じじキャン△   作:足洗

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※優しい世界崩壊中!※優しい世界崩壊中!




11話 肉薄

 

 

 

 眼下に反木(そろき)川を望む。ガードレールに阻まれ、岩壁を剃り上げるように国道が走っている。志摩家は山肌に寄り添うようにしてそこにあった。五年前と何一つ変わらぬ姿で。

 建屋の脇にシルバーのSUVが見えない。どうやら渉君は既に仕事に出ているようだ。

 代わりにそこへ側車付のボンネビルを押し込んだ。

 

「たかだか五、六年ぶりだってぇのに、なんだな。矢鱈に懐かしいぜ」

「……その間、お前は何をしていたんだ。死後の世界とやらにいたのか」

「さて、どうだったかねぇ」

「……」

 

 隣に立った新城と家屋を仰ぐ。二階建ての一軒家は、小造だが良い姿をしている。団欒と快語、幼子のはしゃぐ声が満堂する。耳孔に響くものは懐古だった。

 

「ま、ここほど良いところでも、聞くほど悪ぃところでもねぇ」

「……そうか」

「お前さんは精々ゆっくり来な。てめぇの面ぁそろそろ見飽きちまってよ。もう暫くは拝みたかねぇや。かっかっかっ!」

「ふっ、お前の憎まれ口を死んでからも聞かされる身にもなれ」

「有り難く思いな」

「馬鹿め」

 

 言って新城がインターホンを押し、一応とノブを回す。用心なこと、きちんと鍵は掛かっているようだ。

 見知らぬ少年を連れて訪れた父親、そして祖父を、咲ちゃんらはどう思うやら。腹の中でなんぞ上手い言い訳はないものかと一つ二つ練っていると、扉の向こうで足音が立った。扉脇の曇りガラス越しに人影を見止める。

 

「はい……?」

「私だ。少し用があって寄った」

「!」

 

 短く息を切るような、どうしてかそんな気配を覚えた。

 サムターンが回され、扉が引かれる。そこには当然に声の主が、その懐かしい姿があった。

 病床で迎えた切りだったが、驚くほど変わっていない。短く柔らかな形で切り揃えられた髪は清潔だが洒落っ気もある。灰色の徳利セーターと赤いズボン。落ち着いた装いは大人びている筈なのだが、この眼には一向にその姿は娘子のようにしか映らないのだ。

 子供の頃からこの娘は、咲ちゃんは変わらない。

 変わらず愛らしいその顔が今────恐慌に翳っていた。焦り、乱れ、不安を露わにして。

 

「父さん! 山梨に来てたのね……」

「あ、ああ。どうしたんだ一体」

「リンがっ、リンが」

 

 居間に取って返し、戻ってきた咲ちゃんは一枚の紙を新城へ差し出す。その肩越しに紙面を覗いた。

 それはどうやらリンちゃんの認めた手紙であった。

 

 ────

 

 静岡の磐田にある竜洋の森キャンプ場に行ってきます。

 宿泊はしません。日帰りで済ませます。

 現地に着いたら一度連絡するので、ご心配なく。

 帰る時間はちょっと遅くなるかもしれません。ごめんなさい。

 

 リン

 

 ────

 

 可愛らしい綺麗な字で実に端的に要件をまとめてある。

 実に端的で、(すこぶ)る肝の冷える内容であった。

 

「お昼が要るか聞きに行ったらそれが部屋の机に……私てっきりまた本に集中して、中に篭ってるんだとばっかり。あぁもうあの子ったら! 物騒だからってあれほど言ったのに!」

「咲、咲! 落ち着くんだ。最後にリンを見たのは何時だい」

 

 咲ちゃん、いや母御は額に手の甲を押し付けて焦燥する。

 その肩に手をやって、極力静謐に、その父たる新城は問うた。

 

「……朝ご飯は食べてた。制服をクリーニングに出すから居間に置いといてって……9時頃にはもう姿が見えなかった」

「そうか……」

 

 今の時刻は15時前。

 原付で一般道を走るとして磐田まで四、五時間といったところか。早ければ既に目的地に到着している頃合いだ。

 喘鳴交じりの吐息。咲ちゃんは顔を覆って俯いた。

 

