「こんばんは、ツキノキさん」
「……あぁ」
「お話ししたことがあります」
「……あぁ」
視線も合わせず、物々しく腕を組むツキノキさんが出迎えてくれた。きっとこれから俺が話すことに、薄々勘づいているのだろう。なんてたって、〝心に従う〟ことを教えてくれた人だから。
「……体調が、悪そうだ」
「ちょっとだけ。眠れなくて」
「……」
「でも、それも今日で終わるかもしれません」
「予め断っておく。私はいじめに関して一切口を開かない」
「それで構いません。ただ話を聞いてもらいたいんです。ただツキノキさんに、俺のワガママを聞いてほしいだけなんです」
「……」
「諸事情から、いじめについてあれこれ考えていました。そして、俺はある程度納得できる答えに辿り着けたのかもしれません」
「……」
「本題に入ります。思うに、いじめとは〝信頼〟なんじゃないかなと思います」
「……」
ツキノキさんは腕を組んだまま、静かに目を閉じている。まるで居眠りのように俯いていた。……心苦しい。ここまで明確な拒否を示されているのに、無理やり話に付き合わせるだなんて。こんなこと、本当はしたくない。けれど、ここは筋を通さないといけない。ツキノキさんに、ちゃんと伝えておく必要がある。だから、逃げちゃいけない。向き合わなくちゃいけない。自分の選択に、しっかり責任を持つために。
「いじめの加害者・被害者・傍観者は、信頼という一つの解釈で繋がります。加害者は被害者を信じます。噛み付いてこないという信頼を、被害者に寄せます。加害者は傍観者を信じます。傍観者が介入してこないという信頼を寄せます。被害者は加害者を信じます。加害者の持つ良心を信じて、加害者に信頼を寄せます。被害者は傍観者を信じます。もし問題が起きた場合、必ず助けてくれるという信頼を傍観者に寄せます。傍観者は加害者と被害者を信じます。生徒の間で問題が起こるわけがない、起こるはずがないという信頼を両者に寄せます。……信頼、それ自体に害はありません。けど、度を越えた過剰な信頼が注がれた瞬間。それは、毒になります」
「……」
「学校という閉鎖空間では、その毒から逃れる術はありません。澄んだ鏡は信頼を集めやすいし、感じやすい。……学校教育という仕組み自体が。いや、人間同士の営みがつづく限り。澄んだ鏡は信頼の犠牲になるしかない」
「……」
自分で言ってて悲しくなる。古代の生贄とか、中世のギロチンとか。平和になった現代でも、誰かを犠牲にしなくちゃいけないだなんて。人類の叡智というのは、その程度のものなのだろうか。人類全体に、ささやかな日常さえ配れないのだろうか。いままでどうにもできなかったのに、未だにどうにか出来ると信じている分、生贄やギロチンよりもタチが悪い。そう感じてしまうのは、俺の性格が捻じ曲がっているからなのだろうか。
「解決策は二つあります。一つは信頼できなくすること。人間同士の交流を禁止すれば、過剰な信頼が注がれることはありません。でも、これは現実的じゃない。そんなお金はありませんし、個人の自由は死んでしまう。そしてなにより、いじめという小さな問題によって、社会全体が変革されるようなことはありえない。……そして、解決策の二つ目は。信頼させないことです」
「……」
「加害者からの過剰な信頼を裏切ることさえできれば、いじめを止めることが出来る。俺はこれで、ウチハのいじめを止めてみせます」
「メツギさん」
冷たく、透き通るような声が耳に届く。ついさっきまで腕を組んで俯いていたツキノキさんが、感情のない瞳でこちらを見ていた。背筋が寒くなる。いま目の前にいるのは、普段の優しいツキノキさんじゃない。いま目の前にいるのは、一社会人としての冷酷なツキノキさんだ。
「やめなさい」
「……」
「それは賢さからもっとも離れた愚かな行為だ」
「心に従うことがですか?」
「それは過ぎた願いだ」
「ささやかな平穏を願うことがですか?」
「そうだ」
「それができないからここにいます」
「ダメだ。例えいかなる理由があろうと、その行為は到底許されない」
「解釈の否定はしないんですね」
