鏡の奥の向こう側   作:おおきなかぎは すぐわかりそう

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失敗を教訓にして前へ進め

 

 

 

「エーちゃんと手、繋ぎたいんだけど」

 

「……」

 

 コツツミさんが差し出した手を横目で見る。俺は未だに信じたくなかった。ツキノキさんの指摘。いや、いま思えば。ウチハもやんわり俺に伝えようとしていたのだろう。コツツミさんに好かれ、こうしていま手を繋ぎたいと手を差し出されている。悪夢のような現実を。

 

「エーちゃんはあたしのことがキライ?」

 

「キライってわけじゃない。ニガテってだけだ」

 

「あたしはエーちゃんのこと好きだよ」

 

「……」

 

「初めはなんだコイツってバカにしてた。何かと理由つけてあたしに近づこうとしてきて。可哀想な女の子に優しくすればコロリと靡くとでも思ってんのかなー。どうせあたしの体目当てんなんだろうなー。あたしの本性知ったら幻滅するんだろうなーて思ってた。けど意外にエーちゃんがしぶとくて、丁度いいからあたしの下で働かせようとあれこれしていく内に。気づいたら、エーちゃんのこと目で追ってた」

 

「……」

 

「エーちゃんのいなくなった学校は、退屈すぎて死にそうだった。エーちゃんに連絡送って、その返事が来てないか授業中も気になってた。それで、あたしってエーちゃんのことかなり気に入ってたんだなって知って、自分でも結構驚いてさ。だから、河川敷で偶然エーちゃんのこと見つけた時は嬉しかった。あぁ、エーちゃんはドウゾノさんじゃなくて、あたしのことを選んでくれたんだなって」

 

「……」

 

「一緒に暮らすようになって、姉貴に背中を押されて。このまま一緒に暮らしていくんだろうなってぼんやり考えてた。けど、全部あたしの勘違いだった。エーちゃんはツキノキが好きで、あたしはずっと一人で盛り上がってただけみたい」

 

「……」

 

 段々元気を失っていくコツツミさんに困惑した。俺の中のコツツミさん像が崩れていく。〝止めてくれ! もう見たくない! 〟と心の中で拒絶しても、俺の鏡は曇りなくコツツミさんを映し出している。寒空に震える、コツツミさんが差し出した手をはっきりと。ここで手を取ったならば、俺は永世万年クソ野郎だ。ツキノキさんは、みんなで幸せになるんだと綺麗事を言ってはいたが。やってることは女の囲い込みそのもの。ウチハ、ツキノキさん、コツツミさん。俺より遥かに才能に溢れた三人。コツツミさんの手を取るということは、その三人を不幸に巻き込む最低の行為だ。それをツキノキさんは、俺に望んでいるのだろうか。俺がクズ野郎になることを、望むと言うのだろうか。

 

 ハッキリ言って、俺はツキノキさんの望みには応えられない。三人を幸福にするという重圧に精神を保てない。こんな不安定な俺に付き合わせたくないはずなのに。コツツミさんの手から、俺は目を離せない。俺はただ、見守れればそれで良かったんだ。幸せになるみんなを遠巻きから見て、影ながら祝福できさえすれば。それで満足できたんだ。コツツミさんの手を振り払えないのが、俺が半端者である証拠だ。そして、引かれたコツツミさんの手を思わず取ってしまったことも、俺が半端者である証拠だ。

 

「コツツミさんは、ツキノキさんの提案をどう思う?」

 

「……」

 

「ルミは、ツキノキさんの提案をどう思う?」

 

「頭がイカれてる。正気じゃない」

 

「それは、流石に。……いや、俺もそこは擁護できないかもしれない」

 

「でもエーちゃんのことを一番理解してる提案ではあるかな」

 

「……え?」

 

「よし、ちょっと付き合え」

 

「ちょ! いきなりッ」

 

 らしくない態度をとっていたはずのコツツミさんは、一転していつもの調子で乱暴に俺を引き寄せた。騙されたことに気づいた時にはもう遅い。ろくな抵抗も出来ない間に、コツツミさんの思い通り。恋人繋ぎで、完全に逃げられなくなっていた。

 

「アイス食いに行くぞ。エーちゃんの金でなぁ!」

 

「いや、この寒い中アイスはちょっと」

 

「あ゛!?」

 

「チョコミント食いたいならひとりで食いに行ってくれ」

 

「なんでエーちゃんのお仕置きなのに、何が楽しくてあたしが一人でチョコミント食わなきゃいけないの?」

 

「金なら払う」

 

「あたしはエーちゃんとチョコミント食べたいの!」

 

「いや、俺は別にチョコミント食べたくはない」

 

「じゃあいいよ。エーちゃんは他のフレーバー食べればいいじゃん」

 

「いやだから、俺はアイスを食いたく──────」

 

「うるせえ! いくぞ!!」

 

 バカみたいな大声で俺の声を遮ったコツツミさんは、恋人繋ぎのまま、商店街への道を突き進む。非力な俺には、その流れに逆らうことなどできるはずがなかった。

 

 

 

 商店街全体はクリスマスの電飾に彩られて、なんとも浮かれた空気を生み出していた。そんな空気の影響か、商店街の各々の店も装飾に余念がない。それはアイスクリーム店であろうと例外ではなく、色とりどりのフレーバーを模した飾り付けが施されている。アイスクリーム屋の店内に入ると、ガンガンに暖房が効かされていた。コツツミさんは迷いなくチョコミントをトリプルで注文。店員さんも、そのあまりのチョコミントへの偏愛に、注文を聞き間違えたかと確認したくらいだ。注文内容が異常すぎて、こっちまで恥ずかしくなるのでやめてくれ。俺の注文の番が回ってきた。最後の望みで、体の温まる商品はないものかと店内を見渡す。だが残念ながら、目に留まるのは体を冷やす冷たいアイスクリームばかり。仕方なく俺は、抹茶のシングルを注文。代金は、驚いたことにコツツミさんが受け持った。なんでも、俺が返上した給料の一部を使うとのこと。良いとこあるじゃんと一瞬感心したものの。いや、給料を返上する理由を作った大元はコツツミさんだからな? と頭を振った。

 

 アイスクリームの入ったカップを受け取って、コツツミさんの対面に座る。ニガテなコツツミさんと気分じゃない場所で食べたくもない商品を注文させられて、返上したとはいえ代金はこちら持ちと。なるほどな。くすんだ鏡の恋愛観というのは、一種の我慢比べという解釈ができる。相手に損を強いて、愛やら恋やらの強度を測ると。それが我慢を超えた時、人は別居やら不倫やら離婚をする……? そうだよ。考えてみれば、俺は三人との関係がつづく前提で考えていたが。途中で破綻する可能性だって十分あるはずだ。ツキノキさんは、確かにスゴイ人だ。しかし、だからと言って四人で幸せになんてのは、とてもじゃないが現実的じゃない。その方面からなら、ツキノキさんを諦めさせられないだろうか? だが相手はあのツキノキさんだ。〝なにも考えてない〟なんてことは考えられない。ツキノキさんの返答を予測して、その反論も用意する必要がある。そこまでしても正直、ツキノキさんに勝てるかどうかはわからない。もしそうなれば、かなり大変なことになりそうだな……。

 

「なーに考え込んでんだよ」

 

 チョコミントで口の周りを汚したコツツミさんが、不満げな顔でこちらを見ている。自分の口周りを人差し指で触って指摘してやると、コツツミさんは紙ナプキンで口元を拭った。そうして拭った紙ナプキンを、コツツミさんはクシャクシャに丸め。テーブルの上に転がす。

 

「どうにかツキノキさんに諦めてもらえないかなって」

 

「ツキノキに諦めさせて。エーちゃんはその後なにしたいんだよ」

 

「いや、そりゃあ。特にはないけど」

 

「代案もないクセに感情で反対するのって、マジでバカ丸出しだから」

 

「……」

 

「わかんないなー。あたしがエーちゃんだったら、迷いなく乗っかるのに」

 

「それはルミだから出来ることだ」

 

「だってハーレムだよ? 男の夢じゃん!」

 

「男の夢。夢ねぇ」

 

「なにが不満なわけ?」

 

「夢は夢だから夢なんだ」

 

「つまんね〜」

 

 俺はこの一年間、自分と向き合ってきた。成果が全くなかった訳じゃないが、それでもまだ理解が充分とは言い難い。俺はまだまだ、自分と言う存在がなんなのか正確に掴めているわけじゃない。だというのに、他の鏡と二枚も三枚も向き合おうだなんて。俺には荷が重すぎる。コツツミさんのような鈍さで無理矢理押し通したとしても、きっとどこかでボロが出るはずだ。そうなれば、もう四人の幸福なんて言ってる場合じゃない。俺は三人を不幸に巻き込むことになってしまう。俺個人の不幸ならまだ耐えられる。だが、俺がみんなを不幸にしてしまうことには、俺は耐えられそうにない。

 

「なあ、そういえば」

 

「あ?」

 

「言ってたよな? ツキノキさんの提案は、俺のことを一番理解している提案だって」

 

「あーはいはい」

 

「説明して欲しいんだが」

 

「どーしよっかなぁー?」

 

「……」

 

「一緒のベッドで寝るって約束してくれるなら、考えてあげても良いけど?」

 

「考えるだけだろ? イヤすぎるんだが」

 

「じゃあこうしよ? 約束してくれるならちゃんと話すし、ベットの中でヘンなこともしない」

 

「胸に手を当てて考えてみろ。ルミの言葉なんて信じられるか」

 

「あれはエーちゃんが喜んでると思ってやったことなの。だからエーちゃんがイヤがるならやらないって。エーちゃんに嫌われたいわけじゃないし……。だから、ね! 一生のお願い!」

 

 手を合わせて上目遣いでお願いをするコツツミさん。ウソ臭い。ポーズもそうだが、〝一生のお願い〟なんて文言がなおさら信用できない。だがコツツミさんの力がなければ、俺はいじめの件で一生後悔することになっていた。俺とツキノキさんの力だけでは、解釈のパズルは完成できなかった。コツツミさんに頼るのは後が怖い。怖いが、怖いだけの価値は確かにある。二つに一つ。俺かみんなか。……よくよく考えれば、俺に選択肢は残されちゃいなかった。

 

「はぁ。わかった。約束する」

 

「ホント!? 約束したかんね? 絶対だから!」

 

 身を乗り出すコツツミさんに、こちらは椅子を引いた。コツツミさんに身売りするしかなかったとはいえ。〝一緒のベッドで寝る〟なんて約束をしてしまったことを、今更になって後悔する。前日、風呂に入らないとかで。体臭を理由に一緒に寝るのを回避出来ないものだろうか。なんて、現実逃避にバカバカしいことを考えてしまった。なにがバカバカしいといえば、体臭がかえってコツツミさんを喜ばせてしまう恐れがあることだ。〝ドSとドMは両立する〟。くすんだ鏡に澄んだ鏡の常識は通用しない。心臓に悪いことをしてはしゃいだり、激辛を嬉々とし頬張ったり、体臭がキツくて興奮するなんてのもそれと同じ。コツツミさんはくすんだ鏡だからと雑に信頼しすぎた結果が奇跡的に、いやこの場合は不幸にもと表現するべきか。コツツミさんを満足させていたのだろう。……俺が全くの無意識のうちに。

 

「じゃあ特別に教えたげる。ツキノキの提案が、どうしてエーちゃんのことを理解しているのかを」

 

「頼む」

 

「結論から言っちゃうと。このままだとエーちゃんが死んじゃいそうだから」

 

「……」

 

「エーちゃんのあのゴミみたいな将来設計からは、生気を感じない。ドウゾノさんもツキノキも、そこんとこの意見は同じだと思う。エーちゃんには生きる理由がないと、勝手にくたばっちまいそうって」

 

「……」

 

 コツツミさんから聞かされたのは、ぐうの音も出ない理由だった。いまこそなんとか、生きてはいるが。未来も生きていられるかを断言できるほどの自信はない。特にこれと言った夢や希望も持たず。悪く言えば、仕方なく生きているという将来設計。その低すぎる志を、ツキノキさんは問題視したのだろう。だから幸せになるという責任を負わせて、俺に生きる理由を持たせたかったということか? ……俺に生きていてほしいから、こんな回りくどい方法を取るだなんて。ツキノキさんも、ウチハも、コツツミさんも。なんてみんな優しいのだろう。

 

「それであたしもドウゾノさんも協力しちゃうんだから。エーちゃんってメチャクチャ愛されてんねぇー」

 

「ルミはこれで本当にいいのか? 正直、俺なんて貧乏くじもいいところだぞ?」

 

「はぁ? エーちゃんごときの貧乏くじで、あたしが不幸になるわけないでしょ?」

 

「ほんと。たくましいな、ルミは」

 

「どう? 惚れちゃった? なんだったらドウゾノさんもツキノキも裏切って、あたし一筋になってもいいんだよ?」

 

「ルミのそういう腹黒い所は、あんまり好きになれない」

 

「女三人から支える宣言させたヤツが、どのツラ下げていってんの?」

 

「はは、そうだな。そうだよな」

 

 いま改めて聞いてみても。ウチハ、ツキノキさん、ドウゾノさんの三人に支えられる俺は、どれだけ情けない存在なのだろう。そんな情けない俺のことを、三人は受け入れようとしている。受け入れるという覚悟を決めている。覚悟が決まらず、決断できないでいるのは……俺だけだ。損だか得だか、愛だか恋だか抜きにして。俺は三人と、ちゃんと向き合いたい。

 

「じゃあ早速だけど、今夜さ?」

 

「悪いけど、その前にやることがある」

 

「あ? まさか、あたしじゃなくてツキノキを取る気?」

 

「いいや。違う」

 

「じゃあなんだよ。こっちはエーちゃんのせいで予定メチャクチャにされてんだけど?」

 

「それは、ごめん。謝るよ。でも、ツキノキさんの提案をいつまでも保留しておきたくないんだ。どうしても早いうちに、会っておきたいんだ」

 

「あーはいはい、なるほどね。女を取っ替え引っ替えして、エーちゃんも頭チンチンですこと」

 

「今夜、ウチハと会って話してくる」

 

 

 

 久しぶりに帰った自宅は、一層騒がしくなった。しょっぱなから母の往復ビンタ。次に、車から飛び出して別れた後の事を問い詰められ。そうして問い詰め終わった後の母は、俺が世話になったコツツミさんに会わせろの一点張り。そのあまりの勢いに、俺はコツツミさんを紹介することを母に約束してしまう。それでようやく、母の怒りは一時的に収まるのだった。家族に心配と迷惑を掛けた詫びとして、用意しておいたニョッキを母に差し出す。母はいまだ不機嫌な顔でニョッキを受け取り中身を確認。俺にいくつかの質問をした後、買い物に飛び出していった。母のいなくなった家は、シンと静まり返っている。ウチハは部活があるから帰りが遅い。自室で寝てるか。でもその前に水分補給。リビングへの扉を開ける。リビングには、父がいた。父はいつものテーブルの定位置に座って、小さな文庫本を読んでいる。父は俺の存在に気付いたのか、老眼鏡を持ち上げて俺を見た。

