え、ラブコメってどうやって書くの……?
あの男の病室を訪ねるとき、いつもそれを嗅いでいた。
病院の救急外来に人気はなかった。受付に向かって待ち合いの為のシートがずらりと並んでいるが、座っているのは自分一人。
時折、廊下の先の丁字路を忙しなく看護師の白い姿が横切った。遠く切れ切れに響く音が、話し声なのか医療器具の震動なのか、それとももっと別の……何れにせよ、わからない。
しかし、わかることも一つ。
この消毒液と各種薬品臭には馴染みがある。不二崎が入院していた山梨県立総合病院も、自身が掛かり付ける個人医院も、どの病院であっても、この臭いの本質は変わらない。
死。
潔癖の極みのようなこの白い空間には、その中心に、血の滴めいて眼にも痛ましいそんなものが静止している。
勿論、それは目に見えず、聞こえず、触れられもしない。
ただ、臭い立つのだ。死の香とは。鼻腔から脳幹を直に撫で付ける粘性を持った気体、のようなもの。
齢を数えるほど五感は次々に衰えていくというのに、この臭いはより一層なお色濃く芳醇に強く、強く。この身に親しむ。
それは、きっと正しい。老いとはそういうものだ。そう在るべきものだ。
いつか来るその時を、心静かに待てばいい。
しかし、これは。
これは駄目だ。在ってはならない。在ってよい筈がない。
老い先も数えるほどの自分ではなく、何故。何の罪も咎もないあの娘が、何故。
あの娘が、この香の中にいる。その事実に、自身は戦慄する。
無窮の恐怖を覚えた。
病気や事故、天命とやらがもたらす出来事ならばまだ、諦めもつく。覚悟も負えよう。
しかしこれは。こんな。人災に。まるで煮えた泥のような悪意にあの娘が曝されるなど。
握った拳が震える。怒りと憎しみ、そして……恐れが。
大切なものが傷つけられてしまった。その事実が全身を震撼させる。何度でも。
「……」
「新の字」
「!」
忘我の境に差し込まれる声。はっとして上げたその面前に、少年が佇んでいた。
少年の、薙原哲也の姿をした────
「不二崎……来ていたのか」
「今し方な。こってり絞られたよ」
口の端を上げ、肩を竦める。
不二崎はそのまま三人掛けのシートの端に腰掛けた。
「リンちゃんの容態はどうだった」
「お前の見立ての通り、軽い切り傷だ。きちんと養生すれば痕も残らないと医者は言っていた」
「……そうか」
男は音もなく吐息する。肺腑に蟠っていたものを少しずつ注意深く切り分けて取り除くように。
軽々に安堵を噛もうとしない。それは、この男なりの自戒……自罰なのかもしれない。
「まず真っ先にお前さんを呼び出したなぁ我ながら巧い手配りだった。救急なんて目じゃねぇ速さだ」
「褒められたことではない」
「あと警棒だ。ありゃお前さんに預けて正解だったぜ。あんなもん見咎められた日にゃ今頃も俺ぁ警察署で足止めだったろうよ」
「それに関しては、むしろその方がよかったかもしれん」
「勘弁しろぃ。この齢で懇々説教喰らう身にもなれってんだ」
言って、辟易と椅子の背もたれに沈む。まるきり非行少年の有様だ。
「……通報から五分で緊急配備が布かれたらしいが、取り逃がした」
「……」
安堵の代わりとばかりに不二崎は胆を嘗め、苦汁を噛み締めて飲み下した。歪む面相、尖る眼光。男は憤怒していた。
ごりごりと奥歯から軋みが上がる。握り固められた拳は血流が滞り色を変えた。
「……」
「凶器は押収された。標的を殴打する為の金槌、そして例の山刀だ。二ヶ月掛けてようやく物証が出てきた訳だ。もしかすりゃ物から足がつくかもしれん」
「……逮捕も、時間の問題か」
「ああ。認めたかねぇが、今までは間違いなく犯人に天運があった。警察は後手後手、出る筈の証拠が出ず、被害者の一人に至っては犯人に助勢したかもしれねぇときた。が……それもこれまでよ」
不二崎は言う。己自身を詰り、そう言い聞かせ、吼えるように。
「……なんてな。もし俺が本部長張るとなったら、こう言って面子を鼓舞したかもしれねぇ」
「……ふ」
冗談めかしな言い様に、一吹き分笑う。
「となれば、急がねばなるまい」
「……なに」
続け様に不二崎は言った。当然の、それは決心に対する再確認行為
