「コツツミさんは、車両全体から攻撃を受けた。……そう仮定してみる」
「いつまでもウケ狙うな。底が知れる」
「キッカケは、赤ん坊が泣き出したこと」
「つまんな。もう帰れよ」
「母親が必死にあやして。周りも無関心を装って優しくて、許されてて」
「マジなんなんだよオマエ」
「許されなかったコツツミさんが反応した」
「……あ?」
「コツツミさんの生きてきた、優しくなかった世界を車内中が否定してきた。……だから、コツツミさんの心は反発を──────」
気づいた時には、俺はコツツミさんに突き飛ばされていた。壁に背中を打ち付けて、よろけて壁に背をついて。そのすぐ後に、コツツミさんが俺の胸ぐらに両手で掴み掛かった。コツツミさんに〝ギュッ〟と握られたことで首が閉まって。息ができなくて、一瞬〝死〟の文字が頭に浮かぶ。コツツミさんの顔を見ると、動揺しているようだった。〝ごめん〟とか細い謝罪の言葉が口から漏れる。それを聞いたコツツミさんは、〝チッ! 〟と、大きな舌打ちをして。俺の胸ぐらから手を離して、この部屋から出ていった。俺は壁を背に倒れ込んで、酷く咳き込んだ。胸に手を当てて、深く深呼吸をする。ひとしきり落ち着いたところで、俺は自分の行いを酷く後悔した。触れてはいけない話題だった。いつもならこんなに踏み込んだりしないはずなのに。喫茶店でのツキノキさんとのやりとり。〝賢い〟の手掛かりが掴めないことへの焦り。コツツミさんなら何をしてもいいという慢心が、この結果を招いた。……俺はまた、コツツミさんに向き合おうとせず。同じ過ちを繰り返してしまった。謝ろうとコツツミさんのいる部屋の前で伸びた手が、力無く降ろされる。それは所詮、こちらの都合。あれだけの怒りを買って、すぐ許してもらえるなんてどうかしてる。コツツミさんに冷静になってもらうためにも、時間を……置くべき。
このまま廊下に居ると、怒りの収まっていないコツツミさんと鉢合わせてしまう。なので俺は、玄関で靴を履いて。とりあえず外に出ることにした。同じ過ちを繰り返してしまったことに、家に帰るだけの元気も湧いてこず。俺はコツツミさんの家のドアの前に座り込んだ。俺はなにも変わってない。俺はずっと情けない俺のままだ。早く情けない俺から変わりたいのに。どれだけ足掻いても、一向に変わる気配がない。頭の中がゴチャゴチャする。メモ用紙を取り出して、頭のゴチャゴチャを書き出していく。変われない焦りが手元を動かしていた。ツキノキさんと先生の間に、一体なにが起こったのだろう。人間がもし鏡であるのなら。すべての反応には、何かしら理由があることをつい先程のんコツツミさんで確信できた。真の偉大さ。まっさらなキャンバス。描き出す塩梅。やり過ぎず少な過ぎず。完成ではない未完成。色の乗らない、手付かずの場所。その余白。より人間的な表現にするなら……余力。それに反発。ツキノキさんが取るべき立場は……全力? 確かにツキノキさんの誠実さは、嘘偽りのない全力。だかツキノキさんの慎重さはどうだろう。〝全力〟と〝慎重〟だなんて、まったく相反する関係性のように思われる。ん────。……どこで道を違えたのだろう。そもそもこの道は正しいのか。ああでもないこうでもない。そう頭を絞りきって、うんうんと一人で唸っていると。コツツミさんの家のドアが開く。
「……出れないんだけど」
「ごめん。すぐ退く」
「そんなことしてて恥ずかしくないわけ? ひとんちの前で座り込むとか」
「……俺には恥ずかしがってる暇もない」
「あっそ」
「すまなかった。勝手な妄想で、ズカズカと」
「謝んじゃねぇよ。図星みたいになるだろが」
「現状……コツツミさんに詫びれるモノがない」
「んなのいいから。話聞いてたか?」
「それじゃあ俺が納得できない。……俺が捧げられるものが見つかったら、そのときまた改めて話したい」
「……キモ」
「「……」」
「もう帰るんだろ? ここに住む気か?」
「あぁー……」
「いまさら気まずいとか考えてんじゃねぇよ」
