甲府市帯那山の山間。山を賑わす木々の枝ぶりは未だ侘しい。
ただし、見通しの良さは一入であった。遠く山々の連なりと、それらを覆う空の暗幕。墨を落としたかの黒海には針で空けた穴、ピンホールめいて細やかな光が点々、点々と、無数に舞い散る。
真夜の枯れ林、闇夜に沈む山は異界であった。
客の為に拓かれた平らかな土にローチェアを置き、焚き火を囲んで隣り合う。
第二の事件現場、山間キャンプ場には己らを除いて客足は皆無であった。
「警察の方にも進展はねぇようだな」
例によって新城から受け取ったスマートホーンの画面を睨みながら独り言ちる。ネットニュースの情報に更新はなく、捜査の難航と広く情報提供を求める旨が添えられるばかり。
「これだけ時間を掛けても犯人を見付けられないものなのか」
「時間掛けりゃいいってもんでもねぇがな、どうやら相当に手詰まりらしい。初動捜査を完全に失敗してやがる」
「初動……この事件は、ただの通り魔ではない、と?」
「二件目、三件目は紛うことなき通り魔だ。いや……計画的な傷害犯といった方がしっくりくる。キャンプ地の人目の無さ、脆弱な防犯状況、悪路狭路にも対応できる
「絶賛だな」
「戯け。反吐が出らぁ」
薪を一本、炎の中に放り込む。火の粉が散り、舞い、闇間に解けた。
「だが、一件目、こいつぁいただけねぇ。他二件とは比べ物にならぬ杜撰さだ」
「確かに。人目が少ないとはいえ、芝生サイトのキャンプ場に、それもテントに押し入って襲ったんだったな」
「そうだ。街灯のない林道、山道、二件目三件目はどちらも暗所から奇襲と離脱を考慮した電撃的な犯行……だってぇのに、朝霧高原の手口はその精彩がまるでねぇ。ほとんど考え無しに突っ込み、無様に草原を走って逃げていやがる。案の定、居合わせた客──リンちゃんにその様を目撃された」
「……やはり一件目だけは衝動的な、怨恨による事件に思えるな」
「ああ、だから前にも言った通り、警察も当初はそう動いた。だが、犯人はおろか物証も出ない。状況証拠は幾らか出たかもしれんが……二件、そして三件目、完全に通り魔として完成された事件が発生した。初動の捜査方針は怨恨から計画犯罪へ、根底から軌道修正を強いられ混乱した。きっと今も本部
古巣の無様を想像しようとして、鼻息と共にそれを払う。
新城はコーヒーを注いだチタンのマグカップをこちらへ寄越した。
受け取るなり、啜る。苦みが、皮肉を噛む口内を洗ってくれる。
「俺ぁこの一件目、それもこの被害者が臭ぇと睨んでる」
「被害者?」
「ああ、厳密には、被害者の連れの女だ。事件当時の行動の不自然さがどうも気に入らねぇ」
「それは私も感じてはいたが……その女が犯人だと、お前は考えているのか」
「公算は高ぇ筈だ」
新城は視線を炎に落とし、その目に猜疑の色を映した。
「警察がその可能性を見落とすだろうか。まず真っ先に疑われるのは被害者と、被害者周辺の人物じゃないのか」
「間違いなく手入れはされたろうな。犯行時刻のアリバイ、指紋、凶器、人間関係とそこに絡む縁故……疑わしいなら容赦なく調べ尽くすのが警察だ。思うに、容疑者は既に絞られている。任意同行、その後の令状も取り、家宅捜索程度はもう終わってるんじゃあねぇか」
「それでも逮捕されていないということは」
「何も出なかった。少なくとも、逮捕に踏み切っちまえるだけの決め手は」
とりわけ物的な、犯行に使われた乗り物や衣服は無論のこと、なにより凶器が、未だに見付かっていない。
「だが、被害者は? 被害者の男が何の証言もしないのは何故だ。犯人が交際相手だというなら……いや、だから庇っているのか? 口裏を合わせて警察の捜査を切り抜けている……?」
「かもしれん。が、そこはまだ想像するしかねぇな。人間の思惑なんざ軽々にわかるものかよ。その御当人ですら時に判然としねぇんだ」
「……厄介だな」
「まったくよ」
