鏡の奥の向こう側   作:おおきなかぎは すぐわかりそう

41 / 59
名人に定跡なし

 

 

 

 人生の分岐点を聞かれた時。私は迷わず、先生との出会いを挙げるだろう。その時から、私の人生が動き出したとすら思える。懐かしい、遠い記憶。歴史のことになると熱を帯びる語り口。もう定年間近の容姿からは想像もつかない、力強い駒運び。生徒の手本になる気が全くないその不真面目な態度。けれど時折、内に秘めた信念が見え隠れする。そんな、どこか不思議な先生だった。

 最初の出会いは入学式。私のクラスの担任に振り分けられたのが、スネヤ先生だった。周囲からは、〝ハズレだ〟という囁き声。若い先生ではないこと、容姿が優れているわけではないこと、冗談が通じなさそうなど。彼らの言う〝ハズレ〟の基準は、だいたいそんなところであった。周囲が担任の先生の話題で静かな盛り上がりを見せる中、私の抱いていた感情は〝無〟であった。なぜなら、たとえどんな先生であれ、私にとっては大した違いはないという達観があったからだ。今回の先生も、過去の先生方と同じように。私をみんなの輪の中に入れようとして、苦労していくのだろう。私は昔から、咄嗟の出来事に固まる癖があった。それは日常会話はもちろん。好意を示され、告白された時も。そして自身に危険が迫った時でさえ、この体は硬直し動かなかった。自分のことながら、よくいままで生きてこられたなと思う。そういった面では、私は幸運な人間なのだろう。始めは熱心に人の輪へ引き入れようとする人々も。微動だにしない私の態度に、次第に同情の眼差しを向けるようになった。それが一ヶ月もすれば。一歩距離を置いた位置から、見守られるようになっていた。

 先生は口を揃えていう、〝もっと積極的になりなさい〟と。つづけて、〝このままだと社会でやっていけない〟が先生方の決まり文句だった。私も、このままではいけないと。人間関係に関するあらゆる書物を読み漁り、みんなと仲良くなろうとした。が、しかし。積み上がる本が増えれば増える分だけ、私の固まり癖は悪化の一途を辿ることになる。ある本では〝白がいい〟という主張も、ある本では〝黒が良い〟と全く真逆のことが書かれていることがあった。そんな出来事を何度も経験するにつれ。一体どれが本当のことなのか、わからなくなっていた。深い深い霧の中。〝こっちだよ〟と、四方八方から聞こえる声。向かうべき場所すら見つけられず。私はただ、正しいとされる道へ進んでいくことしかできない。……あらゆる手を尽くしたつもりだった。それでも答えは見つけられないまま。答えの影さえ掴めなかった。幸い、勉強はそれほど苦ではない。このままこの正しいとされる道を進んでいけば、一般的な幸福を手にすることができるのだろう。……それが本当に、私にとっての幸福なのかはわからないが。進むべき道も、向かうべき場所にも確信が持てぬまま。私は一生、不確かな人生を歩みつづけるしかないのだろう。入学祝いで飾り付けされた廊下。気怠げなスネヤ先生の挨拶。自分の自己紹介で動けなくなって。私は何も変わらない。そして何も変えられない。

 

『将棋、わかるか?』

 

 だからこそ、スネヤ先生には衝撃を受けた。先生は、忙しいはずだ。授業準備・学習評価、成績処理・学校行事等の準備運営、地域行事への参画等・部活動の監督・進路指導・児童生徒、家庭への対応。併せて学年主任ともなれば、雑多な仕事も舞い込んでくるはず。だというのに、ボードゲームで遊んでいられる時間があることに驚いた。これが将棋部の勧誘にしても、呑気が過ぎる。初めて遭遇するタイプの先生に、淡い光が灯った。〝この先生なら、私の霧を晴らしてくれるかも〟と。それからと言うもの。私はスネヤ先生との交流を深めていくことになる。〝筋がいい〟と言われた将棋は、いつしか新しい趣味になり。熱弁する先生に影響され、歴史への興味が湧き。二つの道、〝アレクサンドロス〟と〝ディオゲネス〟という言葉は、私の霧を晴らした。楽しかった。先生と指す対局のひとときが。嬉しかった。真剣に私と向き合ってくれたことが。そして、温かかった。道を指し示すのではなく。私の周囲を、世界の霧を晴らしてもらえたことが。こんな時間が、卒業までつづくのだと楽観的に考えていた。けれど、そんな甘い考えは一年と経たずに終わりを告げることになる。

