遅い夕食の支度に取り掛かる。
ビーフシチューは切った具材を煮込み、市販のルーと赤ワインで味付けしたシンプルなもの。
変わり種は、リンちゃんの持参したパン生地だ。家で捏ねて発酵させたものを冷凍して持ってきたという。
ダッジオーブンで焼き上げると、それは丸々ふっくらと膨らんだ。
「焼き立てパンとデミグラスのシチュー……すごく合う」
「おぉ、パンがえらく香ばしいな。ん、旨い」
「ローストした小麦胚芽だと良い香りになるんだって。うん、今日のは我ながら上手くできた」
「ほー、調べて作ったのかい? いやいや大したもんだ。こりゃあパン屋も裸足だな」
「大袈裟だなぁ」
リンちゃんは呆れた声音で顔を綻ばせた。
湖上の寒気が小波に乗って岸辺を満たす。松の林が柔らかに風を受け止めた。
キャンプをしている最中、リンちゃんの口数は多くない。景色を望み、火に当たり、空気を味わう。時には本を読み耽ってそのまま転寝してしまうことも屡々だ。
ソロキャンプが好きだと少女は言っていたが、気付けばこうして野営を同じくすることが増えた。
己がキャンプに赴く時、娘はどこからかそれを聞き付けて付いてくる。
それを厭う心持ちは皆無だ。喜びこそ抱けど。
しかし、ふと物思う。俺は、俺の存在は、この子の折角見付けた趣味を、心安らげる場所を冒しているのではないかと。それは再三の気の回し過ぎというやつだったが。
「……」
「どうしたの?」
「いや、他人様の孫娘さんにこう良くしてもらっちまうと、いやはや立つ瀬がねぇなと思うのさ。新の字にまた嫌味を言われっちまう。かかかっ」
「昨日、お爺ちゃんにも声掛けたんだけど、町内会の寄り合いがあるからって」
「そうかい」
当然だがそれは嘘ではないのだろう。しかし、以前なら、ほんの数年前までならあの男は単車を駆って愛知から山梨の夜道を越え平然とここに現れたのだろう。
孫娘にスラクストンを譲り、以来遠出することが減ったという。定年を迎え、気儘に西へ東へ日本狭しとばかり旅から旅へ、年甲斐もなく走り回っていた男が。
『年寄りに無茶を言うな』
いつか、警察学校近くの小料理屋で燗を酌み交わした夜。
奴は笑った。皺の増えた目尻。光が減り、深みの増した眼。ゆっくりと、そして確実に、老境を歩み往く姿。
俺は何も言えなかった。悪態のようなものを吐いた気がする。厭味か皮肉か、そんなものを一つ二つ垂れた覚えもある。
だが、老いてゆく友人を見送る。そんな当たり前が目前に在る。その事実に今更、今更になって気が付いた。
此度は己の番か。
「……ところで、どうだい。近頃野クルの面子とは」
「相変わらず、かな。休みが合うたび集まってるよ」
「そりゃあ重畳重畳」
「皆仕事は忙しいみたいで一時期途絶えそうになっちゃったけど」
「まあ無理もねぇや。新米社会人は忙しなかろうなぁ。己の方もまさか二度もそれを味わうことになろうとは思いもせなんだが」
「うん、普通はないからね。あははっ……小父さんのお蔭だよ」
「ん?」
「大学の合格記念にやったグルキャンから結構間が空いちゃって。皆と連絡はまめに取り合ってたけど、なかなか都合がつかないことも増えて、計画が立ち枯れしちゃったりして……そんな時に、じん爺までどこかに行っちゃった」
「別に失踪したって訳じゃねぇんだが」
「連絡もほとんどくれなかった。何かと理由をつけて会ってもくれなかった。明らかに避けられてた」
「いやその節は不躾仕った。平に平に」
「もぅ……でも、小父さんがいなくなっちゃったからこそ、私と野クル、斉藤や先生も皆が集合したんだよ。絶対捕まえてやるって」
「俺ぁ逃亡犯か何かかい? ……まさか寮に全員で押し掛けてくるたぁな。あん時は胆潰したぜ」
警察学校とは、国民の安全と秩序を守護する公安職公務員を教練する場。限りなく完全な閉鎖世界だ。教育期間中は外部との連絡も最低限に制限される。当然スマホも没収され、外出外泊もそうそう許可が下りることはない。
そんなところへ果たして如何にしてか、彼女らは立ち現れた。
なんでも鳥羽先生が警察OBの伝手を辿りに手繰りやらかした荒業であったとか。
教官にはこってりと絞られ、ついでに茶化された。同期の者達は己を指して女誑し、ハーレム野郎、時には女衒などと口汚く罵った。
他人事であったなら己とて大いに笑ったことだろう。
「……ごめんなさい」
「謝るこたぁねぇさ。今にして思えばなかなか面白かった。なまじっか美人揃いなもんだから、寮の男共の目の血走りようったら。ぷっ、くくく」
「あー。確かに、皆すんごい見られてたね。あおいなんかは特に」
他人事に娘は呟く。その点で言えば、リンちゃんとて負けず劣らずの人気だったが。
まあ口にはすまい。
「……あ、あおいで思い出した」
「お? なんぞあったかい」
「惚けないでよ。あったのは小父さんの方でしょ」
「おや」
なにやら詰問のような調子で娘はむくれた。
格別、隠し立てている訳ではない。
「あおいちゃんの勤め先に行ったことか? なんだ、女衆じゃもう内通済みかい」
「……すっごい嬉しそうにグループメッセージで載せてたから」
スマホを操作して、リンちゃんが画面をこちらに見せる。
[制服哲也くん!]
[めっちゃレア!]
