じじキャン△   作:足洗

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※ゆるキャン△の優しい世界が好きな方は御注意ください。




2話 黄泉帰り

 

「…………なにを、言ってるんだ」

「こんな寒空の下、何を好き好んで湖畔なんぞに陣取るかねぇ……あぁ、ここぁ、本栖湖か」

 

 少年がその場から進み出る。自身を横切り、小波を立てる湖の縁へ。

 月明かりに晒された富士の山景。湖は天然の写し鏡。夜空に山を浮かべ見る。

 少年は暫時沈黙し、その遠景を仰いでいた。その目はひどく遠く、遠くを見ていた。

 

「……律儀な」

 

 その、穏やかな目は。

 

「愛知から本栖湖くんだりまでわざわざ。わざわざよぅ。ご苦労なこった。山梨(ここ)にゃ足繫く参るほど立派な墓もねぇだろうが。今時分、冷えるだろうに。痩せ枯れの爺ひとり死んだ日がそんなに大事かねぇ。はんっ、馬鹿くせぇ」

「……き、君は、誰だ」

「誰たぁご挨拶だな。えぇ? わからねぇかい」

「お前は誰だ!?」

 

 湖上を響く怒声。夜気は、声に宿った怒りの熱気すら貪欲に食い散らす。

 漣が寄せて返す。静かな筈の波音がいやに耳孔を突く。執拗に、不快なほど。

 そうして今一度波が立った時、その少年は……少年のようなモノは口を開いた。

 

不二崎(ふじさき)甚三郎(じんざぶろう)

「ふざけるなッ……!」

 

 不二崎。

 不二崎だと。

 あの不二崎甚三郎だと。

 五年前、この本栖湖で今生を別ったあの。腐れ縁。旧馴染み。無二の友。独り死んでいった、独り逝かせてしまった老爺。

 それを名乗るのか。それを、騙るのか。

 

「奴は死んだ! 死んだんだ! 五年前にな!」

「……」

「お前が、不二崎だって? 馬鹿も休み休み言え。そんな……そんな訳がない」

 

 あの御霊山の霊験が、本当に死者を呼び出してしまったとでもいうのか。くだらない。時期外れもいいところだ。枯れ尾花の方がまだしも季節感と趣はあったろう。

 突然現れ、見も知らぬ輩が何故、よりによって何故、今日この日に、その名を口にする。あの男を称する。

 隠しようもない怒気が腑を煮立たせた。

 それを──満身の力でなんとか鎮める。

 

「……君はあの男の、親類か何かなのか。だから奴の名前を、奴の……口調を知っているんだな」

「……」

「冗談にしても質が悪いぞ。それは、奴の」

 

 冒涜だ。

 ……過大な物言いだろうか。ああきっと、大仰だ、と。奴は苦言を漏らすだろう。

 だが譲れない。奴との記憶は、過去は、間違いなく私を形作る一部。新城(しんしろ)(はじめ)の重い重い血肉なのだ。

 穢させはしない。

 

「信じられんか」

「当たり前だ」

 

 険ばかり尖っていくこちらに比して、少年の態度は変わらない。落ち着き払って、不敵に笑う。

 いっそ、親しみさえ籠めて。

 

「だろうな。俺も信じらんねぇよ」

 

 とても投げやりで、深く自嘲するような、渇いた笑声をこぼす。

 

「何と言やぁ信じる? 昔話でも咲かすか? お前さんが最初に買った単車はトライアンフのボンネビルだ。そうそう買った初日だ、てめぇ伊勢神峠のカーブで盛大にスッ転んで左膝を十二針縫ったろ。あん時は血が滝か川かってぇくれぇどばどば出て肝潰したぜ」

「…………」

 

 覚えている。十八の時だ。調子に乗って加速をつけ過ぎたからだろう。タイヤが横滑りしてそのまま林に突っ込んだのだ。左膝には今もその縦傷が残っている。

 あの時は、私よりも奴の方が泡を食っていた。どこからか調達してきたトラックに私とバイクを載せて、文字通り病院に担ぎ込まれた。

 

