わが身一つの、秋にはあらねど
夏休み明け、登校初日。まだ蒸し暑さ残る通学路。灰掛かった空に、濡れたアスファルト。肺が重くなるような空気を取り込んで、思いっきり吐き出す。結局、夏休み中に〝賢さ〟にたどり着くことは出来なかった。何もかもが中途半端。賢さも、掃除も、勉強も、進路も、料理だって。成果らしい成果といえば、ツキノキさんやコツツミさんの発言を整理したくらい。夏休み前の意気込みはなんだったのだろう。ツキノキさんの地雷を焦って踏み抜いて、そこからはもう及び腰。自身が周囲の影響を受けやすい澄んだ鏡なのだとはいえ。こんなにも打たれ弱いと情けなくなってくる。それだけ俺が文不相応なモノに手を伸ばしているということなのか。なんにせよ、また学校生活が始まってしまった。くすんだ鏡を軽視してきたツケ。俺の努力は、一体いつになったら報われるのだろう。会話を弾ませる同級生の横を通り過ぎる。久しぶりの再会に、積もる話もあるのだろう。その顔は、心の底から楽しそうで。俺は思わず感化されて、同級生に喋りかけたくなってしまう。学校は、くすんだ鏡のための場所だ。少なくとも学校という場所に、澄んだ鏡の居場所はない。あぁ、いや。ウチハは上手くやれているか。やっぱり才能のある人間というのは一味違うのだろうな。教室の前に着いてしまった。仕方なく扉を静かに開けて。いつもの疎外感が、今日は来ない。不思議に思って、恐る恐る教室を見渡してみる。そこには、ウチハを中心に不穏な空気が流れていた。いつもならあの輪の中に入っているはずのウチハが、蚊帳の外にされている。なんだよ……これ。これじゃあまるで、俺やコツツミさんと同じく……。つづきの言葉が浮かんで、〝それはあり得ない〟と頭を振った。だってそんなの、おかしいだろ。気に食わないとか、嫌われているだとか。なにか理由のある俺やコツツミさんならいざ知らず。ウチハと彼女たちの間には、友情があるんじゃないのか。いつかの日。ウチハに見せてもらって記念撮影。距離の近さは友情の証。あのスマホに保存されていた集合写真が真っ赤な嘘だなんて、俺には到底信じられない。きっと、何か理由があるはずだ。そうでもなければ、この理不尽に説明がつかない。
「はよ進めや」
肘鉄。背後にコツツミさん。進路を妨害していることに気づいて、慌てて横にズレる。コツツミさんはチラリとウチハ達へと視線を向けると、すぐに興味を失った。……そう、そうだ。別に喧嘩は悪いことじゃない。むしろその逆。互いの意見をぶつけ合うことで、これまでよりももっと親密になるというのはくすんだ鏡の王道展開。喧嘩するほど仲がいいとはよく言うじゃないか。ツキノキさんの水着と同じ。珍しいからといって、騒ぎ立てるようなものじゃない。コツツミさんのような反応はむしろ普通。この場で異常なのは、過剰に反応を示す俺の方。そわそわする胸に手を当て、心臓を落ち着けた。俺とウチハは、違うんだ。俺の鏡で、一方的な判断を下すべきじゃない。……さっさと席に着こう。入室してくる担任。即座に日常を取り戻す教室。俺は妙な胸騒ぎに困惑しながら、いじめから逃れた平穏を受け取るのだった。
授業の合間の休み時間。なおもつづくウチハのグループの異変に、教室の緊張が見え隠れする。ウチハの机を彼女たちは取り囲んで。そのうちの誰かが一方通行に喋る、ぼやかした表現。それにウチハは乾いた笑い声で否定も肯定もせず。……ごく普通の会話のようにも見えるし、寄ってたかってウチハのことをいじめているようにも見える。ここからじゃウチハの状況がわからない。そもそもキッカケがなにかも知るよしもない。動くにしても、情報が足りなすぎる。俺にできることといえば、ただウチハ達のグループの会話に耳を傾けることしか出来ない。いつもとは違う異変を感じながら、何もできないというもどかしさ。それが澄んだ鏡なら、なおのこと何も出来ない事実に頭が支配される。