「……そうそう滅多なことなんて起きない。心配のし過ぎだって……わかってる。わかってるけど、でも……あの子携帯にも出なくてっ」

「いいや、当然のことだ。渉くんには連絡したのか?」

「ついさっき……職場から車で迎えに行くって言ってたけど……」

「そうか」

「……もぉ、リン……!」

 

 そう呼ばわる声には叱るような険と、ただ想い遣るばかりの憂いが同居する。母が子を想って、涙を堪えていた。

 その様をして大袈裟と誰が笑おう。仮に、軽々に事なかれなどと浅慮を吹く輩がこの場に在らば、その口を縫い合わせてやる。

 ……焦れているのは己も同じか。

 ならばそのように、慌て、急いて、迅速に動くまで。

 密かに強張るその背中、誰あろう娘の前で不安など晒すまいとするその男の、ライダースジャケットの肩を叩いた。

 

「高速なら二時間弱だ」

「!」

「行くぜ」

「ああ」

 

 反問反駁の要は一切合切あらぬ。

 己がまずボンネビルに乗り込み、シートのヘルメットを新城へ投げる。

 それを受け取り装着しながら新城は、父は再び娘の肩に手を置いた。

 咲ちゃんは戸惑いの目で父親を見上げて、次いでこちらを見る。居合わせただけの、何処の誰ともわからぬ少年を。

 

「あの、あなたは……?」

「うぅん? そうさな……この爺さんの悪さ仲間ってぇとこさ。現地で娘さん探すにしろ分ける手は多い方がよかろうや」

「は、はあ……」

「不安であろうが、今暫く辛抱してくんな」

 

 新城がエンジンを掛ける。吐息するように電装が起ち上がり、次いで金属質な獣の咆哮がアスファルトを吹き払った。

 ギアをローから半クラッチへ、タイヤが地を噛み、牛歩の如き前進を始める。しかしそれもほんの一瞬、次の瞬間にはアクセルが解き放たれ、鉄騎は爆発的な疾駆に達する。

 その僅かな、刹那に。

 大きくなった娘子の、昔も今も立派な母で在り続けるその子の姿に、己は微笑んでいた。

 

「立派になったな、咲ちゃん」

「え」

「そんでちっとも変わらねぇ。相っ変わらずの美人だ。ハハハッ!」

 

 困惑か、もの問いか、あるいはもっと別の何かを口にしようとした咲ちゃんの声を内燃機関の嘶きが掻き消した。

 単車が奔り出す。道程は長い。だが一跨ぎだ。

 逸る心持ちをそう欺瞞して一路、磐田を目指した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「海、よかった……」

 

 御前崎の臨海道路を、寒さに震えながら疾駆すること数時間。目的地の竜洋の森キャンプ場に着く頃には顔から手先からすっかり凍えてしまっていた。

 とはいえ、眩しいくらいの快晴と雄大な海原の景色は、最高だった。

 

「でもやっぱり、スクリーン無しは無謀だったかも……」

 

 自販機で買ったミルクティーで暖を取りながら、芝生サイトに荷物を放る。日帰りだし、それほど時間に余裕もないのでテントは置いてきた。

 ローチェアと焚火台を設置して、何はともあれ火を熾す。

 薪を削り上げて作ったフェザースティックの使い勝手に地味に感動を覚えながら、立ち昇る炎を前にようやく人心地ついた。

 

「はあ……もうこんな時間か」

 

 赤い太陽が海と陸の丁度境目に沈もうとしている。家を出たのは11時過ぎ。出発が遅かったとはいえ、寄り道も多かったし結構時間が掛かってしまった。

 まだまだキャンパーにとってはオフシーズン、客足が少ないのは自然なことだ。けれど、そういう理由を差し引いても、周囲には自分以外人っ子一人、普段なら一定数は居てもおかしくない閑散期を狙ったキャンパーすら、姿がなかった。

 ご時勢というやつ。通り魔のニュースは一月下旬を最後にふっつりと途切れたが、未だに犯人が逮捕されたなんて報道もされていない。

 それなのに、自分はこんなところで焚火に当って海を眺めている。

 沸々と罪悪感がわいた。随分、今更だけど。

 

「帰ったらちゃんと謝らないとな……」

 