「おぉ、今はスラクストンか。前のやつぁどした? (サイドカー)が邪魔んなったか? カッカッカッ」

「……」

「峠を流した後は必ず立ち寄った、あぁマルボロだかピースだか気取った名前の喫茶があったろう。覚えてるか? ブレンドの糞不味いあの店よ。格好つける為だけによく二人してあの泥水を啜りに行った。ウエイトレスの、ほれあの看板娘、なんてった。あの子目当てに男共がこぞって通い詰めてたなぁ」

「……キミちゃん、だったか」

「そうだそれよ! キミちゃんだよ! いや顔は正直いまひとつだったが、腰付きが妙に色っぽかった。くふふ、眼福眼福ってな」

「お前は……不二崎の奴は、あんまりにも露骨に眺めるものだから怒った彼女にトレイでよく叩かれていた」

「あぁ? てめぇだってそうだったろうが」

「さあな。忘れたよ」

 

 視線を咎められて金属のトレイを頭に喰らうのは、不二崎と私それぞれ2:1といったところだった。

 それがあの店での、私達のコミュニケーションだった。

 

「二一だぁ? 嘘こけこのトンチキ。取り澄ましてやがっただけで、てめぇだってあのまぁるい尻さんざ拝ませてもらった癖によ」

「……お前ほど助平根性が据わってなかったんでな。それと……」

 

 驚くほどに鮮明にその口から語られるエピソードの中に、しかし遂に見付けたぞ。瑕疵。誤答を。

 それは。

 

「俺が見ていたのは脚だ」

「……」

 

 きょとんと目を開き、二度三度と瞬いてから。

 少年は──奴は、破顔した。

 

「くはっ! おおそうだった。そうだったなぁ、ふ、ふはははっ。にこりともしねぇ真面目面突き合わせて、形がいいだのなんだの糞真面目に品評し合ったなぁ……ハハハハ!」

「若かった。そして馬鹿だったよ」

「ああ……本当にな」

 

 その幼い筈の顔を彩る褪せた懐古の情念。自分の顔に、同じ色を映さない自信が私にはなかった。

 

「大昔のことだってのに、やけにはっきり思い出す。脳味噌が若ぇからか? はっ、いったいなんなんだろうな、この己ってぇやつぁ」

 

 夜空を仰いで独りごちる。達者で、どこまでも人を食った弁舌だった者が。

 そんな男が今もなおひたすらに、途方に暮れている。

 

「黄泉路に迷った亡霊か……あるいは気を違えて、手前(てめぇ)を不二崎の甚三郎と思い込んでる何処かの誰かか。手前自身にしてからが、(てめぇ)ってものがわからなかった。つい、さっきまではよ」

 

 皮肉気な言い様は、しかしこちらに向けられたものではなかった。

 少年は依然、少年自身を嘲り、恥じている。まるで気後れを誤魔化すような笑み。

 

「なぁ、新の字」

「……」

「お前さんの顔見たら腑に落ちたぜ。俺ぁ不二崎甚三郎だ。とうの昔にくたばった筈の糞爺よ。どういう訳だか知らねぇが、この坊主にとり憑いて現世に蘇っちまったらしい。お笑い種だ。いい面の皮だよ! 笑ってくれぃ、笑ってくれよ。なぁ新の字」

 

 新の字。

 新城でも、肇でもなく、奴は……この男はいつも私をそのように呼んだ。そのこてこての江戸訛りと相まって当時にしてから実に時代錯誤甚だしかった。だから何度もやめろと言った。何度も何度も言ってきたのに、一向に聞く耳を持たないのだ。

 ────まさか死んでも、治らないとは。

 

「ふざけてる」

「おう、ふざけた話だ」

「ありえん」

「あっちまったんだからしょうがねぇだろうが」

「開き直るな……これは現実なのか。転寝(うたたね)して夢でも見てるんじゃないのか、私は」

「一発ぶん殴ってやろうか?」

「やめろ。余計に腹が立つ」

 

 頭痛の兆しを覚えて額を覆う。

 飲み過ぎた酔いの淵で見ている夢。そうであったなら、それこそこの男の言ではないが腑に落ちる。

 私は感傷に浸るがあまり、記憶の奥底からこんな幻想を掘り起こしてしまったのだ、と。こんな。

 

「うぅさぶさぶっ! ここいらぁ相っ変わらず寒々しいったらありゃしねぇ……だが、まあ」

 