 始まりは小さな変化だった。丁寧な基礎プリント・朝の学習時間・テスト順位の張り出し。〝成績〟をイヤでも意識させるやり方によって、やがてクラスの空気は張り詰め。気づけば、不穏な空気がクラスに漂い始めていた。私はそのことをスネヤ先生に報告すると、先生は寂しそうに笑って。〝ごめんな。先生の力不足だ〟と謝られてしまった。先生に謝られてしまったのなら、私はこれ以上のことを聞くことが出来なくなってしまって。結局、その日は話を打ち切るしかなかった。それからというもの。先生が部室に来るのが遅くなったり、会話が極端に減ってしまったり、ときどき思い詰めたように考え込んだり。次第に、状況が悪くなっていってるのがわかった。何か、よからぬことが起きていることを薄々理解していながら。なにも行動に移すことができない私。私は……先生の苦しんでいる姿を見ていることしかできなくて。突然、担任が交換される事態にもなり、放課後。ついに私は我慢の限界を迎え、先生を問い詰めようと探していた。向かったのは、いつもの資料室。そこで、誰かと話している先生のくぐもった声が聞こえてきた。内容の推測まではできない。ただ、先生が誰かに謝っていることだけは雰囲気で感じ取れた。資料室の話し声が止む。先生はお取り込み中みたいだ。今日は日を改めて、また今度先生を問い詰めることにしよう。先生のお仕事の邪魔はいけないと、ゆっくり資料室の前から立ち去ろうとしたその時。資料室の中から、絶叫が響き渡った。誰かが暴れるような音。直後、資料室から。青白い顔をして、服装も頭髪も乱れた女生徒が飛び出してきた。私は時が止まったように絶句する。その恨みがましく、釣り上がった両眼に睨まれて。固まって動けない、私の体。動けなくなった私の横を、彼女は通り過ぎていった。彼女の足跡が聞こえなくなって。ようやく動けるようになった私は、シンと静まり返った資料室を覗いた。割れた将棋盤の前で、一人座って項垂れる先生。こんな時、私はどう声をかけるべきなのだろう。

 

『あぁ、ツキノキか。イヤなとこ、見せちまったな』

 

『……』

 

『一局、指してくか? 盤は、まあ。万全とは言えんが』

 

 言葉は出てこなかった。ただ〝将棋を指さないか? 〟と先生に誘われたのはとても嬉しかった。こんな時に将棋を指すのかと驚かれてしまうかもしれないが。将棋というゲームには、自分の感情や考えが露骨に反映される。全く同じように見える進行でも。着手の時間・駒運び・その表情で、相手がどんなことを考えているのかがじんわりと伝わってくる。苦手な言葉を尽くすよりも、盤上の駒で語り合う。私と先生だけの、特別な付き合い方だった。散らばった駒を並べ、対面に座る。先生も多くは語らず、頭を下げた。

 

『お願いします』

 