 その前にまず母から、正座でお説教コースは確定だ。そしてきっと、キャンプどころかちょっとした遠出すら禁止令が発されるに違いない。キャンプ道具、下手をすれば原付まで取り上げられて……は、早まったかな。もしかしなくても、かなり。下見下見と言い訳をして無理を押して来る必要はなかったんじゃないだろうか。

 後悔が背筋をにじり上ってくる。間違いなく、今更だった。

 

「ぐっ……ならせめて」

 

 夕焼け小焼けの大海原をこの目に焼き付けて帰ろう。それは多分、死刑執行を前に最期の希望を融通される囚人と似たような心理だったけれど。

 考えないように、ただ、素晴らしい景色を求めて。

 火を消し、しっかりと燃え残りを処理してからサイトを出た。

 

「ミルクティー飲み過ぎた……」

 

 ついでに、いい場所にトイレを探しに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 新城の駆るボンネビルがキャンプ場の駐車場に滑り込んだ時には、既に西日は隠れていた。辺りは刻刻、夜闇のビロードが一枚また一枚と厚みを増していく。視界が鮮明さを失っていくにつれ、潮騒がやけに耳に障る。

 まず真っ先に管理棟の受付へ飛び込んだ。

 客足の無さが功を奏し、リンちゃんの人相風体を従業員はしっかりと覚えていた。

 

「チェックアウトした……!?」

「は、はい。ほんの20分くらい前に」

 

 間の悪さ、験の悪さが鼻につく。項の辺りに嫌な疼痛を覚えた。

 予感などという実質なんの役にも立たぬただひたすらの、この不快感。そして性質の悪いことに、悪いものほどよく当たる。

 駐車場に取って返し、屋外照明に浮かび上がる黒い車体を囲んだ。

 

「そう遠くへは行っていまい。手分けするぞ」

「私は大通り沿いを西へ流す」

「なら俺ぁ海岸沿いを東だ。10分置きに定期連絡」

「了解」

 

 法定速度に喧嘩を売る走りっぷりのこちらに対して、渉君は常識的な範囲を守って急ぎ向かっている。むしろ好都合、相対で向かい合いながらであれば捜索もよりつぶさに叶う。

 駐車場から走り去るボンネビルを横目に、海岸線に寄り添う道へ飛び出す。

 走りながら周囲へ視線を這わせ、少女の姿を探した。おそらく、この老いた記憶よりもずっと大きくなった姿を。

 だがわかる。わからいでか。誰を忘れても、あの娘子を見間違えるものかよ。

 

「っ! えぇい……!」

 

 舌打ち、そして苛立ちの呻きが喉から溢れる。止め処なく。

 焦燥、焦燥、全身を焼くこの、悪寒。

 ────犯人(ホシ)は狙ってか偶然にか、山間から麓まで、兎角山野森林の色濃いキャンプ地を襲った。人目が無く逃走が容易であるから。当然警察もその辺りに対する警邏巡回を強化したろう。二件目から三件目に掛けてのインターバルの長さ、長野くんだりまで足を伸ばしやがったのもそれが所以。

 その意表を衝くなら(ここ)だ。

 単純計算、短絡思考、その極み。だが、どうしてそれを笑えよう。その可能性、切って捨ててしまえる。

 地を踏む蹴り脚は一歩毎に鋭さを増した。疾走する。

 身に纏い付く潮騒を引き裂いて、走る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 海沿いの霊園を横目に過ぎて、もう暫く走るとそこにはテトラポットで区切られた小さな海岸があった。区切ったといっても、別に土地を切り分けてこうなったという訳ではないのだろう。

 白波が、もっと白い砂浜で寄せて返す。堤防もない。海水浴客用の建屋もない。真っ新な浜辺、海。まるでプライベートビーチのような光景だった。

 

「おお……あ」

 

 進行方向の果て、海岸の終わり、暗闇の中にぽつりと灯りが見える。

 公衆トイレだった。運がいい。なんてったって……漏れそうだったから。

 サイトを出る時に済ませておけばよかったと気付いたのは出発した後のこと。無計画過ぎる。それも旅の醍醐味とか関係なしの、ただの考え無しに。

 とにもかくにも原付を停めて、そそくさとトイレに入った。

 その時、不意に。

 

「……?」

 

 近付いてくるバイクの音を聞いた。

 

