なんか暗い方へ行ってしまう。何故だ(A.性癖)
200坪ほどの陳列スペースには、それこそ所狭しとアウトドア用品が居並んでいた。
ランタンを初めとした屋外照明器具。コンロ・グリル、クッカー各種はガス式電気式直火用等実に多種多様である。鍋一つとっても大きさから性能、用途まで様々なものが陳列棚を満たしている。
テント周りの品数の充実っぷりは素人裸足の夥しさだった。野外の
通路の中央を中洲のように陣取って、テント、タープ、テーブル、グリル、チェア等一式が洒落っ気たっぷりに展示されている。
その中の一つ、スチール製のハイチェアにどっかりと腰を下ろし、沈み込むようにして身体を預ける。あまり行儀の宜しくない使い方だ。店員に見咎められたその時は、粛々とお詫び申し上げよう。
ゆえにどうかそれまでは、そっとしておいてやってくれ。なんせ死ぬほど草臥れちまってる。
「あおいちゃんとの馴れ初め、聞かせてよ。やっぱりキャンプ? それとも他に何かぁ、ありそうよねぇその感じだと。切っ掛けがあったとか?」
「リンちゃんとも仲良いのね。うちのなでしこも懐いてるみたいだし、女誑しっていうのは本当みたい。ふふ」
「薙原くーん! このマウンテンパーカどない? サロペットと合わせてみたんやけど。薙原くんの、その、好みとか、教えてくれたら……た、他意はないで!?」
「薙原ー、このワンポールテントのポール持って立っててくれー。これグルキャン向きの超でかくてしっかりしたやつだから、ぐっぐぐ! テント被せたままだと、ぐぉぉお、めちゃ重っ、重いんだよ……!」
「リンとのこともそうだけど、私としては父さんとどうやって知り合ったのかが気になるのよね。父さんに聞いてもはぐらかされるし。ね、薙原くんってやっぱり小父さんの……不二崎さんの」
「流石に、学校の先生とそういうのは……うん。鳥羽先生お綺麗だし、憧れるのはわかるけど……え? もしかして逆? まさか鳥羽先生の方が!? その辺り詳しくお願い」
「薙原くんハットとか被らへん? これとかほらトレッキング用のやつ、私も色ちで買おかなーなんて……ホンマ他意はないんやけども!」
「薙原という肉体労働要因が加わるなら荷物持ちとか設営とかに労力割けるし、山奥とか難所で敬遠してたキャンプ場も候補に入れられる。くくく、野クルの活動幅爆増じゃねーか! 薙原ー! この薪ストーブとか持ち上げられるか!? いやお前ならやれる! やってみせろよ薙原!」
矢継ぎ早、あるいは自動小銃の掃射の如き質問責めと子供らからの催促を宥め賺し時に躱し熟して気付けば早一時間。ようやくそこから解放され、小休止をお許しいただいた。
「かかっ、まったく、年寄りはもっと労わるもんだぜ……」
自儘な埒もない小言を呟く。
子供らのはしゃぎ様はともかく、まさか咲ちゃんにああまで詰められるとは思わなんだ。己の見通しの甘さが招いたこととはいえ、考えが及ばなかった。
存外に、彼女は覚えていてくれた。不二崎甚三郎という老爺のことを。
存外の、慮外の強さで。
『小父さんったら薄情よ……最期くらい、看取らせてくれたっていいじゃない。ねぇ』
それは独り言のような、愚痴のような。あるいはまるで、この少年の姿に潜んだ、この老人に向けて不平を溢すような。
うっかり詫びの言葉が口から零れそうになる。娘子の我儘一つ叶えてやれない、やれなかった。その不甲斐なさを、苦みを何度となく味わう。
「……」
深く息を吸い、深く吐き出す。深呼吸はむしろ、身体に蟠った疲労を己により実感させるばかりだった。
欠伸を噛み殺す。近頃、眠気が酷い。
平日の放課後や休日は専ら事件現場に足を運び、収拾した事件の資料と夜通し睨めっこの毎日。若い体に甘えたツケだろう。好き勝手されて哲也少年もいい迷惑に違いない。謝罪は草葉の陰に引っ込んでから改めて送るとして。
だがもう少し。あと、もう数歩。
これもまた勘働き。捜一時代には幾度もこの予感を覚えた。
迂闊な真似は厳に戒めねばならぬ。警戒感に毛を逆立てているだろう犯人は、状況の些細な変化にすら泡を食って逃げ出す。鼠のように。
それが窮鼠となるか、それとも闇の中へ失せるか。
己の出方次第。だがそれは逆を言えば、こちらがあからさまな騒動を起こせば、対手を揺さぶれる。行動を誘発できる。
さすれば。