 

「おかえり」

 

「あぁ、ただいま」

 

 説教の第二ラウンドが始まるのかと心配したが、どうやらその心配はいらないらしい。コップに水を注ぎ、喉を潤す。リビングに居座られても、読書の邪魔だろう。さっさと自室に行こうと、廊下へつづく扉に差し掛かった時。背後で本を閉じる音がして、父に呼び止められた。

 

「エイタ、少し話そう」

 

「珍しい。父さんから話したいだなんて」

 

 怒られるわけじゃないよな? と警戒しながらも椅子に座った。思えば、俺は今まで父に叱られた記憶がない。大体は母が怒り狂っているのを、父はいつも後ろで見ていた。だからといって、俺達に関心がないわけじゃない。大抵の願いは叶えてもらっていたし、ウチハともども外に連れ出してもらっていた。何不自由のない生活を送らせてもらっていたことが、父が無関心でないことの最大の証だろう。普段は滅多に喋らない父からの話。なんだろう、全く予想がつかない。

 

「車を飛び出した後は、元気に過ごせていたのか? 寒い思いをしなかったか? ご飯はしっかり食べれたのか? ヘンな事に巻き込まれたりしなかったか? 誰かに迷惑をかけなかったか?」

 

「あー。特に不自由はなかったよ。世話になった人がいるんだ。その人にはちょっと、迷惑かけたかな。まぁ現在進行形で、たくさん迷惑をかけてるか」

 

「そうだな。確かにエイタは、たくさんの人に迷惑をかけた」

 

「怒らないのかよ。父さんは」

 

「? なんでだ?」

 

「高校を退学することになって、制服とか、教科書とか。全部ドブに捨てることになったんだぞ? これからの人生もめちゃくちゃにして。怒るだろ、普通。母さんみたいに」

 

「エイタは昔から賢い子だった。周りのことをよく見ている。そんなエイタが、理由もなく暴力を振るうはずがない。エイタが暴力を振るったということは、それ相応の理由があったんだろう」

 

「随分な信頼だな」

 

「お前は俺の子だからな。何年見てきてると思ってるんだ。それに、ウチハちゃんがずっと庇っていたんだよ。ウチハちゃんにだけエイタを信じさせて、家族が信じないわけにはいかないだろう」

 

「……」

 

「そんな賢いエイタが、家族に相談の一つもしなかった。家族は頼りにならないと判断したんだ。……お前の力になれなかった。無力な親で、すまなかった」

 

「無力な親なんかじゃない。あの時の俺が、信じられなかっただけだ。父さんはちゃんと、父さんしてたよ」

 

「そうか。……ありがとうな」

 

 父はそう言って、テーブルの一角で小さくなった。話は終わった。ウチハが帰って来るまで、部屋で寝ていよう。廊下への扉に手を掛けた。

 

「今度また、エイタが追い詰められるようなことがあれば」

 

「?」

 

「今度は父さん達を信じてほしい」

 

「わかった。今度はきっと信じるよ。……その今度は、できれば来てほしくないけど」

 

 俺の返事に満足したのか、父は何度か頷いて老眼鏡を掛けた。会話が終わったのを確認して、今度こそ俺は自室へ向かう。自室に入ると、なにも変わらない。車から飛び出した日、そのままの部屋が残されていた。掃除がされていたのか、ホコリっぽさは感じない。ベッドに横になる。何故だろう。ベッドのシーツから、微かにウチハの匂いがするような気がした。ウチハは、俺が居なくなった後も。変わらず両親の相手をしてくれていたのか。ウチハが信じていてくれていたから、俺は。約束通り、ちゃんと両親に会って話せたぞ。

 

 ……ベッドに横になったはいいが、全然眠くならない。ツキノキさんの提案への迷いが、頭の中で暴れ回っている。断るべきなのか、受け入れるべきなのか。俺を含めた四人の人生に大きな影響を与えてしまう選択だ。いままでの悩みとは重みが違う。ウチハと話して、それでも判断できなかった時はどうするべきか。いっそ、ツキノキさんに意見を求めてしまおうか。いいや、ツキノキさんは俺が決断することを望んでいる。話は聞いてくれるかもしれないが、決定打までは与えてはくれない。結局は俺が決断する他ないわけだ。その後、ベッドに横になりながらも眠ることはできず。ウチハが帰ってくるまで、あーでもないこーでもないと頭を悩ませていた。部屋もすっかり暗くなり、冬の寒さが窓から染み出す頃。考え疲れてウトウトしていた脳が、ノックの音で目を覚ます。この控えめなノックは、ウチハだな。

 

「エイター? 寝てるー?」

 

「いや、起きてるよ」

 

「おばさんが、ご飯できたってー」

 

「わかった。すぐにいく」

 

 居心地の良いベッドから這い出て、廊下への扉を開く。自室を出ると、ソワソワと落ち着きのないウチハが立っていた。学校指定ジャージの上に羽織りものをして、髪はわずかにしっとりしている。風呂に入った後か。ウチハの髪を軽く触った。

 

「寒くないのか?」

 

「え、あ、うん。下に着込んでるから、大丈夫」

 

「「……」」

 

「ありがとな」

 

「へ?」

 

「ウチハのおかげで、ちゃんと両親と話せた」

 

「えへへ。エイタのいない間、ボクけっこう頑張ったんだからね?」

 

「あぁ、ほんと。ウチハには世話になりっぱなしだ」

 

「え、えっと。キミさんとのお話って、どうなったの?」

 

「いや、いま話すと長くなる。ご飯の後、俺の部屋に来てくれ。そこでちゃんと話そう」

 

「……うん」

 

 リビングにつくと、料理が並んでいた。俺の持ってきたニョッキを中心に、スープとサラダが追加されている。栄養バランスの考えられた食事。コツツミさんとの共同生活の時、一番苦労した所だ。なかなか毎日、一汁三菜なんて用意できない。考える手間・準備する手間・作る手間を考えると。どうしても一品完結の簡単料理に逃げてしまう。コツツミさんに毎日料理を作るようになって思い知った。毎日毎日、休みなく献立を考えて・準備して・家族全員の分を用意する母の偉大さを。久し振りに、いただきますの挨拶が揃う。

 

『いただきます』

 

 俺の作ったニョッキは、全員から大好評だった。ウチハはおしゃれなパスタが好きなのも相まって大興奮。母も珍しく〝おいしい〟と褒め言葉を口にし。父は口数の少なさこそ相変わらずだが、〝もうないのか? 〟とおかわりを要求するほどで。家族との食事の場であまり褒められたことのなかった身としては、少々むず痒い時間を過ごした。ただ、俺の個人的な感想として。コツツミさんに振る舞った時の方が美味しく感じたのはここだけの秘密だ。

 

 コツツミさんと食べたものと、今回食べたもの。レシピは全くの一緒なのだが。生クリームを牛乳で延ばした、トマトクリームソースという性質上。どうしても再加熱のたびにクリームの濃度が濃くなって、モッタリとした重たいソースになってしまう。出来立てと作り置きを比べるべきではないかもしれないが。逆に言えば、それ以外は満足のいく仕上がりだったと言える。食後。洗い物を母に任せ、ウチハに目配せする。自室に戻って暖房をつけ、部屋を暖めていると。ウチハの控えめなノックがした。

 

「いいぞ」

 

「……」

 

「適当に座ってくれ」

 

 ベッドに座ると、その隣にウチハがポスンと座る。どう切り出すべきか。何から話すべきか。俺がまず真っ先にしないといけないこと。それはウチハへの感謝だろう。俺の知らないところでいまま世話を焼いてくれた事への感謝を伝えるべきだろう。

 

「ウチハ」

 

「?」

 

「ありがとうな。ずっと俺のために動いてくれて。ウチハが動いてくれていなかったら、俺はきっといまこの場所に居なかった」

 

「そんな、言い過ぎだよー」

 

「言い過ぎなんかじゃないさ。ウチハがずっと俺を見捨てないでいてくれたからこそ、いまがあるんだ」

 

「ボクはエイタが好きだし、エイタのおばさんのことも、おじさんのことも好き。ボクにとっては、みんな家族だから。それに、最後に向き合うって決めたのはエイタでしょ? だから、一番偉いのはエイタなんだよ」

 

「……ウチハは本当に、俺と一緒にいたいのか」

 

「へ? え、えっと」

 

「ウチハの正直な気持ちが知りたい。ツキノキさんのことも、コツツミさんのことも考えなくて良い。俺はウチハの本音が知りたいんだ」

 

「……ボクはね、ずっとエイタに憧れてた。どうしたらいいのか分からないボクのために、周りの人達と必死にお話しするエイタが輝いて見えた。エイタの後ろから、頑張るエイタを見るたびに。嬉しいなって気持ちと、このままじゃダメだよねって気持ちがあったの。だから、剣道が出来るってなった時。ボク決めたんだ。エイタと手を繋げる女の子になるんだって」

 

「……」

 

「えへへ。これはまあ、ちっちゃい頃の話なんだけどね? けど、ボクの想いは変わってないよ? エイタの隣はボクだったらなーっていまでも思ってる。……だけどボクは、ずっとエイタを助けられなかった。隣に並んで手を繋ぐどころか、ボクの背中に押し込めて。ボクはエイタを守った気でいた。そんなヒドイことしてきたボクを、エイタは助けてくれて、けど学校からいなくなっちゃって。エイタはボクを助けたことをワガママっていうけど、その優しさがどんどんボクを苦しくするの」

 

「……」

 

「エイタと一緒にいたい。ずっとエイタと一緒にいたいよ。けどエイタはとっても優しいから、ボクに合わせちゃうんじゃないかって。ボク、すっごく怖いんだ。エイタをまた、背中に押し込んじゃわないかって」

 

 一緒だ。ウチハは俺と一緒。俺がツキノキさんへ抱いていた気持ちと一緒なんだ。ツキノキさんは優しいから、あと一歩が踏み出せなかった。たとえ好意を向けられたとしても、それはツキノキさんの優しさなんじゃないかと疑って。俺がもしウチハの立場なら、そんな優しさは受け取れない。罪悪感なんかで、好きな人をそばに縛り付けたくない。ウチハの本心を聞いて確信した。ウチハは本気なんだ。ウチハは本気で、俺を愛してくれているんだ。……だったら、俺は男として。覚悟を決めなくちゃいけない。ウチハの手をそっと握った。その手は、わずかに震えている。

 

「ウチハの気持ちはよくわかった」

 

「……」

 

「俺と一緒にいたいことも、俺と一緒にいたくないこともよくわかった」

 

「……」

 

「だから俺は、ツキノキさんの提案は受けない」

 

「!!」

 

「代わりに俺から提案する」

 

「???」

 

「ウチハ。どうか俺のそばにいてほしい」

 

「エイタは、それでいいの?」

 

「?」

 

「本当に、ボクはエイタの隣にいてもいいの?」

 

「隣にいるとかいないとか、そんな話じゃない」

 

「へ?」

 

「俺は不器用だ。高校で道を踏み外したように、今度いつまた道を踏み外すかわからない。俺はそれが怖いんだ。俺だけの力じゃどうすることもできない。だから……」

 

 俺はどうしようもない人間だ。自分の澄んだ鏡という性質に振り回されつづけている。周囲の感情、行動、言動に振り回される運命にある。それは俺にとって呪いに他ならない。たとえどれだけウチハや、ツキノキさんや、コツツミさんを遠ざけても。三人の不幸を風の噂で聞いた瞬間、俺は途方もない後悔に襲われることだろう。あの時、俺が三人を受け入れていれば。この不幸は回避できたのではないか、なんて。それはあまりに身勝手な後悔だ。三人から逃げておきながら、三人の不幸に心を痛めて後悔する。選択とは、ラクな道を選ぶことじゃない。自分の選択に責任を持つことだ。勝手に突き放しておいて、勝手に後悔するなんてのはお笑いだ。正しく後悔するためには。俺は三人と、正面から向き合うしかない。損も、得も。愛も、好きも。不幸も、幸福も。全部正しく、後悔してみせる。

 

「ウチハ。どうか俺を、助けてほしい」

 

「ボ、ボクは」

 

「俺にはウチハが必要なんだ!!」

 

 握った手にありったけの力を込めた。ウチハの反応はない。顔を伏せて、沈黙している。強く握り過ぎてしまったのかと握った手を緩めるが、どうやら緩めるのが遅かったのか。ウチハの体が震え始めてしまった。思わず両手で、ウチハの手をさする。

 

「わ、悪い。強く握り過ぎたか?」

 

「ううん。違うの」

 

「でも、泣いて」

 

「うん、泣いてる。けど、悲しい涙じゃないよ?」

 

「それじゃあ」

 

「えへへ。ボク、エイタに返事してないよね?」

 

 ウチハはコホンと小さく咳払いをして、軽く身なりを整える。それから胸に手を当てて深呼吸してから、俺をジッと見つめた。

 

「はい。よろこんで」

 

 ウチハの笑顔は、眩しいほどの笑顔だった。暗闇に光が差し込んでくるような。そんな、夜明けを告げる笑顔だった。……そのあと。俺達の会話を聞いていた母親が突撃してきて、盛大にからかわれた。

 

 

 

 その日の夜。電車内。まばらな座席で、揺れる吊り革を眺めながら。俺はコツツミさんのマンションへと向かっていた。目的は主に二つ。みんなで幸せになるというツキノキさんのワガママを、俺を支えてほしいというワガママで上書きしに行くのが主目的。そして、コツツミさんとした〝一緒のベッドで寝る〟という約束を守りに行くのが副目的だ。……体が震えているのは、決して寒さのせいじゃない。コツツミさんは、俺のイヤがることはしないとは言ってはいたものの。俺がイヤがることをコツツミさんは"決してしてこない"と言い切れないところが、くすんだ鏡の恐ろしいところだ。かと言って、後回しにすればするほどコツツミさんからの怒りを買う。だったら早い方がいいだろうと覚悟を決め、自宅から飛び出してきたわけだが。いずれにしろ、コツツミさんには一度考え直してもらわないといけないんだ。日陰と日向の植物を共存させようとすればどうなるか。頭の良いコツツミさんがわからないはずがない。……正直、俺がコツツミさんに好かれているなんてのは悪い冗談なんじゃないかとまだ疑っている。あの退屈嫌いのコツツミさんが、暇つぶしに俺で遊んでいると言われた方がまだ現実味がある。俺目線では、突然降って湧いたような好意なのが余計に恐ろしい。身に覚えがないのに鶴の恩返しなんかされたら、誰でも怖いだろ。少なくとも、俺は怖い。

