食品売り場の狭い通路の脇、三段の大理石の
「それじゃ、買ったもの詰めちゃいますね」
二人で両手に提げてきたビニール袋の中身を、柑奈は床に膝をついて二つのキャリーケースに移し替える。“私もやります”と腰を浮かせかけた音葉のふとももをベンチに押し留めて、柑奈は大きい口にきれいなカーブを浮かべた。音葉はそのオレンジもつややかな三日月に従って、しかし目だけを数々の食品へ気づかわしげにする。
「心配しなくても変なふうに詰めたりしませんよ。こっちのサラダはあしたのだから保冷バッグで、海藻のはきょうのお昼だから最後に詰めて。サラダは容れ物がしっかりしてるから下、お肉は上」
「柑奈さんのすることに心配なんてありませんよ。ただ、一人でさせたら申し訳なくて」
「それこそいいんですよ、音葉ちゃん、いまはゆるんでてください。榛名に着くまでに持ち直してもらわなきゃ」
「……そう、ですね」
音葉は細くした目で天井をあおぐ。一面に張られた磨りガラスでやわらかくされた陽光が五階ぶんのフロアライトとともに、店内をあまねく見守る女神の御前に混ざりあって、大理石と赤絨毯の階段に降り注いでいる。目をつぶればそれは静寂の微粒子の、はらりはらり降り積もるのが見える。百貨店のこの階段を取り巻く、それこそ百はあるだろう店前の賑やかさ、足音、そのうねりがとても遠くに感じられた。肺を空にするように長い息を吐く。
「あー、でも、無理はしないでくださいよ。音葉ちゃんにキャンプ楽しんでもらいたいんですからね」
「少し楽しみにしすぎて昂ぶっていたところに、デパ地下の音がこたえただけですよ。喧騒を離れたら落ち着くでしょう」
「じゃあなるべく端っこのほうに作りましょうね、テント」
「ええ、けどクマには気をつけて」
いっぱいになった保冷バッグの口を閉めて、“はあい”と柑奈が笑った。
「クマ除けもちゃんとレンタルしなきゃですね。鈴とかスプレーとか」
「鈴は……」
音葉が表情をくらます。敏感なその耳を、首を深くかしげて覗きこんだ柑奈がまたいたずらっぽく笑う。
「はーい、鈴はなしで。用心はしっかりしときましょうね、音葉ちゃん食べでのあって美味しそうやけんね」
「どこを見ていってます?」
柑奈の視線の先、春物のブラウスを押し出す丸みを両手でかばい、音葉もピンク口の端を引いた。桜色のリップが静かな光につやめく。なかばはつられて、残りは安心から、柑奈は声を出して笑った。
「復活?」
「ふふっ。ええ、復活です」
買いこんだ食料をすっかり詰めきったキャリーケースを柑奈は脇へよけ、音葉のぴったり隣りに座った。音葉が目と眉とのあいだを意外そうに広げる。……立って並べば音葉の鼻先に柑奈のつむじが来る、そのくらいの身長差が二人にはある。座ると差は縮むとはいえ、音葉の唇に柑奈の瞳が並ぶていどだ。それがいま、わずかに柑奈の肩が音葉のそれより高くあった。なに食わぬその愛らしい表情から、いつものゆったりした服装、ハイキングに備えたジーンズと音葉の視線が落ちて、ブーツに行き当たる前にまぶたに隠れた。
「……飲み物」
柑奈が白い歯を見せて静かに笑う。二リットルのペットボトルを二つ寝かせて、その上に座っているのだ。ジーンズのふとももがあきらかにベンチについていなかった。
「電車の時間まで、まだちょっとありますね」
音葉の右肩に触れている左の肩を、柑奈は軽く二回たたく。魅力的な張りのある音だ。浮かんだ言葉のひととおりをまとめて一つの息に吐き出すと、音葉は促されるまま柑奈の肩に頭をあずけた。女神像のことほいだやわらかく静かな光が二人に降り積む。
「柑奈さんみたいに、私も料理ができればよかったのに」
「どーしたんです、いきなり」
音葉の短い金色の髪に柑奈は耳をうずめる。自分でそうしておいてくすぐったがると音葉が肩をゆすり、よけいに柑奈をこそばゆがらせる。