被害者が犯人の手助けをする。これ以上に厄介で、かつ意表外な、有効な手段もないのだから。
しかし、その程度で腐る訳にもいくまい。そしてこちらには期せず一枚、手札がある。果たしてこれが切り札なのか、ただ徒に場を混迷させるだけのジョーカーなのか、それは未だ判ずること能わぬ……が。
尻ポケットから取り出したA4用紙のカラーコピーを開く。
「事件当日の現場写真、こいつに何の意味があるかだ」
犬山あおいと大垣千明がはしゃぐ、その奥に小さく写った一棟のテントと一台の車。
「ハッチバックの軽自動車のように見えるが……女の車に同乗してきたのか」
「おいおい爺さん、偏見はよしな。男のものかもしれんぜ」
「ふん、悪かったな。こういう小振りなものは趣味じゃないんだ」
「かかっ、ま、己もこいつぁ女の持ちもんだろうと踏んでる。キャンプが趣味だと抜かす野郎が、こんな車種を選ぶとも思えん。SUVだのワゴンだのってぇならいざ知らずよ」
その理屈で言えば、わざわざこの車を使ってキャンプに赴いていることが既にして奇妙ではある。
不合理、不自然、粗を探し始めれば切りがない。脳味噌の煮え立ちを覚え、腹から唸り声を上げて夜天を仰いだ。
澄んだ無間の闇に、川の濁流めいて星々が光っていた。外から眺める山の峰ではなく、山の中から望む景色も悪くはない。景色だけは。
舌打ちして。
「寒ぃ! くっそ寒ぃ。あぁあぁ現場百遍なんて誰が言い出したかねぇ」
「お前だ」
「そうよ、この俺よ。糞ったれ」
春の息吹は未だ覚えず、冬の名残と呼ぶのも憚る極寒気が強かに山を覆っていた。雪とてまだまだ融け残って、ここが冬山であることを主張する。
「何が楽しくてこんな面倒をやりたがるかねぇ、キャンパーってぇ連中はよ。寒いわ、寝床は固ぇわ、洟は煤で真っ黒だわ、輪を掛けて寒いわ! はぁっ、気が知れねぇ」
「お前に堪え性が無いんだ。いい齢の老人が文句ばかりまったく。子供の方がまだしも楽しみ方を心得てるだろうな」
「へんっ、俺ぁ世の意見を忌憚なく代弁してやってんのさ。アウトドアなんてハイカラに言いやがって、ただの野営じゃねぇかこんなもんはよ」
「身も蓋も情緒もないことを言うな! なおかつ烏滸がましいぞ。魅力を理解しろとは言わないが、世の中がお前のような偏屈者と同意見なものか」
尤もな叱責を馬耳東風と、暖かなコーヒーを飲み干してせめて胃の腑に熱を蓄える。
生粋の寒がりにとって冬のキャンプなど苦行か荒行の類。体を温められるだけ温めたなら、とっとと寝袋に納まって寝入ってしまうのが上策だ。
情緒もへったくれもない。自然の只中で過ごすことの趣など、己には無縁の楽しみであった。
「本当に筋金入りだよ、お前は。よくそれでキャンパーを襲う切り裂き魔相手に血道を上げられるな」
「どういう意味だこら。キャンプ嫌いだから見過ごすとでも言いてぇのかおい。このすっとこどっこい」
「そうは言わん。しかし、不思議ではあった。初めからお前はこの犯人に随分と憤っていたろう」
真面目腐った面で何を言い出すかと思えば。下らぬ。今更、犯罪行為の是非を法学者よろしく論議する気は毛頭ない。そんな上等な、叡哲な思考遊戯を弄ぶ趣味もない。
この粗略漢がそんな真似をしたとて、門前の小僧のような愛嬌すら望めぬだろう。
ひとえに下らぬ。
我が身を衝き動かす理由に、そんな大層なものは不要だ。
「気に入らねぇのさ」
「……」
「真っ当な堅気衆、真っ当に生きる市民をよ。どういう訳か知りゃしねぇが、無法に脅かす奴輩が俺ぁ気に入らねぇ。己の勘だが、この
「それはまた、立派な正義感だな」
「馬鹿野郎、そんなんじゃねぇ」
茶化す旧馴染みに睨みを呉れてから、砕けて昇る炎に目を落とす。
「俺ぁキャンプは嫌ぇだが、キャンプしてる物好き見んなぁ嫌いじゃねぇ。それだけだ」
「……ふっ、ははっ、なんだそれは」
吐き捨てるように言うと、新城は噴き出して笑い始めた。
