優れた技術は、受け継がれてこそ価値がある
コツツミさんのマンション。その玄関ドア。入室を促されたので入ると、背後でカチャリと鍵が閉まる音。振り返ると、笑顔のコツツミさん。……あぁ、そうだった。俺は肝心なことをすっかり忘れていた。コツツミさんは、どこまで行ってもコツツミさんだということを。
「はい。エーちゃんは今からあたしの奴隷ね?」
「……ははぁ」
グイグイと部屋に押し込まれて、低いテーブルにドンッと本が積まれた。〝この中から資料探しといて〟と指示書と付箋を投げてきて。コツツミさんはというと、さっさと机に向かってしまった。……このままだと、どんどん仕事を投げ込まれると言う確信がある。だが今の俺には行く当てがない。突発的に飛び出してきたのでお金もない。この家に泊まると言うのなら、最低限の仕事はするべき。俺は諦めて本を手に取った。一つ二つと処理していくと、テーブルに影が差した。
「腹減った」
「……」
「腹減ったんだけど!」
「何か作れと?」
「冷蔵庫の自由に使っていいから」
「いや、キッチン片付いてないだろ」
「料理ができないわけじゃないじゃん」
「キッチンは散らかってるし、段ボールや衣服や雑誌やら。燃えやすいものであふれた場所で料理したくない」
「あーそうだった。エーちゃんってクッソ不器用だったね」
「……」
「んじゃピザでいっか。エーちゃん電話して」
「えぇ……」
なんで俺なんだ。どこから取り出したのか。宅配ピザのチラシを広げるコツツミさんに、しかたなく俺は番号を入力する。ピザの注文なんか初めてで、なんだかドキドキしてしまう。繋がって、ご注文をどうぞ。チラリとコツツミさんに視線を移すと、スラスラと詠唱が始まる。必死にコツツミさんの言葉を復唱。電話を切った時には、テーブルに突っ伏す俺がいた。
「なに? 一仕事終えたみたいに」
「コツツミさんにはわからないよ」
「……」
「……」
「「……」」
「はぁ。……ルミにはわからないよ」
「そーそーそれでいーんだよそれで」
コツツミさんはガハハと笑って、バシバシと俺の背中を叩いた。うるさいし、痛いし、最悪だ。くすんだ鏡の距離感は疲れる。まるでクソガキの相手をしてるみたいだ。ワガママで、品がなくて、図体のデカいガキ。肉だとか、マヨだとか、ツナとかコーンとか。大味でわかりやすい、Lサイズの欲張りセットを二枚も注文して。腹がはち切れんばかりに胃に詰め込むまで満足しない。それに飽き足らず、サイドメニューまで注文するなんて。美味しく食べられる量を、美味しく食べる。澄んだ鏡の価値観とはかけ離れている。いや、まあ。貪欲なのがくすんだ鏡の強みで、コツツミさんの原動力なんだろうけど。
「あぁ、そうだ。この辺りで服売ってる店知らないか?」
「あ? 必要なくね?」
「? どうして?」
「奴隷に服なんて必要ねーだろ」
「真顔で言うなよ」
「どうしてもってなら、あたしの服貸したげる」
「いやだよ、恥ずかしい」
「てか、駅前で全部揃っただろ」
「頭一杯でそれどころじゃなかった」
「なに? あたしに声掛けられたのがそんなに嬉しかった?」
「……」
「まーそーだよねー。他でもないこの優秀なあたしに拾われたんだから。エーちゃんはこの幸運に感謝しなきゃなんだよ?」
「なんにせよ、歯ブラシとか代えの下着も必要なんだ。ピザが届く前に、ササッと」
「アメニティーセットと下着ならあるよ」
「それ、使えるのか?」
「アメニティーはほぼ新品」
「〝ほぼ〟ってなんだよ」
「大丈夫大丈夫。開封してあるけどほぼ使ってないから」
「……」
「あと下着だけど」
「……男物だよな?」
「女物」
「履けるか!」
「なんで? ハミ出ちゃうから? 。てか、エーちゃんってハミ出るほど大きいの?」
「出掛けてくる」
ピンポーン
……タイミングの悪いチャイムに、コツツミさんが笑い転げている。仕方がないのでオートロックを通すと、お金を持っていないことを思い出した。これじゃあピザの支払いどころか、歯ブラシも買えない。助けを求めて後ろを振り返ると、コツツミさんがニヤニヤとそこに立っていた。
「お金ないんでしょ」
「あぁ」
「はい。前金」
「……なんのだよ」
「仕事の」
「雇うってことか? 契約書は?」
「はいペン。判子もあるから」
「やけに準備がいいな……」
