あっと言う間に、そのビールジョッキは空になった。
口の周りを泡の白髭で覆った千明が爛々目を輝かせて叫ぶ。
「作るぞ! 私達のキャンプ場!!」
大衆居酒屋で互いの近況報告を済ませた頃合で、千明は自身の転職と、現在の再就職先について話し出した。
やまなし観光推進機構。
字義通りの、様々な地域振興事業を行う公益社団法人が今のこの娘子の巣であるとか。
千明はスマホに、
山間に位置する元青少年自然センター。古びた建屋と幾つかの施設、東屋、鉄骨剥き出しのドームケージ。
「五年くらい手付かずの土地なんだけど、潰して更地にするだけじゃ寂しいし費用嵩むばっかだしなーんかいい使い途はないかなーって思ってたら、リンの一声でぴんと来た!」
「鶴みたいに言うな。っていうか、なんとなくの思い付きだから本気にしないでよ」
「まあ土地を遊ばせとくよかよっぽど良い案だとは思うぜ。手入れだけでも相当手間だろうが」
「うむ! 薙原隊員の疑問も尤もだ! ならばまずは皆で現場を見てその辺りを判断しようじゃないか!」
「「は?」」
「お勘定! それとタクシー一台!」
呼び付けたタクシーにリンちゃん共々押し込まれ、高速に乗りトイレ休憩を二度挟み、パーキングエリアで買い求めたビールとチューハイでアルコールを補充する千明に呆れながらあれよあれよと四時間弱。
気付けば我々三人は、山梨県富士川町高下地区、寂れた自然公園に立っていた。山の中腹に拓かれ、棚田の如く傾斜地に段々となった土地を見下ろす。
遠く列なる山々の向こうに抜きん出て、美しい霊峰の尖頭が白み始めた空を背にして映える。日の出が近いらしい。
「本当に手付かずみてぇだな」
「雑草ぼうぼう……建物も廃墟だ」
「五年間ほったらかしだかんなー。原型留めてるだけ上等だってー」
「まあ今日明日に崩れるようなことはねぇだろうが……思ったより広いな。こりゃ業者を入れるとなるとなかなか、何をとは言わんが馬鹿にならんぞ」
「予算会議とか、私はそこまで関わったことはないけど、厳しそうだね」
「頭の痛ぇ話だ。つくづく平の公務員でよかったと思うよ」
「あはは……で? これからどうすんの、千明……」
リンちゃんが呼ばわりに振り向くと、そこにはベンチで鼾をかく眼鏡っ子があった。
リンちゃんと顔を見合わせ、互いに白い溜息を落とした。
氷のような微風が背筋を撫でる。夜明け前、標高も高い。人間なれば十分に凍え死ねる気温だ。
寒空の下、剛胆にも無防備な寝顔を晒す千明に、コートを脱いで掛けようとした。
「いいよ、小父さん。そんなことしてやんなくても」
「いやしかしこのままじゃあ風邪をひく。いくらこやつがバ、剽軽者でもな」
「こいつにはこれで十分」
何処から拾って来たのやら、リンちゃんはその段ボールを千明にひっ被せた。
「……ホームレ」
「言うてやるな」
段ボール紙は優れた断熱材であり、その道の御仁方にとっては必需品である。新聞紙でもあれば丸めて上着の内側に突っ込んでやってもよかったが。
肺も凍りそうな冷気を吸い込む。
傍らで密かに震え上がる娘の肩に己のモッズコートを掛けた。
「ん、別にいいのに……小父さんだって寒いでしょ」
「酒が入ってる所為かね、むしろいい塩梅だ。コーヒー飲むかい?」
「……ありがとう」
コートの前を寄せて娘はそっと囁いた。
自然、己の口には笑みが浮かんだ。
温かな缶コーヒーを啜りながら、園内をぐるりと巡る。
膝まである雑草、腐り始めた木製階段、錆び付いた鉄製ドーム。どれも千明から見せられた写真の通りの有り様だったが、実物を間近にすればなるほど、それらには趣を感じられた。
静謐な山間、周囲には果樹園と疎らな集落があるばかり。都会の喧騒が遥か遠く異界の出来事のように思えてくる。
「水回りとか、案外しっかり作られてるし……確かに、いいキャンプ場になるかも」
「そうだな。リンちゃんがそう言うなら間違いねぇや」
「もぉ、だから私のはただの思い付きだってば」
「いいじゃねぇか。もしそうなら、もしこうだったら、想像するだけで楽しいもんさ」
「そうだけどさ」
富士が輝き出す。後光を纏う白い偉容。
朝日が、霊山の奥からゆっくりと昇り始めた。ダイヤのような輝彩が富士山の中腹で燃えている。
