八月初旬。水族館に向かう回り道のバスに乗り。吊り革に掴まって、車内アナウンスを聞き流しながら。俺は、ウチハとの現地集合の場に向かっていた。わざわざ回り道したのは、ウチハと水族館に着く前に出会うのを防ぐため。ようは、俺はツキノキさんとのデートでの立ち回りを再現してみたかったのだ。より自分の性質を理解するため。そして、ツキノキさんのことをもっと理解するためにも。この行動には〝意味がある〟のだと、そう自分に言い聞かせた。普段からくすんだ鏡の価値観にどっぷり漬かったウチハを説得するのは、なかなかに骨が折れた。〝一緒に水族館にいかないか? 〟と誘った時の、居ても立っても居られないウチハの興奮が。〝水族館では別行動〟の一言で、ずぶ濡れの子犬のような悲壮感を漂わせていたのを思い出す。俺が必死に言葉を重ねることで、なんとかこちらの意図をウチハに伝えることができた。……ウチハは若干不満げ、という表情を残してはいたが。まあ俺も、始めてツキノキさんから別行動を言い渡された時は、自分の耳を疑った。そんなデートの理屈、見たことも聞いたこともなかったからだ。だがそれも、冷静に考えてみればわかること。クラスを見渡す限り、澄んだ鏡は少数派。くすんだ鏡の持ち前の鈍さと声のデカさに、澄んだ鏡の声は覆い隠されがちだ。ウチハのためにも。そして、俺自身のためにも。澄んだ鏡同士の距離感を掴む経験は、きっと今後に生きてくるハズだ。
水族館前のアナウンス。目的地に着いた。バスを降りると、頭を焦がさんばかりの陽光が降り注ぐ。動物園にしなくて本当によかったと、イルカが跳ねたモニュメント前を足早に。入り口の自動ドアを潜ろうとした瞬間、足が止まる。いた。こんなに暑いのに、ウチハが外で待ってるなんて。そう困惑しながらウチハに近づいていくと、誰かと会話してる様子。さらに近づいていくと、柱の影から二人組の男が姿を現した。サンダル、短パン、アロハシャツ。浅黒い肌にはサングラス。相方も似たような容貌で。……夏を存分に楽しむあちら側の人間のようだ。対するウチハも、肩の露出した白いワンピースに、赤色のリボンが巻かれた麦わら帽子。ウチハの人懐っこい容姿と相まって、実に絡んでくださいといった雰囲気だった。ウチハが明らかに困っているのを確認してから、〝ウチハ〟と声をかけて近づいて。手を握って引き寄せて、回れ右。強引に話をぶった斬る。後方の声には、一切の反応を示さず。さっさとチケットを提示して入場。男二人は追っては来てない。ホッとしてウチハの手を離そうとするも、ウチハは手を離してくれない。水族館に入ったら別行動だという話は、すでにここにくる前に話していたはずだ。俺は話が違うぞとウチハの方へ振り返り、無言で繋がれた手を見つめる。
「ご、ごめん。つい」
「昼食まで別行動のはずだろ? どうして中に入らなかったんだ?」
「や、どうせなら一緒に入りたかったから」
「……そうか。あんなところで待ってて。日陰とはいえ、暑かっただろ」
ハンカチを差し出す。受け取ったウチハは、汗を軽く拭き取って。ジッと見つめたそれを、鼻に近づける。俺はその間に手を割り込ませて、ウチハからハンカチを取り上げた。ウチハは〝あ〟と名残惜しげにしていたが、俺は淡々とハンカチをポケットに戻した。内心、〝男を見る目がないヤツ〟とウチハへ冷たい視線を向けている自分に気づいて。俺は頭を振った。
「ハンカチ、ありがと。……えっと、それじゃあ。また後でね?」
「あぁ」
トボトボとその場を去るウチハから顔を逸らす。先ほど絡まれたのもあって、一緒に回って安心したかったのだろうか。だが、ナンパの目的は異性との遊び目的。周囲や職員の目もある。水族館では大胆なマネはできないはずだ。彼らが中まで追ってこなかったように、館内は正面玄関よりずっと安全……そう自分に言い聞かせた。ウチハは地元では有名人だ。地方紙や地方テレビの取材が学校に来たこともある。人となりを知られていたから声を掛けやすかったというのもあるのかもしれない。これがツキノキさんやコツツミさんだったら、こうも気安くはいかない。ツキノキさんは終始無言を貫きそうだ。ナンパの言葉なんかには動じず、ついには向こうが根負けして離れていく様が想像できる。もし諦めの悪い輩だった場合は、長い沈黙の末に的確な短い言葉で撃退する。クールでいてスマート。流石はツキノキさん。コツツミさんは、もはや語るまでもない。言葉のナイフで滅多刺しにする様が想像できる。それでも足りなければ実力行使。普通の男なら公開処刑だ。想像するだけで恐ろしい。