契約内容を見ようと手を伸ばすと、玄関のインターフォンがなった。動かないコツツミさん。応対する気はさらさらないらしい。かといって、配達員の人を待たせるのは心が痛む。結果、ろくに確認もせずに契約書にサインと判子。封筒を受け取り、急いで玄関に向かう。……ハメられてるよな、これ。澄んだ鏡の性質を利用されている。コツツミさんにしてみれば、俺は絶好のカモなんだろう。……ウチハやツキノキさんにだけは、迷惑をかけないようにしないと。配達員からピザを受け取り、仕事部屋へ運ぶ。コツツミさんは、待ってましたとばかりに箱をピザの箱を開けて食べ出した。両手に違う種類のピザを持って、交互に頬張るコツツミさん。〝下品〟なやつだなの言葉を飲み込んで、俺もとりあえずピザを食べることにした。食事が済むと、外に出て。必要なものを買い揃えに行く。コンビニは便利だ。大抵のものはすぐに買い揃えることができた。もう夜も遅い。さっさとマンションに戻ろう。その後は資料探しのつづきをしたり、キッチンとその周りを掃除したり。あっという間に、時刻は日付が変わるところまで来ていた。
「はい、今日の作業終わり。もうこんな時間じゃん。エーちゃんもシャワーでいいよねー?」
「あー……」
「あ? なんか文句あんの?」
「いや……」
「ハッキリ言えよ」
「湯船にちゃんと、浸かりたい」
「そんなにあたしの残り汁が飲みたいわけ?」
「ちげえよ」
「エーちゃんが風呂掃除するならいいよ? 風呂掃除できるならねー」
「?」
不思議に思って立ち上がり、風呂場の様子を確かめに行く。天井からは服が吊り下げられ、浴槽にはガラクタが詰まっていた。一日の終わりには目にしたくない光景だった。しかたがないので湯船に浸かることは諦め、部屋へと戻る。
「先入ったら?」
「いいのか?」
「エーちゃん疲れてるでしょー?」
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
バスタオルを投げ渡される。なんだか生乾きで、若干イヤな匂いがする。〝エッチ〜〟と一人で盛り上がっているコツツミさんを無視して、脱衣所に入って鍵を閉めた。ただまぁ、正直言うと。先にシャワーを浴びられるのはありがたい。車を飛び出して、街中を駆け回って。仕事をして、コツツミさんの相手をして。ベットに倒れ込みたいくらいには疲れている。コツツミさんは明日学校だ。だから手早く済ませたい。凍えるシャワーに身を縮め。温かいお湯が出てきた頃には、もう頭と体を洗い終わっていた。名残惜しくもシャワーを手放し脱衣所への扉を開ける。そこには、洗濯かごに手を伸ばすコツツミさんがいた。その場に硬直。こちらに気付くコツツミさん。コツツミさんの視線が、俺の顔から下に移ったところで恥ずかしくなって。扉で体を隠した。
「なに女みたいな反応してんだよ」
「なにしてんだよ」
「別にー。なにも」
「その手に持ってるものを戻せ」
「これのこと?」
「汚いだろ……」
ケタケタ笑いながら、先程まで俺が履いていた下着を振り回すコツツミさん。からかって楽しんだのか、下着をかごに放り投げて。コツツミさんはさっさと脱衣所を出ていった。びっくりした。くすんだ鏡というのは、男女でもこんなコミュニケーションをとるのだろうか。コツツミの行動には、毎回驚かされてばかりだ。と言うか俺、脱衣所の鍵閉めてたよな? とことん俺、ナメられてるな。……契約を結んでしまったが、なるべく早くここを去らないと。とはいえ、まずはこれからの事を決めないことには始まらない。新しい下着と服に着替える。寝支度を整えて、部屋に戻った。
「上がったぞ」
「んー」
「俺はどこで寝ればいいんだ?」
「あ? この部屋で寝ればいいじゃん」
「……ルミはどこで寝るんだ?」
「この部屋だけど」
「いや、それはマズイだろ」
「なにが? エーちゃんが? 勃起しちゃう?」
「それはない」
「またまたー」
「社長と部下の距離感じゃないだろ」
「いいね、それ。今度から勤務中は社長って呼べな?」
「勤務外でも呼んであげますよ社長」
「16時間働きたいの?」
「労働法違反だ」
「んじゃあ分けて呼べな?」
「とにかく、この部屋では寝られない」
「他の部屋片付いてないだろ」
「廊下で寝る」
「あーそう。んじゃマットレス持ってけばー?」
