前回までのあらすじ
平和な日常に迫る不審者おねーさんに注意
メツギさんと別れてから一週間がたった。自己紹介から途切れたメッセージ画面を開き、こちらから連絡をとるべきかと考える。これだけメツギさんから連絡がこない、ということは……嫌われてしまったと考えるのが自然だろう。出会った当初、メツギさんに抱かせてしまった不信感は。私が想像していたよりも遥かに深刻だったようだ。てっきり別れ際のやり取りで、メツギさんからの信頼を得られたとばかり……。
「はぁ……」
力無く倒れこみ、手足をばたつかせる。駆虫剤でひっくり返ったような無様な姿。とても人様に見せられない格好をしてしまうのは、私がそれだけ失敗を反省しているということだ。いつメツギさんからの連絡が飛んできてもいいように。急いで〝賢さ〟についたの考えをまとめたのは、どうやらいらない配慮だったようだ。だが避けられたからと言って、まだ私の力不足だったと決まったわけではない。メツギさんは自力で〝賢さ〟を見つけて、私に会う理由がなくなってしまったと考えられなくもない。頼もしい友人。温かい家族。尊敬できる大人がメツギさんのそばにいてくれるのなら。私が声を掛けた時点で、既に余計なお世話だったことになる。
「はぁ……」
私はまたため息をつく。スマホには、メツギさんからの通知は一件もない。いくらスマホを見つめても、メツギさんからメッセージはこない。いい加減、スマホに張り付くのはやめようと。電源ボタンに手を伸ばしたその時。スマホが振動した。画面には、通知が一件。メツギさんからのものだった。私は既読がつくのも気にせず、メツギさんから届いた通知に触れる。
《夜分遅くすみません》
そこから先の文章はない。〝夜分遅くすみません〟で文章が終わるとは思えない。私からの返信を期待しているのか。それともいままさに、メツギさんがつづきの文章を書いている途中なのか。どちらなのかはハッキリしなかったが、私はメツギさんに返信をすることにした。
《なにかな? メツギさん》
《ツキノキさんに会って話したいのですが》
《明日って大丈夫でしょうか?》
《かまわないよ》
《何時ごろ伺えばいいでしょうか?》
《夕飯の支度をメツギさんには手伝ってもらいたいので、十九時前後に家に来てもらうと助かる》
《わかりました》
《なにか必要なものとかありますかね?》
《メツギさんの気遣いに、まずは礼を言っておこう。ただ、人には。平等な関係性だけではなく、公平な関係性というものもあるんだ。相手を気遣うのも、立派なことには代わりないが。メツギさんは、もう少しわがままなくらいが丁度いいと思うのだがね?》
《えっと》
《すみません。わがままってどうすればいいのか、俺にはよく分かりません》
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早朝。いつものようにウチハに起こされる。今日は生憎の雨模様。外で素振りの出来ないウチハは、俺を起こしたベットで寛いでいた。外で素振りが出来ない代わりなのか。ウチハの手には、剣道関連の書物が広げられていた。なんだか小難しそうな本に、ウチハはムムムと難しい顔をしている。
「ウチハが本を読むなんてな」
「う〜ん。顧問の先生に〝練習できない時はこれを読め! 〟って言われたから読んでるけど。いまいち本に書いてることがわからないだぁ〜」
「どれどれ? 〝心・技・体。この三つが釣り合っている状態が、もっとも実力を発揮できる〟か。ウチハはどこがわからないんだ?」
「エイタは、〝心〟ってどうやって鍛えると思う? 〝技〟は繰り返せば体が覚えるし、〝体〟は鍛えれば強くなれる。だけど、〝心〟を強くする方法ってなくない? 大好物を我慢するとか?」
「大好きなもの我慢すると、逆に心がすり減りそうだが……。心を強くする方法か。確かに難しいな」
「でしょ? でも、エイタならわかるんじゃない? エイタの方がボクよりも頭がいいから」