 相変わらずの寒がりは、両腕を擦って悪態を吐く。

 水面の月と富士の白肌を望み、その目に焚火のくゆりを灯して男は懐かしそうに言った。

 

「眺めだけは悪くねぇ。眺めだけは、な?」

 

 嫌味を添えるのも忘れない。偏屈な男がそこに在る。

 こんな都合の良い、夢が、そこに佇んでいる。

 

「不二崎……なのか」

「カッ、そうらしい」

 

 顔立ちは似ても似つかない。あの猛禽類の如き鋭さは、青瓢箪なその容貌にはどこにも見当たらない。

 似ても似つかぬ筈のその姿が、けれど、不二崎なのだ。どうしてか、どうしようもなく、不二崎なのだ。もはや私にはこの少年を少年と看做すことができなくなった。

 憎らしいほど変わらない。目を(すが)めた歪んだ笑い。偏屈と皮肉屋を気取っていながら、時に同齢の自分でさえ驚くほどの達観と老獪さを持つ。

 少年の姿をして、あの老爺がここにいる。

 

「そうか……そう、か」

「……」

 

 顔を覆い、溢れたものを手に受け止める。

 不二崎は何も言わず、私の肩を軽く叩いた。

 

 

 

 

 

 

 

「何がどうして()()なっちまったか、その辺は考えても始まらん」

「だろうな」

 

 積んだ薪木を椅子代わりにして座り、焚き火で揉み手を暖めながら少年は──少年の姿をした不二崎甚三郎は言った。

 然したる逡巡もなく、頷く。何処かの高名で明晰な学者先生であればこの現象に対して何かしら科学的理屈をでっち上げてくれるかもしれないが、それは現状において無意味だ。

 

「元に戻らねば、戻してやらねばなるまい」

「その体の持ち主が誰か分からないのか?」

「待て。たしか……」

 

 不二崎は自身のポケットを探り、二つ折りの黒い財布を取り出した。

 

「悪いな。ちょいと失敬するぜ」

「どうだ。免許証か、保険証でもいい。ないのか」

「急かすんじゃねぇ……おっ、学生証だ。本栖高校一年、薙原(なぎはら)哲也(てつや)。よしよし住所もある」

「本栖高校? リンと同じ学校なのか」

「あ? ちょっと待て。リンちゃんと同じっておめぇ、リンちゃんもう高校生か!?」

「ああそうだ。十六になる」

「十六ぅ? ついこないだ五年生ンなったばっかりだろ」

「馬鹿、さっき言っただろう。お前が死んでから五年にもなる。リンだってそれだけ大きくなってるんだ」

「かぁぁ……」

 

 不二崎は腹の底から、驚愕だか驚嘆だか、そういう色濃いものを深く吐き出した。

 

「てめぇが生き返ったことなんかよりそっちのがよっぽどびっくりこいたぜ。子供の成長ってなぁ……こんなに早ぇかい」

「まあな。それに関しては、私も毎年痛感させられる」

 

 こればかりは子を持ち、孫を持った誰もが得るものだろう。この感慨は。

 斯くも奇妙な体験を前にしているのに、なにやらひどくしみじみと、そんな当たり前を思い知っている。

 学生証、そして念の為に保険証にも記載されている住所とを見比べる。

 

「家は身延か」

「親御さんに事情を話す訳には……」

「行くまいよ。到底正気の沙汰じゃあねぇ。お前さん相手だったから今こうしていられるが、我が子がこんな豹変見せた日にゃ即刻病院送りだろうぜ」

「……私がここに居たことで、お前を呼び寄せてしまったのか」

「さあな……良か悪かは置いて、それを(えにし)と言うのだろうよ。そしてその緒を結ぶのは、神だか仏だか天魔だかの勝手な仕儀だ。人がどうこうできるもんじゃねぇ。お前さんが気にするこっちゃねぇ」

「……」

 

 神仏を蹴散らすかの威勢で奴は吐き捨てる。お前の所為ではない、と。

 

「何か切欠はなかったのか。そもそもいつからだ。お前がその、哲也君の体に乗り移ったのは」

「己が己であると……仰々しいな。まあなんだ。()()に気が付いたのはそこの林の奥で目を覚ました時だ」

 

 不二崎は親指で松林を、濃密な闇を孕んだ木々の群を指す。

 