まだ何も分かってないんだ。自分勝手に、感情だけで動くのだけは絶対にやってはいけない。そう頭ではわかっているつもりなのに、動けない俺を責める自分がいた。ウチハを見捨てて、逃げているようで。俺のちっぽけな良心がずっと痛んだ。こんな不安定な状態で、授業の内容がろくに頭に入ってこず。ただただ無為に学校での時間は流れていって、放課後。ウチハのことは心配だったが、今日は夕飯の当番なので後ろ髪引かれる思いで帰宅。誰もいない家に、体を引きずり込む。リビングを横切り、壁に手をついて階段を上がり、自分の部屋へ。ベッドに倒れ込んで仰向け。視界を腕で覆った。……もし仮に、ウチハが何かの手違いでいじめられていたとしてだ。果たして俺が心配する必要はあるのだろうか? ウチハには能力はもちろん、人望もある。学校の横断幕に名前が乗るような優秀な生徒だ。ウチハが一声かけさえすれば、大人達が放っておくはずがない。つまりこの件に関して、俺が関わる余地はないわけだ。自分の時ですらいじめに対処できなかった人間が、他人のいじめに対処できるわけがない。ウチハのことで俺が悩むのは、とっても無意味なことだ。勝手に鏡を光らせて、勝手に一人で慌てふためいて。なんだ、バカ丸出しじゃないか。ウチハの心配をする前に、まずは自分の心配が先だろうに。
「買い出し行かないと……」
ベッドから起き上がり、制服を脱いでハンガーにかける。面倒だなと思いながらも、俺が作らないと家族とウチハが飯抜きだ。夕飯のローテーションに組み込まれてしばらく経つ。俺が興味のある料理しか作らないワガママを発動しているせいで失敗も多いが。それでも最近は、料理に多少の自信がついてきた。やはり回数と人数が重要なのだろう。ツキノキさんに送るワガママの質が上がるのなら、家族に料理を作るのも悪くない。
「いくか」
どっこいしょとオッサン臭く立ち上がり、外へ出る。自転車にまたがり、通りに出る。買い物帰りの主婦が目についた。俺も急いで買い物を済ませないと。自分の興味に従う料理の弊害は、大概が初見の料理であること。慣れてないということはそれだけミスが多い。調味料の入れ忘れはかわいいもので、料理を焦がしてしまった日にはしばらく引きずる。失敗のひどい所は俺が処理するとして、残りは家族に協力してもらうしかない。口直し用に卵でも巻いて出してくれる母は、これ見よがしに失敗作を突いて嫌味たっぷりに小言をいう。ウチハはそれに愛想笑いしながらも、なんとかフォローに回ろうとする。父は感情の籠ってない〝うまい〟をぼやいた後はひたすら無言。料理で失敗しないためには、時間的余裕は多く確保しておいた方がいい。スーパーについた。買い物カゴとメモを片手に、目当ての商品を探す。今日作る料理は、アクアパッツァのパスタ。夏休みに水族館でウチハが食べていたモノだ。調べてみたら、下味つけて全部鍋に放り込んで煮るだけというお手軽料理だった。魚料理の入門にこれ以上ないほどの適役。これに挑戦しない手はない。順調に商品をカゴに入れていき、最後の商品へと伸びた手が止まった。……十八歳未満は購入禁止の張り出し。……しまった、料理用白ワインはお酒の分類なのか。てっきり料理酒と同じ扱いで、簡単に買えるとばかり……。仕方がない、ここは料理酒で代用しよう。味のバランスが崩れてしまうかもしれないが、それは最後に調整しよう。会計を済ませ、帰宅。料理に取り掛かる。
