わからない。ノートに書き込んでいくほど、頭がぐちゃぐちゃになっていく。わからない。ツキノキさんは一体何をそんなに恐れているのだろう。わからない。コツツミさんのいう破滅とは一体なんのことだろう。わからない。ウチハはどうして現状を受け入れているのだろう。暗い部屋で頭を抱えた。その問いに答えてくれる人は誰もいない。扉を乱暴に叩く音がする。返事をする間もなく入ってきて、電気をつけて怒鳴り散らす。これは何に対して怒っているのだろう。怒られる理由がありすぎて、どれに謝ったらいいのかわからない。この怒りはいつ終わるんだろう。怒って解決するのなら、とっくに俺も怒ってる。平手が飛んできた。あぁこれは長くなりそうだなとぼんやりしていたらもう一発来た。どうやら態度が気に食わなかったらしい。そりゃそうだろ。鏡の性質が違うんだから。ひとしきり発散して満足したのか、今度は泣き出してしまった。〝昔はこんな子じゃなかったのに〟と縋りついてそう言った。いままで何を見てきたのだろう。本当に俺のことを見てきたのだろうか。それは俺という人間ではなく、理想という概念を見てきたんじゃないのだろうか。
……疲れた。もう何も考えたくない。一人になった部屋。椅子に座り込んで、ノートを見た。そこには、今までの抵抗が書き記されている。結局、実らなかったな。閉じたノートをゴミ箱へ押し込むと、控えめにドアがノックされた。
「エイタ? いま、いい?」
探るような言葉。こちらをなるべく刺激しないよう配慮するたどたどしさ。俺もハッキリさせたいことがある。〝あぁ〟と低い声で返事すると、ゆっくりと扉が開いた。
「……邪魔しちゃった?」
「いや、ボーとしてた」
「おばさん、すごく怒ってたね」
「そうだな」
「ほっぺ……赤くなってる」
「……」
「見ていい?」
「……たいしたことじゃない」
「それなら、見てもいいよね?」
ウチハが俺の前に来て、ウチハが俺に手を伸ばす。頬をなぞる人差し指がくすぐったい。ここで顔を背けようものなら、さっきのたいしたことないという発言が疑われてしまう。ウチハが納得してくれるのを、目を閉じて静かに待った。
「それ」
「?」
「ノート……捨てちゃうの?」
「あぁ……」
「どうして?」
「もう、役に……立ちそうもない」
「大切なものなんでしょ?」
「……」
「エイタが頑張ってたの、ボクは知ってるよ?」
「……」
「エイタならきっと、いまよりもっと上手くできるよ」
「……ウチハ」
「? なに?」
優しい声色のウチハは、ゴミ箱に入っていたノートに手を伸ばす。ノートの汚れを軽く払って、俺の机の上に置いた。ここでハッキリさせとかないといけないことがある。俺は意を決して、息を吸い込んだ。
「勘違いならそれでいい。……俺のことで、何かあったか?」
「エイタのこと?」
「あぁ」
「別に……」
「友達と、揉めたんじゃないのか?」
「エイタが気にすることじゃないよ」
「水着……買ってたよな」
「エイタと買いにいったやつだね」
「休み、一日しかなかったよな」
「夏の大会があったから」
「誘われてたんじゃないのか?」
「……」
「俺が水族館に誘った日。本当なら、友達と泳いでたんじゃないのか?」
「ボクが勝手に決めたことだから」
「……どうして言ってくれなかったんだ」
「エイタの方がずっと大切だから」
「……だからって先約を断っていい理由にはならないだろ」
「……」
「断って欲しかった。そんな大事な約束があると知っていれば、俺は」
「そんなこと、できないよ」
「……なんで」
「エイタがボクのこと大切に思ってくれてるように、ボクもエイタのことを大切に思ってる。ボク達のことを知ろうともしないで悪く言う人とは、楽しくなんてできないよ」
「……」