「ほんの小一時間前まで、地面にぶっ倒れていた。節々痛むところみると、昏倒してたのぁもっと長い。たっぷり数時間は気を失っていたらしい。そして少なくとも意識を失うまで、この身体は確かに『薙原哲也』のものだった筈だ」

「何かが起こり、その子は気絶した。そうしてそこへお前が宿った」

「ああ、そしてその何かってぇやつぁはっきりしてる。見な」

 

 言うや、不二崎は左腕のタオルを取り払い、灯りの下に晒した。

 半ば凝固した血が水気の無い絵の具のようにこびり付いて、薄汚れたポリエステル繊維、そしてその下に着られた長袖のロングTシャツまでも、ぱっくりと裂け割れている。

 上腕の外側だった。細く、斜めに走った傷口が今も赤々と血を滲ませていた。

 

「それは……」

「刃傷だ」

「! 斬られたのか!?」

「そのようだぜ。石や枝ではこうはならん。しかもこの大振りで肉厚な刃筋……軍用のナイフか山刀ってぇところか。キャンプ地に持ち込むんなら打って付けだろう」

 

 持っていても怪しまれず、用途に言い訳も利く。

 忌々しいほどに最適な──凶器。

 

「不届きな野郎が居たもんだ」

「……ああ、ここ最近は、特にな」

「? 最近?」

「事の始まりは二ヶ月前、昨年末からだ」

 

 苦いものを噛むような心地で、その記憶に新しい文言を思い起こす。

 

『キャンパー切り裂き魔』

 

 今まさに静岡、山梨、長野の巷間を騒がせているその凶事は、人口にそう膾炙(かいしゃ)されていた。

 最初の凶行は12月24日、世間が無邪気にクリスマスイブに浮かれる聖夜に起こる。場所は富士宮市『朝霧高原キャンプ場』。キャンプに訪れていた会社員の男性(28)が刃物で切り付けられたという。

 犯人はすぐに逃走。被害男性の証言を基に容疑者の特徴とイメージイラストが公開され、周辺地域への注意喚起が為された。

 

「……事件のあらましと、ガイ者の証言は見られるか。あぁー、インターネットだか、なんだかでよ」

「ネットニュースの記事程度なら……これだ」

 

 スマートフォンの画面にサイトを映し、不二崎に手渡す。

 しかし、年を越して間もない1月4日、第二の凶刃は振るわれる。場所は甲府市帯那山沿いにある『林間キャンプ場』。深夜、キャンプ場内の林道を歩いていた自営業の男性(36)が襲われた。暗がりを背後から、まず鈍器のような物で殴られ、転倒したところに足と手を切られたという。

 男性はすぐ警察に通報したが、街灯もない林の中で犯人の姿は見えなかったそうだ。ただその時、遠くで走り去るバイクの音を聞いたと証言している。

 この際、被害者の傷跡から、使用された凶器の形状、刃長等が、前回の犯行に使用された物とほぼ同様であったことが判明、同一犯の可能性があるとして報道された。

 

「…………」

「……」

 

 黙して画面上の文章を追うその目が、徐々に形を変えていく。研ぎ澄まされ、鋭く尖る。猛禽、さながら鷹の目のように。

 そして、それから一月と経たぬまま1月28日、第三の事件は発生した。場所は大きく移り長野県は駒ケ根市戸倉山の『山間キャンプ場』。夫婦で訪れていた飲食店従業員の女性(32)がトイレに行く途上で襲われた。こちらもまず鈍器のような物で殴られ、そのまま女性は昏倒。気が付いた時には前回の男性同様に手足が刃物で切られていたそうだ。こちらは目撃情報すら見付かっていない。

 いずれの犯行も共通するのは二点。使用された凶器、そして狙われた被害者が皆キャンパーであること。

 

 この連続通り魔事件は今や大々的に報道され、テレビや新聞、ネットでも話題を浚っている。しかし、取り沙汰す世間の熱とは裏腹に、未だ警察の捜査に大きな進展はなかった。

 