「メツギさん、よく聞きなさい。いまのメツギさんは、明らかに冷静さを欠いている。……いま一度、他にいい方法がないか、一緒に考えよう」
「それならどうして、ツキノキさんはいじめの質問を回避したのでしょうか」
「……」
「〝わからない〟ではなく、〝不回答〟。誠実なツキノキさんが、こんな不誠実なことするはずがない。答えられない理由があるはずです。……ツキノキさんの中で、すでに答えは出ている。それが到底、許されない行為であることも」
「ダメだメツギさん……取り返しが、つかなくなってしまう」
「お世話になりましたツキノキさん。ツキノキさんに出会わなかったら、いまの俺はありませんでした。ツキノキさんには、感謝してもしきれません。恩を仇で返すような真似をして、本当にごめんなさい。それじゃあ、さようなら」
「まって!」
背後でドタドタと音がしたかと思うと、全身を拘束された。腹立たしいことに、少し嬉しくなっている自分がいる。参ったな……この方法が通用するのか確認して、筋を通して決別するはずだったのに。決めてきたはずの覚悟が、少し揺らぐ。
「メツギさんが犠牲になる必要はない!」
「犠牲なんて。そんな大層なものじゃありませんよ」
「受け取った側の人間はそうは思わない。私はただ、何処にも行ってほしくないだけだ!」
「一緒ですよ、ツキノキさん。俺もウチハには何処にも行ってほしくない。一人で抱え込んで、無理してほしくないんです」
「先生ばかりでなく、メツギさんまで失っては、私は……」
背後で端を発したように泣き出すツキノキさん。冷酷なツキノキさんなど、最初からどこにもいなかったのだ。ただ俺を心配してくれる、優しいツキノキさんしかいなかった。余力理論がキライというのも、きっとツキノキさんの優しさだ。自分の余力を削ってまで、誰かを救ってほしくない。ただ純粋な、相手を想う心。そのためなら、ウチハが犠牲になっても構わない……。なんて、残酷な優しさなんだろう。
「誰も悪くないんです。みんな心に従って生きているだけなんです。ツキノキさんは、俺の埋まっていた心を掘り起こしてくれた。だから、ツキノキさんはなにも悪くありません」
「私はメツギさんに許されて良い人間ではない! 現に今、メツギさんを救えていないじゃないか!!」
「いいえ、もうとっくにツキノキさんには救われてます。……ツキノキさんに認めてもらったあの日から」
ツキノキさんは言ってくれた。俺が、すでに賢さをもっていると。正直、怪しさ満点だった。俺のどこが賢いのかと疑いもした。俺を元気づけるために、嘘をついたのかとも思った。けれど、あの瞬間。ツキノキさんは俺に賢さを与えてくれていたのだ。〝承認〟。才能があるから、功績があるから賢いワケじゃない。無人島で相対性理論を唱えても、誰も賢いだなんて思わないように。誰かに認められて初めて、人は賢さを得られる。……俺はすでに、賢さの答えに出会っていたのだ。俺がツキノキさんに惹かれていた理由。それは、ツキノキさんの存在そのものが俺の賢さそのものだったからだ。腑に落ちる感覚があった。わかってしまえば、あっけない。いくらなんでも、遠回りしすぎだ。そしていま、俺はその賢さを手放そうとしている。ツキノキさんにもらった〝賢さ〟を、俺は自ら手放そうとしている。……ツキノキさんが責任を感じることなんてありません。ツキノキさんは、ちゃんと俺を救いの手を差し伸べていた。なのに、愚かにも俺は、その救いの手を振り払う。
「あ、あぁ……」
「だから、どうか自分を責めないであげて下さい。きっとスネヤ先生も浮かばれない」
気づけば拘束は緩んでいた。俺はツキノキさんの腕からゆっくりと抜け出し、振り返ることなく部屋を出た。……これで俺は、正真正銘の愚か者だ。
ツキノキさんと別れた後。俺は家に帰らず夜道を徘徊していた。いじめを止める方法。信頼を裏切る具体的手段を準備する必要があったからだ。彼女達の信頼を、上手く裏切る必要がある。中途半端に手を出せば、さらなる信頼を加速させ事態が悪化。ウチハに寄せられている信頼を正確に見極め、適切に対処する必要に迫られている。焦ってる? 焦りもするさ。ウチハはいま一番危険な状態に置かれているのだから。
