斉藤さんとチクワが心が辛くなるほど愛らしかった。
田原教諭の後ろ姿を見送ったその足で、己は職員室へ向かった。
室内に教員の姿は疎らである。今は授業直前の短い休憩時間なのだから、受け持ちがある教員は準備や移動をとうに始めている頃合だ。
そんな人気の少ない職員室に、しかし好都合。見知った顔を見付ける。大町教諭だ。
「どうも、大町先生」
「あれ? 薙原? どうしたんだい。もう授業始まっちゃうぞ」
「ええわかってます。ちょいと野暮用がありましてな。大したことでもないんで、空き時間に済ませっちまおうと思ったんですよ」
「野暮用?」
こちらの勿体つけた言い回しに焦れたか興味を引かれたか、教諭は先を促してくれる。
我が意を得たり。
「それがですな、以前に鳥羽先生のお手伝いで保管庫に資料を運んだんですが、その時にうっかり学生証を落としちまったんですよう」
冷えた空気が顔を撫でる。踏み行った室内、埃臭い保管庫には幸いにして他の教員や生徒といった先客の姿はない。
手にした鍵を目の前まで持ち上げ、軽く揺する。己の口から出任せを欠片も疑うことなく、大町教諭は実に快く、実にあっさりとこれを貸し出してくれた。
人が好いというか気前が良いというか、少々迂闊である。騙し取った当の己が言えた筋合ではないが。
あるいは、これもまた時代の変遷なのやもしれぬ。己の若い時分など、こんな密室の鍵が気軽に手に入ると知れた日には悪戯に使う輩が後を絶つまい。それにひきかえ今の子らは大層行儀が良いのだ。
行儀の悪い老い耄れは、精々粛々と、そして手早く用事を済ませてしまおう。
「……」
保管庫はその名にし負う通り物で溢れ返っている。様々な紙媒体資料、授業教材、備品が、棚や段ボール箱に仕舞われているならば良い方で、雑然と床に積み上げられ放置されているものも少なくない。
木を隠すなら、の習いに則れば、ここは物を隠すのにうってつけの場所であろう。
特にそう────犯罪に使用した物品を一時的に隠蔽するならば。
「……物証か」
思えば、その疑問は旧友と再会し、剣呑な事件の顛末を聞いたあの時から常にこの胃に
何故こうまで
指紋、下足痕、犯行時身に付けていた服飾品、その繊維質でもいい。
閑散期のキャンプ地、山間という犯行現場の辺鄙な立地。然ればこそ目撃証言が碌々集まらぬ事由も理解はできる。
だが、警察発表が今日に至るまでここまで梨の礫に終始するなど、己の経験から言って有り得ぬことだ。
どんなに周到に犯行を遂げようが、どんなに物的状況的証拠を注意深く隠滅しようが、それは残る。必ず残る。この世の存在である人間が為した行いは、この世に必ず爪痕を刻む。否が応にも。
センセーショナルな連続傷害事件だ。口さがない世論の批評は後を絶たず、マスコミは悪評において手加減をしない。警察上層部の周章狼狽が目に浮かぶわ。
警察はもはや手抜かりを許されない。少ない予算、足りない人員を掻き集め、人海戦術も厭わず、血眼の捜査が為されているだろう。
だがそれでも、何も出ない。
先日の
情けなし、の一語で片付けるにはあまりに不可解である。
偶然や奇跡のような仕儀で証拠が消え去ったなどとは冗談にもならぬ。奇跡というなら、あの世から迷い出たこの身一つで十二分、嫌気が差す程度に足りている。
何者かの、当然ながら犯人の作為によってそれらは今以て隠し果せられている筈だ。
そして、それを可能にする術は、確かにあった。
警察の目を欺き、捜査の手から逃れることの能う、方法、絶好の場所が。
「やはり
高等学校の生徒募集にありがちな“開かれた校風”などという謳い文句が、まさしく語るに落ちている。日本の学校とは兎角閉鎖環境だ。内部の様子は未成年者保護の観点からも基本的に見えず、漏れないよう留意されている。また逆に、外部からの干渉を嫌う……監査、調査等、第三者からの
無論、この本栖高校が犯人の証拠隠蔽に直接協力しているなどということはあるまい。しかし警察の捜査に学校側が非協力的、いや協力に消極的である、それだけでも犯人にすれば利するところ大である。
「カァッ……まったく」
胸に湧いた不快感を気息と共に吐き散らす。
この発想の
我が子、可愛い孫娘の通う学校に、犯罪の証拠品が隠されているかもしれぬなどと。
馬鹿馬鹿しい。くだらぬ。妄想にしても不謹慎だ。そう詰られて然るべき、飛躍した考えだ。