 

 数分もせず小用を済ませて、洗った手をハンカチで拭う。癖というか、ルーティンというか、ポケットからスマホを取り出し電源ボタンを押し……押しても画面が明転しないことに気が付いた。当然だ。電源自体を落としているんだから。

 

「ぁ……」

 

 どうして電源を切ったのだったろうかと記憶が一日を遡りその瞬間──どっ、と全身から冷や汗が吹き出した。

 自分は置手紙になんと書いた。一体どれほどの時間、着信を無視し続けていたのか。

 震える手で、電源を長押しし端末を起動する。機種のロゴと読み込み中を示す光の回転グラフィックが実にじれったい。でも半ば、このまま点かないで欲しいとも思った。いやわりと本気で願った。

 ホーム画面が表れた瞬間、スマホが震え上がる。

 

「のぉっ!」

 

 もちろんそれは普段通りのバイブレーションなのだけれど、そこになにか母の烈火の怒りを感じた。後ろめたさが見せる錯覚である。

 

「あ」

 

 錯覚でも恐いものは恐い。思わず、スマホを手元から取り落としてしまった。

 反射的に、落ちるスマホを追って上体を屈む。

 

 ぶおん

 

 風切り。

 それは音。そして、今度こそ錯覚ではなく現実の。

 

「──へ?」

 

 後頭部を素早く、何かが過った。そういう感触。そうとしか言えない。髪に僅かな乱れを覚えた。

 振り返る。そこに。

 

 

 ────黒い影が立っていた。

 

 

 影は人の形をしていた。違う。影は人だ。

 トイレの薄暗い蛍光灯、日暮れ直後の深い暗闇。そんな中で、その人は黒いコートを着ているものだから、人型の影のように輪郭がぼやけてしまう。

 膝丈のコート、すっぽりとフードを被っている。そのフードの下の穴に、顔が無い。どうしてか見えない。

 常識で考えれば、覆面か何かしているから、表情もなにも見て取れないだけなのだろう。だのに、自分には、フードの下に空いた洞穴が、どこまでもどこまでも底無しに暗黒へ、この世でないどこかへと繋がっているように。

 そんな風に見えた。

 左手で鈍く、蛍光灯に照らされ光沢を放つものが握られている。金槌だった。

 思い至る。そうか、さっきはそれで、私は殴られそうになったのだ。緩慢な理解がミルクのように脳を満たす。どこまでもゆっくりと。

 そして、その右手に。

 それは自ら発光して見えた。それもまたそう見えるだけだ。自分がそう()()()()だけだ。

 だって。

 だって。

 あんまりにも、おそろしいから。その。

 その大鉈が。

 自分が普段使う薪を切る為のものと、全然違う。あまりに違う。

 長くて、大きくて、分厚くて、鋭い。漫画に出てくる剣のようだ。枝どころか、人の腕だって切ってしまえそうだ。

 

 ────犯人は大振りな、山刀と呼ばれる刃物を使っていると見られ

 

 聞き流しにしていたニュースキャスターの言葉を思い出す。

 犯人は、山刀を。

 犯人。通り魔。

 キャンパー切り裂き魔。

 私の前に、切り裂き魔が立っている。

 切り裂き魔が──山刀を振り上げた。

 何も考えていなかった。考えることなんてできなかった。ただ無意識に、腕で顔を庇った。防御しようなんて意図じゃない、ただの反射。

 足はばたばたと、ただひたすら後ろへ後ろへと下がった。縁石に踵をぶつけて尻餅をつく。

 空気を一際鋭く甲高く、引き裂く音色。さっきとはまるで違う、痛い音。音がもう痛かった。

 そして、腕が熱い。

 左腕がかっと、焚火の火を直に浴びたように熱かった。

 

「はっ、はぁ、はぁっ、ひ、は、はぁ、はっ、あ、ぁ、ひ、ぃ、い……!」

 

 声は出なかった。叫ぶこともできない。喉からは下手くそな縦笛みたいな息が漏れ出るだけ。

 呼吸すらままならない。息ができない。

 恐くて、体が竦む。恐くて立てない。恐くて動けない。何も、何もできない。

 黒い影が来る。一歩、一歩、こちらに近付いてくる。

 恐い。恐いよ。恐いよ。

 いやだ。恐い。助けて。恐い。誰か。誰か。

 お母さん、お父さん。

 助けて、おじいちゃん。

 