腕を引かれて、エレベーターに向かう。喋って気まずさを紛らわせたいが、できない。目的をもった会話しかできない。日常の、平凡な、なんてことない会話。さっき地雷を踏み抜いたばかりだ。舌も乾かぬうちの失態は、今度こそ許してもらえなさそう。雑談、雑談。コツツミさんとできる、当たり障りのない会話。非日常的な、刺激的なナニか。例えば、誰かの不幸みたいなのって……これは偏見がすぎるか。それを嬉々として喋る自分を想像して、悲しくなった。気まずい空気を察してくれたのか、ボタンを押すとエレベーターはすぐ来てくれた。開く閉鎖空間。観念して乗り込む。ボタンが押され、腕の拘束も解かれ横並び。こちらから会話を切り出せないまま。ただ切り替わる階数と、アニメーションの矢印を呆然と見上げる。
「色々と口出してくる人だったの」
「?」
「あたしのお母さん。たくさん挑戦しなさいとか、みんなと仲良くしなさいとか。抽象的で中身のないことばっかりさ。あたしがイチ喋る間に、向こうはジュウ喋ってくる。逆らったりしたらヒャクで説教されてた。でも特に、なんとも思わなかったの。あたしが何も言い返さなかったらお母さんはマトモで、あたし自身の要領がいいから中身のないことやらされても負担は少なかったし、私立で頭のいい子ばっかりだったから平和そのもの。だから、周り子達もあたしみたいな目に遭ってるんだろうなって勝手に思い込んでた」
「……」
「側から見たら、やっぱりあたしって異常?」
「……いきさつはどうあれ、コツツミさん自身におかしなところはないと思う」
「あの散らかった部屋を見ても?」
「いいんじゃない? 気にならないんだろ? 俺は気になるから片付けるけど」
「……」
「イヤなことが限界を超えて怒るのは、何もおかしいことじゃない。……コツツミさんは、ちゃんと正常だよ。つまらないくらいに」
「あ゛? なにそれ? 煽ってんの?」
「煽ってるつもりはない」
エレベーターが到着の音を鳴らす。開く扉にコツツミさん、俺の順番で降りる。マンションの外に出ると、もう陽はすっかり沈んでしまっていた。夏のぬるい風が吹く。コツツミさんのマンションに長居しすぎた。これは帰ったら母さんに怒られるな。ハンカチで額を拭って。駅へ向かう二人の足音。交わされる会話はなく。ほどなくして駅前、改札。振り返って、〝それじゃあ〟と手を振った。コツツミさんもヒラヒラと、背中を向けながら面倒くさそうに手を振って。駅前にあるコンビニへと消えていった。早いよな、立ち直り。もしも俺が地雷を踏まれていたら、しばらく立ち直れない自信がある。いまでも情けない俺のままだが。ちゃんとコツツミさんに謝れて、次回に繋げられた自分がいる。前に進めなくても、前に進もうとしている自分に気づけたのなら。しばらくの間は、情けない自分を忘れられる。
駅のホーム。ふと、正面の広告が目に入った。それは、リニューアルされた屋内プールの宣伝広告だった。長らく、授業以外でプールで遊んだ記憶がない。俺が大して泳げないってのが、プールに行かない最大の理由ではあるが。もしツキノキさんに泳ぎを教えてほしいとワガママを伝えたら、果たしてツキノキさんは受け入れてくれるのだろうか。……受け入れてくれるとしたら。ツキノキさんは、どんな水着を着るのだろう。スーツ越しでもスタイルがいいのは伝わってくるから、どんな水着でも着こなしてしまいそうだけど。……。ツキノキさんは社会人だし、連絡するなら早いほうがいい。早速スマホを取り出して、俺はツキノキさんにプールへ誘うメッセージを考えるのだった。