だが筋は通る。理に合う。
第一の事件の被害者にして被疑者と目され、丹念に執拗にその捜査対象とされた田原教諭。それでもなお、女の周囲から一片の手掛かりすら出ず、停滞する捜査状況。もし、もう一人、存在するかもしれない田原の共犯者ないし主犯格が彼女の職業的地位と職場環境を利用しようと発想したなら。
公算は、そう低くはない。
段ボール箱を手当たり次第に開き、積み上がった教材を掻き分け、棚を総浚いし、底板まで検めていく。
何か。何かがある筈だ。ここには。この保管庫には。
その確信、勘働き。そうだ。それは最初、己が薙原哲也に憑りつき、登校したその初日。
大荷物に難儀していた鳥羽教諭を手伝い、ここまで資料の束を運び込んだ。あの日。
あの時────何故、田原は
鳥羽教諭に雑用を任せておきながら何故、自らこんな部室棟の辺境に足を運んでいた。
それはあれが、田原にとって予期せぬ事態であったからではないのか。雑用を任せた、との口ぶりであったが、実際のところ実情は異なるのではないか。
校長や教頭が、田原の処遇を扱いかねていると鳥羽教諭は言葉を濁しながらも漏らしていた。本来は上役から田原に言い付ける筈の雑事を、面倒を嫌って他の教員に回している、と。
あの時もそうだったのだ。
田原は、鳥羽教諭に先んじて保管庫へ赴く必要があった。鳥羽教諭に見られては不味い“何か”を処理する為に。
また一山、大型の書架の隣に積まれた資料を退ける。すると。
「!」
木目調の床材。その表面に、日焼けしていない直角の痕、そして擦り傷がある。まるで、棚を無理矢理動かしてできたかのような。
書架を窓際に押しやった?
「どら」
書架の隙間と棚の縁に手を掛け、引っ張る。元の位置に戻す。
そうしたなら当然、曝け出される。
窓辺の支柱と書架の間に空いたデッドスペース。そこには。
何もない。あるのは空間だ。書架と壁でできた死腔。
しかし、それはあった。書架の背後に隠れていた。
床の辺りの壁紙が薄汚れている。掌大の染み。日焼けではこうはなるまい。何かしら水気を浴び、吸い込み、渇き、茶褐色に変色を来たしていた。
考えられるのは塗料。飲食物という線も、いや醤油だのコーヒーだのこんなところに持ち寄る物好きがいるならの話だが。ならば土か、泥か、山林の腐葉土あたりが妥当か。あるいは。
もしやすれば、これは────
「……血液か」
ポケットからハンカチを取り出し、壁紙の表面を
白い布地に茶褐色が移り、細かな粒が付着する。それを畳み、仕舞う。
微量であろうと、成分を鑑定すればこれが何処の山の土壌であるか……誰の血液であるかを特定できる。
物的証拠としては決定的だ。
しかし、これを正式な能力ある証拠品とするには、令状を提示した上でここに鑑識を入れる必要がある。
それ自体は簡単に実現する。俺が、今この場で通報すればいい。
だが、意気揚々と警察が学校へ踏み込むような事態になれば、当然
許さぬ。
逃してなるものかよ。
あの可愛い娘子の平穏を脅かした真犯人に対して憤怒が燃え盛っておらぬなどと言えば、嘘になる。元刑事の
しかしなにより己は為さねばならぬ。この肉体を少年に、薙原哲也に返さなければ。
その為に、真犯人と相対する。そしてそれはおそらく、不可欠の条件だった。
己の勘働きはそう告げている。なんとも身勝手で、始末に悪い話だが。
放課後、図書委員の仕事もそこそこにカウンターで読書に耽る。
図書室は自分一人。ストーブの傍に陣取って、静かな時間を独占した。
また一項、ページを捲る。指先を手繰るだけのほんの些細な動作。それが少し、腕の傷を疼かせた。
「んっ」
痛みに届かないくらいの微かな刺激。
右腕の外側には、今も薄っすらとした縦傷がある。あの夜、切り裂き魔につけられた。
「っ……」
まだダメだった。一瞬、思い出すだけで背筋に怖気が走る。
呼吸が乱れて、手足が冷たくなる。
心に根付いた恐怖はなかなか払拭できなかった。通院先のお医者さんも、時折連絡をくれる警察の人も、無理する必要はない、辛いなら学校を休んでもいいと言っていた。
でも、それはむしろ逆効果に思えた。家の自室に一人でいたら、余計に思い出してしまう。
黒い影、光る山刀、煙るような悪意。
だから私は思い起こす。努めて記憶を呼び覚ます。その
あの人の、黒い影の怖さなんか蹴散らすくらい恐い顔を、頼もしい横顔を。そして、それから、あの目。優しくて、複雑で、不思議な。