アジの切り身をキッチンペーパーで拭き取って、平たいお皿に並べる。そこに塩・胡椒・料理酒・オリーブ油を揉み込んで、タイム・青のり・ニンニクの薄切りを散らして十五分放置。時間が経ったら、大きめのフライパンに下味をつけたアジの切り身・冷凍アサリ・二つに割ったプチトマトに粗挽き胡椒。水二分の一カップを入れて、蓋をして強火。沸騰して二分経ったら弱火に切り替え、六分から七分の蒸し焼き。オリーブ油をかけて味見して。塩で味を整えたらアクアパッツァ完成。そこに別茹でのパスタを合わせれば、アクアパッツァのパスタの出来上がり。なんだか今日は疲れた。部屋で休もう。先に食って部屋にひっこんでもよかったが、ウチハの様子を確認しておきたい。場合によっては、ツキノキさんに会いにいく必要がある。ツキノキさんなら。ツキノキさんならこんな時どうすればいいか、最適解を導き出してくれるはずだ。そうやって部屋で考え込んでいると、ウチハの声で目を覚ます。飛び起きて、扉を開けた。そこは驚いた様子のウチハが立っていた。〝びっくりした〟なんて。胸の前に手を置いてホッと一息ついて。俺は〝あぁ、ごめん〟と謝りながら、ウチハのことを観察する。〝なになにぃ〜〟とウチハのイタズラっぽい笑み。おかしなところはない。不審な点もない。だがそれが却って不自然に思えた。ダイニングに降りて、家族+ウチハが集合。先に食べていた母さんの〝味が薄い〟の小言と一緒に出るサラダ。フォローに回るウチハ。ただ一言〝うまい〟とだけぼやく父さん。いつもと変わらない食事風景だ。ウチハに特別変わった所はない。それで俺は、ウチハがいじめられているかどうかの確信が持てないでいた。澄んだ鏡は、周囲の影響を受けやすい。それは裏を返せば、自分の行動が周囲へどんな影響を与えるかを知っていると言える。ウチハが自分よりも周囲の人間を優先しているのだとしたら。いじめられていようといじめられていなかろうと、ウチハの口から真実を聞き出すことは出来ないだろう。だからと言って、このまま黙って見ているだけの図太さは俺にはなかった。ただ勝手に鏡が反応して俺が一人で騒いでいるだけかもしれないが、最悪それでもいい。ツキノキさんにこのことも合わせて相談しよう。丁度いじめに関しての質問も済ませてある。回答がまだ固まりきってない場合、ツキノキさんの返答を急かすような行動になってしまうのは申し訳ないが。食事を済ませた俺は、タッパーにアクアパッツァを詰め込んで。〝出かけてくる〟と短くみんなに伝える。母さんのチクチクとした小言を背に受けながら、俺はリビングを後にするのだった。
「出かけるの?」
「あぁ」
「ツキノキさんのところだ」
「あぁ」
「いってらっしゃい」
「……あぁ」
「突然連絡してしまってすみません」
「言ったはずだろう? 私たちの間に遠慮はいらないと」
「あぁ、食事中だったんですね。申し訳ない」
「それは?」
「アクアパッツァです。温めて食べてください。二、三日持ちます。冷蔵庫入れときますね?」
「ありがとう」
「いえいえ。余りものですから」
そう謙遜しながら冷蔵庫を開く。ここに着くまでに返信がなかったら引き返そうとは思っていたが。そうか、食事中だったのか。食事の邪魔をするべきじゃない。ここは少し、時間を潰してくるか。
「少し外の空気を吸ってきます」
「待ちなさい」
ツキノキさんに腕を取られて引き止められた。振り返るとそこには、俯いたツキノキさんの姿があった。素直にツキノキさんの静止に従って、ツキノキさんに向き直る。なんだ? こんな不穏なツキノキさんは初めてだ。なんだか嫌な予感がする。
「……なんでしょう」
「何か理由があって来たのだろう?」
「それは、まあ。そうですが」
「立ち話もなんだ。座るといい」
促されるまま、対面に座る。食べかけの食事に手をつけずに、じっとこちらを見つめてきて。その視線から逃れて、居心地悪く座り直した。
「いじめへの対応……だったね」
「はい」
「その前に、一つだけ聞かせてほしい」
「? なんでしょう」
「いじめを受けているのは、メツギさんだったりするのだろうか」
「いいえ、違います」
「そうか」
「……」
「それなら、この話はよそう」
「え? ……それって、理由を──────」
「今後この話題に触れることは許さない」