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二つの鍋に水を入れ火にかける。一つは温泉卵用、もう一つは野菜を茹でる用だ。お湯を沸かしている間に野菜の下準備。にんじんを細切り。ほうれん草は三〜四cm幅。もやしは袋から出してそのまま使う。水が沸騰したら、片方の火を止め卵投入、十二分放置。温泉卵は室温や水温によっても時間が変わってくるので地味に難しいところ。しっかりタイマーを使ったり、時間を調整したり、たっぷりの水で水温が下がりすぎないようにと言った前提知識は吸収済み。だが悲しいことに、いままで一度も成功したことがない。もう片方の鍋の火はそのままに。にんじん、もやし、ほうれん草の順番に野菜を入れて二分三十秒茹でていく。時間が経ったらザルで水を切って、熱いのでしばらくそのまま放置。野菜を冷ましている間にメインの肉味噌を作っていく。合いびき肉を何も引いてないフライパンに投入。木ベラで合いびき肉を細かくしながら炒めていく。温泉卵のタイマーが鳴った。卵を鍋から出す。余熱で火が通らないように水を張ったお椀へ。ひき肉全体の色が変わり切ったら火を切る。この時、ひき肉から大量の油が出てくる。いかにも健康に悪そうな油の量。キッチンペーパーで適度に拭き取ってから、そこに白胡麻・醤油・砂糖・赤味噌を入れてよく絡ませる。味噌に熱を入れすぎると酵素や香りが損なわれるので要注意。調味料が全体に行き渡れば、これで肉味噌は完成。ザルにあげた野菜の水気をキッチンペーパーでしっかりとしっかりと切って。ごま油・醤油・鶏ガラ・塩で味付け。よく混ぜてナムル完成。キムチとコチュジャンを用意。盛り付けは各自でどうぞ。ニンニクチューブ・一味唐辛子はお好みで。
「できました。ご飯よそってください」
「味噌のいい香りがするね」
「赤味噌たっぷり使いましたから」
「うん。とってもおいしそうだ」
「温泉卵も用意しました。どうぞ使って下さい」
「随分、手が込んでいるね」
「えぇ。俺のワガママ増し増しです」
「メツギさんのワガママなら、私からはこれ以上口は挟まない」
「どうですかね? 温泉卵。……あちゃー緩い」
「そんな日もあるさ」
「温泉卵。何度か作ってるんですけど成功したことないんです」
「たしか……白身と黄身で固まる温度が違うんだったね?」
「はい。そこらへんの微調整が苦手で」
「メツギさんなら、きっと出来るようになるよ」
「はい。頑張ります」
「メツギさんも食べていくんだろう?」
「えぇ、はい」
「先にテーブルで待ってるよ」
休日の微睡のように甘くて優しい声。背中をくすぐってくるようなむず痒さ。久々に会えた嬉しさに心臓は、トクントクンと確かな鼓動を全身に伝える。〝ツキノキさんに会えて嬉しい〟という気持ちが漏れてしまっていないか、バレてしまっていないかと気にするあまり。自分が挙動不審になっていくことを実感する。ツキノキさんとある程度離れられれば、ホッと一息。俺も自分の器に肉味噌ビビンバを盛り付けながら考えるのは、どうすればこの気持ちの暴走を抑えられるかその一心。このまま向かい合って食事すれば、間違いなく心がヘロヘロに溶かされてしまう。そんなことになれば、気持ちの悪いニヤケ面をツキノキさんに見られてしまいそうだ。ツキノキさんに、俺のそんな姿は見せたくない。けど、ツキノキさんと一緒に食事はしたい。相反する二つの心情が、壮絶な綱引きを繰り広げ。待たせていることを申し訳なく思いながらも、おもわず台所で二の足を踏んでしまう。
そ、そうだ。ツキノキさんの存在が眩しいのなら。ウチハと出掛けた時のように、光度を弱めればいいのだ。部屋でサングラスとか失礼だよなと思いつつも、ツキノキさんにもらったサングラスを手に取る。そうして、ひょっこりと部屋の隅から顔を覗かせた。すぐさま気配に気づいたツキノキさんと目が合う。しまった。この奇行に突っ込まれた時の言い訳を考えていなかった。ツキノキさんほどの人物に突っ込まれたら、誤魔化し切れる自信がない。だがしかしサングラスしないと、今度は俺がまともにツキノキさんと食事ができない。仕方がない。一か八か、ツキノキさんの良心に賭けよう。〝お願いします、どうか突っ込まないでください〟と心臓をバクバクさせながら全身を晒す。明らかに部屋の中で不必要なサングラスに、ツキノキさんの首が不思議と傾いた。こういう時、絶対オロオロしちゃいけない。むしろ自信たっぷりに、〝サングラスしてるなんて普通ですけど? 〟とツキノキさんに見せつけるんだ。体ガチガチのヘンテコな歩き方をしながら。俺はツキノキさんの対面へ腰を下ろす。尻の座りを確認して、サングラスを両手でスチャリ。沈黙、静寂。凝視。ツキノキさんから注がれる眼差し。サングラスの中で目が泳ぐ。