 初手は、下手の私から。いままで緻密に練ってきた序盤は、先生と互角の進行を見せて。対抗形、いつもの見慣れた形。私の四間飛車に対する先生の右四間。今まで一度も勝てたことのない、私の目標。序盤の駒組が終わり、中盤戦に移っていく。駒がぶつかる、決戦の合図。手筋の応酬、読み合いの応酬、駆け引きの応酬。中盤も、先生と互角のまま進行。だが、このままだといずれ競り負けてしまう。将棋における経験の差は圧倒的。それが平手ともなれば、万が一にも私の勝ち筋はない。先生には決して〝経験〟で勝つことはできない。よって私が取れる唯一の勝ち筋。それは、経験の差を〝知識〟で凌駕すること。私の知っている局面に、先生を引きずり込む。仕掛ける、勝負の一手。いままで指してきた私の手は、全てこの瞬間のためにある。そしてここから先は、私の研究範囲内だ。先生の鋭い指し回し。その差し手の狙い全てが、私には手に取るようにわかる。ジリジリと、だが確実に。盤面が良くなっていく。〝この勝負、勝てる〟。指してる本人も驚く完璧な指し回しに思わず気持ちが油断した瞬間。先生が飛車を切ってきた。不利だと悟った先生が、勝負を仕掛けてきたのだ。大事な飛車を切って仕舞えば当然、先生側は駒損。だが私が準備してきた知識は、早速意味をなさなくなってしまった。先生によって、純粋な実力勝負に持ち込まれ。あれだけ有利なはずだった盤面が、徐々に徐々に盛り返されていき。勝敗の行方が、わからなくなってしまった。先生からの、鬼のような猛攻。なんとか盤面を収めようと手を尽くすが、先生の攻めが切れる気配はなく。盤面が、押し込まれていく。形成は、ほぼ互角まで戻ってしまった。受け切り勝ちはもはや叶わない。それなら……。ピシャリと、敵陣に駒を放った。自陣に火が回るのは時間の問題。だったら、それよりも先に相手玉を討ち取る。攻め合い勝ちに、最後の勝機を見出した。壮絶な速度計算が始まる。少しでも時間を稼ぎ、また迫ろうと。駒を打って、打たれて。……このペースでは、一歩及ばない。やはり先生には、勝てないのだろうか。何か手はないのかと盤面を広く見渡すが、一向に手は浮かばず。万策尽きて、投了が頭をかすめた。

 

 ………………! 

 

 緩手。先生らしくない、弱気な手だった。この一手隙に、全身全霊をぶつける。先生への感謝を込めて。急所、急所を攻め立てた。そして……。

 

『参りました』

 

『ありがとう、ございました』

 

『おめでとう、ツキノキ。先生がツキノキに教えてやれることは、もうないな』

 

『途中、緩手がありました』

 

『おぉ、そうかそうか。参ったな。先生も、焼きが回ってきたのかもしれん』

 

『それならなおさら、私の誘いに乗るべきではありませんでした』

 

『……』

 

『先生』

 

『む?』

 

『私では、先生の力にはなれません。けれど……不満を口にする、憂さ晴らしの相手は務まります』

 

『優しいな、ツキノキは。ただな、生徒には生徒の、先生には先生の役目がある』

 

『それでは、私は先生に一体なにを返せば良いんですか!』

 

『むっふふ』

 

『……』

 

『いや、すまんすまん。ツキノキはちょっとした勘違いをしていると思ってな』

 

『?』

 

『その反応だと、〝私ばかりが貰ってばかり〟だと考えてるのかもしれないがな。ツキノキ、それは違うぞ? ……ツキノキからは、もうたくさんもらってる』

 

『……』

 

『だから、良いんだ。そんなに思い詰めてやるな』

 

『……』

 

『それでもツキノキが納得できないっていうならな?』

 

 先生の優しい顔が覗く。それはいつもよりもくたびれていて、老け込んで。無理をして、心労を隠しているようにも見えた。

 

『たった一人でいい。この先の人生で、誰か一人を救ってあげなさい』

 

『私は、先生のようには……』

 

『なに、簡単なことだ。本当に助けを必要としている人には、大層な支援やら援助やらは必要ない。砂漠の遭難者に一杯の水を渡すように。ほんの些細なことの方が、かえって彼らを勇気づける』

 

『私に……出来るのでしょうか』

 

『出来るさ。ツキノキは、先生の自慢の生徒なんだからな』

 

 私が犯した罪は二つ。一つは、先生の言葉を鵜呑みにしてしまったこと。そしてもう一つは、次回の約束をして別れを告げてしまったこと。私は愚かにも、事の重大さに、最後まで気が付かなかったのだ。私が過ちを犯したことに気付いたのは、後日。生徒の自殺が発覚してからだった。スネヤ先生は、当時の担任であったという理由から、責任を取って辞職。その数日後、先生は亡くなった。死因は事故死。トラックの居眠り運転が原因だった。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。