これは本筋に光明を見出せない愚か者の妄想である。
これは幸福なバッドエンドのその後である。
(訳:映画が素晴らしくて衝動で書きました。続きも書かずにごめんなさい)
俺は誰だ。
毎朝鏡の前に立つ度に己は己に問う。問い続ける。
それは義務だ。己がこの世に在るという罪の証立て。業を鳴らす為の取り調べだ。
馴れたものだった。昔から勤め先の取調室で幾人もの容疑者にそれをやってお飯食わせてもらってきたのだ。そうして今となっては、その現場仕事へ逆戻りを果たしている。おかしなことに。
であれば今更、それも自分自身に対して出来ぬ道理はない。
お前は罪人なのだ。不二崎甚三郎。
「そうとも……」
一人の子供の未来を奪った。乗っ取った大罪人なのだ。
生き汚い、生き恥晒しの、恥知らずの徒よ。
責め問い続ける。
俺は誰だ。
お前は誰だと。
「俺は、薙原哲也だ」
お前が押し潰した若人。お前の間借りするこの肉体の真の持ち主。
不二崎甚三郎に殺された罪無き少年。その名は薙原哲也。
哲也。
「……今日も、よろしくな」
今年で二十六になる。俺は鏡の中の元少年に笑い掛けた。
高校卒業後、己は
そこから一年ばかりの交番勤務を経て機動隊に入隊。厳しい訓練を重ね、警備警邏に駆り出され、時には防護服を纏い警棒と盾を手に荒事を鎮圧した三年間。
そうして現在、山梨県警の生活安全課に異動して約一年。
課内に宛がわれたデスクでその日の事務仕事を消化している。定時間際、珍しく手元には残務らしい残務もない。
身支度を整えていたところ、座席の傍らに大柄が立った。
「なんだ、珍しく定時上がりか?」
「ええ、今日は課長に見付かる前にとっとと退散します」
「ははっ」
藤堂誠。同県警交通課勤務の巡査部長。今生の勤続年数では随分先輩に当たる。
「薙原、お前そろそろ昇任受けられるんだろ。刑事課に行かないのか。向いてると思うぞ」
「そうですかねぇ。自分じゃあわかりませんが」
「捜査には熱心だし、なんといっても粘り強い。この前の
「偶々ですよ。この課は市民の声がよく聞こえてくる。なもんで目撃証言みてぇなものが自然と集まってくる。巡回警邏なんかするついでにその辺り確かめてみりゃあ、案の定と」
「実際それができる奴がどれくらいいると思ってんだ。最近の若い連中はすぐに山を見限るが」
「藤堂さんよ。その言い回しを使い出したら、立派な糞爺ですぜ」
「ああ知ってるよ! よく言われる! まったく、なんでもかんでもパワハラだセクハラだと……」
「愚痴なら他所でやりねぇ。こっちゃあいろいろ忙しいんだ」
「こいつ。上司を上司と思ってねぇな? ……またその山か」
「……」
うっかりデスクに置いていたバインダーを目敏く見付けて、男は呆れたように言った。
「とっくに犯人は出頭して今も模範囚として服役してるってのに、それでも納得いかないか?」
「そんなもんじゃあねぇ。こいつぁただの、残務処理ですよ」
「残務?」
「お気になさらず。では、お先に」
「あ、おい。別にそれのケチ付けにきた訳じゃないって。交通課の若手で飲みに行くんだよ。薙原も来い」
「おっと、そいつぁ残念。先約があるんでさぁ」
「あぁん? ああ、もしかして
「そういう古くせぇことすっから若ぇ子に煙たがられんだよ」
下卑た面でそれらしく小指を立てる若造に失笑する。この男もまだ三十代半ばだった筈だ。
「うるせぇよ! ってか否定しないのな」
「おうとも、御明察だ。とびきり可愛い娘と約束があんのさ」
「けっ、爆発しろ!」
「爆破予告とは剣呑だな」
「いやこれただのネットスラングだよ。知らねぇか?」
「……知らねぇな」
「古臭いのはどっちだよ」
「うるっせぇ。では不肖薙原巡査、ここらで失礼させていただきます」
「うーい。お疲れー」
お道化て敬礼しながら事務所を後にする。
擦れ違う同僚や上司と挨拶を交わしながら、俺は携えたバインダーを強く握り込んだ。
とうの昔に終わった
だが、終わってなどいない。終わってなどいない。
終わらせはしない。哲也、お前が戻ってくるまで。
「……」
戻して、やらねば。
虚しく時ばかりが過ぎて行った。
ただ意気込むばかりで、何もしてやれぬまま。
俺は望外の他生を今もなお貪っている。
警察署からその足で目的地へ向かう。
地方在住者には手放し難い
ほんの一時間足らずで薄汚れた赤褐色の車体は到着した。
本栖湖。
富士の峰を望む。水面に鏡写しになる逆しまの白い頂を。
「いつもながら、眺めだけは……」
人気のない湖畔の砂利の上で独り言ちる。
年末の閑散期。湖上を走り吹き込む寒風に身を縮めた。
「……」
ここで再生した。友との再会を果たした。その時、自身に抱いた喜びを俺は偽れない。
ここで眠りについた。一人の少年が凶刃に見舞われ、何処か深くに隠れてしまった。