「……。いや、わからない。悪いけど、ウチハの疑問には答えられそうにない」
「そんな真剣に考えなくていいよ?」
「ダメだろ。それじゃあ」
「? どうして?」
「素人の俺がヘタなことを言って、ウチハを混乱させたくない」
「……ボクを混乱させたくないから、ボクのわからないことには答えないんだ」
「あぁ」
「エイタって、本当にマジメだよね。でも、ボクはエイタのそういうマジメなところが──────」
「なぁ、ウチハ」
「? なに?」
「今日、〝夕飯いらない〟って母さんに伝えておいてくれ」
「どこかで食べてくるの? ボクも行きたい!」
「あ、いや。相手と約束してるんだ」
「へ、へぇ〜。そうなんだ。誰と食べるの?」
「あぁ……」
「あ。え、エイタが言いたくないなら別にいいよ?」
「助かる。それじゃあ。母さんに伝えるの、頼んだぞ」
「あのさ」
「?」
「おばさんにはちゃんと〝夕食いらない〟って伝えてあげるからさ。今日エイタとご飯食べる人って。ちゃんとしてる人、なんだよね?」
「あぁ」
「そっか。エイタがそう言うなら、ボク信じるよ」
「……」
「もし何かあったら、ちゃんとボクに相談してね?」
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「いらっしゃい」
「ツキノキさんの家に来るの、遅れちゃいましたかね?」
「しっかりした約束の時間を言わなかったのは私だ。メツギさんが気にすることはないよ」
「はい。わかりました……」
「? メツギさん、どうかしたのかい?」
「いえ、なんでもありません。それじゃあツキノキさん、お邪魔します」
「どうぞ」
アパートの玄関前。恥ずかしそうに顔を伏せる青年。対面にいるのは、無愛想な女性。青年の服は、なんだか地味な色合いでジジ臭い。いわゆる〝服のセンスがない〟というヤツ。女性の服は、上下の揃ったジャージだった。ジャージは紺に白の線が入っている年代物。胸元には、女性の苗字である〝月野木〟の刺繍が入っている。とても来客を迎える格好ではないので、女性はもはや〝服のセンス〟以前の問題だ。二人は軽く会話を交わすと、アパートの中へと消えていった。事情を何も知らない人間からしたら、その光景はホラーのような不気味さがある。
「材料と道具はこちらで用意させてもらったよ。メツギさんの好き嫌いは、なかったはずだね?」
「はい。ツキノキさん、俺は何をすればいいんですか? 野菜でも着ればいいですかね?」
「そうしてもらえるかな? 悪いね。私ばかりがメツギさんに甘えるようで。代わりと言ってはなんだが。メツギさんが疑問に思った〝賢さ〟を、私なりの解釈を交えながら話そうと思う。無論、〝メツギさんの疑問を必ず晴らす〟などと言う保証はできないがね」
「その方がありがたいです。〝疑問を必ず晴らす〟なんて言われる方が、俺からすると困ってしまうので」
ここで二人の会話は途切れた。〝トン、トン、トン〟と部屋に響く包丁の音。女性の方は、カセットコンロを出したり鍋を用意していたり。二人は静かに夕飯の用意を進めていた。
「キムチ・カレー・豆乳・味噌・トマト・ゴマ担々・豚骨・柚子・塩。あごだし鰹だし昆布だし……。メツギさんと鍋を食べると決めた時、どんな味の鍋にしようかと少し悩んだ。悩んだ結果、失敗の少ない水炊きの鍋に決めた」
「突然ツキノキさんの家に押しかけてしまって、夕飯までツキノキさんの好意に甘えて。なんだか俺は、ツキノキさんに気を遣わせ過ぎてしまってませんかね?」
「そんなことはないさ。メツギさんの気も音に応えたいのは私のわがままだ。夕飯を水炊きの鍋にしたのも、私が水炊きの鍋を食べたいと思っただけだよ」
「……ツキノキさんにそう言ってもらえるのなら、ありがたいです」
高校生と社会人という二人の立場。世代が違えば話は噛み合いそうにないところだが。どうやら二人は話が噛み合う以前に、会話をする気がないようだ。会話しないのなら二人でいる意味なさそうだが。彼ら二人は全く慌てる様子がない。青年は野菜を切り終わり、鶏肉を切っていく。女性の方は取り皿やお箸、お玉などを用意して。二人は黙々と作業をつづけた。