"意気地ナシー"と不機嫌になるコツツミさん。何が意気地ナシだと内心悪態をつきながら。早く横になりたいので、マットレスと布団を廊下に運ぶ。広げたマットレスに倒れ込んだ。今日は疲れた。母親に一方的にしばかれたのもそうだし、被害者と対面したのもそうだし、コツツミさんに振りまわされたのもそうだし。そう考えると、〝俺の心労のほとんどはくすんだ鏡が原因では? 〟という何気ない意見に頭を振った。だったらなおさら、コツツミさんの世話から抜け出さないと。そのためには、今後の身の振り方を考える必要がある。生きていくには、お金が必要だ。お金を得るには、働く必要がある。働くためには、学歴があった方が有利だ。流石に最終学歴中卒では、選択肢も限られる。コツツミさんだって、俺よりも優秀な人材を見つければ。躊躇なっく俺なんか切り捨てられる。せめて高校の卒業資格は欲しい所。そして大学を卒業できれば言うことなし。そうなると金が必要だ。両親にはとんでもない迷惑をかけた。これ以上両親に迷惑をかけたくない。四年学ぶことになるということは。一年で百万としても最低四百万。今の俺には、途方もない金額だ。借金はなるべく、したくないし……。一度考え始めた頭は、答えが出るまで止まらない。しかし体は疲れていたようで、まぶたは徐々に重くなっていった。
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衝撃で目が醒める。何事かと飛び起きた。そこには、コツツミさんがいた。布団に包まったコツツミさんが、逆さまに脚を放り出して寝ていた。まだ俺は寝ぼけているのかと目を閉じて、開いて。そこには変わらず、コツツミさんの姿。周囲を確認する。廊下だ。俺が綺麗に掃除した、あの廊下だ。俺が間違えて、コツツミさんのベットに潜り込んだわけではないらしい。その事実に、ホッと胸を撫で下ろす。すると、鼻から何かが垂れてきた。反射で抑えて、洗面台に向かう。見ると、鼻血だった。さっきの衝撃で、鼻の血管が切れたようだ。原因はおおかた、予想がつく。
「ん──────?」
「おい」
「眩しー」
「なんでここで寝てんだ」
「んぁ? なんでエーちゃん鼻抑えてんの?」
「お前の足技を喰らったんだよ」
「あたしー?」
「おい! なんでそんな薄着なんだ!」
「エーちゃんうるさーい」
布団から出てきたコツツミさん。下は下着、上はノースリーブという開放的な格好に思わず目を逸らす。こいつ、羞恥心のカケラもないのか。こんな態度がつづけば、俺の身が持たない。ここは一度、強い態度で明確に拒否を示さなくては。コツツミさんの両肩を掴んで、力を込めた。在らん限りの拒絶を顔に集中。コツツミさんに顔を近づける。コツツミさんは、なぜか嬉しそうにニヤニヤしている。
「人の布団に勝手に潜り込むんじゃねぇ。さもないと……」
「さもないと?」
「……俺がここから出てく」
「あっはは。それ、脅しのつもり?」
「……」
尚も崩れない余裕の態度。ハッタリを効かすには、コツツミさんは俺のことを知りすぎている。これでは、コツツミさんの信頼を裏切るなんてのは一層難しい。擬似的な強い光は、コツツミさんに通用しない。ならその逆。くすんだ鏡に一切の光を当てない。コツツミさんへの対抗手段は、もうこの方法を置いて考えられなかった。だが、学校で会うだけならまだしも、共同生活となれば。コツツミさんに一切の光を当てないなんて芸当、とても現実的じゃない。そうなると、もうコツツミさんへの対抗手段はない。ますます、ここに長居できなくなった。
「までも、蹴り入れちゃったのはごめんね?」
「ルミが素直に謝るなんてな」
「どうしたら許してくれる?」
「いや、そもそも布団に潜り込まなければこんなことには」
「んじゃ仲直りのキス?」
「するか!」
「もーキス如きで騒ぎ過ぎー」
「……朝ごはん作ってくる」
背後で高笑いするコツツミさん。付き合ってられない。こちらが強硬な態度を見せれば見せるだけ、コツツミさんには面白がられるだけ。コツツミさんの発言を、いちいち真剣に受け止めない方がいい。くすんだ鏡と澄んだ鏡。それはいわば水と油。両者は互いに反発し合う。共生するというのが、どだい無理な話なのだ。理解の扉を固く閉ざした。それが両者にとって一番の最善で、一番楽な対応と信じて。
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街の電灯が付く時間帯。学校近くの細道、その電柱脇。ツキノキさんとのメッセージを振り返っていると、生徒の一団が校門を出る。その中に、ウチハの姿があった。ウチハは、まっすぐとこちらに向かってくる。
「お待たせ」
「じゃあいくか」