 

 三人に向き合うと決めた手前。もしもコツツミさんの好意が本物だった場合、俺はどう対応するべきなのだろうか。怖いからと、コツツミさんだけを切り離して俺のワガママを強行するべきか? いや、突然切り離されたコツツミさんが、〝はいそうですか〟と素直に従うなんて想像できない。一番怖いのは、ウチハやツキノキさんにまで怒りの矛先が向かうことだ。俺のスマホにGPSなんかを仕込むなんてのは犯罪者の思考。平然と犯罪行為に手を染めるコツツミさんが、手段を選ばず本気で俺達を害そうとしてきたのなら。……想像するだけども恐ろしい。そうこうしている間に、コツツミさんのマンションについてしまった。部屋番号を入力する手が重い。気が進まないのなら、体調不良を理由に決断を先延ばしにするという方法も……。なんて弱気なことを考えていたら、ひとりでにオートロックが開く。マンションの中から出てきたのは、コツツミさんだった。

 

「ヤッホー。エーちゃーん」

 

「……わざわざ迎えに来ることないだろ」

 

「いやー、エーちゃんが来るってわかったら居ても立っても居られなくって。お? なにそれ? コンビニでなにか買ってきたの?」

 

「チョコミントだよ。新発売のお菓子の」

 

「あたしから逃げた詫びってこと? なんだよ、つまんな。てっきりコンドームかなって期待したのに」

 

「……」

 

 ルンルンと浮かれ気味のコツツミさんとのエレベーター。なんだかチラチラとこちらを見ているような気がして、こちらは冷や汗が止まらない。これから俺のワガママを伝えないといけないのか? 俺のワガママを、コツツミさんに拡大解釈されて襲われたりしないよな? くすんだ鏡だからと気を抜いてはいけない。俺はそれで、一度痛い目を見ているのだから。発言には特に気を付ける必要がある。無闇な発言は控えよう。

 

「エーちゃんは風呂入ってきたの?」

 

「あぁ。入ってきたよ」

 

「なんで入ってきちゃうんだよ」

 

「逆になんで入らないんだよ」

 

「エーちゃんと一緒に風呂入れないじゃん!」

 

「……本当に何もしないんだよな?」

 

「なに? もしかして、期待してたの?」

 

「いや、期待じゃなくて。ただの確認だ」

 

「エーちゃんさー、もっと女の子大事にした方がいいよ? あたしみたいに頭の良い美少女には特にね?」

 

「そんなに頭の良い美少女なら、俺よりもっと大事にしてくれる男に乗り換えるべきでは?」

 

「それは、まあ。惚れた弱みってやつ?」

 

「……」

 

「信じられないのなら証明してあげよっか? ベッドの上で」

 

「おい、約束は守れよ? 本当に一緒に寝るだけだからな?」

 

「意味深な方の?」

 

「一緒に寝るの文字通りだ。深い意味は一切ない」

 

「でもエーちゃんも本当は期待しちゃってたり?」

 

「……」

 

「ウソウソ、ジョーダンジョーダン。そんな怖い顔しないでよ」

 

「はぁ……」

 

 ヘラヘラしたコツツミさんから目を背けた。俺はこれからコイツと一緒に寝て本当に大丈夫なのか? 実際、コツツミさんがその気になれば。俺なんて簡単に制圧できる。同じベットに入ったが最後、俺はコツツミさんの気が変わらないことを心の底から祈るしかない。覚悟も決まらないまま、玄関は開かれた。俺は取り敢えず洗面台に向かい、寝支度をする。洗面台には、当然のように俺の歯ブラシなんかが残っていた。俺は自分の歯ブラシを使いながら、現状を頭で整理する。

 

 ツキノキさんの〝みんなで幸せに〟という提案を俺がわざわざ上書きしたい理由。一つは、支えてもらう側のせめてもの礼儀。もう一つは、俺を見限りやすくする配慮だ。一つ目の支えてもらう礼儀というのは、至極単純な話。ツキノキさんが提案してきた現状は、ツキノキさんからのワガママだと解釈できる。ウチハもコツツミさんも賛同を示しているとはいえ。現状のままだと、俺はツキノキさんのワガママをいつでも拒否できる立場にあるというわけだ。俺がいつでも拒否できる立場にあるというのがツキノキさんなりの優しさなのだろうが。支えられる立場である俺が、いつでも拒否権を発動できる現状は、支えてくれている三人にあまりにも失礼。なので、俺の方から改めて三人に〝俺を支えてほしい〟というワガママを伝えることで、立場を入れ替えようというのが一つ目の狙いだ。これがもう一つの目的、俺という人間を見限りやすくするための配慮に生きてくる。俺からのワガママによって、俺と三人の立場は完全に入れ替わることになる。つまり、三人はいつでも俺のワガママを拒否できる立場になるわけだ。もしも三人が、俺より素敵な異性に出会った場合。三人はいつでも俺のワガママを拒否して、素敵な異性と幸せになることが出来る。三人を疑うわけではないが、俺は三人から愛されるほどの人間なのだろうか? という疑いの芽はいまなお消えない。この、俺を支えてほしいというワガママが全員に受け入れてもらえない限り、俺はツキノキさんのみんなで幸せになるという提案に乗る気は毛頭ない。寝支度が終わった。仕事部屋兼コツツミさんの寝室に入る。部屋に入ると、コツツミさんが新作のチョコミントを貪っていた。

 

「エーちゃんの買ってきたチョコミントのお菓子、ミント強めでメッチャ旨い」

 

「あっそ」

 

「一個食う?」

 

「いま歯磨いたばかりなんだが」

 

「ノリ悪いなー。そんなのもっかい磨けば良いでしょー?」

 

「寝る」

 

「じゃ先寝ててー。あたしは風呂入ってくるから。あ、それとも体臭キツイ方がお好み?」

 

「早く風呂いけ」

 

「エーちゃん綺麗好きだもんねー」

 

「なあ、やっぱり一緒に寝るなんて考え直さ……聞いてねぇし」

 

 バタンと閉じたドアに悪態をつくと、ベットに倒れ込んだ。コツツミさんの臭いがする。風呂場からシャワーと、ご機嫌な鼻歌が聞こえてくる。集中出来ない。落ち着かない。眠れない。コツツミさんが隣に来れば、なおさら落ち着けなくなる。今夜は夜更かし確定だな。寝込みを襲撃されないのは、良いことなのかもしれないが。ぼやぼや余計なことを考えていると、コツツミさんが風呂から上がった。

 

「エーちゃん寝てるー?」

 

「寝れるわけないだろ」

 

「エーちゃん神経質だもんねー?」

 

「臨海学校も、修学旅行も。なかなか寝付けなかった」

 

「あたしはどんな場所でもすぐ眠れちゃうけど」

 

「コツツミさんは神経が図太いからな」

 

「あ゛?」

 

 ドスンとベットが揺れた。俺はマズイと壁の方を向く。思わず常日頃から思っていたことが口から出てしまった。やり過ぎたか? いいや、この程度でくすんだ鏡が反応するはずがない。なら、これは……難癖だ。俺はコツツミさんに、付け入るスキを与えてしまった。

 

「こっち向けよ」

 

「何でだよ」

 

「言いたいことがあるなら、面と向かってハッキリいいな?」

 

「もう用は済んだ。俺は寝る」

 

「へー。エーちゃんは壁とお喋りする教育受けてるんだー」

 

「……」

 

「もしかして恥ずかしかったり?」

 

「あぁ、そうだよ。恥ずかしいんだよ」

 

「じゃあ電気消したらこっち向いてくれる?」

 

「向かい合って寝る約束まではしてない」

 

「そっちがその気なら、あたしにも考えがあるけど?」

 

「……」

 

「素直でよろしい」

 

「おい、電気は消してくれ」

 

「男がそのセリフ言うのかよ」

 

 電気が消え、部屋は真っ暗になった。俺の布団に、コツツミさんが入ってくる。冷気が隙間から入り込み。振動と、暖かさが近付いてくる。

 

「……」

 

「へへ。あったかい♡」

 

「狭い」

 

「我慢してよ。このベット一人用なんだから」

 

 何も見えない暗闇の中、囁き声で会話する。なぜだろう。コツツミさんと至近距離で会話しているはずなのに、思ったほど緊張しない。視界が見えない分、情報量が少ないのか。それとも、コツツミさんがいつもより大人しいからだろうか。そのどちらもありそうだ。そして、俺にとってはありがたくもある。いまならば、俺の主目的。ツキノキさんの提案を、俺のワガママで上書きできるかもしれない。

 

「なぁ、ルミ」

 

「なに? エーちゃん♡」

 

「ルミは、ツキノキさんの提案に乗ったんだよな?」

 

「あ? まぁ、そうなるのかな?」

 

「それじゃあ、いまから俺が言うことを落ち着いて聞いてほしい」

 

「なんだよ。かしこまって」

 

「俺はツキノキさんの提案を断るつもりだ」

 

「! それってあたしを選んだってコト!?」

 

「だから! 話は最後まで聞けよ」

 

「ツキノキのハーレム案を受け入れないって言ったのはエーちゃんでしょ? そっからどうする気なの?」

 

「代わりに俺から、改めて提案する」

 

「俺を支えてくれーって?」

 

「あぁ」

 

「そんなことしてなんか意味あんの?」

 

「突き詰めれば俺の自己満足だ」

 

「男のプライド?」

 

「まぁ、そんなところだな」

 

「その話、ドウゾノさんにもしたんでしょ?」

 

「あぁ、した。ついさっき」

 

「んでドウゾノさんはエーちゃんを受け入れたと。その足であたしの前に顔出したんでしょ? エーちゃん良い根性してんね」

 

「クズの自覚はある」

 

「あっはは。まぁ、エーちゃんのクズっぷりはいまに始まったことじゃないか」

 

「話はこれで終わりだ。おやすみ」

 

「ちょっと待て」

 

 だんだん暗闇に目が慣れてきた。コツツミさんの顔がハッキリしてくる。もうそろそろ、限界だ。話を乱暴に切り上げて。コツツミさんに背を向けて、寝返りを打とうとして……コツツミさんに止められた。

 

「……なんだよ」

 

「まだあたし、エーちゃんの提案受け入れてないから」

 

「そうか。じゃあルミは離脱ってことで」

 

「あんまりおかしなこと言うと裸に引ん剝くよ?」

 

「すみませんでした」

 

「よろしい。じゃあもう一回最初から。まだあたし、エーちゃんの提案受け入れてないから」

 

「あの。俺はどうすればよろしのでしょうか?」

 

「ドウゾノさんにもこんな雑に提案したのかよ」

 

「いや、まぁ……」

 

「あたし。知ってんだからね?」

 

「?」

 

「エーちゃんがドウゾノさんに愛を囁いたの」

 

「……は?」

 

「ほら、これ証拠!」

 

 暗闇の中から、スマホの光が浮かび上がる。スマホの画面には、コツツミさんとウチハのやり取りが記録されていた。そこには、〝俺にはウチハが必要なんだ!! 〟といった一連のやり取りが、ウチハによって興奮気味に記されている。……ウチハのヤツ、どんな気の回し方してくれたんだ。

 

「えーと? つまり?」

 

「だーかーらー! あたしにも愛を囁いて!」

 

「ごめん。頭痛くなってきた」

 

「……やっぱあたしのこと、キライ?」

 

「だったら一緒に寝たりしないだろ」

 

「じゃあ、あたしのことも愛してよ」

 

「いや、そんないきなり言われ──────」

 

「ドウゾノさんのことは愛したのに、あたしのことは愛してくれないんだ」

 

 コツツミさんの拗ねた声。愛すとか、愛さないとか。俺にはその自覚が全くない。ウチハへの言葉は、俺の心の声を素直にウチハへ伝えただけだ。もしコツツミさんが、俺の心の声を聞きたいのなら。怖い、うるさい、しつこいで足りる。だが、コツツミさんはそんな言葉が欲しいわけではないのだろう。コツツミさんが欲しいのは、日向の植物にふさわしい言葉。強気で、キラキラしてて、刺激的な言葉だ。ウチハ……今回ばかりはお前を恨むぞ。

 

「チッ。面倒くせぇなぁ」

 

「!」

 

「ルミは俺に、そんなに愛を囁かれたいのか?」

 

「そう! ドウゾノさんにやったみたく、あたしのこともキュンキュンさせて!」

 

「嫌だね」

 

「あ゛!?」

 

「俺は嘘がつけないんだ」

 

「ふーん。じゃあエーちゃんの体に直接聞くね?」

 

 コツツミさんの手が、腰回りに伸びてきた。ここで引いたら喰われる。前だ、前へ出るんだ。コツツミさんに素早く覆い被さった。突然のコトに、コツツミさんの動揺が見てとれる。それはそうだろう。いままで及び腰だった相手が、いきなり攻勢に出たのだから。だがこの動揺は一時的なもの。早く次の手を打たないと。コツツミさんを見下ろす有利な位置につけたとはいえ。コツツミさんがその気になれば、こんな有利、簡単にひっくり返される。俺は意を決して、コツツミさんの耳元で囁く。なるべく、なるべく低い声で。いまの虚を突かれたコツツミさんに届きそうな、強気な言葉を囁いた。

 

「動くな」

 

「!?」

 

「ジッとしてろ」

 

「ん♡」

 

「甘い声が漏れてるぞ? さっきまでの勢いはどうした?」

 

「エーちゃんって、そんなキャラだったの?」

 

「動くなっつってんだろ。お前が生意気だから、こっちはイライラしてんだよ」

 

「んふふ♡」

 

「お前、俺の提案受けない気か?」

 

「だったらなに?」

 

「オマエに拒否権があると思ってんのか?」

 

「脅したって、エーちゃんの提案なんか受けないから」

 

 〝フン〟と鼻を鳴らして反抗するコツツミさん。だが態度とは裏腹に、荒い呼吸が聞こえてくる。コイツ、こっちは必死こいてコツツミさんを満足させようと無理をしてるのに。コイツはあろうことか、この状況を楽しんでやがる。俺が〝イライラしてる〟と伝えたはずなのに、コツツミさんには全く引き下がる様子がない。むしろ積極的にこちらを煽って、この状況をさらに悪化させようとさえしている。あーマジで腹立ってきた。だが俺に残された手札はもうない。これ以上過激化すると、本当に後戻りできなくなる。なんとか、澄んだ鏡の限界ギリギリで。コツツミさんを暴走させず、なおかつ満足させる。そんな都合のいい手はないのか? じっくり考えてる時間はない。俺の頭がかつてないほどフル回転する。同じ土俵で戦うのだけは絶対ダメだ。一点集中。局地戦。耳への集中攻撃しかない! 