「食べようか」
「は、はい」
『いただきます』
「……うん。甘じょっぱくておいしいよ」
「ありがとうございます」
「メツギさんの手際がいいから、私でも作れてしまうんじゃないかと思ってしまうね」
「まあ、初めて作る料理じゃないので。……前に作った時は大変でした」
「ご家族に振舞ったのかな?」
「はい、俺の家族とウチハの分を」
「もう立派な料理男子だ」
「も、モテますかね」
「私にはとても魅力的に映るよ」
「はふぅ!?」
不可視の矢に射抜かれた胸を押さえながら。サングラスを治すふりをして踏み止まる。こんなまだ成人もしてないようなガキをツキノキさんが相手するわけがない。そう必死に自分に言い聞かせ、勘違いを防止する。ツキノキさんは大人の女性だ。これは一種の社交辞令のようなモノ。そんなものを真面目に受け取ってはならないのだ。
……ストーカーというのは、もしかしたら澄んだ鏡に多いのではないだろうか。なんてことないやりとりも、澄んだ鏡は過剰に反応してしまう。それが自分の想い人ともなれば、とんでもないエネルギーが産み出されてしまう。それが良い感情であれ悪い感情であれ、過剰供給は暴走を意味する。結果、一人で勝手に盛り上がり、醜態を晒すハメになってしまうのだ。何度でも言おう。俺は、絶対にツキノキさんに嫌われたくない。こんな素敵な人に嫌われるのだとしたら、ソイツはきっと人間のどん底にいる。人間、そこまで堕ちたくはないモノだ。明日は我が身。気持ちを引き締めて。貴重なツキノキさんとの時間を噛み締めるのだった。ツキノキさんとは、用法用量を守って正しく付き合っていこう。
「……時にメツギさん」
「はい?」
「ドウゾノさんとは話せたのかい?」
「えぇ。あの後すぐに二人で話しました。……俺の一方的な思い違いがあったので、その埋め合わせとして二人で出かける約束を」
「そうか。誤解が解けたようで何よりだ」
「……どこまで読んでいたんですか?」
「ん?」
「俺がウチハを誤解していること。ウチハに負荷が掛かっていること。気付いた俺が、それを放っておけないこと。ツキノキさんは、何処まで見えていたんですか?」
「〝見えている〟という表現は不適切だ。私はあくまで、一個人的な視点を口にしたに過ぎない。未来のことは、世界の誰にもわからないよ」
「えっと、それじゃあ。……どうして世界中で投資はされるんでしょうか」
「ふむ。安易に答えるべきではないね。次回に持ち越してもいいかな?」
「はい。お願いします」
「「……」」
「あの! ……プールの件、なんですけど」
「ん?」
「保留にされたままで、俺はまだ返事をまだもらっていません」
「残念だが、私に水泳の知識はない」
「それじゃあ……」
「ただ、しばらく時間を貰えるのだとしたら。メツギさんの期待に沿えると思う」
「ほ、本当ですか?」
「流石に本職とまではいかないが」
「十分すぎますよ!」
「そう期待をされても困ってしまう。……準備が終わり次第、連絡しよう」
なんてこった。ツキノキさんに水泳を教えてもらえるなんて。ということは、ツキノキさんの水着姿も拝める? ……俺は明日、死ぬのだろうか。歓喜で叫びたくなる体を押さえ込むために、ビビンバを口に詰め込んで。詰め込み過ぎたせいで喉を詰まらせ、胸を叩いてお茶を流し込む。……危うく死ぬところだった。〝大丈夫かい? 〟と困ったようにこちらを伺うツキノキさんに、〝えぇ。問題ありません〟と誤魔化して。ツキノキさんと過ごす、夢のような時間があっという間に過ぎていくのだった……。