「はぁああ……」
教室を出て廊下を歩くことしばし。生徒達の視界から離れたのを見計らい、腹腔に溜まった大きな大きな息を吐いた。
幸い朝までにアルコールはきちんと抜ききって来た。酒臭い吐息を神聖な学舎に撒き散らすような真似はせずに済む。
神聖な、そう神聖な学校の誉れある教職に従事するのが今の自分だ。第一学年副担を奉職するのが今の私、鳥羽美波で……。
「はぁあああやっちゃったなぁもぉおおおお」
教科書に額を押し付けて、埒も立たない後悔を吐く。
己の酒癖が遂に悪報をもたらした。自業自得の四文字がずしりと背中に圧し掛かる。
生徒の前で醜態をさらすのは、ぶっちゃけ初めてではない。プライベートで赴いた四尾連湖キャンプ場での各務原さん、志摩さん二人との遭遇はまあ奇遇の不運と言い訳できる。クリスマスに行ったサークル活動としてのキャンプでは、例の事件の所為でそもそも深酒する暇も余裕もなかった。はて、それは幸か不幸か。
だから昨夜の始末はその意味で、完全無欠な失態と言える。
────美波ちゃんはいい子だよ。頑張り屋でしっかり者で、本当は
「可愛い子……えへ、可愛い子、だってぇ……えへへへへへ」
優しいけど、どこか呆れた風な、しょうがないなみたいな、そんな口調で褒めてくれた。
ふにゃふにゃとゆるむ頬と背骨、肩肘の凝りも柔らかくなる心地だった。口元を教科書で隠しながら、無意識にイヤイヤと体が揺れる。
揺れて揺れて。
「えへへじゃないでしょぉおおおおおお」
教科書で額をばんばんぶっ叩いた。脳から惚けた邪念を追い払う。
お酌されたぬる燗で酔っぱらって猫撫で声で何を要求してるのか。●歳年下の男の子に、いやそれ以前に生徒に。自分の学校の生徒に!
妹からの迫真の心配を心外だの不当だのとどうして文句をつけられた。犯罪すれっすれ。まかり間違って一献酌み交わしちゃったり、二次会とかふざけたことをもし実行して深夜中連れ回しちゃったりなんかしちゃったりした日には。
じ・えんど
未成年に対する飲酒の強要、未成年の略取誘拐、果ては……淫行。
「短い教員生活だったなぁ……」
窓のサッシに手を付いて、項垂れたまま独り言ちる。
幸いに、寸でのところで昨夜は帰路につけた。妹のお蔭というより、当の彼の良識的対応が功を奏してというところが大人として非常に残念だけど。
C組の歴史担当でなかったのが不幸中の幸いだ。一体どんな顔で彼と差し向かえばよいのやら。
「……」
学生時代にも、良い人はいた。そうした人と深い関係に至らなかったのは、当時の興味関心が専ら勉強であり行く行く目指す教職という分野に一目散向かっていたからだ。
恋愛に関心がない訳じゃない。ごく人並に惹かれるものはある。確かに、経験は薄いし、疎いけれど。
でも、だけれども、まさか、よりによって、ようやくそれらしい気配を感じた相手があろうことか自分の生徒だなんて。
「どうしよぉ……」
情けない声をリノリウムの床に落とす。聞かれると大いに困る独り言を、今ばかりは堪え切れず。
誰に相談できる。こんなこと。誰にも言えない。言える訳がない。
「野クルの……いやいやいやいやいやバカなの美波」
とち狂った発想に走るほど迷走を始めた頭をぶんぶん振って、重い足取りを持ち上げる。独身女の迷妄など、教育委員会による厳正なカリキュラムは一瞬と待ってはくれない。
早く次の教室へ。
僅かに逸る心地で渡り廊下に向かう、その途上。
「……あれ?」
窓から見える渡り廊下。校舎を繋ぐその架橋の最中に、記憶にも真新しい姿を見付けた。
二時間目の授業を終えてすぐに教室を出る。
思えば、校内で人目を忍んで誰かと対話を望むなら、昼休みや放課後はむしろ悪手である。いずれも人流が最も盛んに校内を行き来する。加えて、所用を持ってその人物の元に訪れる生徒や他の教職員があるやもしれない。
彼女が確実に一人となり、かつ誰かしらの介入の可能性を最小限に留められる機。それは。
それはこの、授業間に設けられた10分足らずの休憩時間。
教員にとり、他クラスへの移動時間であり、その移動経路上以外にない。
田原教諭の受け持ちは歴史。一、ニ時間目は一年生教室で。三時間目は二年生教室で授業を行う、とはかの茶髪少年からのタレコミだ。
この学校は二年の教室だけ校舎が異なる。別棟へ移動するには二階渡り廊下を通るのが最短。
かつかつと、硬質な音色が廊下を反響している。近付いてくるその靴音が不意に、止まる。彼女は渡り廊下の出口で待ち受ける己の姿を認めたのだ。
「……」
相対した女の面相、表情、目の動向を見る。この刹那だけだ。意表外の対峙であるこの刹那にのみ、対する女の真が顕れる。即座に隠され消えるそれらを
見取ったのは驚きと、僅かな怯み、そして……。
「こんにちは、田原先生」
「……こんにちは」
微かな────怒り? 火口ほどにも満たぬ、燻りか、火の粉。それほどに小さな発露。
意味も意図も知れぬ。わからぬ。
ゆえに、確かめねばならぬ。この事件においてかの女生に如何なる関わりがあるのか、その端緒を掴み、手繰り寄せる。
「私に何か用かしら」
「ええ、ちょいとお尋ねしてぇことがありましてね」
「今は、遠慮してもらえる? 授業があるので」