 

「あまり生意気いうとなぁ」

 

「生意気いうと、どうなっちゃうの? ひぁ♡」

 

 俺は口の中に唾液を溜めると、その舌をコツツミさんの耳へと伸ばした。身をよじるコツツミさんを押さえつけ。耳の外側から内側へと、ゆっくりと攻めていく。そしてついには、耳の穴にまで舌をねじ込んだ。ビクンッと体を跳ねさせたコツツミさん。コツツミさんの息は、まるで獣のように荒々しい。

 

「ハッーハッーハッー?」

 

「ルミ。俺の言う通りにしろッ」

 

 その声はもはや懇願だった。これでもう折れてくれ。これ以上ハードルを高くしないでくれという悲痛な叫びだった。ここから先はもう付き合いきれない。だから、頼む。お願いだ。何でも良いから、この地獄みたいなチキンレースを終わらせてくれ。

 

「デヘヘ♡」

 

「おい、聞いてんのか!」

 

「あ? あぁ、うん」

 

「ハッキリしろ! 俺の言う通りにするのか、しないのかッ」

 

「へへ、エーちゃん必死だね。手、震えてっぞ?」

 

「ッ!」

 

「エーちゃんがあたしを満足させようと頑張ってたのは、ちょっと。いやかなり、そそった」

 

「……」

 

「うん、いいよ。あたし、エーちゃんの言う通りにする。エーちゃんのこと支えてあげる」

 

「はぁ。もう満足か? 俺は疲れた。もう寝──────「待って」……?」

 

「最後に一つだけ。エーちゃんにやってほしいことがあるんだけど」

 

「……なんだよ」

 

「大丈夫、安心して? そんなに激しいのじゃなから。すぐ終わるヤツ」

 

「……」

 

「ほら。ちゅ♡ちゅ♡ 」

 

 そう言い終わると、コツツミさんは両手を胸の前で組んだ。目を閉じて、唇をすぼめ。何かを期待して待っている。俺からキスしろってか。勘弁してくれ。こっちはもうヘロヘロの限界だってのに。だがコツツミさんはこれで最後と言った。ここさえ乗り越えれば、俺の目的は達せられる。ここでやめれば、今までの苦労が水の泡だ。俺はしぶしぶと、コツツミさんと唇を重ねた。

 

「んん♡初めてにしては、上手じゃん?」

 

「……寝る」

 

「待て」

 

「最後じゃないのかよぉ」

 

「なんなの? それ」

 

「はぁ?」

 

「あたしと初キスしたってのに、なんでそんな反応薄いの?」

 

「……」

 

「エーちゃんもしかして、初めてじゃない?」

 

「いや……」

 

 コツツミさんにキスが初めてじゃないことを指摘されて、心臓がドキンと跳ねた。部屋は暗くて、お互いの顔はよく見えていないはずなのに。どうしてコツツミさんはこんなに鋭いんだ。言葉に詰まって、コツツミさんにますます怪しまれる。

 

「ツキノキ? 絶対ツキノキだ。なんかおかしいと思ってたら、やっぱりお前ら出来てたのかよ! なーにがハーレムだ、あたしのこと弄びやがって! もう、アッタマきた。あたしに隠してること全部吐くまで寝させないから!!」

 

「それは違う!」

 

「違くない!」

 

「相手はツキノキさんじゃない!」

 

「じゃあ他に誰がいんだよ!」

 

「……ウチハだ」

 

「ハァ!?」

 

「ウチハとキスした。丁度、学校を退学になった時」

 

「なんで?」

 

「ウチハが俺の退学に抗議しようとしたんだ。だけど、退学の流れはそう簡単に覆るようなものじゃない。覆る見込みのない退学に抗議して、これ以上ウチハに傷ついて欲しくなかった。傷ついて欲しくなくて、俺が卑怯な手を使って……おい、この手はなんだッ」

 

 話の途中。コツツミさんが俺の頭をベットに押しつけたかと思えば、次の瞬間には唇を奪われていた。離れようとコツツミさんの肩を押すも、俺の力ではビクともしない。そのままコツツミさんの気が済むまでキスはつづく。解放された時には、魂を引き抜かれた俺が転がっていた。

 

「これでエーちゃんと一番キスしたのはこのあたし」

 

 コツツミさんはペロリと唇を舐める。キスの回数でウチハと張り合うとか。ガキかよ、マジで。そんな心の声は、胸の奥底にしまい込んだ。コツツミさんもようやく大人しく横になり。〝おやすみ〟と小さく呟く。俺もなげやりに〝おやすみ〟と返し。コツツミさんから遠ざかるように寝返りを打とうとして、コツツミさんに腕を掴まれた。コツツミさんの両腕でしっかりと捕まった腕は、もはや自分ではどうすることもできない。かといってコツツミさんにお願いをして、これ以上話を長引かせたくもない。俺は虚無の境地で天井を見つめ、静かに目を閉じた。……数秒後。そこには、ドデカいイビキをかき鳴らすコツツミさんの隣で、白目を剥いている俺が居るのだった。

 

 

 

 翌朝。安眠をぶち壊された俺は当然のように目の下にクマを作った。反対に、コツツミさんはピンピン元気に起床していた。今日は終業式。朝食を作れと叩き起こされて、俺はゾンビのように料理して。コツツミさんが学校に行く頃には、俺は床に倒れ込んで寝ていた。昼頃に一度起き、もう一度寝ようかとベッドに倒れ込もうとしたその時。スマホに着信が入っていることに気づく。送り主はツキノキさん。一気に眠気が吹っ飛んで内容を確認。内容は、ツキノキさん主催でクリスマスパーティーをしようというもの。参加者は俺を含めた四人。ウチハやコツツミさんもすでに誘って了承を得ているらしく、残すは俺の返事だけらしい。二人っきりでないことにガッカリはしたが、ツキノキさんと一緒ならたとえ火の中水の中。喜び勇んで駆け参じますという旨を、ツキノキさんに送信した。

 

 約束の時間は夜。一眠りするかと今度こそベッドに倒れ込むと、スマホに着信。ツキノキさんからの返信かもしれない。眠気を振り払ってスマホに手を伸ばした。送り主は予想通りツキノキさん。内容は、俺がクリスマスパーティーに来ることの了承。次に、クリスマスパーティーの後に俺を自宅に招きたいというお誘い。そして最後は、俺の作ったニョッキが美味しかったよという報告だった。俺は寝不足特有の訳のわからない興奮で、〝ツキノキさん万歳! 〟と短く返信し、寝落ち。コツツミさんに叩き起こされた時には、もうすでに夕方になっていた。……やばい、いま何時だ! 約束の時間に遅れちゃうんじゃ!? 

 

「これに着替えて支度して。ほら、早く!」

 

「これは?」

 

「エーちゃんの服。このためにわざわざエーちゃんの家にまで取りに行ったんだからね?」

 

「あ、ありがとう?」

 

「礼は後! ほら、早くする!」

 

「わ、わかったから。ちょっと待て」

 

 コツツミさんから渡された紙袋。そこに入っていた衣服に着替える。コツツミさんは当然のように部屋を出ない。部屋を出ないどころか、ジーッとこちらを観察さえしている。若干の恥ずかしさを覚えながら着替えと身支度を終えると、コツツミさんが何かを押し付けてきた。

 

「ん」

 

「? なにこれ?」

 

「ちゃんと渡したから」

 

「おい! なんだよこれ!?」

 

 コツツミさんはなにも答えずに、さっさと外に出てしまう。俺は仕方なく、コツツミさんから渡された何かをポケットに突っ込んで、コツツミさんの後を追う。すぐにエレベーターを待つコツツミさんに追い付いた。ポケットのモノがなんなのか聞こうとしたが、すぐにやめた。いま聞いて答えを得られるのなら、さっき聞いた時に答えてくれているはずだ。どうやら自力で答えにたどり着くしかないらしい。エレベーターに乗って、ポッケの何かを観察した。手の平サイズの長方形。全体色はピンク。ゼロから五までの六段階の目盛りの横には、スライド式のスイッチがある。底部には充電端末のようなものも確認できた。指定した数字で遠隔操作できると言うことか? いま現在の数値はゼロ。常識的に考えれば、ゼロが静止状態ということになる。ふーむ。……ますますわからん。

 

「気になるんだったらイジッてみれば? 何かわかるかもよ?」

 

「いや、止めておく」

 

「なんで?」

 

「怖いから」

 

「興味ないの?」

 

「ない」

 

「本当に?」

 

「ない」

 

「あっそ……」

 

 コツツミさんは残念そうに腕を組んだ。質問に答えなかったコツツミさんが白々しく勧めてくるモノ。普通に考えて、触りたいと思う方が異常だろ。これがなんなのか知りたいという好奇心よりも、これでどんな恐ろしいことが起こるのだろうという恐怖心が余裕で勝った。なんだったら、このままコツツミさんに突き返してしまいたいくらいだ。わずかな期待を込めてコツツミさんに返そうとするが、当然のようにコツツミさんに無視されて。行き場を失ったピンクのスイッチは、もとのポケットに収まった。

 

 電車に乗り、改札を出て、しばらく歩く。外もすっかり暗くなった頃。ようやく、ツキノキさんとの約束の場所についた。約束の場所にはすでに、ウチハとツキノキさんが居た。二人は何やら楽しそうに喋っている。ここからでは、その内容まではわからない。

 

「お待たせしました」

 

「あぁ、メツギさん。コツツミさんも。丁度私たちもいま来たところだ。全員揃ったね。それじゃあ、行こうか」

 

 ツキノキさんは軽く時間を確認したあと、特に説明もないままに歩き出す。俺は周囲の安全を確認した後、先頭のツキノキさんの横についた。

 

「ツキノキさん」

 

「? どうかしたのかい?」

 

「コツツミさんに何か吹き込みましたか?」

 

「吹き込む、というのは少し違うね。せめて提案、と言ってほしいかな?」

 

「何なんですかこれ」

 

「メツギさんの不利益にはならないもの、とだけ。安心してほしい。誰かを傷つけたり不幸にする代物ではないよ」

 

「ツキノキさんが提案して、コツツミさんが提案を呑んだ。その結果が、いま俺の手の中にあると?」

 

「そういうことになるね」

 

「ツキノキさんを疑う訳じゃないですけど。なんだかこのスイッチからは、イヤな感覚がしてなりません」

 

「使う使わないはメツギさんの自由だ。ただ、なにかもわからずに使わないと判断を下すには、いささか速すぎやしないかい?」

 

「まぁ、確かに。ツキノキさんの言い分もがわからないことはありませんが」

 

「所詮は私のワガママだ。メツギさんを不快にさせてしまったのなら謝ろう」

 

「あ、いえ。そこまで責めているわけでは……」

 

 ツキノキさんのワガママであることを推されたら、これ以上の追求は出来なくなってしまった。コツツミさんは信用できない。これはハッキリとしている。だが、ツキノキさんが間にはいるのなら話しは別だ。ツキノキさんは優しい人だ。ツキノキさんの言った、誰かを傷つけたり不幸にする代物ではないのは本当のことだろう。なら、一度試すこと自体に問題はない。一度使いさえすれば、これがなんなのかがわかる。これがなんなのかを知った後に、そのまま使いつづけるのか、それとも手放すのかを決めれば良い話。それに、もし万が一使い方を間違えたとしても、ツキノキさんがいる。ツキノキさんが居れば、どんな問題が起きても適切に対処してくれるはずだ。

 

 横を確認。綺麗なツキノキさんの横顔。後ろを確認。談笑してるウチハとコツツミさん。一瞬、コツツミさんの目が俺を見た気がした。ゼロから一へ、ピンクのスイッチを入れた。横を確認。変わらず綺麗なツキノキさんの横顔。後ろを確認。盛り上がってるウチハとコツツミさん。一から二へ。横を見る。変化なし。後ろを見る。変化なし。そうやって、二から三へスイッチを切り替えようとした時。手が滑った。勢い余って、二から四へスイッチが切り替わる。

 

「はんッ♡!!」

 

 背後からだ。驚いて振り返る。そこには、腰が抜けて座り込んだコツツミさんの姿があった。ウチハは突然のことにオロオロしている。俺は思わず駆け寄って、コツツミさんを心配した。〝だ、大丈夫か? 〟と声を掛けると、コツツミさんが勢いよく俺の服の袖を掴んだ。そのまま引き千切るんじゃないかという力で引っ張られて一瞬ヒヤッとしたが、なんとかその場に踏み止まる。コツツミさんが顔を上げると、喜びとも怒りとも両方受け取れるような絶妙な顔をしていた。なおも俺の袖を掴む手は固く結ばれ、体はプルプルと震えている。その仕草は、まるで何かに耐えているようで……? 

 

「スイッチを切るんだ。メツギさん」

 

「え? あ、はい」

 

 ツキノキさんの言う通りに、手元のスイッチを切った。俺の袖を引くコツツミさんの力が弱まる。もう疑う余地はない。このスイッチとコツツミさんは連動している。問題はこのスイッチによって、コツツミさんに何が起こっているかだ。くすんだ鏡が座り込むだなんて、生半可な刺激ではない。いや、待て。このピンクのスイッチ。どこかで見覚えがないか? 既視感を頼りに記憶を辿る。あれは、そう。コツツミさんのお姉さんと食事した大都会。あっちこっちに引っ張りまわされ、最後に立ち寄った雑居ビル。アニメやらゲームやら。コツツミさんにからかわれた、ツキノキさん似のDVDがあった棚のさらに奥。その時は恥ずかしくてすぐに目を逸らしたが。大人のおもちゃコーナーとやらの中に、確かこれと似たピンクのスイッチがガガガガ……!! 