エクスクラメーションマークとハートマークが乱れ飛んだメッセージの下に、あおいちゃんと紺の制服・制帽姿の己が並び立った写真がある。
「交通安全の指導でな。鰍沢富士見小学校に呼ばれた時だ」
「小父さんって生活安全課じゃなかったっけ?」
「あおいちゃんから直に連絡を貰ったのさ。そうやって窓口になった手前、人任せってのも片手落ちだ。まあ白状しちまえば人手不足で駆り出されたってのが本当のとこだが」
「ふーん……」
納得とは遠い声が娘の鼻から漏れる。
「あおいに呼ばれたらすぐに来るんだ」
「んん? いや、今回はほれ、小父ちゃんの職務でもあってだな。子供らに交通安全の大切さを学んで欲しいと、あおいちゃん達ての希望で」
「私の時はいっつも何かと前置きがあるけど。仕事忙しくないかーとか、きちんと休まなきゃダメだーとか」
「休んで体調管理することも大事な……ごめんな。すまん。許してくれぃ。な? リンちゃん。頼むよ。この通り。どら、帰りに甘いもんでも食いに行くか。河口湖の方で旨いプリンがあるらしいぜ。プリン好きだろ?」
「……三つね」
「おうとも、三つと言わず十でも二十でも買ったげよう」
「……ふふっ、そんなに食べられないよ」
秋口にあおいちゃんから連絡を受けて、山梨県警交通課安全教育係から鰍沢富士見小学校へ交通指導に赴いた。
同僚の女性警官とマスコットのふじさん君を引き連れて、児童の前で講習を開く。子供は元気だ。なにより反応が良い。マスコットに抱き着いたり弄んだりして喜ぶ子、交通マナーについてじっと真剣に聞き入る子、茶々を入れたり忙しく動き回ったりやんちゃな子。
己にとり孫どころか曾孫と言っても差し支えない幼い子らは、皆それぞれに個性があり、そして皆一様に可愛かった。
「兄ちゃん兄ちゃん! ピストル撃ったことある?」
「あるぞぉ。訓練でな」
「すっげぇ! ボクも撃ちたい! 貸して貸して!」
「だぁめ。あれはおじちゃんの。撃ちたかったら警察官になるか……そうだ、ハワイに行くといいぜ」
「ハワイ? ピストル撃っていいの?」
「そうだぞ。一杯撃てるぞ」
「ほわぁ、ボクハワイ行きたい! あおいちゃん! ボクハワイ行くね!」
「いや子供になに勧めとんねんお巡りさん」
生徒用の表玄関。男の子と戯れる己の背中に小気味良いツッコミが降ってくる。
ゆったりとしたパンツルック。ブラウンのカーディガンを羽織ったあおいちゃんが立っていた。
犬山あおいちゃん。彼女は今や立派な、鰍沢富士見小学校の教員なのだ。
廊下の向こうで子供らが屯している。少年はそちらの方へ小走りに駆けていく。
「あ、こらぁ! 廊下は走らん!」
「はーい!」
「まったくもう……」
それは実に先生らしい佇まいだった。
しかし振り返ったあおいちゃんは、己の目には今でも少女のようである。
「久しぶりやねぇ、哲也くん」
「ああ筆不精で面目ない。あおいちゃ……いや御苦労様です。犬山先生」
「はい、こちらこそご指導ありがとうございます、お巡りさん……ふふふ」
「ふははっ、いやぁ立派になったなぁあおいちゃん」
しみじみと年寄臭く頷く己に、あおいちゃんはむしろ一層目尻を甘く垂らした。感じ入るように。
「ありがと……でもごめんな。すっかり哲也くんの方で執り成してもろて」
「なぁに構わねぇよ。むしろ交通課の安全教育ってのが俺ぁ初めてでな。いい勉強になった」
「ん、せやったらええねんけど。私こそ、なんや、その、口実みたいにしてもうて……みゃははは」
気後れを隠すようにあおいちゃんが苦笑する。
そうして、ぽつりと。
「……会いたかってん」
「んん? いやそいつぁ光栄だが、それこそ己個人に連絡をくれりゃ」
「むぅ、だって哲也くん、むっちゃ忙しいやん。機動隊、やったっけ? めちゃくちゃ厳しいとこに異動なってからほとんど休みなしや言うて……そんなん、気安く呼ばれへんわ」
「あぁ、まあ、そうか。そいつぁまた気を遣わせちまったな。すまん」
「あ、でも今は生活安全課で、基本昼勤なんやろ?」
「おぉ? よく知ってるな」
「野クルは皆知っとるでー」
自身の勤務状況が娘らに筒抜けというのも如何なものか。
「また全員揃ってキャンプでもするかい。おおかた大の字あたりは道具に給金注ぎ込んで」
「全員でグルキャンもええけどぉ……私は別にペアでもええんやで? 哲也くん」
上目遣いに甘い垂れ目が己を見上げる。教師としての姿とは打って変わった、甘え上手な娘子の仕草。
なんと応えたものか、粗忽な男が頭を掻いていた時。
「あおいちゃん!」
「あ、こら! あおいちゃんやなくて先生」
「その人ってあおいちゃんの彼氏?」
「あおいちゃんの彼氏!? どれどれ?」
「警察の人だ! すげぇ!」
帰り支度を済ませた児童達。ませた女子は目を輝かせ、男子もそれに乗じて囃し立てる。
なんとまあ、若い教員に対するある意味で洗礼のような遣り取りだ。
微笑ましい心持ちで、俺はあおいちゃんと顔を見合わせた。
あおいちゃんは溜息交じりに。
「せやでー。カッコええやろ」
「おいこら先生」