いじめは、信頼が深ければ深いほどより深刻になる。コツツミさんの場合はその態度で信頼を勝ち得た。俺の場合はその態度と、ウチハからの会話で信頼を勝ち得た。ならウチハの場合はどうか。三人の中でもっとも近い場所にいたウチハの信頼。ウチハの状態は、コツツミさんの時よりも、俺の時よりも深刻と見ていい。事実、俺は直接手を出されている現場を目撃している。このまま何もしなければ、悪化することはあっても良くなることは絶対にない。ウチハを助けたい。一日でも早く、信頼を裏切らないと……。
考えれば考えるほど、暴力以外の方法が思い浮かばない。明確な殺意を向けることでしか、この高まった信頼を振り解けそうにない。対話や交渉で、地道に信頼を解いていく作業なんてのは俺には不可能だ。よほど早期に察知して、よほど彼らについて詳しくて、よほど場数を踏んで慣れておく必要がある。いじめ問題を語る時、どうしてみんなの中身がないのかやっと理解した。救いようがないからだ。およそ社会が望むような、平穏無事に解決する方法が存在しないからだ。だから、再現性のない個人的見解に終始する。そのごまかしが、被害者をさらに追い詰めているのを知ってか知らずか……。コツツミさんの暴力発言と繋がってしまった。こんなところまでパズルしなくてもいいのに。パズルのピースが順調にはまっていくのを、俺は素直に喜べなかった。本当に暴力しかないのか。本当に信頼を裏切るべきなのか。迷っている時間はもう残されていない。誰かを傷つけたいわけじゃない。だが暴力以外にウチハを救う方法が思い浮かばない。もし本当に暴力しか方法がないのだとしたら。俺に……俺に、その覚悟はあるのだろうか。
「よぉ! あの時の兄ちゃん!」
「!?」
「ちょうどこの路地で、兄ちゃんに金貸してもらったんだ。覚えてねぇか?」
「……あぁ」
「あの後ちゃんとタバコ買えたぜぇ? ありがとな! これ、借りてた五百円な?」
「わざわざありがとうございます」
「いいってことよ! せっかく兄ちゃんと会えたんだ。いまからラーメンでも食いにいかねぇか?」
「ありがとうございます。お気持ちだけ、受け取らせてください」
「そうか、そりゃ残念だ。それじゃあ、またな兄ちゃん!」
「……あの」
「?」
「お願いがあるんですけど」
「おぉなんだ? 兄ちゃんの願いだ。何でも言ってくれ!」
「ライターが欲しいんですけど」
「そんなことでいいのか? おうよ。これでいいか?」
酒瓶を持って顔を赤くしたおじさんは、ポケットからライターを一つ取り出す。用途を怪しまれるかとも思ったが、案外あっさり手に入ったな。これも〝信頼〟なのだろうか。……これからその信頼を裏切る身にとっては、胸が痛む思いだ。
「ありがとうございます」
「あんまり悪いことには使うなよ?」
「あはは……」
「それじゃあ、元気でなぁ!」
「えぇ、お元気で」
曲がり角に消えるのを見送って、ライターを手に取る。〝カチッ、カチッ〟と音を鳴らすと、炎が揺らめいた。こんな吹けば消えてしまいそうな炎では、彼女らの信頼は裏切れない。もっとくすんだ鏡に届く、明確な殺意を向ける必要がある。ホームセンター。まだ空いてるよな?
翌朝。空には図厚い雲が多い。いつ大粒の雨が降ってきてもおかしくない。今日は久しぶりに、ウチハと登下校。柄にもなく、俺の方から誘ってみた。二つ返事で了承をもらい。久々に、ウチハの笑顔を正面から見た気がする。俺には勿体ないくらいの、優しい幼馴染だ。今日で終わる。終わらせてみせる。校門、昇降口、廊下。教室の扉を開ければ、ウチハに視線が集中する。俺の方なんて、見向きもされない。ウチハと別れ、HRまでの時間。朝の談笑。平和なひとときに、我が物顔で居座る影。ウチハ達の信頼は、また一段と深まっていた。迷うことなく彼女達の元へ。ガン無視を決め込まれ。右手にはライターを。チラリと確認されて無視。左手にはスプレー缶を。彼女らは会話に夢中。〝カチッ、カチッ〟と音を鳴らし、注目が集まったのを確認。ウチハがいち早く異変に気づいて。火器厳禁のマーク。躊躇なく発射した。