 

「気分はどうかな? コツツミさん?」

 

「え、エーちゃんがこんな激しいヤツだとは思わなかった」

 

「それにしては随分と嬉しそうに見えるが?」

 

「嬉し、そう? あたしが?」

 

「どう思う? ドウゾノさん」

 

「えっと、はい。ボクもコツツミさんが喜んでいるように見えます。それと、ボクはコツツミさんが羨ましいです。あんな風に、エイタに好き勝手されるなんて」

 

「ふーむ。残念だが本来の目的から外れてしまうね。それにスイッチが増えると、管理する側のメツギさんが大変だ」

 

「キミさんはどうですか? エイタに好き勝手されるのは」

 

「考えなかったわけではないよ。ただ、メツギさんに私のスイッチを渡しても、メツギさんは使ってくれないのではないかな?」

 

「あ、そっか。エイタがキミさんを大事にしすぎて、スイッチを全然使ってくれないかもってことですよね? なんだか嬉しいような、悲しいような」

 

「おい! それだとスイッチ使われてるあたしが、大事にされてねぇってことじゃんかよ!?」

 

 ワーワーと話し合う三人を目の前にして、俺は卒倒しかけている。なんで三人は大人のおもちゃの話を平然としているんだ。なんでその大人のおもちゃのスイッチを俺が預かることになってるんだ。俺の感覚がおかしいのか? 四人の中で、俺だけが異常なのか? ツキノキさんが提案して、コツツミさんがそれを受け入れ装着して、俺がそのスイッチを握ることが正常だとでも言うのか? ウゴゴと一人頭を抱えていると、肩に手を置かれる。

 

「メツギさん、行こうか。話のつづきはお店についてからだ」

 

「……はい」

 

 ツキノキさんに差し出された手を思わず取った。後ろから〝イチャイチャするな! 〟なんてギャンギャン吠える声と、それをなだめようとする声が聞こえる。ツキノキさん。せめてツキノキさんだけでも、正気を取り戻してほしいです。ツキノキさんまでアッチ側に行ってしまったら、俺は一体誰を信じれば良いんですか? 

 

「ついた。ここだ」

 

「焼肉屋、ですか?」

 

「そうだ。なんだかお肉が食べたい気分でね。一人で焼肉というのも寂しい。せっかく四人の意志がまとまりそうなんだ。冬のボーナスも入ったことだし、パッと使ってしまおう」

 

「全品制覇してやる」

 

「食べ放題だからと言って、あまり無茶はしないでもらえると助かる」

 

「わースゴイ! デザートたくさんー!」

 

「ドウゾノさんも、たくさん食べなさい。もちろん、メツギさんも」

 

「え。あぁ、はい」

 

 お店に入り、予約してあったという席の前へ。誰が誰のとなりに座るかで若干揉めたが。俺は無事、ツキノキさんの隣に座ることができた。ウチハが気を利かせて、コツツミさんを押さえ込んでくれて助かった。……コツツミさんに、俺とのやり取りを漏らした件は、これで許してやることにしよう。簡単な食べ放題の説明を受けた後、俺達四人のクリスマスパーティーは始まった。

 

「取り敢えず飲み物頼んで。それから全メニュー制覇していくから」

 

「結構たくさんメニューあるよ? ボク達で食べきれるかなぁ?」

 

「ダイジョブ、ダイジョブ。余裕でしょ」

 

「おい。一度にバカみたいに頼むなよ」

 

「あ? 食べ放題で飛ばさないバカがどこにいるんだよ」

 

「いや、俺が言ってるのは常識の範囲内でって話なんだが」

 

「メツギさん」

 

「? はい? なんでしょう」

 

「そういう時にスイッチを使うんだ」

 

「……あの。ツキノキさんはこの方法を真剣に正しいと考えているんですか?」

 

「方向性は間違っていないのでは。と、私は考えている」

 

「いえ、理屈はわかります。わかりますよ? ツキノキさんがやろうとしていることは理解できますけど……」

 

 ツキノキさんがしようとしていること。それは、澄んだ鏡とくすんだ鏡間でのコミュニケーションだ。肉体言語、というべきか。この場合は、澄んだ鏡が一方的にくすんだ鏡の体に訴えかけることになるが。ツキノキさんは、くすんだ鏡の体に直接訴えかけるコミュニケーションを目論んでいる。……ただ問題なのは、肉体コミュニケーションに大人のおもちゃを使用していることと、先が見えないことだろう。個人的な空間ならまだしも。いや、個人的空間でも好き好んで使いたくはないが。公衆の面前で大人のおもちゃを起動するなんて、絶対何かしらの法律に触れるだろ。それに、もしコツツミさんがこの大人のおもちゃで満足できなくなってしまったらどうするつもりなのか。さらに強力なおもちゃでも使うのか? くすんだ鏡と澄んだ鏡のズレを調整しつづける。そんなチマチマと面倒なことに、くすんだ鏡が付き合いつづけてくれるだろうか? 澄んだ鏡側が調整を間違えて、暴走しないとも限らない。くすんだ鏡が満足できなくなれば最後。ツキノキさんの思い描く、澄んだ鏡とくすんだ鏡のコミュニケーションは成立しなくなる。法律的にも、常識的にも、気持ち的にも、効果的にも。疑問は溢れて止まらない。

 

「無論、この方法にこだわるつもりはないよ。他にも良い方法があれば、積極的に試していきたい」

 

「楽観的、なんですね」

 

「でなければ、四人で幸せになんて発想にはならないさ」

 

「それは、そうですけど」

 

「それにね。私は案外、このまま上手くいってしまうかもとも考えているんだ」

 

「……え?」

 

「この提案の大事なところは、澄んだ鏡であるメツギさんがスイッチを握ることにある。極力無駄な使用は避け、使うべき時にスイッチを入れる。メツギさんなら、この微妙な匙加減が出来るのではと私は睨んでいるんだ」

 

「重いです。期待が」

 

「ふふ。私はワガママな女なんだ。私と付き合いたいのなら、それ相応の覚悟をしてもらうよ?」

 

「本当に。ツキノキさんは、ズルい人です……」

 

「デヘヘ〜♡キミさんとマジメな話してるエイタカッコいい♡」

 

「バカか? こいつらバイブを使うか使わないかを話し合ってんだぞ?」

 

 しばらくすると、テーブルにドリンクと肉と野菜が運ばれてきた。するとコツツミさんがいきなり、肉の皿全部を網に放り込んで。肉から滴った油が高温になって、炎が上がる。〝ゲハハ〟と悪魔のように笑うコツツミさんを黙らせるため、思わずピンクのスイッチを入れているその隙に。ツキノキさんが炎を鎮火し、店員さんに謝罪するというハプニングがありながらも。俺達四人は、楽しい時間を過ごすのだった。デザートも堪能して、みんなのお腹も膨れた頃。俺達はツキノキさんにお礼を言って、店の前で待っていた。

 

「それじゃあこれでお開きにしようか」

 

「んじゃ帰るかー。エーちゃんはあたしを家まで送れなー」

 

「は?」

 

「あ?」

 

「ルミなら男の一人や二人ねじ伏せられるだろ?」

 

「いまここでお前をねじ伏せてやろうか?」

 

「なんでそうなるんだよ」

 

「メツギさん、コツツミさんを送ってあげなさい。ドウゾノさんは私が責任を持って送ろう」

 

「ウチハを送った後、ツキノキさんはどうするつもりなんですか? 俺はウチハを送った後のツキノキさんの方が心配です」

 

「おい! あたしは心配じゃないのかよ!」

 

 コツツミさんが俺に掴み掛かってくる。俺は迷うことなく、ポケットのスイッチを起動した。直後、情けない声を漏らしてコツツミさんは崩れ落ちて。……このスイッチ、コツツミさん特効でヤバイな。深く考えずにスイッチを入れてしまいたくなるような、そんな万能感がある。イカンイカン、俺は一体何を考えているんだ。このスイッチは、コツツミさんが大人のおもちゃを装着して初めて成立する。つまり、俺はコツツミさんを操っているようで、実際はコツツミさんに操られているわけだ。このスイッチは、もっと慎重に扱うべきものなのだろう。

 

「心配せずとも問題はない。メツギさんが帰ってくるまで、ドウゾノさんの家でお世話になるつもりだ。メツギさんのご両親と、軽く顔合わせもしておきたいからね」

 

「え?」

 

「さぁ、行こうかドウゾノさん」

 

「はい、キミさん!」

 

「あたし達もいくよー」

 

「あ、あぁ」

 

「メツギさん、また後で」

 

 

 胸の前で手を振るツキノキさん。なんて高貴で優雅なお姿なんだ。俺は首をしきりに上下させて頷いて。案の定、コツツミさんに後ろからド突かれた。くすんだ鏡は加減と言うものを知らないので、普通に痛い。

 

「ケッ。ツキノキに鼻の下伸ばしてデレデレしちゃってさぁー」

 

「仕方ないだろ。隠せないんだから」

 

「それが余計ムカつくんだよ」

 

「……」

 

「それで? エーちゃんはあたしを送った後、今度はツキノキのことも送る気?」

 

「まあ、そうなるな」

 

「乙女ぶりやがって。ツキノキだって仕事遅くなって夜道一人で歩くことくらいあるだろ。いいの? エーちゃん。アイツにコキ使われてるんだよ?」

 

「この程度ワガママなら、可愛いモノだよ。ルミのワガママと違って」

 

「ウガ────!!」

 

 掴みかかろうとしてきたところに。こちらから〝手を繋ごう〟と持ちかけた。コツツミさんの怒りは一旦収まり、上手く怒りを反らせたと内心ホッとするのも一瞬。コツツミさんと繋いだ手に、とんでもない握力が加わる。ミシミシと軋む俺の手。押しても引いても抜け出せない。遂に我慢出来なくなった俺は、コツツミさんに平謝りを繰り返す。その態度に満足したのか、コツツミさんは手の力を抜いて。俺の肩に頭を預けた。恥ずかしいから離れろなんて、手を握り潰された後に言えるはずもなく。駅前に着く間、道ゆく人とすれ違うその度に、恥ずかしい思いをした。駅前に着いた。コツツミさんが俺から離れて距離を取る。

 

「ここでいいよ。駅降りたら家までそんな遠くないし。送ってくれてありがと」

 

「おう。それじゃあな」

 

「待て」

 

「……」

 

「エーちゃんはこの後、ツキノキの耳舐めたり、キスしたり。セックスしたりする気なの?」

 

「なんか誤解してるみたいだがな。俺はこの後、ツキノキさんに俺を支えてくれるようお願いしにいくだけだ」

 

「でもあたしの時は耳舐めたり、キスしたりしてたじゃん」

 

「好き好んでやった訳じゃない。俺の提案を受け入れて貰うのに、必要だからやったことだ」

 

「へー。エーちゃんは必要だったら耳も舐めるし、キスもするし、セックスもしちゃうんだ」

 

「……」

 

「さっきの焼肉の時、エーちゃんニンニクとか避けてたよね。やっぱやる気満々じゃん」

 

「い、いや。これからツキノキさんと話し合う予定があるんだから、口臭くらい気にするだろ」

 

「デコ突き合わせてくっちゃべる気か? そういう言い訳が女々しいんだよ!」

 

「女々しいのは否定しない。だけど、言い訳をしたつもりは全くない」

 

「ほーへーふーん」

 

「早く行けよ」

 

「エーちゃんにされたことはあたし達の間で共有することになってるから。そのつもりでね?」

 

「おい、ちょっと待て。その話詳しく聞かせろ」

 

「やーなこったー」

 

 コツツミさんは俺に向かって舌をベロベロさせた後、駅の改札に消えていった。俺がしたことを共有ってなんだ。そんなの初耳だぞ。それはつまり、ウチハやコツツミさんにしたことがツキノキさんに全部把握されてるってことか? ウッゴゴゴォ──────。なんだよそれ、イヤすぎるんだが。コツツミさんにやったこととか、ウチハやツキノキさんからすれば猛毒そのものだろ。いや、そこはあのツキノキさんだ。しっかり対策をしてくれているはず。対策してくれているよな? 何だか不安になってきた。それにしたって、一対一の真剣なやり取りだと考えていた俺からしたら。身内とはいえ、やり取りが筒抜けにされているのはなんだか裏切られたようなイヤな気分だ。コツツミさんの悪ふざけ? 俺達の分断工作というのも考えられる。しかし実際、ウチハが俺とのやり取りをコツツミさんと共有してるからなぁ……。

 

 ボヤボヤ、ウダウダ。そんなことはいま考えている場合じゃない。何故なら、ツキノキさんは俺が帰ってくるのを待ってるからだ。小走りでツキノキさんの元へ向かう。食べ放題の焼肉がまだ腹に溜まっているのか、家に着く頃には横っ腹が痛くなっていた。ツキノキさんはどっちにいる? 明かりのついている俺の家か、最低限の灯りがついたウチハの家。確かツキノキさんは、俺の両親に挨拶すると言っていたな。コツツミさんとは駅前で別れたから、そこまで時間は経っていない。ここはまだ両親への挨拶が終わってないとみて、俺の家から見てみよう。玄関を開けると、ツキノキさんの靴がある。リビングの方は、何やら盛り上がっているようだ。

 

「あ、エイタお帰りー」

 

「あんたツキノキさん家まで送ってくんでしょ? はいこれ」

 

「? なにこれ?」

 

「コンドーム」

 

 怒りに任せて床に叩きつける音がリビングに響き渡る。

 

「もー。あんたツキノキさんのことが好きなんでしょ? だったらツキノキさんに男にしてもらいなさいよ」

 

「本ッ当にごめんなさいツキノキさん! 母は世紀の恥知らずなんですぅ……」

 

「何恥ずかしがってんのよ。こんな大人の女性の気持ちを無視しつづけてるあんたの方が恥知らずよ」

 

「お母様、メツギさんもメツギさんなりに私を気遣ってくれているんです。そう責めてあげないでください。メツギさんも、実の母親をそんな風に言うものではないよ」

 

「ここで起きたことは全部忘れて下さいぃ。初対面でウチハもいるからブレーキを踏んでくれると信頼した俺がバカでしたぁ」

 

 熱くなった顔を覆って、恥ずかしさに震えた。あぁ、わかってた。わかってたさ。自分を変えることが出来ないように、人もまた変えることなど出来ないんだってことを。この短時間で、母とツキノキさんは急激に距離を縮めたらしい。それはツキノキさんの魅力なのか、母親の空気の読めなさか。あるいは、その両方。ツキノキさんと母親がお互いに近づいたのかもしれない。詳しいことまでは俺もわからない。ただ、だとしても。だとしても抑えろよ。ツキノキさんとのことを頑なに隠しつづけていた俺にも責任はあるけどさ。けど、ツキノキさんは俺を導いてくれた恩人なんだぞ。いや恩人じゃなかったとしても、初対面なら自重しろよ。

 

「それでは、夜分遅くに失礼しました」

 

「いいえー。キミさんならいつでも大歓迎ですよぉー。今度来るときはお嫁さんだったりしてね? ナハハハハ!!」

 

「いきましょうツキノキさん。俺はもうこの家に居るのが耐えられません」

 

「あんたちゃんとキミさん家まで送ってあげるのよ? あ、今日はもう帰って来なくていいからねぇ〜」

 

 家の玄関を勢いよく閉めた。マジで本当にこの家に帰ってきたくないんだが。理由はもちろん、ツキノキさんと一緒に居たいからじゃなくて。母親と一緒に居たくないからだ。悪態が、舌打ちになって口から出た。

 

