身延郊外の真新しい一軒家。各務原家の佇まいは遠目にも大きな庭付き二階建てである。
と言って、高校一年の頃に浜松から引っ越してきたというのだから築年数はそこそこだろうが。
薙原祖父母家の平屋とは違い、モダンな造りが己には物珍しいのだろう。などと愚昧なことを思う。
なでしこちゃんのジムニーを降りてすぐ、庭先で作業する父御の姿を見付けた。
「お父さーん。リンちゃん達連れて来たよー」
「おー! おかえりなでしこ! 皆さんもようこそいらっしゃい!」
「お邪魔します」
「どうも! 蟹食べに来ました!」
控えめなリンちゃんと食い気を隠し立てしない千明。各務原の父御はむしろ一層上機嫌な髭面で娘らを出迎えた。
「ご無沙汰してます、各務原さん。突然押し掛けてしまって」
「やーやー哲也くん! 久しぶりだねぇ! すっかり立派になって! いやますますハンサムになって!」
「かかっ! 嬉しいこと言ってくれちまって。各務原さんこそご壮健、いやぁ益々精気が漲ってますな。食道楽斯く在るべしと」
「あっはははは! 相変わらず煽て上手だなぁキミは!」
「もーあなたー。嬉しいのは分かるけど、ちゃっちゃとテーブル出してくださーい。お鍋が煮えちゃいますよー」
勝手口から顔を出したのは、眼鏡を掛けた母君であった。
「おっとそうだったそうだった」
「お手伝いしますよ。倉庫の前に出てるあれですかね」
「いやすまんね哲也くん」
「ごめんなさい哲也くん。せっかく久しぶりに来てくれたのに」
「なんのなんの。骨身を惜しまず働きますぜ。四、五年ぶりになりますかぃ? いや各務原の母君、あの時分からちっともお変わりなくお若くてらっしゃる」
「まあ! 哲也くんったらお上手なんだから! カニ味噌好き? 大吟醸しかないけどいいかしら」
「こらこら哲也くん。人妻を口説いちゃいかんよ!」
「こいつぁとんだ失礼をしやした。オシドリ夫婦への、まあ独りもんの僻みと思ってここは一つご容赦を」
「「「アッハハハハハ!」」」
「……もぉお父さん、お母さんまで、玄関先で世間話に花咲かせてないで、早く準備してよ」
キッチンからもう一人、各務原の姉御、桜嬢の呆れ顔が覗く。
「相変わらず薙原は年齢不詳だよな」
「お父さんと話してる時の哲也くん、なんか同級生じゃないみたいだよねぃ」
「……うん、まあ、そうだね」
肉厚なベニズワイガニの身は実に食べ応えがある。
カニ味噌の苦味の奥には芳醇な旨味が広がった。勧められるまま大吟醸を嘗めたが、これはいけない。深酒した翌日だというのに。
盃を干さずにおられない。
注がれるまま冷やを一杯、燗を一献、また一献酌み交わし。興の乗った父御が倉庫から七輪を引っ張り出して甲羅を炭火で炙った。余分な水気を飛ばすことで香ばしく焼き上げた天然の器。そこへ惜しげもなく清酒を注ぐ。
香りだけでも酔えそうな果実に似た甘味と白刃めいて鋭い辛味。そこにえもいわれぬカニの旨味の香ばしさが、喉奥まで焼き付き離れない。しかし、その珠玉の旨味も、残雪が陽光にやがて溶かし流されるように舌から、喉から、敢えなく消え去る。後味の素気なさはむしろこの味への己が執着を一層深めさせた。
甲羅酒。斯くも単純な製法の飲み物が、まさかこれほど美味だとは。
この老木をして知らなんだ。桜嬢の手土産というこのズワイガニほどの上質の品を今まで味わう機会に巡り会えなかったそれこそが不幸。
「桜ちゃんや」
「なぁに、哲也くん」
「お年玉はたんと奮発させてもらわねばならんな、この蟹はまっこと堪らん。いやぁ……堪らんぜ」
「あっははは! 本当にいける口だねぇ哲也くんは! 見ているだけでこっちまで旨さが染み入るような飲みっぷりだよ。母さん、私にも一杯!」