冬真っ盛りの早朝、それもこんな山の中だ。己のような寒がりは酒精を帯びていなければ平気の平左ではいられまい。
しかし。
「……眺めだけは悪くねぇ」
「……」
あの男なら喜んで訪れそうだ。ここは。年甲斐もなく鉄騎を駆り、寒空の下、好き好んで焚火なぞを肴にして酒をやる。
容易に想像がついた。ただ。
ただ、もうその機会は、多くはないのだろう。
「……」
ふと、その視線に気付く。頬を控えめに刺す娘子の。
リンちゃんはどうしてか、この見事な朝焼けも眺めずに、己の横顔を見ていたらしかった。
「どうかしたかい?」
「じん爺こそ」
「俺ぁどうもしねぇさ。ただ、そう、物好きの爺が一人いたなと、思い出してた。もしここがキャンプ場になるんなら、あの野郎を引っ張ってきてやってもいい……なんてな」
「……そうだね。喜ぶと思う」
「いやぁ奴のこと、ソロ以外は性に合わねぇ、なんて文句を垂れそうだ」
「ううん、きっと喜ぶよ。お爺ちゃん」
「……そうか」
新の字、新城肇は今も健在だ。その気になれば、いや、名古屋からの帰り道にでも顔を見に行ける。
己とは違い死病に見舞われている訳でもない。老境で心身の弱りはあろうが、奴はまだまだ生きられる。いや生きなくてどうする。こんな可愛い孫娘と、立派な娘夫婦を置いて逝くにはまだ早過ぎる。
これはただの感傷だ。己の不義の、言い訳だ。今生の別れを今に至るまで踏み倒し続けてきたゆえの。
離苦を覚悟で覆い隠す。老獪さからは程遠い、浅ましい予防線に過ぎない。
いずれ。いずれは、奴も、俺も。
「年甲斐もねぇな。体が若ぇからかね。死に損ないが、生き汚ぇったら……あぁいや」
「……」
「すまねぇな。埒もねぇこと口走っちまった。お耳汚しってぇやつだ。爺の愚痴なんてなぁ頼むから聞き流してくれぃ。すまんなぁリンちゃ……」
「っ!」
娘は袖口を摘まんで、黙って引き寄せた。赤子の指のような強さで、ひしと手繰り寄せた。それこそまるで、決して放すまいと。
「リーンちゃーん! 哲也くーん!」
「お」
「! なでしこ!?」
広場に停まったジムニーから降りて、その娘は元気一杯に手を振った。
短く切り揃えた撫子色の髪。天真爛漫が服を着たような、朝日より明るい笑顔。
なでしこは、白く息せき切らせて駆け寄ってくる。
「なでしこちゃんか! 久しぶりだな」
「哲也くん久しぶりー! わぁ、もしかしてまた背ぇ伸びた?」
「かかっ、お前さんもな」
「いや、でもなんでなでしこがここに?」
「うん、あきちゃんがここに集合って言ってたから」
なでしこはスマホのメッセージ画面をこちらに見せた。
そこには果たして、酔いどれの千明が撮ったリンちゃんや己の写真。[現地集合!]と銘打たれ、わざわざ手書きで目印まで施された地図を貼付する念の入れよう。
折良く、欠伸混じりに歩み寄ってきた千明を引っ張り込む。
「え? え? あ、やっべ」
「あおいと斉藤にも送ってんじゃん……」
「うおっ、イヌ子から鬼のようにメッセージ来てるし……」
[哲也くんも名古屋行くとか聞いとらんねんけど]
[てかさりげに哲也くんに送ってもろたとか知らんねんけど]
[ドライブデートか。長距離ドライブデートか]
[あき、返事待ってます。言い訳をしてください]
[山梨おるんやね。今から向かいます]
[首を洗って待っていてください]
「標準語なんですけど。敬語なんですけど! 怖いんですけど!?」
「あー」
「私知ーらない」
なでしこちゃんは戸惑いながら状況を察し、リンちゃんは処置無しとコートの襟を寄り合わせ顔を埋めた。
「た、助けて薙原ー!」
「すまねぇが、俺ぁ名古屋に取って返して車を転がして来なけりゃならんのでな。力にはなってやれん。骨は拾ってくれるさ、なでしこちゃんが」
「私!?」
「NoooooOOOO!?」
頭を抱える千明を後目に、なでしこちゃんが両手を打つ。
「そうだ! うちでお鍋するから、皆で食べに来てよ。哲也くんも食べてからで大丈夫?」
「ほう、そいつぁ有り難ぇ。是非とも御相伴に与ろう」
「えへへ~」
変わらないふにゃけた笑顔に我知らず安堵を覚えた。
死刑宣告を受けた受刑者のような千明を引き摺って、我らはなでしこちゃんの車に便乗した。