「チッ。くすんだ鏡め」

 

「メツギさん」

 

「? はい、なんでしょう」

 

「口が悪い」

 

「……ごめんなさい」

 

「お母様も決して悪気があるわけではないんだ。どうか理解してあげてほしい」

 

「悪気がないから余計にタチが悪いんですよ。むしろ悪気があってくれて方がよかったのに」

 

「メツギさんはもともと、口の悪い人ではなかったはずなんだがね?」

 

「コツツミさんとかいう口の悪い見本市に影響されてしまったのかもしれません」

 

「誰かの影響を受けることを否定しないさ。人が鏡であるのなら、誰かの影響を受けるのはもはや宿命ともいえる。大切なのは、それでもなお自分を見失わないことだと私は思う」

 

「澄んだ鏡に、難しいことを要求しますね」

 

「出来なければ、誰かの人生を歩むことになってしまう。丁度、私がスネヤ先生に囚われていたようにね」

 

「……」

 

「さあ、行こう。帰りが遅くなってしまう」

 

 あれだけ母さんが大暴れしていたのに、ツキノキさんは冷静そのもの。俺は右往左往して、慌てることしかできなかったが。やっぱりツキノキさんは大人で、人格者なのだと改めて思い知った。今さら、俺を支えてくれと逆提案することを取り下げるつもりはないが。俺は果たして、ツキノキさんの期待に応えることができるのだろうかと心配になった。身をすくめたくなる夜道を、二人は無言で歩いて行く。空には、綺麗な満月が輝いていた。

 

 

 

 ツキノキさんのアパートに着いた。約束通り、ツキノキさんは俺を部屋に招き入れる。甘い焼き菓子みたいな匂い。この匂いを嗅ぐと、なんだか眠くなってきてしまう。昨日は眠れなかったからな。ツキノキさんの前で、つい気持ちが緩んでしまっているのかもしれない。いかんいかん、気持ちを引き締めなければ。ツキノキさんが俺に、話したいことがあるのだから。

 

「それで、ツキノキさん。俺を部屋に招いた理由ってなんでしょうか?」

 

「すまない。私はメツギさんに嘘をついた」

 

「?」

 

「メツギさんを部屋に招いた理由はないんだ。いや正確には、部屋に招いたそれ自体が理由というべきかもしれないね」

 

「えっと、つまり?」

 

「メツギさんと、こうしてゆっくりお喋りしたかったんだ。……イヤかな?」

 

「そんな! いえ、嬉しいです。俺もツキノキさんにお話ししたいことがあったので、丁度よかった」

 

「なんだろう。聞かせてくれるかい?」

 

「ごめんさない。俺はツキノキさんの、みんなで幸せになるというワガママに乗る気はありません」

 

「……」

 

「代わりに、俺からワガママな提案をさせて下さい。……愛してます、ツキノキさん。俺と一緒に、不幸になってください」

 

 真っ直ぐと、ツキノキさんの目を見つめた。俺はツキノキさんのことが好きなのか、それとも愛しているのかをずっと考えていた。ツキノキさんの〝みんなで幸せになる〟という提案は、まさしく貪欲だ。俺がツキノキさんの提案をそのまま受け入れていたのなら、それは紛れもなく"好き"だったのだろう。だけど、俺はそうはしなかった。むしろ、逆に提案することによって自分の立場を下げようとすらした。ツキノキさんが俺を支えると〝度胸〟を示し、ウチハやコツツミさんも損を承知で賛同してくれたように。俺もきっと、三人の度胸に応えたくなってしまったんだ。俺はツキノキさん、ウチハ、コツツミさんの三人を。ちゃんと正面から愛してあげたかったんだ。ツキノキさんが顔を赤らめ、うつむいて。口元を手で隠していた。

 

「つ、ツキノキさん?」

 

「すまない。……気持ちが落ち着くまで、少し待ってほしい」

 

「俺の告白、ヘンでしたか? ヘンでしたよね。すみませんでした」

 

「いや、違うんだ……あまりにもメツギさんらしい告白で、つい」

 

 上擦った声のツキノキさん。ふと、上品に笑うツキノキさんの手の隙間から。チラリと鋭利に尖った犬歯が見えた。普段の優しいツキノキさんの印象とは真逆の、食べ物を噛み切る暴力的な部分を目撃して。思わず胸が高鳴る。……これが、ギャップ萌えというヤツなのか? ツキノキさんの隠れた魅力を発見して、思わずその場にうずくまる。ツキノキさんの上品な笑顔も魅力的だが。ふと覗いた犬歯がこんなにエッチだったなんて。な、なんて破壊力なんだ。

 

「め、メツギさん? 大丈夫かい?」

 

「大丈夫じゃありません。ツキノキさんの犬歯にドキドキしてしまいました」

 

「? 犬歯に?」

 

「ええ、はい。犬歯に」

 

「ふ、ふふ。……おかしなメツギさん」

 

 しばらくして、ようやく互いに落ち着きを取り戻す。すると今度は、俺は違う意味で落ち着けなくなった。ツキノキさんに、告白の返事をまだ貰っていない。提案者のツキノキさんがちゃぶ台を返すなんてことはしないとは思うが。それでも、ちゃんと言葉にしてくれるまで、ツキノキさんの好意を信じ切れない自分がいることに気がついた。ツキノキさんのことを知れば知るほど、どうしたって俺とは釣り合いが取れない。ウチハやコツツミさんの時も感じなかった訳ではないが。ツキノキさんのそれは別格の重さなのだ。そんな気配を察してくれたのか、ツキノキさんが優しげに告げる。

 

「そうだったね。まだメツギさんからの告白の返事をしていなかったね」

 

「……」

 

「では改めて。メツギさん」

 

「は、はい。なんでしょう」

 

「もちろんだとも。私も愛しているよ、メツギさん」

 

「は、はは。嬉しいです。俺の意図を汲んでくれたこととか、ツキノキさんに受け入れて貰えたこととか。とにかく、嬉しいです」

 

 ようやく肩の荷が下りた気がした。だが、これで終わったわけじゃない。今度は四人で幸せを目指すという荷物を背負うことになるのだから。そして、その荷を下ろすことが出来るのは。ずっとずっと、先のことになりそうだ。その長い旅路に四人で立ち向かえる心強さと、一人の時とはまた違う怖さがあった。俺が三人の足を引っ張って、幸せを台無しにしてしまうことが怖かった。

 

「……不安かい?」

 

「えぇ、まぁ。そりゃあ」

 

「いまはそれでも良い。みんなで、少しずつ。良くしていこう」

 

「はい」

 

 最初にツキノキさんからハーレムを提案されたときは、あり得ないと拒否反応を示していたが。みんなと少しずつ話す内に、結局取り込まれてしまったな。ツキノキさんは、なにもかも織り込み済みだったのだろう。俺がたどり着いた賢さ。〝誰かに認められたい〟という願いは、〝みんなと幸せになる〟という提案と共存できる。ウチハもコツツミさんも、無論ツキノキさんも。きっと〝みんなで幸せになる〟という提案に、それぞれの賢さが重なったのだろう。……なんだよ。結局、最初から最後まで、ツキノキさんの手の平の上か。

 

「本当に、ツキノキさんは恐ろしい人ですね」

 

「ん?」

 

「ツキノキさんがいるなら、何とかなるんじゃないかって気がしてきました。あんまり長居されるのも迷惑ですよね。帰ります。お茶、ごちそうさまでした」

 

「……何もしていかないのかい?」

 

「はい?」

 

「せっかく私のことを口説き落としたんだ。それとも、私には魅力がないのかな?」

 

「いえ! そんな、とんでもない。ツキノキさんほど素敵な女性は他にいません」

 

「ふふ。なら、私のワガママにも応えてくれるかい?」

 

「俺ができることならなんでも」

 

「それじゃあ。メツギさんのワガママを聞きたい、なんてワガママはどうかな?」

 

「え? お、俺の?」

 

「メツギさんが私を大事にしてくれていることはわかっている。けれど、なんだかメツギさんとは距離があるような気がするんだ。私から距離を詰めるのが難しいと言うことはわかった。なら、今度はメツギさんから私との距離を縮めて欲しいんだ。……どうだろう」

 

「えっと、俺がツキノキさんとの距離を縮めるというのは別に良いんですけど」

 

「? なにかな?」

 

「俺の勘違いだったらすみません。……ウチハやコツツミさんと、なにかやり取りとかしましたか?」

 

「そうだね。カッコいいメツギさんについて、少々」

 

 あ、これ全部筒抜けのやつだ。ウチハとのやり取りがツキノキさんにまで漏れている。それどころか、コツツミさんとの昨日のやり取りも把握されている。まさかあのツキノキさんが、ウチハやコツツミさんから悪影響を受けてしまうなんて。ウチハとコツツミさんに、ちゃんと釘を刺しておくべきだった……。

 

「あぁ、すまない。個人的なやり取りを許可もなく共有するべきではなかったね。そこは、いや。理解はしていたんだ。理解をしておきながら、私は好奇心に勝てなかった」

 

「こ、好奇心?」

 

「メツギさんのことを、その。知りたいという気持ちに」

 

「……」

 

 

 

 ツキノキさんは大切な人だ。だがその大切さによって俺が距離を置いていたのなら、反省点は俺にある。もちろん、個人的なやり取りを無断で共有されるのは間違っているが。それでも、俺の対応がツキノキさんを不安にさせてしまったのなら、俺はきちんと謝るべきで。

 

「すみませんでした。ツキノキさんが俺のことを知ろうとしてくれていたのに、遠ざけるようなことをしてしまって。俺も、知りたいです。ツキノキさんのこと、もっとたくさん」

 

「それなら、良い方法がある」

 

「それは、一体?」

 

「アイマスクだ。だが残念なことに、ここには一つしかない。そこでなんだが。私か、メツギさん。どちらがアイマスクをつけるか。メツギさんに決めて欲しい」

 

「……」

 

 これは、コツツミさんの時のように。視覚情報を断つことが目的なのだろう。コツツミさんの時と違う点は、どちらか片方は相手が見えず、もう片方は相手を見ることが出来るところだ。これは、つまり。どちらが主導権を握ってイチャイチャするか、俺に選ばせたい、と? ……。迷うな、これは。俺がアイマスクをつけるとどうだ? ツキノキさんにこの身を差し出し、好き放題してもらう。ツキノキさんとの間に距離を置いていた反省としては、悪くない方法だ。だが、絵面は非常に男らしくない。反対に、ツキノキさんにアイマスクを付けるのはどうだろう。この場合は、ツキノキさんと距離を縮めることに、俺は積極的にならなければならない。主導権を俺が握る分、期待されてしまう部分がある。絵面はこっちの方が男らしいが、同意を取っているとはいえなんだか少し犯罪臭いな。いや、もう決まった。というか、こっち以外考えられない。

 

「俺が付けます。アイマスク」

 

「わかった」

 

 差し出されたアイマスクを耳にかけた。大きめのタイプのようだ。隙間も埋まるようになっていて、光も全く入ってこない。完全な暗闇。ツキノキさんの部屋独特の安心感と合わさって、いますぐにでも眠れそうだ。俺の方の準備は終わった。ツキノキさんは、ここからどうやって俺との距離を縮める気なのだろう。そう疑問を浮かべたのも束の間。暗闇の先から、布の擦れるような音がする。なんだ? ツキノキさんは、一体何をしているんだ? その音が衣服を脱ぎ捨てている音だと気が付くのに、そう時間は掛からなかった。しばらくすると、衣服ではなかなか聞き慣れない、金具のような音まで聞こえてきた。え? は? ツキノキさん、なんか服脱ぐの長くないか? というかこの感じ、服じゃないヤツも一緒に外してないか? 俺の不安をよそに、ツキノキさんは全く喋らない。それがますます、イケナイコトをしているんじゃないかという妄想をかき立てる。いや、いや。ツキノキさんは、そんなはしたない人じゃない。第一、アイマスクで視界を塞いで要るとはいえ。俺が目の前にいるんだぞ? もしツキノキさんが本当になにもかも脱いでいるのだとしたら、いくらなんでも俺のことを信じすぎている。だって、俺の気まぐれ一つで、ツキノキさんはあられもない姿を晒すことになってしまうんだから。そんなの、痴女のコツツミさんと一緒じゃないか。そんなこと、ツキノキさんのような大人の女性がするはずがない。……するはずないよな? 俺の勘違いであってくれ!! 

 

 確証が持てない。ツキノキさんを疑っている自分が恥ずかしい。いまの俺には、アイマスク一つ外す勇気すらない。衣擦れ? の音が止んだと思えば、今度は足音が近づいてくる。その足音は目前で止まり、俺の両肩を抱いた。いま俺の目の前には、薄着になったツキノキさんと、産まれたままの姿のツキノキさんが両方同時に存在している。ツキノキさんの真意を確かめるため、〝あの! 〟と声を掛けようとするが、一歩遅かった。俺が声を発しようとするより早く、ツキノキさんに正面から抱きしめられたからだ。いままで抱きしめられてきたどんな時よりも強く、ツキノキさんの柔らかさと体温が伝わってくる。ツキノキさんが俺に体を密着させたことで、ツキノキさんのその細い体型がわかってしまうほどに。……間違いない。いまのツキノキさんは、全裸か全裸に近い格好をしている! ツキノキさんの裸体が頭に浮かんでしまう。腰が引けた。ツキノキさんに劣情を悟られたくなかった。だがその動きを、ツキノキさんは許してくれない。俺の腰に手を回し、引き寄せられる。

 

「ツキノキさん!?」

 

「ん? なんだい?」

 

「こ、これはまずいですって!」

 

「ふむ。私はそうは思わないが」

 

「あの。擦れますから、動かないで!?」

 

 逃げようとすればするほど、ツキノキさんは体を寄せて密着してくる。こんなことを繰り返していると下半身が暴発しかねなかったので、大人しくツキノキさんに抱かれることに。ただ、俺の下半身は静まる気配を見せず。丁度ツキノキさんの下半身で、元気に主張しているのだった。流石にツキノキさんも気付いたのだろう。俺とツキノキさんの間に、長い沈黙が流れる。

 

「メツギさん? これは、その」

 

「言わないでください。俺には、どうすることも」

 

「いや、違うんだ。こんなことをしておいて反応されないのは、むしろ私の魅力がないのかと落ち込んでしまう」

 

「……」

 

「だから、そう。私はとっても嬉しんだ。メツギさんの体が反応してくれたことが嬉しいし、メツギさんに気遣われたことも嬉しい」

 

 俺の手が、置き場所を見失って空中に浮かんだ。あまりの緊張に身体が固まる、こんな時はどうするのが正解かわからなくなって、頭が真っ白になる。俺の腰に回されていた片方の手が、俺の頭をなで始めた。

