、何度呼び止めたことか。
「それでさ。話って、なに?」
「大会前、一日休みがあるだろ?」
「へ? あ、うん」
「その日、一緒に出掛けないか?」
「……へ?」