「うるせぇよ。あ゛ぁ寒ぃ! 俺ぁもう寝るぜ。えぇいくそ寝袋も
「マットはないのか。敷けば多少はマシになるぞ」
「んな上等なもんはねぇよ。体はともかく哲也本人は寒さに強かったらしいぜ」
「ふむ……使い古しのフォームマットがあった気がするが」
「お、あるのか」
「志摩の家にだ」
「んだよ」
「……明日、取りに行ってみるか」
ぽつりと新城は言った。何気なしの風を装って。
問い質すまでもなく含むものがある。なにやら込み入った、気兼ねが。
一体この老い耄れは何を慮ったのだろう。どんな要らぬ世話を焼こうと言うのだろう。
「ならば有り難く、借りるとするかね。このまんまじゃ遠からず風邪っぴきだ」
「……そうか」
そして己も知らぬふりで応える。それがなんであれ、応えてやらねばなるまい。
あと幾度、その機会が巡るだろう。あとどれほど、己には時間が残っているのか。
「顔見に行くくれぇなら罰は当たらねぇだろ」
「…………」
爆ぜ木が鳴いた。
朱く火の粉が舞い、天へ昇る。
「キャンプがしたい」
その呟きは思った以上に切実な響きで漏れた。
もう二ヶ月近く、どこにも行けていない。最後に赴いたのは富士宮の朝霧高原、鳥羽先生引率のもと野クルメンバーに斎藤と自分を加えたグルキャン、クリスマスキャンプだった。
初体験のグルキャンは、自分の想像よりも、幾分、いや正直に言えばかなり、楽しかった。焚火を大勢で囲む賑やかさはひたすら新鮮で、寂しさや静けさとは縁遠い。
ソロキャンとグルキャンには、まったく違った魅力があった。
その再確認を得られたことは自分にとってはむしろ幸いで。それは次のソロキャンに対する高いモチベーションにもなった。
キャンプに行きたい。ソロキャンをしたい。
自分が思ったより、キャンプという趣味にドハマりしていることを知る。最初は祖父のお下がりを実際に使ってみたかったという程度だった。慣れない設営や寒空の焚火のあの暖かさ、キャンプご飯の失敗と、母が持たせてくれたカレー麺の味。そういう全部が、自分は嫌いじゃないと気が付いた。
────リンちゃんは、好きなことやれてるかい
うん。一つ、見付けたよ
縁側に座るその人に私は駆け寄る。
するとじん爺は大きな手で頭を撫でてくれた。節くれ立った武骨で、太い指で、分厚い掌で。
────リンちゃんはいい子だなぁ。あぁいい子だ。とってもいい子だ
何度も何度もじん爺はそう言って、私の頭を撫でてくれる。それが嬉しいから、私も何度もそれをねだった。
じん爺が家に来なくなったのは、いつからだったろう。
いつから私は、じん爺を思い出さないようにしていたのだろう。
祖父の寂しげな背中を見た時。母が電話口で涙を流すのを見た時。父が辛そうな顔でその肩を抱いていた時。
違う。
────ごめんな、リンちゃん
やだ
────じん爺もう、ここへは来れねんだ
やだよ
────元気でな
いかないで。また、来てよ。私、いい子にするから。いい子にして、待ってるから。だから。
いっちゃやだ!
玄関戸は細心の注意を払って閉じる。我ながら無音を貫けた。
がさがさと鳴るダウンコートの衣擦れが厭わしい。予め積んでおく訳にもいかなかった各種大荷物を一挙に抱えて、愛車ビーノが鎮座する玄関脇へそそくさ。
サイドバック、座席後部に荷物を積み込み、手押しで家から離れる。エンジン音を聞かれて母に見咎められればもはや言い逃れもできない。
言い逃れ……。
「下見、だから……これは下見……! キャンパーとして当然の、備え……!」
なにやら以前千明が持ってきていた漫画にしこたまインスパイアされた自己正当化を自分に施して、家から十分に遠ざかり、エンジンを掛ける。
「……ごめんお母さん、夜までには帰るから」
謝罪を口にしてからふと思い立ち、スマホの電源を落とした。念の為。
置手紙に気付いたら、母から鬼のように電話がかかってくるだろう。
「いってきます」