「一件目の犯行からこっち、目撃情報が碌々拾えねぇたぁ……どうなってやがる」

「年末年始に掛けて山梨は雪が降った。路面凍結もあって車両の行き来が一時ストップしたのが、捜査難航の原因の一つ……と、ニュースでは言っていたが」

「くだらねぇ。んな程度で警察が手ぇ緩めるかよ。事あるごとに県を跨ぎやがることの方が厄介だが……南アルプスってのはどうしてこうキャンプ地が多いかねぇ」

「行楽地でもある。一時期営業自粛は叫ばれたが客足が絶えた印象はないな」

「っ、どいつもこいつも道楽もんがよ」

「ふっ、お前にしてみればそうだろうな」

「そうだ、そうだてめぇ! この御時勢になにキャンプなんぞしてやがる! 通り魔がその辺うろついてるなぁ先刻承知の筈じゃあねぇのか!?」

 

 目を剥き、怒気も灼熱させ喝が飛ぶ。乱暴だが至極正論を浴びせられ、思わず苦笑する。

 そんなこちらの態度が気に入らないのだろう。不二崎の背中で、怒気がまた一段膨れ上がるのが見て取れた。

 

「馬鹿野郎ッ! てめぇには帰る家も、待ってる家族もいるだろうが! いい歳こいた爺が()けた真似するんじゃあねぇ!!」

「……返す言葉もないな」

「当たりめぇだこのすっとこどっこい!」

「流石、元刑事だ。説教も堂に入っている」

 

 この男は、山梨県警の刑事を定年まで勤め上げた。

 その少年の姿容からは想像もできない胆力、迫力、そして覇気が、湖上を渡って山までも震わせそうだ。

 

「おい、減らず口が聞こえるぞ? 本当にわかってんのか?」

「ああ、わかった。すまん」

「けっ……」

 

 不二崎は腹立ち紛れに唾を吐き捨てる。悪態な様はまるっきり無頼か、今は悪童だ。

 懐かしさを堪え切れず、また笑声が鼻を抜けた。

 

「しかし、それにしてもお前の訛りは酷いな。昔からだが、本当に愛知出身なのか疑わしくなる」

「るっせぇな。己の祖母(ばばあ)に言いやがれぃ。あの(アマ)の癖がそっくり感染(うつ)っちまったんだ」

「お祖母さんは東京出身だったか」

「ああ、例によって空襲で焼け出された口よ。それが流れ流れてどう転んだかねぇ……結局愛知に骨埋めやがった」

 

 昔話は尽きず、切りもない。

 竈に掛けた鉄瓶が沸いていた。煤で焦げるままにした瓶底はもはや元の色も質感も定かでない。

 淹れたインスタントコーヒーを共々啜り、ようやく人心地つく。

 

「なんにせよ、その切り裂き魔が鍵だ。おそらく薙原哲也はその野郎に襲われた。襲われたショックか、あるいは助けを求めたのか、その後、己がその体に憑りついた」

「まさかその犯人が薙原君の体の中身を入れ替えた、なんてことを言わないだろうな」

「流石にそんな妖術使いみてぇな手合いではなかろうや。この野郎はただの被疑者だ。昔から変わらず何処にでも現れる、現れちまうただの犯罪者よ。こればっかりは馴染みの臭いだ。間違いねぇ」

「ふっ、含蓄深いことだ」

「へっ、有り難くもねぇがな」

 

 皮肉げな笑みを突き合わせる。

 通り魔に襲われた少年。その少年に乗り移った元刑事の老人。そしてそこに居合わせた旧馴染みのキャンパー。

 奇妙な、そして実に運命的な取り合わせだった。

 

「手掛かりはそいつしかあるめぇ。捕るぜ」

「はあ……お前はそう言うだろうと思ったよ」

「それしかやり様はねぇだろう。こちとら文字通り、暗中模索なんだからよ。この犯人(ホシ)を挙げりゃ、あわよくば薙原哲也が戻るかもしれねぇ。戻らぬにしても、どんな状況で哲也がこうなっちまったかをそいつから訊き出せる」

「……警察に任せる訳にはいかないのか」

「ああ、本来ならそうすべきだ。だが被疑者が一度警察の手に渡れば、もはや俺達にはどうあっても手出しできなくなっちまう。これだけの傷害事件、実刑は確実だ。起訴され裁判に掛け判決が下り懲役刑……親族でもねぇ人間に面会が許可されるようになるまでどれだけ時間が掛かるか」

 