ずっと探し続けている。
今日も湖畔や松林一帯を散策し、手掛かりがないか見回ったが、当然のように収穫は皆無だった。
「……はぁ」
白い息を落とし、野営の準備を始める。
火を熾して暖を確保する。
防寒着を重ねたとて真冬の夕刻。風邪をひいては事だ。今日は己一人ではないのだ。
火が落ち、ローチェアで微睡んでいると不意に。
遠く響いてくる。エンジン音。けたたましくもあり、不思議とどこか穏やかでもある。
懐かしい音色。トライアンフのスラクストン。あの男ほどではないが、もう馴染みと言っても差し支えあるまい。
草を踏む足音が近付いてくる。
焚火の揺らめく灯りに映し出されたのは、旧馴染みの老いた友人……ではなく、実にほっそりとした少女の姿。いや、少女扱いは流石に失礼だろう。
さっぱり髪を短くしたリンちゃんは、己の姿を見付けて微笑んだ。
「こんばんは、リンちゃん」
「じんじっ……小父さん、久しぶり」
咄嗟に発したその呼び名に、リンちゃんは恥ずかしそうにはにかんだ。
今ではもう立派な社会人だが、己にとってはやはりいつまでも小さく可愛い娘子なのだ。
リンちゃんは手早く自身のテントを組み立てた。
そうして己の傍らにローチェアを広げ、深く腰を下ろす。肺腑から吹き出すようなその吐息には疲労の色が見えた。
「名古屋からここまで遠かったろう。その上バイクだ。あんまり無理しちゃいけねぇよぅ」
「ん、無理とかしてないよ。片道三時間くらい。今日は仕事も早く片付いたし、明日は休みだし」
「そうは言うが、久々の土曜休みなんだろ? 休息だって社会人のお勤めだ。こんな爺に付き合うこたぁねぇんだぜ」
「いいの! 私のお休みなんだから、私の好きなようにする。それだけ!」
「まあそらぁそうなんだがな」
娘はむくれっ面でそっぽを向く。こうやって子供のように振る舞ってくれることに、己はむしろ嬉しさなど感じている。
打って変わってリンちゃんは神妙に呟いた。
「……迷惑だった?」
「んなことある筈ぁねぇさ。そうじゃなくてな、リンちゃんにも付き合いってもんがあるだろう。新しい勤め先で交友するなぁ大事だ。それが楽しくなってくれりゃあ尚のこと上々だ。己としちゃあ、その邪魔はしたかぁねぇ。や、や、気の回し過ぎだってぇのは承知よ。それでもな、若い時分、今のリンちゃんの時間というか、年頃はだな、そら値千金。代えの利かねぇ大切な時期だ」
「……」
「こんな老い耄れの為にそれを蕩尽させたくねぇのさ。今しかできんことは多い。今しか会えぬ人はなお多い。己なんぞにゃいつだって会える……」
「いつまで会えるかなんて、わかんないよ」
す、と冷えた声音が己の語尾を捕え、刺した。
それは責めるようでも、縋るようでもあった。
「嬉しかった。また会えて。また話ができて。嬉しかったよ。嬉しかったの」
「……」
リンちゃんに己の存在を知られたのは、己が警察学校を卒業して間もなくの頃。
全寮制であることに託けて、この娘との接触を避けてきた。他人の人生を奪ったこの身が、この子に会う資格などないと思っていた。
そして不敏なる己などとは大違いに、リンちゃんはその意図を見抜いていたのだ。
幾度か、会う会わぬの押し問答が続き、新の字に志摩の家族、野クルの面子まで巻き込んで一悶着があった後。
綺理枝の墓前で、遂に俺は追い詰められた。
『じん爺なんでしょ!?』
泣きながら縋り付いてくる少女に、もはや言い逃れなどできはしなかった。
「……じん爺がこうして、こんな風になったのだって、突然起きた奇跡みたいなものでしょ。なら、ある日突然、いなくなっちゃうことだって……あるかもしれない」
「……そうかもしれねぇが」
「私、我慢しないよ」
「リンちゃん……」
「もう置いてかれるのは……あんなお別れは、嫌だから」
真っ直ぐにこちらを見詰める大きな瞳。それが痛く胸を衝く。
癌が見付かり入院が決まり、志摩の家で一方的に別離の挨拶をした日、泣きながら追い縋ってきた幼い姿。いつ思い出しても胸が潰れる。
この子に泣かれて、己に為す術などあろう筈がないのだ。
鼻から息を吐く。観念して、自嘲して。
「……ココア飲むかい。あぁコーヒーの方がいいかね」
「ん、甘いのがいい」
「くくっ」
「なに?」
「いいや。大きくはなっても、味の好みってぇやつぁなかなか変わらねぇもんらしいや」
「むぅ、子供っぽいってこと?」
「可愛らしいってこと」
「変わんないでしょそれ!」
「くっはははは」
「ふんっ、いいもん。子供っぽくて。じんじっ、小父さんの前だけだから」
「そうかい。ははっ、そいつぁ爺冥利だねぇ」
幸福を噛んでいる。烏滸がましく、恥知らずに。
望外の機会を得て、俺は親友の愛孫と一夜を明かした。