「あ、アキ、これの下洗いしたらすぐお茶を入れるからね」
台所に行くと、僕が声を掛ける前に美波が言い出した。
「あぁいや。時間も遅くなってきたし、僕はそろそろ帰るよ。今日は本当にありがとう」
「え? うん……で、でもお茶くらい飲んで行かない?」
「いやぁ。あんまり遅くまでいたら悪いからさ」
「そう……分かったわ……」
僕が帰ることを告げると、美波は急に顔を曇らせてしまった。
何か気に障るようなこと言ったかな……。
そんなことないよね? 帰るって言っただけだし……。
美波はその表情のまま、エプロンで手を拭きながらリビングに向かう。
僕はその後をついて行った。
☆
リビングの扉を開けると、葉月ちゃんは片付けの最中だった。
「葉月、アキが帰るって。挨拶して」
「あぅ……バカなお兄ちゃん帰っちゃうですか? 寂しいです……」
「うん。また来るからね。葉月ちゃん」
「はいですっ! また来てくださいですっ!」
元気に手を振る葉月ちゃんに手を振り返し、僕はリビングの扉を閉めた。
そして僕たちは玄関へ向かった。
「「……」」
何だろう。この感じ。
重苦しいというか……何かこう、美波の様子がおかしい気がする。
具体的に説明を求められると困るけど……。
気のせい……なのかな……?
僕は気になりつつも、そのまま玄関で靴を履こうした。
そして靴に足を伸ばした時、それは起こった。
「ねぇ……アキ……」
「ん? 何?」
その呼び掛けに振り向くと、美波は顔を隠すかのように下を向いていた。
前髪で隠れたその表情は僕の位置からは確認できない。
でもその体は何かに怯えたように小刻みに震えていた。
そして絞り出すような声で、こんなことを言ってきた。
「今日、泊まって……いかない……?」
「へ……? えぇぇっ!? なななに言ってるのさ! そんなわけにいかないよ!」
いきなり何を言い出すんだ!?
た、確かに姉さんは今いないから外泊はできるけどさ……。
いやでもだからって! お、女の子だけの家に泊まるなんてできるわけないじゃないか!
「いいでしょ……? 一晩くらい……」
いいわけないよ!?
どうしちゃったんだよ美波!
僕は断ろうと両手を前に突き出した。
「ご、ごめん美波! それだけは────」
ここまで言いかけた時、美波は僕の突き出した手をそっと両手で掴んだ。
そして胸の前で祈るようにぎゅっと握り締め、意外な言葉を口にした。
「お願い……」
え……? お願い……?
やっぱりおかしい。
美波が僕にこんな言葉を使うなんて絶対におかしい。
様子が変だと感じたのはやっぱり気のせいじゃない!
一体どうしたって言うんだ……?
そう思った直後、僕は手に温かい水滴が落ちたのを感じた。
これは……涙?
「どっ……! どうしたの美波! どこか痛いの!?」
「……もうあんな気持ちは……嫌……」
「へ?」
あんな気持ち? あんな気持ちって?
何だかさっぱり分からないよ……。
とりあえずどこか痛いってわけじゃなさそうだけど……。
「美波どうしたの?
「……」
美波は僕の手を握り締めたまま返事をしない。
何も言ってくれないんじゃ分からないよ……。
どうしたらいいんだ……。
こんな弱々しい美波を見るのは風邪で休んでいた時以来だ。
でもあの時とは違って、今はその理由が分からない。
とにかく落ち着いて話しをしてもらおう。
でなきゃ僕もどうしたらいいかさっぱりだ。
でもこんな時ってどんな言葉を掛ければいいんだろう……。
僕が掛ける言葉に困っていると、美波が涙声で話しはじめた。
「……病院に……走ってて……悪いことばっかり頭に浮かんじゃって……もう……あんなの嫌……」
病院……。
そうか。
僕が入院したあの時のことか。
病室に入ってきた美波はあんなに取り乱して泣いていた。
それは……こんなにも僕を心配してくれていたからなのか……。
こんな僕を……。
確かに僕が交通事故に遭ったのもこれくらいの時間だった。
しかもここから帰るところだった。
あの時に状況が似ているから不安が広がったのだろう。
大丈夫。僕はもうあんな失敗はしない。
けど……。
嬉しい……。心の底から嬉しい。
僕のことをこんなにも思ってくれる女の子がいる。
それは僕のこれまでの人生で最高の宝物に思えた。
僕は美波に向き直り、肩を軽く抱き締めて感謝を言葉にした。
「美波……ありがとう……」
まだ美波は顔を上げず、声を押し殺すように泣いている。
安心させてあげたい。
それには──これしかない。
「それじゃあ……今夜一晩、僕を泊めてくれる?」
僕は笑顔で言葉を掛けた。
「うんっ……」
僕の言葉に美波は反応し、うわずった声と共に顔を上げた。
そして目を細め、両頬に涙を伝わせながら口元を綻ばせて笑顔を作った。
それはきっと、今できる精一杯の笑顔。
その笑顔が僕には嬉しくて……可愛くて…………愛おしい……。
僕は美波の涙を指で拭ってあげた。
その行為で涙が止まっていないことに気付いたのか、美波は再び俯いて顔を隠した。
美波の体は小刻みに震え、未だ感情の高ぶりが治まらないことを示している。
僕はもう一度、そっと抱き締めた。
美波を安心させるため……。
……いや。僕がこうしたかったから。
☆
どのくらいの時間こうしていただろうか。
「……もう……大丈夫」
ようやく落ち着きを取り戻したようで、美波はそう言って僕から離れた。
そして僕の手を取ると、今度は涙の無い素敵な笑顔を見せてくれた。
僕たちは手を取り合い、リビングに引き返した。