身延の駅前通りを過ぎ、右手に富士川を望む。
赤信号を前にブレーキを踏んで、鳥羽涼子は握ったハンドルのクラクションへ向かって溜息を落とした。
「あぁー……びっくりした」
「なーにがー」
「さっきの」
「んえー?」
「さっきの人! 本栖の生徒さんでしょ?」
酒に焼かれて溶けてだらけて緩みきった声がなおも後部座席から響く。
信号を気にしながら、涼子は後ろを振り返った。
そこには相変わらず酔いどれのアホ面が……見当たらなかった。
「……」
「お姉ちゃん?」
姉は遮光ガラスの向こう側をぼんやりと眺めていた。いや、あるいは、もっと別の何かを。
その目は、ひどく遠くを見ていた。河原の向こう、河面を越えて、その向こう岸の街景さえ過ぎ去って。ここではないどこか、誰かを。
「んー……」
美波はただ応答とも呻きともつかない声を上げた。
「どうしたのさ今日は。いつになくダウナーじゃない?」
「べっつにー」
「今更生徒にお酌させたのが後ろめたくなってきたとか?」
「そんなんじゃないしー。それにあれは薙原くんからしてくれたもーん」
「いや、言っとくけどそれなんの免罪符にもなってないからね」
開き直るどころかいっそ自慢げな姉の様に涼子は危惧を覚えた。社会倫理的な意味で。
「……異様に様にはなりそうだけど。ホントに高校生? あの人」
「当ったり前でしょー。あんたこそなに言ってんのよぅ」
「や、だって……あんな雰囲気の男の子、大学にだっていないもん。なんていうかすごい、大人びてて。途中からどっちが年上だかわかんなくなったし」
「でっしょー! すごいのよー薙原くん。優しくて気が利いてて、力仕事とか率先して手伝ってくれるの。なんかねー頼り甲斐あるもんだから、こっちもいろんなこと話しやすくてぇ。嫌な顔せずにいろんなこと聞いてれてぇ。ホンっトいい人……いい人、なんだぁ……うへへ」
「……」
バックミラーには蕩けた笑顔、にやにやとだらしなく姉は笑い声を漏らす。絵に描いたような上機嫌だった。けれど、しかし、どうしてか、姉のその様子は妹にとり、ひどくひどく不穏に思えてならなかった。
「ねぇ、お姉ちゃん。まさか、だけど……」
「え~?」
「こ、高校生の子相手に、まさか変な気起こしたりしてないよね……?」
我ながらなんてことを聞いているんだろうと涼子は自分自身に呆れる。現役女性教師が、未成年に、まして自身の教え子に不埒な存念を抱いているなどと。
だから涼子は、当然に飛んでくるだろう怒声を覚悟して肩身を強張らせた。
しかし、いつまで経っても返答はない。
程なく信号は赤から青へ。ゆるくアクセルを踏み込みながらも、ちらとバックミラーで姉の顔を覗う。
そこには、赤い顔があった。そしてそれは、明らかにアルコールによる血色の増加ではない……それは見事な、羞恥の紅潮。どんな深酒をした日でも、この姉がこんなに赤くなったところを見たことはなかった。
「……え、マジで?」
「んな、な訳、ないでしょっ……! な、な、薙原くんは、生徒! 生徒にゃんだから! ばっ、ばか言わないでよ、もう……」
「…………」
狼狽も露に語気を荒げる美波の有り様は、まるきり図星を突かれた子供同然で。
「そ、そりゃ最近は何かと声掛けてくれるから他の生徒より仲は良いかもだけど……さり気なく労わってくれてるんだなーっていうのが伝わってきて……そういうの、すごく嬉しいけど……だ、だからって別に!」
「…………」
「べ、べつに……うぅ……」
みっともない慌てぶりを晒していることを自覚してか、途端、美波は黙りこんだ。
「お姉ちゃん」
「な、なに」
「本当に、本当にお願いだからさ。新聞に載るようなことだけは、しちゃダメだからね?」
「しないわよ!!」
心底神妙な妹の言い様に発憤する。酒癖を
「……する訳、ないでしょ……」
見当違いも甚だしい筈のそんな指摘に……こんなにも狼狽えている。
鳥羽美波は憤った。なにより今、激しく早鐘を打つこの心臓が、憎らしかった。
蕎麦屋の駐車場に滑り込んできたのは、目の醒めるような鮮やかさの青い車体。角張ったフォルムに見られるレトロ感を、丸目にカスタムされたヘッドライトが程よく和らげ、なんとも可愛らしい姿。
停車したラシーンの運転席に撫子髪ちゃんが近寄る。パワーウィンドウの奥に座る女性が、どうやら件の姉御である。
二、三の問答の末、撫子髪ちゃんがこちらを手招く。
「哲也くーん、乗って乗って!」