この男は、まだ。
「警察が犯人を確保するより先に見付け出し、今度こそ捕らえてくれる」
「お前は」
「なぁに当てがねぇ訳じゃねぇ。こいつはまだ推測の域を出ねぇことだが、第一の事件の被害者ってぇのはもしかすりゃ……」
「お前はまだ、続けるつもりなのか」
僅かに見開かれた目がこちらを捉える。意表外、そんな顔で。
「当たりめぇだ。俺達の目的を忘れたかよ。この体を元の持ち主に、哲也に返してやるんだろうが。その為にゃ、この切り裂き魔と差し向かう必要がある。どうしたってな」
「……その果てにどうなる」
「おい……何が言いてぇ」
「お前は、どうなる」
「どうもこうも、元通りさ」
「死ぬというのか」
「死んだんだよ、とっくの昔に。不二崎甚三郎なんてぇ爺は」
「それに………………何の意味がある」
「────」
今度こそ、不二崎は絶句した。
そして次の刹那に、その眼は猛禽の鋭さに変わる。
「新の字……てめぇ妙なことを抜かす気じゃあねぇだろうな」
「お前こそ。元に戻る、体を返すと軽々しく言うが、それが叶う保証がどこにある」
「保証なんてもんは初めっからどこにもありゃしねぇよ。まるっきり手探りだ。だがやらねぇ訳にいくか」
「切り裂き魔に会えば、哲也くんが戻るとでも言うのか」
「わからん」
「哲也くんが……生きているという保証は、あるのか」
「……」
証、証、それを見せろとこの口は宣う。そんなものがどこにもありはしないと知りながら。
知りながら、それでも私は難題を無責任に押し付けた。隣り合うその、少年の姿をした友に。
あるいは……あるいは別の道も、と。
「仮に……その体の中でまだ、薙原哲也という少年の精神が眠っているなら、それこそ待てばいい。切り裂き魔なんてものは警察に投げろ。犯罪者を逮捕するのが警察の仕事だ。職務だ。時間の問題と言うなら、それで……時間に、任せてしまえばいい。それが何かの病なら、自然に治癒するかもしれない。ある日、突然に……ある日突然にお前が、不二崎甚三郎が宿ってしまったように、彼も戻ってくるかもしれない」
「……」
「お前は言ったな。これは神か天魔の仕業だと。人間の手では届かない奈辺の意思だと。なら……それは奇跡だ」
欺瞞。虚言。空言。理解する。自身の口にするそれらの、意味。魂胆を。
「生き返ったとは、思えないか。第二の人生を与えられたとは……!」
恥を知らない。厚顔なる言い様。
それを圧して、それでも私は。私は。
「……生きてるさ。生きてるじゃあねぇか、この通り」
「…………」
ふ、とその表情が和らぐ。先程までの猛々しさは消え失せ、代わりに表出したのは、私を見るその目は。
憐れみと労りと、そして、どうしてか、想像外のその──羨望。
不二崎は息を吐いた。それは得心の気息。奴は笑みを浮かべた。いつか見たことがある。いつだってそれに驚かされた。穏やかで、ひどく老獪なその貌に。
「そうか。そうだな。切り裂き魔、傷害犯、そうとも。そんなものは警察の仕事だ。警察が自負する責務だ。本当なら関わり合いになんざなっちゃいけねぇ。ただの
「……」
「真っ当に、お前さんはもう立派な、人の親だもんなぁ」
「!」
「けっ、その上可愛い孫娘までいやがる」
さも羨ましげに不二崎は言った。
見通されていた。奴は、この胸の内にあるものを知っている。
この恐怖を、理解している。
「そうだそうだ。己が吐いた科白じゃあねぇか。お前さんには帰る家も、家族も、あるんだ」
「っ」
「失うもんが多すぎらぁ。無理もねぇ。それでどうして無茶が出来る。切り裂き魔なんて糞くだらねぇヤマとどうして関り合いにならなくっちゃあいけねぇ。そんな道理は、どこにもねぇさ」
とても、とても晴れやかに不二崎は笑う。解悟へと至った僧侶の在り様で。
「引き際だ、新の字。お前さんはここで落伍だ」
「私はっ……」
「……真っ当な親として、家族を守ってやりな。かっかっ、子無し寡男の言えた義理じゃねぇか? ハハハハハハッ」
気後れを自嘲と笑みで覆い隠して、軽やかな皮肉を最後に奴は立ち上がる。
「だがな新の字。一コだけ、てめぇは間違えてやがる」
静謐な目が私を見下ろす。