 時間の猶予は定められていない。今のところは。

 だが後々に逼迫した理由が表見しないとは限らないのだ。

 最悪なのは、元に戻ることができるタイムリミットがあった場合。手を(こまね)く内に、薙原哲也という少年がこの世から消えてなくなる。

 

「死に損ないの爺の亡霊に体を乗っ取られるなんざ、あんまりに憐れでならん」

「……」

 

 ぽつりと落した呟きを焚火にくべて、不二崎はコーヒーを飲み干した。

 

「お前さんもそう思うだろ……新の字」

「……ああ」

 

 ほんの、ほんの半瞬、応えの声が出遅れたのは。

 私の迷いなのか。それとも。

 

「ん? おい」

「なんだ」

 

 不二崎は手にしたままのスマートフォンを掲げる。

 年中マナーモードに入れっぱなしのそれは、矢鱈に煩い無音の振動を発していた。

 

「電話だぜ。お」

「?」

 

 その顔に驚きの色が映る。

 差し出された端末を受け取り表示を見ると、そこには。

 

『リン』

 

 画面をタップして受話口を耳に当てがう。

 

「もしもし」

『あ、おじいちゃん? 今大丈夫?』

「ああ、どうしたんだい」

 

 なにやらおずおずとした愛孫の声に目が細まるのを感じる。

 しかしこの時刻に電話を掛けてくるというのは、この子にしては珍しいことだった。なにせ思慮深く機微に聡い子なのだ。

 

『キャンプのことでちょっと聞きたいことがあって。眺めの良さそうなところ、どこか知らない?』

「リン、今の時期にキャンプに行くのは止しなさい」

 

 昨今のニュースはもとより、学校にも警察から指導が入っているだろう。この子も承知している筈。危険だ物騒だと今更こちらから滔々と説明するまでもない。ないが、しかし。

 

「犯人はまだ捕まっていない。リンがソロキャンパーとして一人前の技量なのは私も認める。だがこればかりは駄目だ。万が一にもリンが危険な目に遭えば、咲も渉君も、無論私も、後悔してもし切れない」

『あっ、わ、わかってる! わかってるよ! ……お母さんにも同じこと言われた』

「ふふ、そうだろうな」

 

 我が娘との奇妙な以心伝心に肩を竦める……そこに喜ばしいものを覚えないかと言えば、噓になるが。

 ふと、傍らを見る。こちらを見据える半目と目が合う。

 不二崎は声なく口唇で「お、ま、え、が、ゆ、う、な」と形作った。

 払い手でし、し、とそれを遠ざける。

 

『通り魔が逮捕されるまではキャンプには行かないから。ただ……結局、去年からずっと行けず仕舞いだし、せめて次に行く場所の目星くらいはつけておきたいなって、思ったから……ダメ?』

「……いいや、下調べは大事な備えだ。リンは正しいよ」

 

 いじらしいその申し出を跳ね付けに出来る親などこの世にはいまい。断じて在り得ない。

 そして、自身の(おや)馬鹿さ加減には呆れる他ない。危ういと言った舌の根も乾かぬ内に、記憶野から出来る限り孫娘の希望にそぐうものを検索する。

 

「御前崎の方は海の景勝地として有名だ。私も一度バイクで流したが、良いところだったよ」

『へぇ……いいなぁ、海……原付でも大丈夫かな』

「ああ、道も綺麗で走るには打って付けだ。ただあの辺りは西風が強いから原付では大変だろう。暖かくなれば多少はマシになるが……念の為に風防(スクリーン)を付けた方がいいかもしれない。それと、海沿いのキャンプ場だったかな? それなら磐田に竜洋の森というところがある。芝生サイトから少し歩くだけで海辺に出る。散策はし易いだろう」

『磐田……そっか、そっちにもキャンプ場あったんだ。盲点だ……』

 

 しみじみとした呟きが妙に可笑しいというか、無性に愛らしい。

 その後も静岡臨海のキャンプ場を幾つかピックアップして教えた。声音を聞くにどうやら満足いってくれたようだ。

 

『ありがとう、おじいちゃん』

「構わないよ。もう遅い。暖かくして寝なさい」

『うん、おやすみ』

「おやすみ、リン」

 