思い出すだけで、熱く、暖かくなる。
私を────愛してくれる、あの人の眼差しを。
「……えへへ」
「あー、リン笑ってる~」
「うひゃお!?」
思いがけないほど近く、横合いから掛かった声に飛び上がる。辛うじて椅子から転げ落ちることはなかったけど。
恨みを込めて、カウンターに肘をつく斉藤の笑顔を睨む。
「いるならいるって言え」
「えー結構前からいたよ? なのにリンがずっと気付いてくれなくて、なんかにんまり顔でぽーってなってるから」
「な、なってない」
「嘘だー。あ、じゃあ写真撮って見せたげる」
「やめろ」
「なんならラインで皆にもジャッジしてもらおっか。うん、そうしよー」
「いやだからやめっ、やめろー!」
暫く、斉藤とスマホの奪い合いを続けた。
ストーブの暖気が暑苦しく感じる程度に疲れた頃、斉藤とカウンターを挟み向かい合う。いつもの駄弁の定位置。
斎藤は終始にこにこ顔で、私のリアクションを面白がっていた。
「誰のこと考えてたの~」
「別に……」
「薙原くんのこと?」
「……」
「あはは、わかりやすいなぁリンは」
内心を見透かされてるみたいでちょっと腹が立つ。
言い訳するのも癪なので、返事はせず膝に置いた本のページに目を落とした。
「面白い人だよね。喋り方とか、時代劇の役者さんみたいで」
「下町言葉ってやつでしょ。今時珍しいけど使う人がいないわけじゃない」
使っていた人を、私は現に一人知ってる。
時代がかった言い回し、立て板に水のような流暢さで。おじいちゃんはあの人の口調を伝法だ、と言ってた。乱暴なとか粗暴なとかそういう意味らしい。
おじいちゃんとあの人はよく言い合いをしていた。
『まったく年甲斐もない。いい加減その口調はなんとかならないのか』
『大きなお世話だすっとこどっこい』
お母さんが呆れるくらい、いつもいつも。
いつも、楽しそうに。
私は好きだった。巻き舌気味に早口で、それでいて調子よくおじいちゃんと冗談を交わすあの人が。
私と話をする時は、それがびっくりするくらい柔らかで、優しい口調に変わるのが。
好き、だった。
もう聞けない。荒々しくて優しいあの声を、言葉を、私が聞くことはもうできない。
ないと、思っていた。ないと思ったから、私は必死に、あの人を、あの人との思い出を記憶の奥底へ押し隠してきた。けど。
けれど彼は現れた。
あの人のような言葉遣い、あの人のような眼差しの、彼が。
重なる。どうしようもなく。似ている。
顔も声も全然違う。だのに、言葉は、なによりその目が、私にあの人を想起させる。
まるで、あの人が乗り移ったみたいに。
自分の考えに呆れる。ありえない。そんな非現実的なこと、起こる訳がない。
わかってる。母の言う通り、彼はあの人の親戚か何かなんだろう。そう考えるのが自然だし理屈に合う。
わかってる。わかってるのに。私は。
何かを、期待してる。ありえない、非現実的な、何かを。
「……あのね、リン。これは別に薙原くんのことを悪く言うんじゃないんだけど」
「?」
おずおずとしたその前置きに思わず顔を上げて斉藤を見る。
「私、一年の頃、美化委員で薙原くんと同じ班だったんだ」
「そうなの?」
「うん……それで、ね。当たり前だけど、委員の仕事とか段取りとか、話したりすることも多かったの」
「ふーん……え? でも、前に」
警察の人達と話をした後、廊下で皆と彼が顔を合わせた時、たしか斉藤は。
「うん、この前会った時、私初対面みたいな態度とっちゃったでしょ? 薙原くんは気を遣って話を合わせてくれたんだと思うけど。私、本当に最初気が付かなくて」
「忘れてたってこと? それはちょっと、可哀想というか……」
「ち、違うの! そうじゃなくて! 私が知ってる頃の薙原くんと、あの時の薙原くんが、なんていうか、重ならなくて。まるで……」
斉藤は少しだけ躊躇して。
「まるで人が変わったみたいで……」
「…………」
奇妙な話だった。薙原哲也という人と自分はクラスも違うし以前からの交流もなかった。判断などつかない印象だ。そんな違和感を理解しようもない。
けれど不思議と、信じられた。斉藤がこういう話題で質の悪い嘘を吐かない人間だと知っているから。
だけど、それ以上に。私は、私の心はその話を
「…………」
「ご、ごめんリン! ホントに悪口とかじゃないの。ただ、不思議だなって思ったって、それだけだから……」