「ダメよ。哲也くんは強いけどお父さんの肝臓雑魚なんだから、酔っぱらって皆の迷惑になるでしょ」
桜嬢の一刀両断の沙汰が下る。父御は悲しげに肩を落とした。
「っていうかお姉ちゃん哲也くんからお年玉もらえるの!? いいな! いいなー!」
「年齢的には普通逆なんじゃ」
「千明ちゃんは、お前の方こそお年玉あげる歳だろこの年増、ってそう言いたいのね」
「滅相もありません!!」
よく躾られた犬のように、座面と背もたれに対して最小の接触面積で背筋も真っ直ぐぴたりと静止して千明は着座する。
桜ちゃんはテーブルに頬杖をつき、眼鏡の奥から流し目でこちらを見やった。
「くれるなら貰うわよ。期待せずに待ってる。代わりに……次は魚の美味しいところ連れてってあげる」
「そいつぁ楽しみだ。桜ちゃんは美食家だからなぁ」
「じゃあ年明け4日くらいに甲府のお店予約しとくわ」
「ん??」
「次……?」
言うや、即断即決に桜嬢はスマホを弄り始めた。
「な、なんでお年玉からそういう話に」
「次ってことは、お姉ちゃんと哲也くん、よくご飯食べに行ったりするの?」
「時々な」
「わりと頻繁に」
「それは私も初耳やな~」
振り返ればそこにあおいちゃんが立っていた。路肩ではハザードランプを焚いたコンパクトカーが停められている。
蟹に夢中で気付かなかったのか。気付かれぬよう彼女が忍び寄ってきたのか。それはわからない。
「どうもー、各務原のお父さんお母さん御無沙汰してます~」
「や、やぁあおいちゃん! よく来てくれたね。さあさ、あおいちゃんも食べて食べて!」
「まあ嬉しいわー。じゃあお呼ばれさしていただきますね。おおきにです~」
朗らかな笑顔で、あおいちゃんは折り畳み椅子を己の隣に広げて腰を下ろした。
沈黙が降りた。
その場の誰も蟹に手を付けていないというのに。奇妙な緊張感が外気を満たしていく。
「相変わらずよね、哲也くんって。節操がないっていうか」
「年下の男の子に粉掛けるんは節操ないって言わへんのんやね~。知らんかったわ」
(これは修羅場!? もしかして各務原家の食卓始まって以来の修羅場なのかい!?)
(青春ね! 若い頃思い出すわ~。私も昔他の娘と修一郎さんを取り合って牽制の嵐で)
(ど、どどどうしよう! あおいちゃん怒ってる? すっごく怒ってるよね!?)
(まあ不機嫌な原因の大半は千明の所為だと思う)
(私!? あ、いや、私か……で、でもなでしこ姉の参戦とか私に予想できるわけないだろ! なんでこんな喧嘩腰なんだよ!)
(え? お姉ちゃん、別に怒ってないよ? むしろ帰ってきてからすごく機嫌良くてびっくりしたくらい)
(えぇ……あれで?)
テーブルの下で五人が顔を突き合わせ、ひそひそと、いやこうも寄り集まっていては潜めるものも潜められまいが。
あることないこと囁き合っている。
桜嬢を見やれば確かに、変化の薄い顔容に微かに色めく笑みの形。
この娘の妙に悪戯好きなところは出会った頃から変わらぬままだ。
悋気、というなら、あおいちゃんのそれはとても分かりやすく見て取れる。当人が意図的に露にしているのだろう。
「あまり煮立たせると身が固くなる」
カセットコンロの火を弱めた。
そして、剥いた蟹の身を器に盛ってあおいちゃんの前に置く。
「とりあえず、旨いものは旨い内に食った方がよかろう。己の不躾についてはこの後にたっぷり伺わせていただくゆえ……それじゃダメかい、あおいちゃん」
「その場凌ぎばっかり上手いのよね」
「ホンマやわ」
突如連帯して、娘らは蟹の身に箸をつけた。各々が己の器のそれを奪っていった。
綺麗に空になった小鉢を見下ろす。
各務原の父御に労しげに肩を叩かれ、己は結局渇いた笑声を吹いた。