 二呼吸分ほどの間を置いてから終了をタップする。

 それを明らかに見計らって、不二崎はオーバーな所作で頭を抱えた。

 

「リンちゃんがキャンプだぁ? あぁあぁ可哀想に。爺に毒されちまってまあ」

「ふん、リンはお前と違ってこの趣を理解できる豊かな感性があるんだ」

「そこは疑っちゃいねぇよ。爺が一人侘しく野焼きしてるよかよっぽど画になるだろうぜ」

「口の減らない奴だ」

「お互いにな」

 

 打てば打ち返ってきた。

 減らず口の応酬。戯れ合い。

 いい歳して、と言う咲の呆れ笑いが目に浮かぶ。

 

志摩(こちら)の家の皆は元気にしてるかい」

「ああ、皆変わりない」

「リンちゃんはすっかり活動的になったなぁ」

「最近は原付の免許を取って一人でどこへでも小旅行している。ああ、アルバイトも始めたらしくてな。キャンプの資金を自分で稼いでるんだぞ?」

「ほう! そりゃあすげぇや。偉いなぁあの子は」

「ああ、本当にしっかりした子だよ」

 

 自慢の孫娘だった。厚顔に、しかし胸を張ってそう言える。

 

「いい子に育ってくれた」

「……そうかい。そいつぁいい。哲也にゃ悪いが、そいつを聞けただけでも死に損なった甲斐はあったぜ」

「……」

「ははは、そうかぁ。もう高校生かぁ。あのリンちゃんがなぁ……はは、はははは」

 

 感慨深く、深く、溜息を吐いて老爺は頷く。頻りに、何度も。それが、そのことが、嬉しくて嬉しくて堪らないと。

 この男にとって、リンは旧友の孫娘でしかない。親類縁者でもなく、家同士の繋がりとてありはしない。赤の他人と言わばそれまでの間柄。

 それが、ただそれだけのものが、この天涯孤独の老人にとってどれほど重く、大切か。得難かったものか。

 

「他人様の子供だってのにな……かかっ、何様の分際かねぇ、俺ぁ」

「……不二崎」

「あぁやだやだ。これだから嫌だねぇ寂しい老い耄れってなぁ。くっ、ふふふ」

 

 自嘲の色濃い呟きは、自戒か、それとも羞恥か。

 

「さ! そろそろ寝るか。毛布かなんか寄越してくれ。いっくら体が若ぇったって風邪っ引きは御免だぜ」

「……」

 

 腹式で発した一声が温い暖気を吹き飛ばす。

 先の一瞬に過った霍乱を払うように、すっくと男は立ち上がり伸びをする。

 

「夜が明けたら哲也の荷物を探さねばな。十中八九キャンプ道具だろうが」

「ほう、どうやら私達のような同好の士はお前が思うよりずっと多いようだな」

「へっ、んなことで勝ち誇るんじゃねぇや」

「お前もどうだ。哲也君の道具を借りてキャンプをするのは。実にいい機会じゃないか」

「御免被る……と言いてぇところだが、捜査となりゃあ否が応もなかろうな」

 

 予備のブランケットを投げ寄越す。

 それを受け取りながら、不二崎は独り言のように言う。

 

「なにはなくとも現場を当たるしかあるめぇ」

「キャンプ場を一つ一つ巡るのか?」

「応さ。国家権力も人手も持ち合わせねぇ伝手すら辿れねぇ元不良警官に出来る捜査なんざ、足使う以外にねぇだろうがよ」

 

 お道化てみせる不二崎を、しかし笑う気にはなれなかった。

 この男は本気だ。本気で、独力で犯人を捕まえようとしている……その先に何が待っているかを知りながら。

 

「ひょっこり戻って来てくれりゃあ、一番造作もねぇンだがな。くくく」

 

 それが、その行く末が、やはりどうしようとてなく────死出の旅路と知りながら。

 

「……」

「明日から忙しくなる。悪いがお前さんにも働いてもらうぜ、新の字」

「ふんっ、欠片も悪びれていない癖に」

「ご明察。ふはっ、ハハハハ!」

「ははは!」

 

 笑う。笑い合う。その最期を理解して、素知らぬ風に。

 焚き火はくゆり、薪木は焦げて、炎は上がる。

 富士の峰が泰然と、我々を見下ろしていた。

 

 

 

 

 

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