 助けて────じん爺

 

 夜空に、刃が閃いた。

 私は目を閉じ、息を止めた。

 

 

「おいッ!!!」

 

 

 体が震え上がる。その音のあまりの強さに。音が現実の衝撃になって私の体を叩いた。

 さっきの鋭くて、無機質な音とは違う。それはもっと破壊的なものだ。それはどこまでも熱を持っている。感情そのものを音にして放ったような烈しさで。

 震えたのは黒い影の方も同じだった。弾けたように声の出所に振り返る。

 足音。地面を削り飛ばすような勢いで、その人は来た。

 青いウインドブレーカー、暗がりを裂くような、目の醒めるような青が。

 黒い影がまた、動く。金槌だ。走り寄ってくるその人に一息で、釘でも打つみたいに上から叩き付けた。

 

 かしゅん

 

 青い誰かの、その右手が振るわれる。そんな軽い音を立てて、それはまるで手の中から突然現れたみたいに。

 金属の棒が伸びて、下から掬い上げる。金槌を。

 弾き飛ばした。

 金槌が宙を泳ぐ。夜空を回転するそれはスローモーションのように鮮明で、どこか間が抜けてた。

 影は、動揺した。驚きに肩を跳ねさせて、後退る。影に、初めて人間らしい所作を見た。

 青い人、何故か驚いてしまうほど幼い顔が私を見た。どう見ても同い年くらいの少年。少年にしか見えない。

 その人の眼が、不思議だった。

 そこにはたくさんの色があった。驚いて、戸惑って、ほんの一瞬だけ和らいだ。感情という色があんまりにもたくさん混ざり過ぎて、元の色をわからなくしてる。

 でも、何故か。一つだけ、わかる。どうしてそんなことを思ったのか自分でもわからない。意味不明だった。けど、確かに。

 ────私はこの人に愛されてる。

 少年の眼が前を向く。一瞬の優しさは消えてなくなって、そこにあるのは一つだけ。

 

「やりやがったな」

 

 それは前に、その影に向けられていた。

 山刀を持った切り裂き魔を睨み付けて、その人は、腹の底から火を噴くように。

 

「おのれぇッッ……!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒コート、手に山刀。打ち飛ばした金槌。揃った。確定だ。現行犯である。

 眼前に立つものこそはこの巷間を騒がせし切り裂き魔。探し求めた唯一の手掛かり。

 そんなことはどうでもいい。

 今すぐに縄をくれてやる。

 手心なく、容赦せず、断じて許さん。

 傍らのへたり込んだ少女の左腕に走った裂傷から、赤いものが滲んでいた。

 

「得物を捨ててそこに直れ。二度は言わん」

 

 三段伸縮式特殊警棒の尖端を向け、言い放つ。

 切り裂き魔はしかし、動かず。こちらの意図を汲み逃したなどという言い訳は聞かぬ。

 踏み込む。

 一撃で済む。凶器を握るその右手首を粉砕し、警棒で腕を絡めそのまま引き倒す。

 これらは一挙に能う。

 一呼吸の間で、終わらせてくれる。

 踏鳴の足下が地を打ち抜く。上段、対手の構えもままらぬ内に、その手首を外側から────

 

 ────視界が、色を失くす。

 

「!?」

 

 遠ざかる。全てが。視覚から聴覚、嗅覚、味覚、触覚すら。

 全てが消えてなくなる。

 それを理解できぬ。この現象。この不調。しかし確実に言えることが一つ。

 この打ち込みは────仕損じる。

 それでも警棒は命中した。対手の右手首を打った。しかし浅い。あまりにも。凶器を取り落とさせることすらできぬ。

 

「っ」

 

 舌打ちして、さらに前進。この儀、この上、逃すものか。

 肉体が満足にこちらの命令を聞けぬと言うなら、相手の体を掴み、組み伏せ、己が身を重石として捕える。

 それでいい。それで、万事は解決へ。

 その時、影が、打たれた右手を振るった。不十分な威力とはいえ、相応の痛みと傷みを負ったそんな腕では、それこそ凶器など満足に振るえまい。

 しかし、敵は凶器を振るったのではなかった。

 投げたのだ。

 あろうことか、背後の少女目掛けて。

 