「あいよぅ」
後部座席のドアを開け、乗り込む。
ベージュの革張りシートの手触りはやや固い。フロント同様に内装もチューンされてからまだ日が浅いのやもしれぬ。
車種の懐かしさと小綺麗な真新しさを面白がる、よりも前に、己はまずこの
やや大きな黒のセルフレーム眼鏡、車内灯の控えめな暖光の下でなお一層に濃く深い紫紺の髪、面差しはなるほど撫子髪ちゃんとよく似ている。しかし朗らかな妹御に比べ、こちらは年相応に落ち着いた印象を纏う。まさしく怜悧と呼ばわるのが相応しい。
各務原の姉御前は、控えめな愛想笑いで己を出迎えた。
「こんばんは」
「ええ、こんばんは。突然に申し訳ない。図々しく妹さんの配慮に
「えっ、あ、いえいえ」
「あはは、そんなこと気にしなくてもいいのに~。さあさあ遠慮なく寛いでいきなされ」
「あんたが言うな」
「あたっ」
下げた頭の向こうで、姉妹らしい遣り取りを聞く。先程居合わせた鳥羽姉妹とはまた違った忌憚の無さ。
今度こそ、その可笑しみに笑みが零れた。
「一応電話で聞いたけど、家は駅向こうだっけ?」
「えぇえぇ、ほんのすぐそこで。とりあえず波高島に向かって通りを上っていただけますかい」
「了解」
「よしなに」
午後八時。帰宅ラッシュのピークなどとうの昔に過ぎた頃合い。車通りは落ち着き、疎らに横切る店の灯りを車窓から望む。左手には富士川の穏やかな川面の波立ちが見えた。
「にへへ~」
「なんだぃ。えらく上機嫌だな。なんぞ、良いことでもあったか?」
そして右隣では、少女がなにやら嬉しそうにこちらを見上げてくる。
撫子髪ちゃんはどうしてか、助手席ではなく後部座席に乗り込んできた。
「むふふふ、あるよあるよ。すっごいあるよ。それはね……」
如何にも勿体付けて、おもむろに娘子はブレザーのポケットを
A4用紙。その題字には。
「入部届?」
「じゃじゃーん! ようこそ野クルへ!」
喜色満面の笑顔で娘は言った。
反してこちらは応えも鈍く、というよりなんのことやら訳もわからぬ。
「哲也くん、前教室で言ってたもんね! 野クル入ってみたいって」
「……あぁ、あれか。いやありゃあなぁ……」
「でも哲也くんもキャンプが趣味だなんて知らなかったよ~。もっと早く教えてくれればよかったのに! シャイボーイだねぃこのこの~」
「そうともその通り。俺ぁシャイなあんちきしょうなのよ。うん、だからな」
「えへへ、これで部員も四人! 部に昇格できるから部室も広くなるし、あぁあとあと! 部費が増えてもっといろんなところにキャンプ行けるんだって!」
宝石も斯くやの輝きを放って大きくてまぁるい瞳が二つ、ずずいと己の面前に迫る。
「リンちゃんと斉藤さんも誘って、今度は哲也くんともグルキャンやりたい! 先生も合わせて今度は七人! 絶対楽しいよ!」
朗らかさと同じくして、なかなかどうして押しも強い。撫子髪ちゃんは実に無邪気であった。
無邪気に、己のサークルへの参入を確信していた。決定事項とばかりに。
「ね、ね、哲也くんはテントとかシュラフどんなの使ってるの!? 私はねぇ~」
「ちょいちょい、待っておくれなお嬢さん。一体全体なんでまたそう話がスッ転んじまったんだぃ。周到にそんな紙っぺらまで用意してよ」
「え? これ? アキちゃんが今日くれたんだ!」
『薙原はもはや野クル準メンバーも同然……いい機会だからなでしこちょっとこれ持って薙原のこと入部させといて。なでしこ相手ならまああいつも観念するだろうなっはははは!』
眼鏡のちんちくりんが高笑いする様が克明に脳裏を過る。
どうもあの娘は、快活なのだが随所に乱暴だ。交友ってものの機微が雑でいけねぇ。
「気持ちは嬉しいんだが、悪ぃな。そいつぁまたの機会に見送らせてくれるかい」
「え……」
白熱電球が突如通電不良を起こしたかのよう。明るく華やいでいた娘の表情から灯が消える。
「ど、どうして? 野クル楽しいよ」
「いやいやそこは疑っちゃいねぇとも。お前さん達見てりゃよぉくわかる。くく、だからこそよ。己のようにシャイな男子は楽しい
「えー! 邪魔なんかじゃないよ~」
「それがそうもいかん。こう、良い絵面というものがあってな。いやぁそれの難しいのなんの」
「なにそれぇ意味わかんないです~」
「ははは」
唇を尖らせぶう垂れる。打って変わった満面の不満顔で、娘は己の肩を揺すった。
「入ろうよ~。入った方がいいよ~。今なら信玄餅もついてくるよ~」