「…………くぁ」
また一つ欠伸を噛み殺す。思考が要所へ差し掛かった途端、脳髄の運行は緩慢に鈍っていった。
背もたれに身を沈め、目を閉じる。寝るつもりはなかった。ただ照明が少し眩しかっただけだ。
少し、目を休める。それだけ。ほんの数分。
「ふぅ……」
瞼の裏に淡い光を見る。血の巡り、やや遠くに娘達の姦しい話声。
意識は、背骨からゆっくりと薄闇の中へ落ちていった。
靴音がする。軽く、控えめな足運びで。それはこちらへ近寄ってきて程なく止まる。
隣で、金属の軋む音が────
啜り泣きが聞こえる。ひどく、幼い。
生白い廊下の待合所。長椅子の隣で子供が泣いている。
薬臭いところだった。慌ただしい足音。早足に扉を出入りする白衣。
薬と、血の臭い。死の臭い。
嗅ぎ馴れた、馴れ親しんだ空気。老いさらばえた己にとっては友のようなもの。
だが、この子は。こんな小さな、少年には、あまり似つかわしくない。
こんな場所に何故こんな子が。そして何故に泣く。そんなにも深く、悲しみ、不安げに。
小さな膝小僧の上で握り締められた小さな拳。小学生くらいだろう。
堪らなかった。旧友の孫娘と同じくらいの子供が、こんな泣き方をしている。駄々を捏ねるでもない。嫌々と泣きじゃくるでもない。ただ、ただ、重い悲しみに肩身を圧し潰され、涙を流す、その様が。
胸を潰す。
「坊主」
己は何と言ったのだったか。
何と、言わずにはおれなかったのか。
末期との診断が下り、晴れて入院生活が始まった。敢えて報せるようなこともない。そんな悪足掻きを試みたものの、新の字を通じて志摩の家の人々には即知られてしまった。
だからすぐに、渉くんや咲ちゃんには見舞いになど来るなと言い含めた。
それを薄情と詰られて否定の仕様もなかった。
弱った姿を見られるのが、どうにも耐え難かったのだ。心底下らぬ見栄だ。老い耄れが古惚けたプライドを守る為に愚昧なことをしたと今更に思う。
けれど、痩せ衰えた己の姿など、あの子に見せるのは忍びない。病院の臭いなど無理に嗅ぐことはないのだ。この、死の臭いは、子供にはきつかろう。
愚かしい。返す返す、そう思う。
そんなことだから、この様だ。しっかり死に損なって生き恥を晒している。
恥。そう、恥と知りながら俺は。
俺は果たさねばならない。約束を。
────ジン
転寝していると、お前はいつもそうやって俺に笑い掛けた。
なにやら懐かしい。まさかお前の顔を忘れる筈がないのに。
遺影の写真は毎朝仏壇で見ている。あぁ、いや、もうそんなことをする必要もなかったのだったか。
「なんだ、もう迎えに来ちまったのか……綺理枝」
後光でも差しているみたいな笑顔だ。日向のような、暖かな。
明るい女だった。眩しく笑う女だった。
その頬に触れる。血色の良い柔らかな触り心地。ひどく生きた心地がする。
これに参っちまったんだったなぁ、俺は────
「て、哲也くん……?」
一際深く息を吸ったことで急速に意識が浮上する。水底で浮袋を膨らませたかのようだ。
鮮やかな撫子色の髪が手の甲を擽っている。
己を覗き込む幼い面差し。戸惑い、はにかんだ顔。己はどうやらなでしこの頬を撫でていた。
「おぉ……こりゃあすまん」
「んーん、いいよ。けど……」
「すっかり寝惚けちまってたらしいや。カカカッ」
誤魔化しに伸びをして筋骨を解し、立ち上がる。
娘は不思議そうに己を見上げた。
それに薄く笑い掛けて。
「なぁ、なでしこちゃん。俺ぁ、何か寝言吐いてたかい。おかしなことを」
「えっ!? う、ううん! べつに、な、なんにも、変なことはなんにも言ってない、よ? ねっ! リンちゃん!」
「!」
振り返る。己が腰を下ろしていたハイチェアの傍らにはもう一脚、同じものが展示されてあった。
おそらくは先程までそこに座っていたのだろう。リンちゃんが、その場に立っている。こちらに顔を向けず、俯いたまま。
「リンちゃん……?」
「リーン! なでしこちゃーん! 哲也くーん! そろそろ行くわよー」
咲ちゃんの声に振り返る。
何かを尋ねる間もなく、リンちゃんは小走りに母御のもとへ行ってしまった。
「リンちゃん……どうしちゃったんだろ」
「……」
娘子は何を聞いた。俺は何を言うべきだった。
逃げるように遠ざかる背中を、己はただ愚昧に見送ることしかできなかった。