「私の方は、鍋の準備ができた。メツギさんの方はどうかな?」
「はい。俺の方も全部切り終わりました」
「それじゃあお鍋に野菜とお肉を詰めていってくれ」
「はい」
青年が切った野菜と鶏肉が、鍋に敷き詰められていく。その中には、明らかにシナシナで干からびている野菜の姿もあった。二人は特に気にした様子もなく。鍋に詰められた野菜と鶏肉に水を張って、鍋に蓋をすると〝カチッ〟とコンロの火をつける。二人はテーブルを挟んで、向かい合って座って。黙ったまま、ただカセットコロンが鍋を温める音を聞いていた。この気まずい沈黙を最初に破ったのは、女性の方だった。
「メツギさんの〝賢いとはなにか〟という疑問をきた後、私は随分と悩んでいた。そもそも、賢いの幅が広いんだ。能力があることを賢いという。規範に従うことを賢いともいう。古語の恐ろしきが転じて賢い。人と異なる解釈を賢いといい。経験を多く積んだものを賢いともいう」
「すみませんでしたツキノキさん。俺が曖昧な質問をしてしまったばっかりに、ツキノキさんを困らせるようなことをしてしまって」
「本当にそうだろうか?」
「? 何がですか?」
「メツギさんは、〝曖昧な質問〟といった。確かにメツギさんの〝賢さとはなにか? 〟という疑問は曖昧だ。しかし、私が思うに。メツギさんは〝賢さ〟という曖昧そのものに疑問を持っているのではと、私は考えている」
「いいえ。あれは咄嗟に俺の口から出てきた質問で。特に深い意味があるわけでは……」
「〝火のないところに煙は立たない〟とも言う。メツギさんの無意識に、〝賢さ〟を口にしたのなら。全くの無関係とは言えないのではないかな?」
「……わかりません」
「メツギさんには、哲学者の血が流れていると私は思う」
「哲学者? ですか。……あの。哲学者って、一体をしている人なのでしょうか?」
「それは、とても難しい質問だね。紙も鉛筆もいらない学問を学ぶ人。世界最古の学問に向き合う人。人類史の土台を考える人とも言える。とても一言では言い表せないほど、哲学者はさまざまなものと向き合っているんだ」
「……哲学者って」
「ん?」
「誰かに求められていたりするのでしょうか」
「メツギさんは、日本人の哲学者を知っているかい?」
「? いいえ……」
「それが答えだ。少なくとも、日本社会は哲学者を求めたりはしていない。無論、日本人の哲学者がいないわけではない。ただ、日本は世界と比べて実績が少ない」
「……」
「話を戻そう。私の見立てでは、メツギさんは〝賢さ〟という大きな枠組みに疑問を抱いている。違うかな?」
「……分かりません」
「直ぐに返事を期待するつもりはないさ。焦らず、じっくり、ゆっくり組み立てていけばいい」
「そうやって」
「?」
「いえ。なんでもありません」
鍋を温めつづけるカセットコンロ。しかし、鍋いっぱいの水を沸かしているからか。なかなか煮えるまで時間がかかる。会話のない沈黙。二人の頭には〝気まずさ〟という言葉がないかのように平然としている。しかし、二人が対面するのはまだ二度目だ。二度目に会うにしては会話がないし、二度目にしては落ち着きすぎている。このチグハグな空気が、二人の周りを不気味に取り囲んでいた。
「メツギさんが自分で見つけるべきだと思うんだ」
「え?」
「人からもらった答えというのは、酷く空っぽだ。それがどんな考えをたどってきたのかという物語がない。物語のない答えには重みがない。メツギさんには、メツギさんだけの物語を作り出してほしい」
「だからって、俺は自分の物語を作り出せるほど賢くなんて……」
「メツギさんは愚かじゃないよ」
「……何ですかいきなり」
「私が思う〝賢さ〟をメツギさんは既に持っている」
「さっきから、ツキノキさんの言ってることがわかりません」
「大丈夫。メツギさんは必ず〝賢さ〟を見つけることができる」
「……」
「なかなか煮えないね」