言うや己の脇を摺り抜けようとする田原に半歩詰め寄る。それこそ通せんぼ、といった風情で。
「なぁになに! ほんの一分で済みますよ」
「……些細なことならそれこそ後にしてください。あぁ……それなら、そう」
ふと、尖る。険が宿る。その目に、瞳に、隠しようもなく。
田原女史は己を睨み、低く言った。
「鳥羽先生でも頼りなさいな。とっても仲がよろしいみたいですし」
鳥羽教諭を引き合いに出されることは、然程意外でもない。以前の遭遇時、己は彼女に味方したも同然の恰好であった。
寄って集って悪者扱いされては厭味の一つも湧こうて。しかし。
どうにもそれだけとは思えぬ気色が、ある。
「いや生憎そうもいきません。お訊ねしたい儀というのは、なんせ田原先生御自身のことなんで」
「私の……?」
警戒の念が立ち昇る。火口から燃え移った焚火のように。その火勢に彼女の心根が隠れるより前に。
核心へ踏み込む。
「連続通り魔事件第一の犠牲者は、あんたの婚約者だな」
「っ!」
「事件当夜、被害者が犯人に斬り付けられた後、あんたは管理事務所に赴きそこの固定電話を使って通報。同時刻には犯人らしき人間がキャンプ場から走り去る姿を目撃もされている」
「……鳥羽先生に、聞いたの」
「いいや。あの子は俺が執拗に問い質しても、頑として事件の詳細を口にゃしなかったよ。特に、あんたのこたぁね」
教師としての義務感ばかりではない。あの娘は確かに心から、田原を慮っていた。
「己が殊更嗅ぎ回ることに長けておるのさ。無遠慮に、ずけずけとな。だがお蔭で朝霧での一件だけは、その全容が見えてきた」
「なにを、言って」
田原は戸惑っている。目の前に立つ自身の生徒……の皮を被った訳知り顔の男、その得体を見失っている。
「後続する通り魔
「ぇ…………っ、意味がわからない。失礼します!」
刹那、銀フレームの眼鏡の奥で瞳に過った感情。
それを押し殺して女史は歩き出す。靴底が一歩、床面を苛立たしげに打った。
それに追い縋る。体ではなく言によって。
「対して、臭い立つほどの敵意で以て犯行に及んだ一件目。初めから奇妙だった。だがその動機が──婚約者の不義密通ならば、納得もゆく」
「ッッ!? 貴方……!」
今度こそ、新鮮な敵意が我が身を射貫く。当然自然の憤りを露わに己を睨み付ける田原へ、向き合う。正対する。
「いい加減にして! 警察の真似事のつもり!? 人の事情に勝手な想像を当て込んでっ、何様なの……!?」
「なあ先生。あんたはあの日、12月24日、本当に朝霧高原へキャンプに行ったのか」
「はぁ!? 事件が起きて私が通報した、今貴方が言ったことよ!」
「ならばこう訊ねりゃわかるかい。
「────」
女の顔が凝固する。皮膚の下の表情筋が残らず石塊に変わったかのように。
愕然と。
「やはり、そうなんだな」
「ど……どう、して……」
「あの日朝霧高原に婚約者と来ていたのはあんたじゃあなく、浮気相手の女だった」
「っ!」
先のストーカー事件。その押収物である盗撮写真に写っていた、高原に乗り付けられた赤い軽自動車の正体が見えた。いやさ矛盾が。
キャンプが趣味だと抜かす男、そして同じくアウトドアレジャーに通じSUVを乗り回す田原教諭。この両者の持ち物として、ちんけな軽などは到底適さない車種だ。
それがキャンプだのアウトドアだの微塵の興味もない女の車となれば合点が行く。男の側がわざわざそちらに同乗したのも、おそらくは浮気の証拠が残るのを嫌ってのことだろう。走行距離やナビの履歴、あるいはもっと単純に髪の毛や残り香等々の女の痕跡……車という密室には使用者の動向が如実に残留する。
甚だ浅ましい話だが。
「し、知らない。私は、そんなこと……!」
「あんたが携帯を使わず、あえて管理事務所にまで出向いて固定電話から通報したのは、犯人が逃げ去る姿を目撃されたその同時刻に、自分の姿を職員に確認させる為だ。そう、黒尽くめに変装させた浮気相手の女を使って。自分が犯人ではないという証明と、犯行に使用した凶器や服を現場から隠滅できる。一挙両得ってぇところか」
「ちがっ、違う」
女史はたじろぎ、蹈鞴を踏んだ。肩身を伝うその震えが見える。
瞳に宿る、その怯えが見える。
「は……はぁ……はぁっ……」
「先生、もはや隠し果せるものではないぞ」
「っ、ぃ……!」
喉奥に悲鳴を飲んで、女はとうとう身を翻した。足取りを乱してその場から逃げようとする。
咄嗟に踏み込み、手を伸ばす。
遠退く女に追い付き、その……右手首を掴んだ。
「う、あっ……」
「……」
強く、握り込む。袖の縫い目が皮膚を圧するほど。その奥の、骨の手応えを覚えるほど、強く。
強く握って、田原教諭を見据えた。その顔を、注意深く見た。看た。
そこには変わらず怯えに歪んだ表情があった。
「!」
「あなた、まで……」
か細く、脆弱に、女は呟いた。それは恐怖と後悔と、深い深い悲しみの貌だった。
己の手を振り解いて女は駆けていく。渡り廊下を抜け、視界の外へと早逃げ去っていく。
「……」
己はそれを追わなかった。この期に及び彼女が逃走を図るとは考え難い。
しかし、この脚を縫い留めたのはそうした打算目算の類ではなかった。
一つの可能性が確信に変わった。到底喜ばしきからは程遠い。
────