「え、あ、う、うん。わかってるよ」
押し黙った私が、気分を害したように見えたらしい。斉藤は申し訳なさそうに目を伏せる。
図書室に沈黙が下りる。時折、赤熱したストーブの金属が熱膨張で小さく軋んだ。
その時、静寂を破って図書室の扉が開かれた。
「お! いたいた。リンに恵那! 揃い踏みだな」
「こんちはぁ」
「よかったー! 二人ともまだ帰ってなかった」
入って来たのは千明にあおいさん、そしてなでしこ。いつもの野クルメンバーだった。
放課後という時間帯、それぞれマフラーを巻きバッグを肩に提げた帰り支度の様子は、特に不思議ではないのだけれど。
「なになに、リンと私のこと探してたの?」
「ふ、とっくに調べはついてたぜ。お前達がこの時間、図書室に入り浸っていることはなぁ!」
「誰目線の物言いやねん」
「それにすっげぇテンション高……」
「くくく、後はもう一人の下手人を捕らえれば我が計画を実行に移せる」
芝居がかった調子のセリフで頻りに眼鏡をくいくいと動かす。こいつのテンションの乱高下は正直、仲良くなった今でも苦手だ。
あくどい顔の千明を横目に、燦々と笑顔のなでしこがカウンターに乗り出す。
「あのね、これから皆でカリブー行こうって話してたんだ」
「キャンプは行けず仕舞いやけどバイト代だけは溜まってくからなぁ」
「部活はほとんど自粛状態で校庭で落ち葉焚きもできないし。ならいっそ今後のグルキャンの計画をフルメンバーで相談しようって思ってさ。キャンプ用品見ながらの方がインスピレーションも湧きそうじゃん?」
「それは……」
魅力的な提案だった。キャンプ以前に遠出自体が難しい今の自分にとって、近場のキャンプ用品店に行くことだって十分貴重な機会だ。
近頃覗いていなかった分、何か面白い新製品が入荷しているかもしれない。
しかし、それこそ今の自分には両親から許可が必要だった。そして晴れて前科者である自分にそれが与えられる訳もない。
「ごめん、私は……」
「とりあえず二人にはこれから薙原捜索隊に加わってもら……ん? なんか言ったか、リン」
「いや。ちょっと待って。そ、捜索隊?」
「せやで。薙原くんも誘て、先生も交えてゆくゆくは七人で」
「新グルキャン計画だよ! リンちゃん!」
ぱっと花が咲くように笑いながら、なでしこはそう締め括った。
本人の同意は……たぶん得てないのだろう。今まさに自分と斉藤が寝耳に水を食らっているのだから。
でも、それは正直、少し、いや実際、かなり……心が惹かれる。
「でもアキちゃん、放課後に寄り道って大丈夫?」
「ふふふ、抜かりはないぞ恵那。鳥羽先生には報告済みだし、なんと帰りは車で送ってくれるって言質まで取れた」
「取ったいうか完全に先生の厚意やろがい」
「往きの道も問題ない。なんといっても強力なボディガードを用意している」
「用意も何もそれをこれから薙原くんに頼みに行くんやろがい」
「うんうん! というわけでリンちゃん恵那ちゃん! 哲也くん探すの手伝って欲しいんだ!」
あれよあれよと話が進む。この自分には無い勢いというかハチャメチャ感は流石、野クルだと思う。
「
「荷物は席にそのまんま置いてあったわ」
「授業終わってすぐにどこか行っちゃって、リンちゃん恵那ちゃん、見てなぁい?」
「うーん、私もすぐに図書室に来てたから……」
自分の遠出禁止と門限について言いそびれてしまった。勿論、このまま親に黙って寄り道をして行こうとは思わないけど。
「あ、薙原くんだ」
「え!? マジか」
「どこどこ」
「ほら、あそこ」
「あ」
それはいつかの、不意の再会のように。
図書室の窓の外、あの時はここにいる野クルの面子がテントを組み立てていた、中庭に。
彼の姿はあった。実にあっさりと見付かったことに拍子抜けというか、噂をすれば影というか。
「……なにしてんだあいつ」
「さあ……?」
彼はなにやら植え込みや花壇に身を屈めて土を弄っている。帰宅部から園芸部に鞍替えでもしたのだろうか。なんて首を傾げた傍から。
たったった、そんな軽快な足音がした。
なでしこが駆けていく。仔犬みたいに真っ直ぐ、無邪気にはしゃいで。今度はちゃんと窓を開いて。
「哲也くん!」
それはやっぱりいつかの光景で。
文字通り身を乗り出して、なでしこは言った。
「一緒にキャンプ、やろうよ!」