 

「しばらく、この浮ついたままの気持ちで居させて欲しい」

 

「……」

 

 ツキノキさんが望むのなら仕方がない。というか俺はこの場を一歩も動けないので、ツキノキさんの言葉に従う他なかった。恐る恐る、ツキノキさんに触れる。ツキノキさんの柔肌は驚くほどスベスベしていて、信じられないくらいに温かかった。そのまま腰に手を回すと、不思議なことが起こる。なんだか、俺まで服を脱ぎ捨てたい衝動が湧き上がってきた。ツキノキさんと抱き合って興奮して、というわけではない。むしろその逆で、もっと深い安心を求めてといった表現の方が近い。気がつくと俺は、すっかり全身を脱力させて。長い時間ツキノキさんと正面から抱き合っていた。一体どれくらいそうしていただろう。呼吸や息づかいまでも溶け合って一つに繋がっていたものが、ある瞬間パンッと弾ける。俺とツキノキさんは、ごく自然に互いの抱き止めていた手を緩めた。心が繋がっていたような不思議な感覚だった。この感情を一言で表すとするのなら……そう、満足。身体中が、溢れ出る充足感で満ち満ちている。それは、ツキノキさんも同様だろう。視界こそアイマスクで見えないが。なぜか強い確信が持てた。ツキノキさんの離れる音がする。離れた先で、衣擦れの音がする。音が完全に止むのを待って。俺は声を掛けた。

 

「ツキノキさん?」

 

「ん?」

 

「もう良いですか?」

 

「ふふ。あぁ、もう良いよ」

 

 アイマスクを外す。そこには、装いを正す普段通りのツキノキさんがいた。だが、目に見えない部分が確実に変わっている。言葉らしい言葉は交わしていないはずなのに、二人の間の壁はなくなり。心の距離は確実に縮まった。……もしも。もしも仮に、このままの生活が続いたとして。互いに体を重ねる踏ん切りがついたのだとしたら。初めてはツキノキさんに、優しく先導されたいものだ。

 

 

 

 ────── 一年後

 

 

 

 いつもの仕事終わり。ルミのマンションを飛び出して買い物へと向かう。向かうのは、良い肉が揃っていると評判の近所のスーパー。下見は前もって済ませてある。必要な物を買い込んで、買い忘れがないか確認して。レジを通せば、帰路を急いだ。

 

「またバカみたいに買い込んで」

 

「そりゃあな。なんてったって、クリスマスパーティだから」

 

「なら、わざわざ家でやることなくない? 店で食った方が、準備も片付けもしなくて済むし」

 

「肩身が狭いんだよ」

 

「?」

 

「店とか、他の客とか。周りの目が気になって、食事に集中できないんだ」

 

「わかんな。んなの気にしなければ良いじゃん」

 

「それができたらよかったんだけどな」

 

「エーちゃんと暮らしてもう一年以上だけど、未だにエーちゃんがよくわかんないわ」

 

「無理にわかろうとしなくていいよ。逆に、無理にわかろうとされると面倒だ」

 

「あ? 焼肉の前にお前を食ってやろうか?」

 

「ほら、そういうところが面倒なんだよ」

 

「アッタマ来た。約束前の予行演習だ。部屋こい」

 

「……なぁその約束って、本当に今日じゃなきゃダメか?」

 

「あったりまえじゃん! みんなで話し合って決めたことでしょ!?」

 

「……」

 

「何が不満なわけ?」

 

「あれは話し合ったって言うか。連携技で、ハメられたと言うか。ルミがゴリ押して、ウチハが説得して、ツキノキさんに絡めとられた」

 

「でもエーちゃんが同意したことには変わりないでしょ? だったら約束、守らないとね?」

 

「……」

 

「まいいや、どーせエーちゃんあたし達より立場低いんだし。んじゃ、準備できたら呼んでねー」

 

「はぁ……」

 

 準備の邪魔をしにきたコツツミさんは、それだけいうと部屋に引っ込んでしまった。確かに約束はした。というかさせられた。それでもやはり、俺の感覚では時期が早すぎるのではと思う。もうちょっとゆっくり、お互いを深いところまで理解してから慎重にすることであって。こんな軽率に、それもいっぺんにやる必要性は感じない。と言うか、初めてはツキノキさんがいい。ツキノキさんと二人きりで、手取り足取り、優しく教わりたかったのに。……まぁ、そんな勇気を振り絞った提案が原因で、ツキノキさんに裏切られてしまったわけだが。ここに来て、俺の立場の低さが仇となった。望んでいたこととはいえ、せめてツキノキさんに逆提案する時に襲いかかっていれば……。あの時の俺に、そんな度胸なんてないか。インターフォンが鳴った。俺は作業を中断して画面の前に出る。ツキノキさんだ。迷わずオートロックを開ける。少しすると、玄関にツキノキさんがやってきた。

 

「久し振りだね、メツギさん。今日はお招きいただき感謝する」

 

「ツキノキさん、お久し振りです。どうぞ上がってください。まだウチハも来てなくて、準備も終わってないんです。どうか座って待っていてください」

 

「手伝おう。何をすれば良い?」

 

「それじゃあ。俺が野菜を切って皿に盛り付けるので、その皿をテーブルに運んでください」

 

「わかった」

 

 コツツミさんに絡まれて準備に手間取っていたが。ツキノキさんが手伝ってくれるのなら、その遅れも取り戻せそうだ。ツキノキさんの協力もあって、ウチハがインターフォンを鳴らす頃には、焼肉の準備を終えることができた。

 

「ごめーん! 約束の時間に遅れちゃったー?」

 

「や、丁度良いよ。こっちもいま準備終わったところだし」

 

「ドウゾノさん、お久しぶり。何かあったのかい?」

 

「あ、お久しぶりですキミさん。えっと、目の前でおじいさんが倒れちゃって。もう大変でしたよぉ〜」

 

「そうか。それは災難だったね」

 

「二人とも先に始めちゃっててください。俺はルミを呼んできます」

 

 二人をリビングへ通して、俺は仕事部屋のドアをノックする。返事がない。〝入るぞー〟と声をかけるも反応がない。仕方なく仕事部屋に入ると、ルミは机に向かって作業をしていた。耳にはイヤホンが付いている。ルミのイヤホンを外した。

 

「準備できたぞ」

 

「丁度いま作業がノッてきたところなのに!」

 

「それじゃあルミの夕飯は、焦げた野菜クズと冷えて固くなった肉な?」

 

「ウガァ──────!!」

 

「早く来いよ?」

 

 キレ散らかしているルミを置き去りにして部屋を出た。あれだけ荒れればもう作業どころではないだろう。強引な方法だが、これくらいしないとルミは動いてくれない。リビングに入ると、肉が焼ける良い匂いと音が鼻と耳を刺激した。

 

「あ、エイタ。早く早く」

 

「?」

 

「丁度お肉が焼けたところだ。お皿に移しても?」

 

「はい、お願いします」

 

「このお肉おいし!」

 

「奮発してたくさん用意したからな。たくさん食え」

 

「どうぞメツギさん」

 

「あ、ありがとうございます」

 

「うっわ。煙ヤバ」

 

「あ、テルミちゃん」

 

「久しぶりだねコツツミさん。調子はどうかな?」

 

「調子もクソもねぇよ。やることやって、やりつづけるだけ」

 

「……だいぶ持ち直しました。炎上した時はどうなることかと思いましたけど。新しいアカウントも順調に伸びてきてます」

 

「そうか。安心したよ」

 

「いえ、その時は本当にお世話になりました。ツキノキさんの協力がなければ、俺達二人、とっくに終わってましたよ」

 

「構わないさ。役に立てて良かった」

 

 ツキノキさんと和やかに会話しながら食事をする。ルミがツキノキさんに感謝する瞬間なんかいくらでもあるだろうに……。ツキノキさんが炎上で奔走してくれたことへの謝罪は一切なく。口いっぱいに白米を詰め込んで咀嚼するコツツミさんに、俺は冷たい視線を向けた。メシ抜きにしてやろうかと腰を上げたところを、ツキノキさんが手で制する。ツキノキさんを見れば、小さく首を振っていた。……ツキノキさんに免じて、この場は許してやる。だが高い肉をガバガバ食いまくるのは気に食わん。なのでコツツミさんの近くにある肉を、こっそり安い肉にすり替えた。このバカ舌には安い肉で充分だ。すり替えを成功させてニヤニヤしていると、肉を食べているウチハと目が合った。ウチハはコツツミさんをチラチラと見て、何か言いたそうにしている。俺はウチハに、黙っていろと人差し指を立てて合図した。合図した袖の下から、すり替えた高い肉をウチハへ手渡す。ウチハは困ったように苦笑いを浮かべたが、しょうがないなと高い肉を受け取り。そのまま肉を焼き始めた。

 

「ですけど、SNS運用はやっぱり難しいです。フォロワーの中には、こっちの正体に勘づき始めている人もいますし」

 

「手癖というものは、その人が長年積み上げてきたものだ。そう簡単に変えられはしない」

 

「どうしようもないと?」

 

「コツツミさんの手癖が見抜かれたと言うことは、界隈にコツツミさんが認知されてきていると言う証拠だ。悪いことばかりではないよ」

 

「今まで通り、放置安定ですかね?」

 

「下手に刺激するべきではないね」

 

「なるほど。なるほど」

 

「いまの時代。求められるのは有名になる力よりも、波風を立てない力のように思える」

 

「同感です。画面の前のどんな鏡を相手にしているのか。こちらからは一切わかりませんからね」

 

「ふむ。メツギさんの考え方を借りるのなら。情報を届ける相手が増えれば増えるほど、より慎重な情報発信が求められるということになる」

 

「道理で世の中が規制だらけでつまらなくなるわけです。……その分一発一発の炎上の規模も、以前よりもデカくなってませんか?」

 

 ツキノキさんは俺と喋りながら、肉と野菜を鉄板の上で焼いて忙しく面倒を見ていく。そんな調子なので、食がなかなか進んでいない。せっかく食べ頃で皿に移した肉や野菜が、すっかり冷めてしまっている。見てられなくて、ツキノキさんの持つ野菜を取り上げた。ツキノキさんは〝あとでゆっくり食べるよ〟とか、〝最近食が細いんだ 〟なんて。そういって、俺が取り上げた野菜を取り戻そうとしたが。〝俺、野菜好きなんです! 〟とワガママを発動させて、無理やりツキノキさんから仕事を奪ってやった。ツキノキさんから仕事を奪うことに成功した俺は、野菜を鉄板に並べたその箸で。相変わらずバクバク高い肉ばかり食いまくるルミの皿へ、焦げた野菜を移してやった。

 

「……エーちゃん後で覚えとけよ」

 

「うるせぇ。野菜もちゃんと食え」

 

「焦げてんじゃんかよぉ!」

 

「ならなおさら食えよ。新しい野菜焼けないだろが」

 

 こちらを睨みながら焦げた野菜を食い散らかすルミを、俺は愉快愉快と笑ってやった。普段は立場の低い俺ではあるが、俺が料理を作った時は別だ。調理番の俺にかかれば、飯を増やすも減らすも俺次第。胃袋を俺に握られているルミに勝ち目はないのだ。

 

「エイタとテルミちゃんって、本当に仲良いねー」

 

「ウチハ、お前正気か?」

 

「メツギさん。言い過ぎだ」

 

「それはすみません。けれど、俺はいまだに納得できてないんです」

 

「勘違いとはいえ、原因はメツギさんにある。責任は取るべきだと思うがね?」

 

「うッ」

 

「ギャハハ! ツキノキに叱られてやんの!」

 

「コツツミさんは、もう少しお淑やかになってもらいたいのだが」

 

「ほら、言われえるぞ?」

 

「……」

 

「キミさん、あんまり二人を責めないであげてください。エイタはエイタなりに頑張ってますし、テルミちゃんもテルミちゃんなりに頑張ってるはずですから」

 

「……そうだったね。ドウゾノさんの言う通りだ」

 

「エイタもテルミちゃんも。なんやかんや一緒の生活をつづけてるんです。だから、本当に仲が悪いって訳じゃないと思うんです」

 

「もっともな意見だ。ありがとう、ドウゾノさん。私は、なにか勘違いをしていたのかもしれない」

 

「そ、そんな! ボクはただ、みんなと一緒にいたいだけですから」

 

 ウチハはパタパタと胸の前で手を振った。実際、ウチハによって助かった場面は多い。〝一緒に幸せになる〟という目的で集まった俺達だが。考え方の違いで空気が悪くなってしまうことは少なくない。ウチハには、そんなギスギスとした空気を変えてくれる力がある。家族同然の付き合いで、長らくその凄さを意識したことはなかったが。四人での付き合いも一年が過ぎて、俺の中での確信はますます強まっている。ウチハの仲裁能力は、この四人の中でぶっちぎりだ。もしもウチハが俺達に協力してくれていなかったら。俺達の〝みんなで幸せになる〟という試みは、とっくに打ち砕かれていたことだろう。……ウチハの突出した仲裁能力を、こんな不誠実な集まりで消耗させるのは複雑な想いがあるが。だが例えどんな理由であっても、俺達を救ってくれていることに変わり無い。だったらしっかりと、感謝を伝えるのが筋というものだろう。俺は遠慮するウチハの頭に手を乗せ、髪の流れに沿って手を滑らせた。一瞬驚くウチハであったが、すぐにされるがままに目を細める。

 

「ウチハ」

 

「なーに? エイタ」

 

「ありがとな」

 

「……デヘヘ〜♡」

 

 ウチハは体をくねらせながら、ニヨニヨとだらけ切った笑みを浮かべた。この程度のことで幸せそうにするだなんて。なんて単純なヤツなんだ。なんだかひどく愛おしくなってきて、なおさら丁寧にウチハを撫でる。ここで、どこからか視線を感じた。視線を確認すると、焼肉の煙の向こう側にルミが見える。ルミは箸を口に咥えたまま、俺を呆れた眼差しで見ていた。……なんだよ。なんか文句あんのか? ウチハに仲裁された手前、また空気を悪くするわけにはいかない。ルミへの文句こそ口にしなかったものの。ウチハの頭を撫でながら、しばらくの間ルミとの睨み合いがつづいた。すると、ウチハの方から〝パンッ〟と手を叩く音がした。ルミを睨んでいた視線を、ウチハの方へと戻す。

 

「そうだった、そうだった。すっかり忘れてた」

 

「? なんだ? 大事なことか?」

 

 ウチハを撫でていた手を引き上げた。引き上げた俺の手をしょんぼりと目で追うウチハだったが、みんなの注目を集めたことで〝コホン〟と一つ咳払いをして、喉の調子を整える。

 

「ボク、推薦入試に合格してました!」

 