ウチハの姿が見えなくなったのを確認して、ゆっくりと歩き出した。水族館に関心はない。魚への関心ごとといえば美味いかどうか。いままで肉ばかりの料理を作ってきた。ここらで魚料理にも挑戦してみたいところ。この時期の美味しい魚でも紹介してくれれば、興味も湧いてくるというものだが。かなりゆっくりと見たつもりだったが、お昼までまだ余裕がある。この水族館一番の目玉。大水槽を遠巻きに眺めながら。魚の群れを長椅子でボーと眺めるのも悪くない。ウチハもいつの間にか隣に座る。会話はない。周囲を見渡して、こちらを探るような動きが時折気になるが。普段二人で出かけるときに比べれば、心はとても穏やかなものだ。気を使うのも、使われるのも。なんだかとっても疲れてしまう。
「え、エイタ?」
「?」
「クラゲの水槽がとってもキレイだったんだけど、一緒に見にいかない?」
「……あぁ、いいよ」
「やた」
俺の返事に小さく喜んだウチハに手を引かれ。案内された先は、照明が落とされ暗がりになったクラゲゾーン。赤・青・黄。色とりどりのクラゲが、小さく区分けされた水槽の中で光ったり消えたりしている。心なしか、周囲には男女のカップルが多い。どうせならツキノキさんと来たかった。俺のワガママだと伝えれば、ツキノキさんはきっと喜んで俺に付き合ってくれるはず。
「……キミさんのこと考えてるの?」
「! なんでわかった」
「そりゃ。いきなりヘンなことしだしたら、ね」
「実はな。今日の水族館の周り方は、ツキノキさんからの受け売りなんだ」
「そうなんだ」
「……ごめん」
「? なにが?」
「もともとウチハと出掛ける予定はなかった。けどツキノキさんに指摘されて、はじめてウチハに無理させてることに気づいたんだ。こんな俺にも、ウチハは優しくしてくれるけどな。……カラッポなんだよ、俺は」
「そんなことない」
「もっと俺がしっかりしてれば、ウチハの気持ちにも応えられてたいたのかもしれないのにな」
「……借り物でもなんでも、ボクと一緒に出掛けるってエイタは動いてくれた。それは他の誰でもない、エイタ自身。ボクはその優しさにたくさん救われてきたんだよ? それに、誰かの影響受けてるってなったら、ボクもエイタに負けてないし」
「……」
「だからエイタは、カラッポなんかじゃない」
「……そうか」
「うん」
「ありがとな」
「うん」
「……腹減った。昼飯にしよう」
「お昼どこで食べる?」
「大水槽が見えるレストランがあるんだ。そこで食べよう」
「お魚見ながら食べるなんてはじめて! 一生の思い出になりそう」
「んな大袈裟な。まあ、ウチハが喜んでくれるならなんでもいいさ。よし、いくぞ」
「うん!」
レストランは二階にある。離すタイミングを見失っていた手を切り離そうとするも、ウチハがそれを許さなかった。……大概、クズだよな。ウチハの幸せを願っておきながら、突き放す勇気もないなんて。見捨てない、諦めの悪いこの手を握り返し。必ずこの夏休み中に決着をつけるのだと、固く心に刻み込んだ。時刻は、ちょうど正午を回ったところ。この水族館の目玉。大水槽を見ながら食事のできるレストランに入店。中は夏休みだけあり盛況。真っ先に予約しといてよかった。席についてメニューを眺める。流石、水族館にあるレストランなだけあって、魚のメニューが豊富だ。ウチハはアジを使ったアクアパッツァ風パスタ。俺はイワシを使った夏野菜の味噌煮。そして、二人で食べようとカツオのカルパッチョを注文。魚尽くし。来た料理は盛り付けに凝っていて、彩も鮮やかだった。俺の頼んだ、夏野菜の味噌煮の美味しさは期待を軽々と超えてきた。ウチハも大好物のオシャレなパスタを食べれて満足した様子。カツオもなかなか、カツオの叩きとはまた一味違う新感覚。どの料理も、専門店にも引けを取らない美味しさだった。食事が済めば、最後の仕事。お土産ショップが待っている。