責めるでもない。嘲るでもない。それは諌めと、優しさだった。
「哲也の祖父さんと祖母さんは、今も孫の帰りを待ってんだ」
「っ! ……あぁ……」
「やらねばならん。たとえ誰が諦めようとも、己だけは断じてやらねば、ならんのだ」
男が踵を返す。踏み出し進む。それは驚くほど、迷いない足取りで。
その先に死が待ち受けていることを知っている。死出の旅路を踏み越えて、それでも奴は、迷わない。
遺される者にすら顧みず。
「待て……待て、不二崎」
遠ざかる背中は、もはや振り返らなかった。
「不二崎!」
「父さん?」
「っ!」
呼び声に思わず目をやると、廊下の向こうから咲が、そして渉くんとリンが来ていた。
戸惑いの目でこちら見て。
「今、不二崎って……」
その問いに満足な返答をしかねた。
半ば逃げの体で再び前を行く男を見る。
きっと聞こえていた筈だ。それでも奴は立ち止まらない。
暖かなものに背を向けて、また奴は独り去ってゆくつもりだ。
そのままゆかせてはならないと、頭でわかっているというのに、この足は縫い留められたかの如く動かない。踏み出せない。
正面玄関をあっさりと抜けて、奴の背中は扉の向こうへ消えた。
独り、消えて逝く。
どんな事件が身の回りを掻き乱そうと、日々の暮らし向きというやつは一度期の待ったすら許してはくれない。日常は今日とても留まることなく始まる。
薙原の祖父母には多大な心労を強いたことだろう。孫が通り魔の矢面に自ら赴いたなどと知って、その心の喧騒如何ばかりか。
それでも、彼らはどこまでも暖かに哲也を迎え、その無事な姿を心から喜んだ。
本来、それに浴さねばならぬ少年を差し置いて。
警察からの聴取は既に済んでいる。
事件当夜、任意で所轄署へと同行した己は無論のこと、当の被害者たるリンちゃんはおそらく病院に押し掛けた捜査員が、無遠慮に根掘り葉掘りと。
碌な進展も見せられない連続通り魔事件にようやく確たる物証と目撃者が表れた。なるほどなればこそ、警察は涎を垂らしてその真偽追窮に心血を注ぐだろう。
週を明けて月曜日。
登校早々、己と、そしてリンちゃんは、校内応接室へ呼び出しを喰らった。
待ち受けていたのは二人組の刑事と一名の婦人警官。二度目の事情聴取であった。
ガラス机を挟み、ソファで差し向かう。
「やっぱり、犯人の顔は思い出せませんか? 志摩さん」
「すみません……暗くて、よく見えなくて。フードもあったし。それに……っ……ごめんなさい」
右隣に座る少女。その小さな肩が一瞬、ひくりと震えた。
なお問いを重ねようとする若い刑事の言に割り込む。
「覆面か、かなり大きなマスクのようなものを被っていた。暗がりに便所の薄汚れた蛍光灯で、黒子紛いの人相まで見抜けなんて仰せはちょいと無理難題じゃあねぇですかい」
「そ、そうか。そうだったね。じゃあ、えっと、薙原くんはどうかな。何か新たに思い出したこととかないですか?」
「さて、先夜お話した以上のこたぁ一向に……赤いオフロードバイクってなぁなかなか目立ちそうなもんですが、通り掛かりに目撃した人はいらっしゃらなかったんでしょうかねぇ?」
「それが皆目。高速でも使ってくれればNシステムで一発だったろうけど、一般道、それも小路を使ったみたいで。どうも、かなりバイクの扱いに長けた人物らしい。でもそれにしたって、まるで幽霊みたいに消えちゃって僕らもビックリ」
「ん゛んっ、おい」
壮年の刑事が露骨な咳を吐き、ぎろりと横目で睨みを呉れる。若い方は途端に縮み上がった。
「ひっ……あ、あはははは! す、すみません。捜査情報ですので」
「いえいえこちらこそ、立ち入ったことをお訊ねしちまった」
渇いた笑いに笑みで応える。己がもしまだ壮年の方の立場なら、この場で怒鳴り散らしていたろう。
とはいえ口の軽い輩は、今ばかりは大歓迎だ。若い方から受け取った名刺は大事にブレザーの内ポケットへ仕舞っておいた。
「なんでも、どんな些細なことでもいいので。何か気付いたことがあったら連絡してください」
「何かあったらまず警察に通報しなさい。いいね?」
壮年刑事は終始、己の方を睨みながらに言った。いや人相が凶悪ゆえに睨んだような目つきになっているだけか。