「作れたら、きょうだって、手作りを持ってこられたなと思ってしまって」
包丁の扱いに非常な不安を抱える音葉である。それをおおいに諒解している柑奈は、金の髪束に吐息を紛れさせた。慰めようとしてうまい言葉の出てこない、焦りと困惑の気持ちを、その意気一つから音葉は聞き取る。
「私だって、できるっていっても、できない料理のが多いですよ? 揚げ物とか角煮とか……道具がないのもあるけど、繊細な料理なんか道具あっても向いてないですもん」
「おなじ玉子焼きでも毎日味つけを変えてみるとか、そういうところですよ」
“玉子焼きくらいは”といいさす口を柑奈は閉ざした。髪を何本か巻きこんだまま、“困ったな”という形にレッドオレンジの唇の線をゆがめた。玉子焼きを作るためには、味つけよりもずっと前に、玉子を割らなければならない。そのステップは音葉に二の足を踏ませるにはじゅうぶんな関門だと思い至ったのである。
「私はひとに作ってもらわないと食べられないのに、お店や空調の音が耳に合わないなんて具合を悪くして、ワガママというのか……。寄りかかってばかりでいいのかと考えてしまって」
「いいじゃないですか、世界がラブで満ちてるってことです」
髪を少し湿らせてしまったのをごまかすように撫でながら、柑奈は首を起こした。額のほうから音葉の顔をのぞくと、翠玉の瞳がまぶしそうに見上げる。
「それに音葉ちゃんだって、いろんなひとに寄りかかられてますよ」
「そうでしょうか……」
エメラルドの視線は赤い絨毯へ落ちる。それを宙空へ飛び上がらせたのは頬を持ち上げるやわらかさだった。しっとりとして吸いつくすべやかな感触は手のものではない。硬直しかかる目を横へ動かして、その正体を知る。……柑奈が頬をぴったりとくっつけていたのだ。
「なにしてるんですか」
笑いを奥歯に挟んで問いかけると、頬から“とくに私が”とさっきの返事が返ってきた。喉でころころ笑い、頬でしゃべる。柑奈の器用で奇矯な行動には音葉は慣れるということがなく、しかしいつも快いものに思っていた。六弦をじかに奏でるしっかりとした指が膝頭を撫でる。そこにそっと、重みを感じさせないように、音葉は手を重ねた。
「私こそ、あなたを心から頼もしく思っているんです。柑奈さんといると心地よい音色がたくさん聞こえてくる」
間近に聞く鼻息さえ自分のためにあるようで、音葉は目を細める。“私こそ”と柑奈が口真似をするのが、横顔に聞こえた。
「音葉ちゃんからたくさんの音楽を教わってますよ。島でギター弾いてても、東京でレッスン受けてても、ぜんぜん気づけなかったたくさんの愛を、聞かせてくれたのは音葉ちゃんですよ」
琥珀色の目がまどろみそうな翠玉を見つめた。まつげの触れる音に音葉は高揚感を覚える。柑奈の声音、頬から伝わる声以外の声が、思いのとおりの言葉だと音葉に教える。“よかった”口だけ動かすと柑奈もそれを聞き取れたのか、得意げな形に頬を動かした。
「そのうちラブアンドピースを求めて、あなたがどこかに行ってしまうんじゃないかって不安になってしまって」
「いいですね、行ったことのない場所で愛と平和を歌って広めて、こっちもたくさん受け取って」
こともなく肯定する柑奈の声は夢に満ちたあどけないひびき。ぽんと飛び出していって戻らないような、むちゃな子供の背中が翠玉の瞳に浮かんだ。音葉は柑奈の手を握りしめる。二人の視線が合った。まつげの先が触れ合う。震えるピンクの唇から飛び出そうとした言葉は、オレンジの三日月の前に立ち往生する。浮いた音葉の手を柑奈の手が追いかけて、空中でしっかりと握った。
「そのときは一緒に行きましょうよ。またこういういいお店でいろんな食べ物買いこんで」
「……それは、とても素敵ですね」
口のなかからひびいた声は、とても甘く空洞を満たした。
(了)
※pixivにも同じものを投稿してあります。