俺は、ウチハのことを誤解していたのかもしれない。ウチハが澄んだ鏡という認識はあった。だが心のどこかで、ウチハは特別だと思い込んでいた。ウチハはうまくやってるんだという理想が入り込んでいた。優しいウチハは、俺を切り捨てられなかった。それで行き着いたのが、〝自分が傷ついた方がマシ〟という考え方。俺の今までの行動を、そっくりそのまま返されたことになる。言葉が出なかった。そんな行動してほしくない。けどそれは、ウチハからも言えることで。ウチハへの感情全てが、ブーメランになって顔面に直撃する。ウチハの行動を否定すればするだけ、俺の浅ましさが浮き彫りになる。情けない。なんて俺は、情けないんだろう。たった一人の女の子さえ守ってあげられないなんて。その女の子ともども不幸に引きずり込んでいるだなんて。いまの俺はなんて、情けないのだろう。瞳の潤ませたウチハに、〝このままじゃダメだ〟という強い感情が湧き上がった。
「ウチハ」
「?」
「俺がなんとかする。だから……そんな悲しい顔しないでくれ」
作った笑顔で、ウチハの頬に触れた。根拠なんてなかった。でもウチハを安心させるためには、こんな言葉しか吐けなかった。成果はなくて、成績もギリギリで、ここ一番で頼りになるツキノキさんにも頼れない。もう哲学がなんだと、現実から目を逸らしている時間は残されていない。ここでしくじれば、今度こそ自分で自分が許せなくなる。不思議と焦りはなかった。やるしかないんだ。俺はウチハを救うことで、頭の中が一杯になっていた。
──────
────────────
──────────────────────
「で? あたしのところに来たってわけ?」
「……もうコツツミさんしか頼る人がいない」
「ツキノキさんはどうしたよ」
「……ツキノキさんにも事情がある」
「それ、見捨てられたんじゃないの?」
先日掃除を終えた部屋。椅子に座って足を組んだコツツミさんが高圧的な態度でそう告げる。チョコミントを口に運べば、退屈そうな顔がご機嫌に変わった。俺はコツツミさんの正面に正座して、ツキノキさんのことで言い返したくなるのをグッと堪えた。
「今のメツギくんって、デカルトみたい」
「?」
「〝我思う、故に我あり〟って。聞いたことくらいあるでしょ」
「聞いたことはある。詳しくは知らないが」
「疫病で人が死にまくって、宗教がウンコになった。これから何を信じたらいいんだって時代に残された言葉なわけ。確かなものなんてない。けど、これはおかしいと感じる私の感覚は確かに存在する。ってね?」
「……それで?」
「あ?」
「デカルトはその後、どうなったんだ?」
「んふふ。知りたい?」
首を縦に振った。コツツミさんの不敵な笑み。ゆっくり開く口。食い入るように見つめ、コツツミさんの言葉を待った。
「彼、生涯そこから抜け出せなかったの」
「……は?」
「自分以外の全部を疑うってことは、自分の殻に閉じこもるってこと。彼の死後もそこから話は広がらなかった。いまでは象徴的な言葉だけが残されてるってわけ。どう? いまの八方塞がりなメツギくんにそっくりじゃない?」
小馬鹿にするような軽快な語り口。それは俺の全否定に他ならなかった。だがその瞬間、俺の中で電撃が走る。俺が経験してきたこと全てが接続する。……これは、現実なのか? こんなこと、あり得るのか? この頭の創造物が形になれば、長年のいじめ問題に終止符を打てるかもしれない。興奮に沸き立った。周囲が見えなくなっていく。もしこれが本当なら、こんなことしている場合じゃない。一刻も早く頭の創造物を形にしなくては。居ても立ってもいられなくなって、マンションを飛び出す。
街を抜け、改札も抜け、電車に飛び乗る。図書館に駆け込んで、本をどっさり机に並べた。デカルトは、自分の感覚だけを信じた。言い換えれば、それは自分の鏡だけを信じたことになる。だが鏡は一枚だけじゃない。鏡の持つ感覚が正しいとするなら、全ての人間の感覚は正しいと言える。情報を取捨選択して整理することばかりに囚われていた。けど、違ったんだ。俺がすべきだった事は、正しさのピースを結集させた姿。哲学は……パズルだ。そして、そのパズルには終わりがない。ツキノキさんの曖昧さは、決して完成しないパズルに対する姿勢の表れだ! いじめに関するピースは山ほど収集してある。もう迷いはない。目的はただ一つ。いじめを一つの解釈に集約する。これがきっと、最後だ。