「戯けろッ!!」

 

 転身、時計回りに体軸を回す。

 刃は己の左肩を逸れ、行き過ぎようとしている。

 それを、警棒で迎え打つ。バットの左打ちの要領で叩き飛ばす。

 山刀は空中を高速回転した後、落下して少女のすぐ背後、地面へ突き刺さった。

 それを認め、安堵を噛む暇もない。

 振り返った時、その黒コート姿はトイレの真裏から飛び出してきた。

 赤い車体が咆哮する。それはオフロードバイクだった。

 バイクは脇道を抜けて走り去っていった。後塵を拝するというならせめて、と目を凝らす。しかしナンバープレートにもしっかりと覆いがされていた。

 エンジン音が遠ざかる。それをただ、己は見送るよりなかった。

 

「……間抜け」

 

 悪態で己が身を打つ。それ以外にやり様もなかった。

 そして今、この時、真にすべきことはそんな自己満足ではない。

 踵を返して、未だに地面に座り込んだ少女のもとへ。

 

「大丈夫かい」

「へ……ぁ、は、はい……」

 

 呆然と、少女の応えは鈍かった。この状況の、全てが未だに咀嚼できていないのだ。無理もなかった。

 

「腕、見せてくれるかい?」

「……」

「ありがとう」

 

 言われるがまま、緩慢な動作で左腕が差し出される。

 ダウンコートと肌着、その下の重ね着も手伝って傷は予想より浅い。またしても吐き出しそうになる安堵の気息を飲み下し、ポケットからハンドタオルを取り出す。

 

「こいつで傷口を押さえるんだ。服の上からでいい。痛ぇかもしれねぇが我慢してくれ」

「は、ぃ」

「……」

 

 言われた通りに少女は動く。こちらの言葉を理解はしている。

 だが、心はまだ凍り付いたままだ。凍らせねば耐えられなかったろう。

 害される恐怖など、この娘に、味わわせてしまった。

 

「……今、おじいちゃんを呼ぶからな」

「……おじい、ちゃん……? どうし、て」

「うん? 俺達ゃちょっとした……友達なのさ」

 

 携帯端末で新の字を呼び出す。

 呼び出し音もそこそこに、新城へ端的な現状と、場所を伝えた。

 

『リンは!? 無事なんだな!?』

「命に別状はねぇ。病院へはお前さんが連れてってやれ。俺は現場で警察を待つ……新の字」

 

 そうして通話を切る直前。

 

「……すまねぇ」

『……お前の所為じゃない』

 

 噛み締めるように新城は言った。

 返すべき言葉などなかった。通話を終える。

 次に警察への通報を済ませてしまえば、後は待つしかない。

 傍らで縮こまる少女の、その華奢な肩に脱いだ上着を掛けた。全身を細かに伝う震え。底冷えする恐怖に、少女はただ俯いた。

 

「……」

 

 その姿が、痛ましい。労しい。

 己は今ようやく、望外の、在り得ぬ奇跡の価値を知った。もはや見ることなどできない筈だった、その姿。成長したこの娘子の姿を、遂に望むことが叶ったというのに。

 こんな、こんな、憐れな。

 

「……すまんかったな」

「……」

 

 ぼんやりとして、少女は己を見上げた。

 その顔に笑みを向ける。間違いなく不格好な、下手糞な笑みを。自己の痛みすら隠し果せぬ、笑み。

 

「恐かったろう……痛かったろう……可哀想になぁ……すまねぇなぁ。すまねぇ……」

「ぁ……」

 

 そっとその頭を撫でる。うっかりと潰してしまうのではないかと思うほど小さな。そして繊細な感触の髪を。

 労しかった。

 

「っ、あ……ぅ……っ、うぁ……」

 

 少女はしゃくり上げ、その大きな目を涙で一杯にした。

 凍っていたものが溢れ出る。ようやく、ようやくに。

 

「あぁっ、あぁぁあああッッ! っ! うぅ、ぁああぁあ!」

 

 泣き声を上げて胸に縋る少女の、細い背中を擦る。

 夜闇に響くその声はひたすらに、己の胸を衝いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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