ウチハは知り合いが多いためか、次々に商品を買い物カゴへ運んでいく。買い物カゴは、あっという間に一杯だ。俺も家族の分のお土産とは別に。ツキノキさんとコツツミさんにお土産を買っていくべきか一瞬悩んで、すぐ辞めた。澄んだ鏡は少ない光量で満足できる。それは、道端に咲いた綺麗な花であったり。静かに本を読んでいる時間であったり。一人で取り留めのない妄想を膨らませている瞬間であったり。そんな、くすんだ鏡に言わせれば〝退屈な日常〟に、幸せを見出すことができる。それならば、わざわざくすんだ鏡のやり方をマネて、無理にお土産を選ぶ必要はないのだ。これまで人生。澄んだ鏡の俺がくすんだ鏡の真似事をして、最終的に良かったと思えたことはない。〝他者〟ではなく、〝自分〟の軸で行動する。自分のワガママを押し通して、そのオマケを誰かと共有する程度の心構えの方がいい。そうでもしないと、澄んだ鏡は他者と交流なんてできない。
「エイタはそれだけでいいの?」
「あぁ、家族の分は買ったし。ツキノキさんとコツツミさんへは、また違うのものでお返ししたい」
「そっか。じゃあレジ並んじゃおっか」
「あぁ」
レジに並び、会計。ウチハはすごい荷物になった。だがこの夏休み、コツツミさんにコキ使われて図らずも鍛えられている。コキ使われていることを実感させられているようで、以前よりも体力がついたことを喜べばいいのか悲しめばいいのか。なんだか複雑な感情だ。コツツミさんのマンションは、ようやく廊下を片付けられたというのに。これから一部屋一部屋取り掛かるのだと現実を直視してしまうと気が滅入ってくる。水族館を後にし、時間を気にして。バスに運ばれ向かった先は、映画館のあるショッピングモール。コインロッカーに荷物を預け。定番のポップコーンとドリンクを購入。チケットを提示し、目当ての座席へ。今回見る映画は、以前気になっていた作品。物理法則を無視したド派手なアクションシーンがウリの話題作。映画館特有の大音量にビクつきながら。トンデモ場面の連続は、退屈する暇を与えなかった。面白いことは疑いようがない、だがかなりハイカロリーな映画というのが正直な感想だった。あまりにも眩しい光。世間で話題になるのもわかる気がする。耳栓とサングラスを用意していれば、もっと集中して映画を楽しめたことだろう。その点だけが唯一残念だった。興奮冷め止まぬといったウチハと感想を交換しながら。落ち着いた雰囲気のカフェで一時休息。ウチハからは、〝ファミレスでもよかったのに〟とこちらの懐事情を心配した声が。対して俺は、〝静かな場所で休みたかった〟と返答。実際、着実にお年玉資金が目減りしているのは確かだ。母親が〝バイトしなさい〟と詰め寄ってきた理由がよくわかる。こんな付き合いを毎日のようにつづけていたら、金がいくらあっても足りない。だがそれは、くすんだ鏡を対象にした話。大切な場面で財布の紐を緩めるのなら、そこまで財布は痛くないのだ。注文したあんみつを口にしながら、対面のウチハを見た。〝静かな場所で休みたい〟という俺の言葉に引きずられているのか、なんだかウチハは大人しい。いちごパフェをつついて、合間にこちらをチラ見してきている。俺と目が合ったウチハは、顔を赤くした。ウチハは恥ずかしかったのか、顔をニヘラと笑って誤魔化している。確かに静かな場所がいいとは言ったが、会話を拒否している訳じゃない。今日は俺のワガママに付き合ってもらった以上、ここは助け舟を出すべきか。
「今日は、どうだ? 退屈じゃなかったか?」
「うんん、全然。いつもとちょっと違ってて、最初は変な感じがしたけど。でも慣れてきたら、こういうのもいいのかなって」
「そうだろう。そうだろう」
なんだかツキノキさんのデートのやり方を褒められたみたいで。俺はウチハの言葉に、得意げに頷いた。ツキノキさんのやり方が受け入れられたということは同時に、ツキノキさんを信頼している俺のことも受け入れられたということだ。やはりウチハは、ツキノキさんとの関係を好意的なものと見てくれているらしい。今後も定期的にウチハへツキノキさんの情報を流していくことで、俺や俺の家族に縛られない違う生き方を提案していきたい。ウチハを説得するには、時間がかかってしまうかもしれないが。それでも、俺はやるしかないのだ。ウチハの未来が、より幸せなものになってくれるように。