他人の事を言えた義理ではないが。
「肝に命じておきやしょう」
「……」
応接室を後に廊下を歩く。
期せず、この娘子を伴いながらに。
学年は同じで教室は同じ校舎の同じ階に並んでいるのだから、行く先はほぼ同じ。連れ立って歩くになんの不思議もない。
その、ない筈の不可思議を覚えている。強かに、胸を衝くほどに。
「……」
「……」
「傷の具合はどうだい」
「えっ、う、うん。大丈夫、だよ。もうそんなに痛くない」
「そうかい……そうかい」
「……」
我ながら滲み出すような声だった。
一体、どの分際で。
娘の左手に目やって、胸中に呟く。
「……薙、原くん」
「うん? なんだい」
「あの、あの……ありがとう。助けてくれて」
「……」
「お礼、言えてなかったから」
礼など受ける資格はない。それがあると嘯くなら何故、この娘は傷を負っている。あんな恐怖を目の当たりにさせられる。
凍え悴むように震える体、嗚咽、熱い涙、涙、涙────瞼の裏にはそればかりが焼き付いていた。
それでも気丈に、あるいは当然の礼儀を払う。咲ちゃんと渉くんは本当に良い親御であった。返す返すにそう思う。
「いい子だなぁ、お前さんは」
「へ、そ、そう、ですか……」
「ああ、いい子だ。本当に……いい子だ」
変わらず。あの頃とちっとも変わらない。良い子に、育ってくれた。
それがどうにも、嬉しくて堪らないのだ。
気付けばそっと、その小さな頭を撫でていた。
「ふぇっ」
「おっと」
ぱっと片手を上げる。
瞬く目が、くりくりとした大きな瞳が己を見上げている。戸惑いと驚きの色味。
親しくもない男が気安く触れてきたのだ然もあろう。……場合によっては通報事案である。
そして幸か不幸か折も良く間も悪く、敷地内では未だ刑事と婦人警官が帰り支度の最中だ。
なるほど、絶体絶命とはこのことか。
「短ぇ余生だったな」
「あ、諦めが早い……」
軽口は置くにしても、その場で頭を垂れた。
「相すまん。御寛恕賜りたく存ずるが」
「い、いいよ! そんな、謝らなくても。ちょっとびっくりしただけで、気にしてなんて……」
ふと、俯きに言が途切れる。
「どうした? やっぱり胸が悪くなったかい」
「ち、違うよ……違う、けど……わかんない。なんで、こんなに……うぅ、わかんない……!」
「?」
異なることを口にして、少女の顔はさらに下を向く。もはやどのような顔をしているのかさえ。
「……ぃ、やじゃ……ぃです」
「? なんと言ったかな。よく」
「イヤじゃ、ないから……」
切れ切れに、語尾は掠れて消えゆくほど小さな囁き声。それをどうにか耳孔に捉える。
一拍か二拍か、冷えた廊下に降る静けさ。
それにまさしく耐えかねて、娘は顔を上げ、己を見上げた。
「わかんないの! ……自分でもわかんないんだってばぁ……!」
「おぉ、どうどう」
「ふぐぅぅ……」
小動物の威嚇染みて、それは実に迫力に欠け、愛嬌に溢れていた。
わからぬと嘆く娘の様子に、しかし生憎こちらとて納得の行く答えを与えてはやれぬ。
……あるいは。
何かを、思い出して、懐かしんでくれたのなら。
それは無上の幸福なのだが。まさか、言えまい。その昔、この手を甚く気に入ってくれた娘子がいたのだなどと、どうして言えよう。
どうして、言えよう。
「……はっ、未練だぜ」
「え……?」
その髪を梳り、流し、撫でる。昔日の思い出の中でそうしたように。その記憶ばかりは光るようだった。
ぴくりと震え、惑いを映したその瞳が閉じられる。娘は黙して、この手を受け入れてくれた。
「っ……わかんない。どうして……」
「……」
「どうしてこんなに、懐かしいの……」
瞼が開く。光の揺らぐ大きな瞳が己を見上げる。その光輝に誰かを映して。とうの昔、遥か過去に消えて去った誰かを。
「あなたは、誰……?」
過去を映すは己とても同じ。己が眼に現れたのは、あの日の幼子。告げられた
「リンちゃーん!」
「!」
「え」
不意に、溌溂とした声が廊下を木霊した。
溌溂などと。いやさその声音は胸一杯の心配を形にしたかのような響き。軽快な、複数の足音に振り返る。
廊下の向こうにまず見えたのは、豊かにそよぐ撫子色だった。