「時折無性に食いたくなるなぁ。おぉ、そんならどうだい。今度信玄餅工場のぉほれ、なんとかいうテーマパークでも行ってみるかぃ。信玄餅造る様子を見学できるってぇ話でなかなか面白ぇそうだぜ? 中にゃ出来立てを頂けるカフェーもあるとか」
「え!? そんなのあるの!? 出来立て信玄餅食べたい! ……って、誤魔化されないよ!?」
「ははっ! 駄目か」
「むぅ~!!」
ぐわんぐわんとメトロノームのように揺れ揺られ、そろそろ三半規管の悲鳴が聞こえてこようかという頃。
「なでしこ、いい加減にしな」
「お姉ちゃん……」
「本栖って部活動強制じゃないんでしょ。本人が入らないって決めてるんだから、無理強いすんじゃないわよ」
前方の車列を見ながら、各務原の姉君はぴしゃりと妹御に言い切った。流石姉妹。叱る語気にも巧拙あるが、姉御のそれは実にしっかりと躾の行き届きが感じられる。
「で、でもでも、せっかくこうやって知り合えたんだし、ほ、ほら! 哲也くんも言ってたでしょ、あ、あ、アイエーキエー! って」
「合縁奇縁な」
そのような奇声を上げた覚えはない。
「哲也くんが入ってくれたら、絶対楽しいのに……」
「ははぁ嬉しいこと言ってくれるなぁ、撫子髪ちゃんは」
「…………」
寂しげに呟きを落とす娘子の頭にそっと掌を置く。鮮やかな撫子の色味が、車内の暗がりであっても華やかだ。
しかし、そんないじらしい求めにも、おいそれと応えてやることはできない。部活動は学校生活における主戦場の一処。それをこの爺の一存で決める訳にはいくまい。退き際というなら、この辺り。
苦笑を噛む。さんざ好き勝手動き回っておいて、今更と、言われっちまえばそれまでだが。
「そうさな。もしやすれば
「……ふーんだ。後悔したって遅いんだからねー」
「ハハハハ! いやまったく、とんだ罰当たり者よ。ハハハハハッ!」
柔らかに髪を撫で梳いてやると、娘子は仔犬のように頭を擦り付けてきた。それは愛らしかったが、それがなにやらいじらしく、労しい。
おそらくは、叶えてやれない。責めを取れもせぬ死人の老爺が、子供と約束を交わすこの不遜。あるいは罪でさえある。
すまぬ。腑の底にぽつりと一つ詫びの言葉を吞み込んだ。
「あんたにしては珍しいじゃない」
「え? なに」
少年を自宅近くに下ろし、帰路を走る道すがら。出し抜けに桜は口を開いた。
助手席に座り直したなでしこが、運転席の姉の横顔を見上げる。
「随分しつこく食い下がってたから」
「あ~、にへへ、そうかなー」
何故か照れ顔で頭を掻く妹を、横目に盗み見て桜は、僅かに目を見開いた。
妹の相も変わらない暢気な様、そこに微か……誤魔化しの色、のようなものが見えたから。
天真爛漫、悪く言えば天然おバカなこの妹。そんな子が、なにやら物思い、またその本心めいたものを隠そうとする。ひどく、新鮮だった。
「……ふーん」
「な、なに? どうしたのお姉ちゃん?」
「あんたも、そろそろそういうことに興味持つ齢なんだって、思っただけ」
「へっ」
「薙原、哲也くん? だっけ。結構しっかりした人だし、あんたとならバランス良さそうじゃない?」
「えへへそうかなぁ……って、ち、違うよぉ!」
照れ顔が慌てふためいて赤らむ。驚きと戸惑いが半々。色恋的な甘さ酸っぱさは、あるようなないような。
当てが外れたか、桜は内心に首を捻る。
「哲也くんのことは、べつに、そんな風には……う、うーん? ち、違うと思う。たぶん……」
「……」
迂闊なことを言ったかもしれない。火の手もないところに、むしろ燃料を注いで焚き付けてしまったような。
あまりに無垢な妹に呆れ、それに妙な示唆を与えてしまった自分に桜は溜息を吐いた。
姉のそんな自戒を知る由もなく、なでしこはむむむと考え込む。
「というか、哲也くんにはもうあおいちゃんが……」
「……へぇ、そうなんだ。まあ高校生だもんね」
「あ、でも、リンちゃんも」
「え?」
「これってやっぱり三角関係なのかな? そ、それとも哲也くんの、浮気……?」
「…………なでしこ、とりあえず家に着いたら詳しく聞かせなさい」
不穏当な妹の発言に眉根を寄せて桜はアクセルを踏む足に力を入れた。
胸中に湧くのは期せず現れた妹のボーイフレンドに対する不信……ではなく、瑞々しい好奇心。香ばしいゴシップの匂いがぷんぷんと。
満更でもない妹の顔が、なお一層に面白そ、もとい興味を誘う。
母を交えて、今夜は家族会議に花が咲きそうだ。