「えへへ……やっぱり、キミさんには勝てないや」
「……」
「好きならちゃんと、気持ちを伝えなきゃだめだよ?」
「そういうのじゃない」
「でもキミさんのこと、好きなんでしょ?」
「まあ、好きか嫌いかで言えば。好きだけど」
「好きって気持ちは、ちゃんと言葉にして伝えてあげたほうがいいよ? 気づいた時には、もう言えなくなっちゃってるかもしれないから」
「……」
「エイタの好きなキミさんでいるうちに。エイタの気持ちを、キミさんに伝えてあげて? ね?」
その言葉には、溢れんばかりの優しさと、ほんの少しの悲しみが混じり合っているような気がした。同じ失敗を味わって欲しくないという、真に迫る訴えだった。……俺は、ウチハのことが好きでもあり嫌いでもある。長らくずっと考えてきた。どうしてこの二つの感情が同居するのかを。答えは至極単純だった。ただ単に、俺が俺を嫌いなだけだった。ウチハという人間は鮮やかな色彩を放っている。だが俺という異物が混入すると、途端にドス黒く濁ってしまう。ツキノキさんとコツツミさんという全く異なるタイプの人物と関係を結べたのがまさにそれだ。二人は俺に好意を寄せていないという点で共通する。恋愛対象から外されていると認識することで、はじめて相手を信用し、好意を抱く。〝あぁ、この人は俺がロクでもない人間であることをわかってくれている〟と。送信した感情が、正反対になって返信されてくるようなものだ。人間として、欠陥品もいいところ。ハッキリ言って、まともな思考回路じゃない。そんな俺がツキノキさんに告白? 冗談じゃない。好きでもない、まして鏡として、人間としても不完全な俺が好意を伝えると? 俺は相手から好意を抱かれていないと知って、初めて相手に好意を抱くんだ。それがもし、ウチハのように好意を持たれてしまったらどうする。俺はその想いに応えることができない。俺は相手に、下水に流す筆洗のドブ水のような感情を抱くからだ。そしたら相手は、どんな感情を鏡に映すか。どんな恨みがあって、ツキノキさんにそんな酷いことができようか。ギュッと利き腕を握りしめた。口を硬く結び、この激情が漏れてしまわないようにした。そのまま十秒、二十秒。ピークを過ぎ去っていくのを感じてから、息を吐き出した。心配そうに覗き込んでくるウチハになんでもないことを伝えながら。分からず屋のウチハに内心イライラして。テーブルの下で、自分の足を踏みつけた。
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後日。ゴミ屋敷。変わり映えのしない作業を黙々と。部屋の入り口が片付いたことに一息つき。部屋全体のゴミ山を目撃して、電気を消して見なかったことにしたかった。乱雑に積まれた段ボールの山。引越し業者のロゴが入ったそれは、即席の収納スペース代わりのつもりなのだろうか。中には封の解かれていない段ボールさえある。この相手ない段ボール、いっそこのまま捨てていいか? 聞くところによれば、引越ししてきたのは高校二年の新学期。つまり、このゴミ屋敷は半年も経たずに作り上げられたものらしい。ゴミの多さとその保存状態の悪さ。そして、そんな現状を露程も気にしない無神経さ。くすんだ鏡ここに極まれりといったところ。……コツツミさんの酷さに感心している場合じゃない。ただでさえ夏休みの多くの期間を、この無賃バイトに食われているのだ。余計なことに頭を回すより前に、まずは目の前の段ボールを一つ一つ片付けていこう。
〝よし〟と気持ちを切り替えて。カッターを寝かせて滑らせる。中身を傷つけないように、慎重に刃を入れていく。中身はカラフルな……ハンドタオル? 目についたピンクを手に取った。軽い、そして薄い。滑らかな肌触り。装飾の白いレースと、同色の小さなリボン。汗っかきというのはコツツミさんの本人談だったが、はたしてこんなもので汗を拭き取れるのだろうか。ただでさえ俺はファッションに明るくない。メンズ用ならともかく、レディース用となるともはや異文化交流。こういう物なのか。こういう物なのだろうと生地を広げて、背筋が凍った。