「おぉ」

 

「おめでとう。ドウゾノさん」

 

「へー」

 

「……なんだよルミ。お前ウチハの合格に興味がないのか?」

 

「ウチハちゃんが推薦落ちるのなら、代わりにどんな奴が推薦受かるんだよ」

 

「そりゃ、まぁ。確かに」

 

「大学はここから近いのかな?」

 

「はい。いま通ってる高校と比べたら全然ですけど」

 

「俺達の家から一番近い高校だもんな」

 

「でも剣道の経験者がいる学校だったから、ボクに言わせれば超大当たりだったよ?」

 

「大学でも剣道をつづけるのかい?」

 

「はい、そのつもりです。剣道はエイタがくれた宝物ですから」

 

「いや。俺はただウチハの両親に、ウチハに剣道をやらせてあげてほしいって頼んだだけだぞ?」

 

「あの時エイタが頼んでくれたから、いまのとっても幸せなボクがいるの。だから何度でもエイタに言うんだ。ありがとーって」

 

「良い話だね」

 

「キース、キース」

 

「茶化すな」

 

「えへへ」

 

「入試と言えば。メツギさんとコツツミさんの二人はどうなんだい?」

 

「俺は次の大学入試を見送るつもりです」

 

「メツギさんは、認定試験を合格していたんだったね?」

 

「えぇ、はい。ですけど、高卒認定試験自体、そこまで難しい試験じゃないんです。なので本当に大学入試を考えるなら、もう一度しっかり勉強しないとどうしても不安で。それに、学費の問題もありますし」

 

「学力をいますぐどうこうは出来ない。だがお金に限れば、私がすぐにでも準備しよう」

 

「ちょ、ちょっと待ってください。俺は誰かからお金を借りる気はさらさらありません。例えそれが、身内であったとしてもです」

 

「メツギさんが私から受けるのは借金ではない。融資だ」

 

「……それって言葉を変えただけで、意味としてはほぼ一緒では?」

 

「そうとも言えるね」

 

「……」

 

「私はいまのメツギさんにお金を貸すのではない。私はメツギさんの将来に出資するんだ」

 

「お、俺はまだまだツキノキさんに認めてもらえるほどの男にはほど遠いです」

 

「それを判断するのは融資先ではなく融資元だ」

 

「……」

 

「無論、出資するからには利息はしっかり頂くがね?」

 

「え!? キミさんキミさん。それって、エイタをお金で手助けできて、エイタにお礼もされちゃうってことですか!?」

 

「あぁ、ドウゾノさん。その認識で合っているよ」

 

「ボクの貯金、あるだけエイタに出資します!!」

 

「ウチハ、そんなホスト狂いみたいな金の使い方はやめろ」

 

「エイタがホストになったら、ボク毎日お店通っちゃうよぉ〜」

 

「ブッハハハ」

 

「ルミ。笑ってないで助けてくれ」

 

「なんだったら、エーちゃん株式発行すれば?」

 

「……は?」

 

「五十一%保有でどんな夢でも叶えますって触れ込めば、こいつらから限界まで搾り取れるよ?」

 

「悪魔かお前は」

 

「失礼だなぁー。あたしはエーちゃんに大金を稼ぐ方法を教えてあげただけなんだけど? あ、コンサル料として十%。雇用主として十%。計二十%分の利益を徴収するね?」

 

「クーリングオフだ。悪魔よ立ち去れ」

 

「ま、株式なんか発行しなくても。あたしもエーちゃんに出資したいかな」

 

「正気か?」

 

「正気も正気。これでもエーちゃんのこと、それなりにちゃんと評価してるんだからね?」

 

「そりゃ、従業員が俺一人で比較対象が他にいないからだろ?」

 

「従業員の評価は、仕事ができるできないだけで決まるわけじゃ無いから。確かにエーちゃんは仕事できない方だけどさぁ? 総合力で評価するなら、結構高いよ? エーちゃんの評価」

 

「……」

 

「照れるなよぉ」

 

「照れてねぇよ」

 

「コツツミさんはどうなのかな? 大学に進学する気なのだろう?」

 

「それあたしに聞くの?」

 

「? すまない。どう言う意味だろう」

 

「あたしは天才なの。だからあたしが入るって決めた大学には、あたしは絶対に入れる」

 

「ふむ、なるほど」

 

「コイツの場合、誇張がないのがムカつくところです」

 

「あたしはね? いまの高校に転校を決めるより前に、行きたい大学決めてたの。漫画の勉強とか、ネタ探しとか。中学の時から既に動いてた。お前らと違って、あたしは五年、十年単位で動いてるの。わかる?」

 

「えー? テルミちゃんスゴーい!」

 

「ふふん。そうなの、あたしは凄いの。天は二物も三物も与えちゃったの!」

 

「性格の良さまでは与えてくれなかったんだな」

 

 ボソリとぼやいたつもりだったが。無駄な地獄耳を持ったルミは、俺の言葉が聞こえていたのかギロリとこちらを睨み付ける。ウチハが両者を〝まぁまぁ〟となだめるのを聞きながら、俺はサニーレタスで巻いた肉を頬張った。

 

「ところでエーちゃん? オマエ今度の短編漫画、題材なににするか決めたんか?」

 

「へ? エイタ今度漫画書くの!?」

 

「違う。俺はあくまで雑用だ」

 

「いま書いてる連載がそろそろ完結しそうでさ。次の連載のプロット組んでる間、新しいこと試そうかなーって。あたし目線じゃなくてエーちゃん目線なら、新しいことが試せそうでしょ?」

 

「そういうのは俺よりも、ツキノキさんに頼んだ方が確実だと思うんだがな」

 

「残念だが、私は力になれそうにないよ。現在の漫画業界というものを、私はなにも知らないからね」

 

「ボクも少女マンガしか見ないからなぁ……」

 

「だったら、そうだな。……哲学なんてのは──────」

 

「ゴミ」

 

「何でだよ。少なくとも俺は、哲学に救われたんだぞ?」

 

「じゃあ質問。エーちゃんは日本人の哲学者、何人知ってんの?」

 

「……」

 

「それが答えじゃん」

 

「いや、時間があれば──────」

 

「一瞬で出てくる有名な哲学者が日本にいないのが分かればもう充分だから」

 

「有名な日本の哲学者がいてもいなくても、哲学をやらない理由にはならないだろ」

 

「充分理由になると思うけど?」

 

「……ルミ、教えてくれ」

 

「態度がデカイ」

 

「教えて下さいルミさん」

 

「ふふん。そこまで言われたら仕方ない。頭のかたーいエーちゃんにも、分かりやすく説明してあげるね?」

 

 勿体ぶった動作で、大袈裟にコップの中の飲み物を呑み干して。ルミはペロリと、舌で唇を湿らせた。

 

「この国の哲学が死んでるってのはもう話したでしょ?」

 

「死んでるは言い過ぎなんじゃないか?」

 

「甘いねエーちゃん。認識が甘々」

 

「?」

 

「この国の哲学が死んでるってのは、比喩表現でもなんでもない。実も花も種も、土ですら。上から下まで、ぜーんぶ死んでる」

 

「そんなわけ……」

 

「大学でも哲学を学べるところはあるよ? 西洋か東洋かって違いはあるけど、たいがい不人気。理由、クソつまんないから。あと金にならないし、役にも立たない。ちょっとカッコつけたいエーちゃんみたいなバカは食いつくけど、それ以外のマトモな人間からするとモノホンのゴミなわけ。バカに哲学は使いこなせない。使いこなせないから応用もできない。不毛の大地にいっくら海外の苗を植えてもゴミしか育たない。仮にマトモに育っても、日本人には碌に活用もできない。ね? 時間の無駄でしょ? 理解できた?」

 

「……もしも不毛の大地だっていうなら、土作りから始めるべきだ」

 

「あ゛? エーちゃん話聞いてたか?」

 

「お金にはならないだろうし、役にも立たないかもけれど。面白くすることはできるんじゃないか?」

 

「誰が見るんだよ。そんなバカみたいな作品」

 

「俺だ。俺が見てみたい」

 

「お前みたいなバカは、腐るほど並んでる哲学の入門書で満足してろよ」

 

「でもそれじゃあ、不毛の大地のままなんだろう?」

 

「だったらナニ?」

 

「ルミ。俺はなにも哲学を題材にした連載をやりたいって言ってるわけじゃない」

 

「短編だから良いって? 土作りがどれだけ大変な作業か理解してる!? 絶対割に合わないから!!」

 

「ルミは新しいことに挑戦したいんじゃなかったのか?」

 

「新しければなんでも良いってわけじゃない。よりにもよってなんで哲学なの? もっと賢くなれよ!」

 

「だったら、俺に聞いたのが間違いだ。俺に聞いたルミも含めて、全部間違いだったな」

 

「こいつッ!」

 

「それに、なにもルミと俺の二人だけでやるとは言ってない」

 

「あ?」

 

「ツキノキさん。俺達二人だけだと哲学を題材にした作品なんて作れません。ツキノキさんの力を貸してください」

 

「哲学は大学の頃、少しだけ単位を取っていた時期がある。半端な知識で力になれるかはわからないが、できる限り努力しよう」

 

「お願いします」

 

 哲学はクソつまらなくて、金にもならなくて、役にも立たないというルミの言葉が本当だとすれば。そんな哲学の単位を取得しているツキノキさんは、土作りには必須の存在になる。それに、もしツキノキさんの力が及ばないとしても。ツキノキさんの頭脳があれば、必要な知識を吸収して、俺達にわかりやすく共有することも可能なはずだ。ただいつも、ツキノキさんは期待以上に応えてしまうので。その時はちゃんと、対価を支払って報いる必要がある。ルミはこちらを睨みつけながらも、何も言ってこない。ルミはこの一年で、ツキノキさんの実力を何度も目の当たりにしている。本気で哲学の短編作品を世に出すとすれば、誰のどんな能力が必要なのか。ルミが一番理解しているのだろう。ツキノキさんが味方につけば、障害となるものはほとんどない。あとはどうやって、短編という短い枠組みの中に収めるかだ。ふと、大人しくしているウチハが視界に入った。ウチハはなんだか寂しそうに、野菜をチビチビとかじっている。ウチハがこの計画で直接力になれることはハッキリ言ってない。だがウチハの仲裁能力は、俺達の計画を円滑に進めるためには必須だ。

 

「ウチハ?」

 

「へぇ!? な、なに? エイタ」

 

「俺達の作業に、できればウチハの力も貸して欲しいんだが」

 

「うん、うん! ボクなにすればいい?」

 

「何もしないで良い」

 

「へ?」

 

「俺達が作業してるのを見守ってくれればそれで良い」

 

「メツギさん?」

 

「……やっぱりダメですか?」

 

「自覚があるなら、なおさらダメだ」

 

「……」

 

「ドウゾノさんの剣道の実力を疑うものは誰もいない。いっそ、戦闘描写の監督というのはどうだろう?」

 

「次の連載、戦闘描写多いから参考になるかも。うん、良いねそれ。さすがツキノキ。どっかのエーちゃんとは大違い」

 

「ありがとう。ただ、一言余計だね」

 

「決まりだな。どんな作品になるのか、いまから楽しみだ」

 

「方針まとまったついでに、タイトルもまとめちゃわね?」

 

「ふむ」

 

「えーと?」

 

「え? 俺?」

 

「当たり前でしょ? エーちゃんが話まとめたんだから」

 

「俺、タイトルとかそういうの決める才能ないんだぞ?」

 

「早く決めないとツキノキを剥いでくから」

 

「おい! 何してんだやめろ! ツキノキさんもちゃんと抵抗してください!」

 

 なぜか無抵抗でルミに服を脱がされていくツキノキさん。ヤバイヤバイヤバイ。このままじゃツキノキさんの身包みが剥がされてしまう。なんとかしてタイトルを決めないと。だが俺には残念なことに、名前をつける才能がない。以前何度かタイトルや登場人物の名前を、ルミと一緒に出し合ったことがある。結果は全部不採用。出したアイデアのそのことごとくがルミによってボロクソに叩かれ。俺はすっかり、この手の命名を避けるようになっていた。ツキノキさんのスーツスカートが脱がされ、ルミはワイシャツのボタンに手をかけている。時間がない。だがそんなすぐに、名前なんて出てくるはずがない。

 

「メツギさん」

 

「?」

 

「何も難しく考える必要はない。メツギさんの素直な気持ちを言葉にしていくんだ」

 

「俺の、素直な気持ち?」

 

 そうだ。俺はツキノキさんと出会って、ツキノキさんの哲学に触れて、俺なりの哲学。全ての鏡、全ての人間は正しいとする一解釈を形に出来た。だからと言って、何かが劇的に変わったわけではない。明確になにかの役に立ったかと言われると、そんなこともない。せいぜいが決断を下す一材料になったくらいだ。それでも。それでも俺は、哲学を必要としている人がいると信じている。〝普通〟の作物が育たない。ひび割れて、乾ききった大地で。ただうずくまって、もがいて、苦しんで。人生になんの価値も見出せなかった過去の自分を知っているからだ。哲学は万能じゃない。ルミのように強くて賢い人間には、確かに哲学はクソつまらなくて、金にもならなくて、なんの役にも立たないのかもしれない。だが自分という人間を〝知る〟ことにおいて、これ以上の学問を俺は知らない。俺の人生には、まだまだ不安は尽きないが。少なくとも無意味にうずくまって、もがいて、苦しむことはなくなった。二足歩行の人生を再再開できるようになったんだ。長らくうずくまっていた人間からしたら、見違えるような進歩といえる。

 

「確かに、哲学を学ぶ意味はないのかもしれない」

 

「つづけて」

 

「それでも俺は、哲学で自分を知れた。初めて自分の脚で立って。未来を見つめることが出来るようになった」

 

「つづけて」

 

「哲学とは。うずくまって、もがいて、苦しんでいる人間にこそ必要な。救いの光です」

 

「つづけて」

 

「救済、というか。夜明け、というか。とにかく、ガラリと世界の見方が変わるのが伝わるような。そんなタイトルに……」

 

「……」

 

 ツキノキさんの無言の眼差し。俺の言葉を待っているのだろうか。いや、なんだか少し違う気がする。俺の命名を却下しつづけたルミと似た気配を感じた。俺はなにかを見落としている? だとしたらなんだ? 俺の感覚に嘘偽りはない。だがその感覚が絶対的に正しい訳でもない。俺は俺だ。情けない姿も、みんなと向き合った姿も。全部が正しく俺だった。俺はただ、気づいただけなんだ。自分という鏡が何者であったのかを。それを言葉で言い表すとすれば……。

 

「タイトルは──────」

 

 

 

 

 

 鏡の奥の向こう側 完

 

 

 

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